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12月の奇跡

 十二月。

 極月。

 師走。

 様々な呼び方はあるが、一年の締めくくりであるこの月は、十二ヶ月の最後の月であり、新たな年へと続く月であり、とにかく忙しい月なのだ。

 歴史の深い綾小路家はそれだけに他家とのつながりも深く、この時期になるとあちらこちらからパーティーのお誘いが降りかかる。庶民の恭介きょうすけからすると、『パーティー』って何だよ、という感じなのだが、彼らの世界ではごくごく普通に開かれるものらしい。

 十二月の中旬を過ぎた頃からほぼ連日のように招待があって、時に複数の家からの誘いが重なってしまうことがある。

 そんな場合、げんの名代として静香しずかが出席するのが常だった。そうすると、当然、恭介も彼女にくっついて回ることになる。

 今日、十二月二十四日も、一般の家庭では家族なり恋人なりを相手に、クリスマスケーキを前にしてプレゼントのやり取りをするところなのだが、静香と恭介の二人は小笠原家のダンスパーティーに出席するべく車中の人となっていた。

 小笠原家もそこそこの由緒を持つ家だが、綾小路家ほどではない。会の最後までいなくとも、さしあたって顔さえ出しておけば、それなりに義理は立てたことになる。

「一時間ほどもすれば大事な方々へのご挨拶は終わりますから、お家へ帰れてよ」

「わかりました。じゃあ、そのくらいには車も用意しておきますよ」

「お願いね。今日はクリスマスイブですもの。少し早くお暇させていただきましょう。頃合いを見て、ホールに迎えにいらしてね?」

「はい」

 静香の頼みに、恭介は頷いた。

 パーティーの会場には、使用人である恭介がずっといることはできない。基本的には、別の控室で待機することになるのだ。

 もう少し頼りなげな『お嬢様』なら誰かが傍に付いていてやった方がいいのだろうが、ゾロゾロと近寄ってくる有象無象も軽やかな笑顔で難なくあしらえる静香には必要ない。

 やがて車は立派な門をくぐり、並木道に入る。

 この道はすでに小笠原家の敷地内だ。都会の真ん中だというのに車が走れるほどの道が敷かれている庭のある家というのはいったいどういうことなんだよと、恭介は内心でぼやく。

 三分ほども走った頃か、だだっ広くも豪華な玄関に車は横付けされ、先に降りた恭介はぐるりと回って静香の側のドアを開けてやった。

 玄関に入ると家令が控えていて、恭介が差し出した紹介状を検める。

 恭介のように急ごしらえではなく、『由緒正しい』使用人なのだろう。洗練された物腰で一礼すると、静香に向けて手を差し伸べた。

「ようこそいらっしゃいました、綾小路様。お嬢様は、こちらの者がホールへご案内いたします。お付きの方は左の廊下を進まれますと控室がございますので、そちらでお待ちください」

