10月の嵐
嵐の夜の一幕
「新藤商事に寄って欲しい」
学校からの帰り道、不意に静香にそんなことを言い出され、恭介の思考は一瞬停止した。
新藤商事――それは金融、エネルギー、金属、機械を柱に事業を展開する、連結子会社まで入れた従業員数は三万を越える大企業である。海外にも拠点を置き、順調に業績を伸ばし続ける優良企業で、それを束ねるのは、ようやく成人するかどうかという若きリーダー、新藤一輝だ。
殆ど笑顔を見せることのない冷たく整った容姿に、着実に業績を伸ばしている経営手腕、そしてそれに基づく財力。まさに女性の憧れを具現化している存在に違いない。
そして、そんな彼は、かつて静香が『見合い』をした相手でもあった。
もっとも、『見合い』といっても形式張った固いものではない。
かれこれ一年ばかり前のこと、さる事業を新藤一輝と成し遂げて彼の手腕に惚れ込んだ元が、この男なら好し、とばかりに、静香に彼を籠絡するように言いつけたのだ。
そんな頭ごなしの命令に、普通なら、彼女はニッコリ笑って「イヤです」と即時却下したことだろう。だが、その頃の静香は嫌がる様子も見せず、むしろ率先して、しばしば新藤一輝の元に足を運んだものだった。
基本的に、恭介は殆ど常に静香の傍に侍っている。彼女から離れる場所は、数えるほどしかない。少なくとも、自宅の外では学校くらいのものだ。
だが、そんな中で、この新藤一輝に会う時だけは、恭介は車内で待機を命じられている。
結局、見合い話は進展を見せることなくいつの間にか立ち消えになっていたが、こうやって、今でも静香は時々新藤一輝の元を訪れる。そうして、恭介を車の中に残したまま、彼に会いに行くのだ。
――確かに、見合いの話はなくなった。
しかし、静香の心の中には、まだ彼がいるのではないだろうかと恭介は考えている。いつか月見の晩に彼女が言っていた『想う相手』――それはこの新藤一輝に違いないと、殆ど確信に近いものを抱いていた。
新藤一輝のことを、恭介は遠目にしか見たことがないが、週刊誌や何かの特番などで目にする彼は確かに容姿端麗だ。
それに加えて、その有能さ。
だが、静香はそんなところに惹かれたわけではないだろう。
彼のことは良く知らない――しかし、何となく、二人からは似通った空気を感じる。
甘い色恋の匂いを漂わせているわけではない。
そんな柔らかなものではなく、それよりも強固な、一対の翼として成り立つような、対等なイメージを抱かせるのだ。
それは、二人の身体に持って生まれて備わっている『何か』が醸し出すものなのだろう。
おそらく、それ故に、静香の中では彼がパートナーとして定まっているのだ。
新藤一輝の周囲に女性の気配はない。そんな彼がこうやって静香の出入りを許しているところを見ると、彼の方もそのつもりなのかもしれなかった。
恭介を車に置いていくのも、当然だろう。未来の夫が待つところへ赴くのに、男連れで行く者はおるまい。
「……武藤?」
そっと肩に触れるような声。気遣わしげな静香のその声で名を呼ばれ、恭介はハッと我に返る。
「どうかして?」
「ああ……いえ、何でもありません。新藤商事の本社に向かわせます」
「お願いね」
そう言った彼女の微笑みが、チクリと恭介の胸を刺す。それは、いつもより華やいで見えた。
行き先を変えて走る車の中は静寂が支配して、恭介には微かなエンジン音すら耳に付く。
普段も、会話が弾むというわけではない。
たいてい、静香は何も言わずに窓の外を眺めるだけだし、恭介も余計な口は利かず、カーステレオが点いているわけでもない。運転手の杉田も車が動いている間は無言だ。
いつもと変わらぬ車内の筈なのだが、今日の静けさは何故か恭介には不快だった。
その居心地悪い沈黙を満たしたまま、やがて車は新藤商事の本社ビルへと到着する。
「では、一時間ほどで戻りますから、少しお待ちになっていてくださいね?」
静香は笑顔でそう残し、足取りも軽くエレベーターへと向かっていく。
優雅に揺れる艶やかな濡れ羽色の髪が扉の中に消えていくまでぼんやりと見送って、恭介は小さく息をついた。
一時間、手持ち無沙汰だ。
狭い車の中で待つのも気鬱で、恭介はどうしたものかと考える。そうして、十分ほどなら席を外しても構わないだろうと結論付けて、杉田に声をかけた。
「少し外の空気を吸ってきますから」
「ああ、はい」
ダッシュボードから文庫を取り出して読もうとしていた杉田は、笑顔で彼に答えてくれる。
「もしもお嬢様が早くお帰りになりましたら、携帯に電話しますよ」
「お願いします」
恭介は地下駐車場から地上へ出るべく、踵を返した。
ビルが高けりゃ駐車場も広い。
太陽を見るまで、五分はかかったのではないだろうかと、恭介は思う。
その日は十月のわりに陽射しが強く、やけに暑かった。高層ビル群の間から覗く空は青く輝いているが、雲の動きが速い。
恭介は上着を脱いで肩にかけ、ガードレールに尻を落とす。そうやって振り仰いだ、今出てきたばかりのビルは、でかかった。
地上二十五階に地下三階――それだけの建物に君臨するのが、新