 彼の言葉と共に、控えていたメイド姿の女性がこれまた丁寧なお辞儀をする。

「では武藤、行ってまいります」

「また、後ほど」

 メイドに連れられた彼女の後姿を見送って、恭介は控室へと足を向けた。


   *


 そろそろ時間だ。

 時計の針は、静香しずかと別れてからきっかり一時間が過ぎたことを示している。

 使用人の為の控室と言えども飲み物や食べ物はふんだんに取り揃えられており、恭介きょうすけはそれらを摘まみながら他の使用人たちの噂話に耳を傾け、時間を潰していた。

 彼らの話の内容は基本的には当たり障りのないものばかりであるが、中には数人、我慢しきれず主人に対する愚痴をこぼしているものもあった。

 ――まあ、金持ちにも色々いるよな。

 そんなふうに胸中で呟きながら、恭介は控室を出てホールに向かう。

 『ダンス』パーティーと銘打っているだけあって、ホールでは何組かの男女が音楽に合わせて華麗なステップを踏んでいた。

 曲は、当然ワルツだ。

 皆が皆、キレイに曲にシンクロしているので、まるで全員で一つのダンスを踊っているかのようだ。

 そして、そんな中でも、恭介の目は彼女の姿をすぐに見つけてしまう。

 静香は、すらりとした長身の男にリードされ、クルリ、クルリと舞っていた。完璧なその一対を、恭介は目で追い掛ける。

 と、静香が身を翻したその一瞬、彼女の目が恭介の姿を捉えたように感じた。

 ほんのわずか、ふわりと彼女が微笑んだ――彼に向けて。

 すぐに男の背に隠れてしまったが、気の所為ではないと思う。

 あんなに複雑な足運びをしながら、よくぞ周りに意識を巡らす余裕があるものだと、彼はつくづく感心する。もっとも、そうできなければ他の者にぶつかってしまうのか。

 五分ほどで曲は終わり、静香が恭介の方へやってくる――と思ったら、余計な者も付いてきていた。

 距離が縮まるにつれ、二人の会話が耳に届くようになってくる。

「もう少し、ゆっくりしていったらいいだろう? まだ始まって一時間じゃないか」

 そんなセリフと共に、ラストダンスの相手だったその男は、馴れ馴れしくも堂々と、静香の手を取っていた。

 ごくごく自然な動作で彼の手の中から自分のそれを引き抜いて、静香は微笑みながらやんわりと断りの言葉を口にする。

「ありがとうございます、伊集院様。けれど、この後私用がございまして、まことに勝手ながらおいとまさせていただきたく存じます」

「せめて、あと一曲――」

 言いながら、伊集院と呼ばれた男は、静香のむき出しの肩に手を回そうとする。

 その時、考えるよりも早く、恭介の手は動いていた。

 伊集院の手に先んじて、彼女の肩を抱いてサッと遠ざける。

「ちょっと、君?」

 自分がしようとしていたことを横取りされ、いかにも不快そうに伊集院が顔をしかめた。

 伊集院――その名前には聞き覚えがある。

 恭介の記憶違いでなければ、控室で使用人が愚痴をこぼしていた者のうちの一人の筈だ。

 確か、女性に節操がなくて困るとか何とか。

 恭介は相手を観察する。

 見てくれは、良い。

 だが、それ以外に感じ入るところはない。

 たとえば、新藤一輝に対して抱くような、「勝てない」と思わせるような何かが、目の前の男には皆無だった。

 サングラスなしの恭介の視線をもろに向けられて、伊集院は鼻白む。いや、たじろいだと言ってもいいかもしれない。

 だが、それでも、服装から彼が使用人に過ぎないということを悟ったのだろう。ムッと気を取り直した風情で、再び繰り返した。

「何だ、君は?」

 貴様こそ、と言いたい気分をグッとこらえて答えようとした恭介を制するかのように、静香が伊集院に微笑みかける。

「こちらは武藤と申します。わたくしのお迎えでしてよ。では、参りましょう、武藤。ごきげんよう、伊集院様」

 完璧な笑顔でサラサラと流れるように別れを告げると、静香は先に立って歩き出した。

 恭介はおざなりに伊集院に向けて会釈をすると、踵を返して彼女を追う。

 玄関前に控えていた車に乗り込むと、静香は小さな吐息を漏らした。普通の呼気よりもほんの少し強めのそれを、恭介の耳が捉える。

「お疲れですか?」

「わたくし? いえ……ええ、そうね、少し」

 無理もない。ほぼ一日おきに、どこぞのパーティーに顔を出しているのだ。今日はそれほど親しい相手ではなかったからすぐに帰れたが、時に深夜を越えることもあった。

「家に着くまで、少し寝ててもいいですよ」

「そう?」

「三十分はかかりますからね、着いたら起こしますよ」

「ありがとう。では、お願いね?」

 そう言うと、静香は緩く微笑む。

 眠気があるのか、それはいつもよりも無防備な笑い方だった。恭介はみぞおちの辺りに真綿が詰まったような息苦しさを覚えて、小さく咳払いをする。

 いつもの静香なら、そんな彼の些細な素振りにも目敏く気付いた筈だ。だが、よほど疲れているのだろう、彼女はシートにもたれるとすぐに目を閉じる。

 穏やかな呼吸が聞こえてきたのは、それから間もなくのことだった。

 車が揺れるたびに、静香もぐら付く。

 恭介はわずかに逡巡した後、尻をずらして静香に近寄り、手を伸ばして彼女の頭を胸元に引き寄せた。

 ふと視線を感じて顔を上げると、ルームミラーの中の杉田と目が合う。目で「何か?」と恭介が問うと、彼はパッと目を逸らした。

「旦那様には、内緒にしておきますから」

 そう言ったミラーの中の目元は、緩く笑んでいる。

「寝てしまっただけですよ」

 むっつりと、恭介はそうとだけ答えた。

 別に、他意はない。

 単に、彼女が寝易くなるようにしてやるだけ。

 それだけだ。

 恭介は自分自身に言い聞かせながら、静香の頭を胸に乗せ、彼女の肩を抱く――いや、支える。

 上から眺めていると、陶器のように滑らかな白い頬に、伏せたまつ毛が濃い影を作っているのがくっきりと見て取れ、思わずそこに目が留まった。

 こうやってまじまじと見つめる時、彼女は本当に自分と同じ『ヒト』という種なのだろうかと、恭介は首をかしげたくなるのだ。

 あまりにも、何もかもが、違いすぎる。

 再びミラー越しに自分に注がれる視線を感じて、恭介は静香から目を剥すと車窓の外へと流した。

 通り過ぎていく街灯の数を数えて、腕の中の温もりから意識を逸らそうと試みる。

 だが、考えまいとすればするほど、気になってしまうのだ。

 華奢なのに柔らかな二の腕だとか、胸の辺りにかかってくる温かな重みだとか、鼻腔をくすぐる香水だかシャンプーだかの匂いとか。

 ――俺は単なる枕……枕だ……

 恭介は、くどいほどにそう自分自身に言い聞かせた。

 が、絶え間なく続くゆっくりとした呼吸の動きが、腕の中にあるものがただの『物体』ではない、血肉を持つ存在なのだということを否応なしに思い出させてくれる。

 ようやく屋敷に着いた頃には、恭介の肩はガチガチに凝っていた。

 車が停まると同時に、思わず口から吐息が漏れ出てしまう。

「お嬢――」

 恭介は声をかけて起こそうとして、とどまった。

 静香は、すっかり寝入っている。

 強張った腕を慎重に動かして、恭介は彼女の背と膝裏に回した。

 細心の注意を払ったことが功を奏したのか、あるいは、よほど深い眠りの中にいるのか、恭介がシートから抱き上げても静香はさっぱり目を覚ます気配を見せなかった。

 数段の階段を駆け登り、先回りした杉田が玄関を開けてくれる。

「ありがとうございます。お疲れ様でした」

「おやすみなさい、また明日」

 小さく会釈をすると、杉田は笑って返してきた。

 車の音を聞きつけていたのか、家の中に入ると家政婦の久枝がパタパタとスリッパの音をさせながら姿を現す。恭介の腕の中で眠っている静香の姿に、彼女は目を丸くした。

「まあ……」

 足音を忍ばせた久枝は、静香を覗き込む。そうして、口元を綻ばせながら囁いた。

「寝顔なんて、五歳の時以来ですよ。小学校に上がる前から朝はご自分で起きていらっしゃったし、転寝するお姿なんて見せてくださらないんですもの」

 久枝の台詞に、恭介の胸の奥が妙に疼く。

 彼の傍では、静香は寛いだ姿を見せる。

 いつもではない――ごくごく稀にだが、他の者には見せない姿を、彼には見せるのだ。

 常に飄逸としていて彼の前でもそれは同じように見えるのに、こんなふうに、時たま、もしかしたら彼女にとって自分は他の者とは違うのではないかと思わせる。

 彼女にとって、自分は特別に心を許せる相手なのだと、思わせるのだ。

 そして、それは同時に男としては意識されていないということをも実感させられ、恭介は複雑な心境になる。

 ――まったく。

 腕の中の静香は目を覚ます気配もない。

 人の気も知らないで、と恭介の口からはついついため息が漏れた。それを聞き付けた久枝が、怪訝そうに彼を見る。

「どうしたの?」

「何でもないですよ。取り敢えず、お嬢サマはソファにでも寝かせておきます」

「ええ……そうね」

 いぶかしげな眼差しを残したまま、久枝は頷いた。そして、先に立って居間へと歩き出す。

 彼女の後に続きながら、恭介はもう一度小さく息をついた。


   *


「武藤……?」

 名前を呼ばれ、恭介は読んでいた本から顔を上げる。声の方に目を向ければ、静香がソファの上で身体を起こしていた。

「起きましたか」

「起こしてくださらなかったのね」

 少し不服そうなのは、プライドの問題だろうか。

 ――寝過ごしてしまって油断した、とか。

 本を閉じて、恭介は少し慎重に答える。

「良く寝てましたから」

「そう……」

「すみません、起こさずにいて」

「いえ……構わなくてよ」

 言いながら、静香は壁に目をやり時計をチラリと見た。

「まだ十時を過ぎたところですよ」

 もしかして、早く帰ってきたのは何かしたいことがあったからなのだろうか。もしもそうなら、起こさなかった恭介の『気遣い』は『余計な世話』だったかもしれない。

 そう思うと、彼の声には、何となく言い訳がましい響きが入ってしまう。

 そんな恭介の懸念に気付いたのか、静香が苦笑した。

「本当に、何でもないの。お気になさらないで」

「そうですか?」

 何故か、恭介は気まずさを覚える。

 やはり静香が何かを気にしているふうに見えるからかもしれないし――彼の腕に、まだ彼女の温もりが残っているような気がするからかもしれない。

 彼は小さく咳払いをすると、パッと頭の中に思い浮かんだことを口にした。

「あぁ、その、そう言えば、最後に踊っていたヤツ、何だかしつこかったですね」

「伊集院様?」

「そう、それ」

 頷いた恭介に、静香は微かに首をかしげて、言った。

「ああ……一度、縁談の打診がございましたから」

「そう、えん――ええ? 俺は聞いてないですよ?」

 恭介にとっては、寝耳に水の話だった。

 思わず立ち上がりそうになるのを、椅子の肘掛を握ってこらえる。一方で、静香は立ち上がり、彼の方に歩いてきながら言った。

「あくまでも、打診でしたの。すぐにそのお話はなくなりましたわ。ですから、特にお伝えする必要はないかと……」

「そうですか」

 まあ、当然と言えば当然だと、恭介は胸を撫で下ろす。

 わずかな間しか顔を合わせていないが、それでも、あれがげんのお眼鏡に適う男だとは、とうてい思えない。

 静香は椅子に腰かけたままの恭介の隣に立ち、彼とは逆の方を向いたまま、立ち止まった。

 その方向――恭介の背後には、やたらと大きなクリスマスツリーが飾ってある。みっしりとオーナメントがぶら下げられているそれを、彼女はジッと見上げていた。

 恭介がその横顔を見るともなしに見ていると、不意に静香が彼の方を向いた。いつものように真っ直ぐ注がれるその眼差しに、恭介はわずかに顎を引く。

 彼女は、唐突に彼に問いかけてきた。

「あの方をどう思って?」

「あの方?」

 一瞬、誰のことを指しているのか判らず、恭介は眉根を寄せる。

「伊集院様です。あの方がこの家の当主に――わたくしの夫になるとしたら、どう思って?」

 静香の台詞で、静香と、彼女の隣に並んだにやけた男の姿が彼の脳裏にパッと閃く。

 その瞬間、彼の口は勝手に動いていた。

「論外です。あんなのにやるくらいなら――」

 言いかけて、直後、恭介は我に返る。危うく口が滑りかけた。

 中途半端な形で台詞を中断した恭介を、静香がいぶかしげに見つめる。彼は言い繕おうとしたが、頭がうまく回らない。

「武藤?」

 ここはとぼけるに限ると、彼は心に決めた。

「いかにも坊ちゃんの典型って感じでしたよね。見た目はいいですが、彼が貴女の旦那にってことになったら、元様にとことんいびり倒されそうですよ。三日ともたないんじゃないですか?」

 つらつらと冗談めかして言う恭介に、静香も小さな笑い声を漏らした。

「ふふ、きっと、そうね」

「でしょう?」

 静香の笑みに、恭介はうまくごまかせたかと安堵する。胸中で、こっそりと息をついた。

「ねえ、武藤?」

「何です?」

 すっかり気を緩ませた恭介は、静香に名を呼ばれて返事をする。彼女は柔らかく微笑んで、言った。

「少しだけ、目を閉じていてくださる?」

「え?」

 唐突な彼女の申し出の理由が解からず、恭介は眉をひそめる。

「何なんですか?」

「お願いですの」

 静香は真っ直ぐに彼を見下ろして繰り返した。

 彼女の『お願い』は滅多にない。

 そして、恭介がそれを断ることは、更に稀だった。彼女の望むところが解からぬまま、恭介は言われたとおりに目蓋を下ろす。

「閉じましたよ」

 そう告げた彼の耳に、衣擦れの音が届く。

 次の瞬間。

「――ッ?」

 思わず見開いた恭介の目に映ったのは、ふわりとなびいて遠ざかる黒髪。

 頬の、ほとんど唇と言っていいほどの場所に微かに残るのは、柔らかく温かな感触。

 今、何をした? などと、恭介は口が裂けても訊けなかった。

 一歩後ろに下がった静香は、彼に心の中を読ませない微笑みを浮かべて、言う。

「ご存じ?」

「え?」

 彼女は呆然としている恭介の後ろを指さした。

 つられて振り返った彼の目に入るのは、天井に届かんばかりのクリスマスツリーだ。

 やたらと大きいが、ただのツリーに過ぎない。

 天使やらキラキラした丸いものやら何かの小枝やら、とにかく色々な物がぶら下げられている、ツリーだ。

 緑の葉が茂る枝が、恭介の頭上にまで張り出している。

 ――これが、なんなんだ?

 益々眉間のしわを深くした彼の耳に、小さな忍び笑いが届く。

 振り向けば、静香はいつもの澄ましたものではない、何かを隠し持っているかのような笑みを浮かべていた。

「ヤドリギの下では、キスをするものでしてよ」

 そうしてクルリと身を翻すと、静香はドアへと向かう。戸を開け、出ていきかけて、もう一度彼女は振り返った。

「宿題、です」

「は?」

「お父様からのばかりではなくて、たまにはわたくしからの宿題も、解いてくださいな」

「――は?」

「おやすみなさい」

 彼女は口元だけの笑みを彼に投げると、状況をさっぱり理解できていない恭介を残してスルリと扉から姿を消してしまった。

 恭介は、静香が出て行った扉に目を据えたまま、微動だにしない――できない。

 ――宿題?

 課題は、いったい何なのか。たいして考えなくても、疑問は一つしかない。

 恭介は手を上げて、未だ微かな温もりを残している頬に指先で触れた。

 何故、静香はキスをしたのか、だ。

 そう思い、恭介は「いや、待てよ」と頭を振った。

 果たして、あれはキスの内に入るのか――ただ、頬に一瞬触れただけの、あれが。

 だが、あれを『そう』だとカウントしてもいいのだとしたら、彼女は何を思ってあんなことをしたのだろうか。

 気まぐれなのか、悪戯なのか。確かに、去り際の彼女の笑顔は、何か悪戯を企んでいる者のそれだった。

 しかし、静香は使用人に悪ふざけを仕掛けるような少女ではない。

 もしも――もしも、悪戯ではないとして、どんな気持ちであれば、あんな行動を取るのだろう。

 少なくとも、恭介への嫌悪感はない筈だ。

 欧米ならば、兄や父に対してもするだろう。

 ――あるいは、異性として、好意を抱いていれば……?

 ちらりとそんな考えが頭の中をよぎり、恭介は慌ててそれを打ち消した。

 それは、ない。

 ない筈だ。

 今までの静香の態度を振り返ってみれば、恋愛対象として見られているとは思えなかった。

 やはり、兄とか、そういった相手に対するものと、同じような感情からくるものなのだろう。年齢もそうだし、何より、『異性』として見るには、彼は静香に近過ぎた。

「ああ、くそ」

 恭介は、誰にともなく毒づく。

 彼の頭の中では、グルグルと様々な思考や感情が浮かんでは消えて行った。大部分は諦め、そしてわずかな苛立ちと、見え隠れする微かな期待。

 それらはいずれも相容れず、恭介の心をかき乱した。

 椅子の背もたれに頭を任せて、ため息混じりに天井を見上げる。その視界に、オーナメントの数々が入ってきた。

 ぼんやりとそれらを眺めた恭介は、そのうちの一つに目を留める。

 ――ヤドリギ。

 彼女は、確かに言った。ヤドリギの下ではキスをするものだ、と。

 やはり、あれは『そう』なのだ。

 恭介はガシガシと頭を掻く。

 結局、その日は一睡もできなかった彼だった。


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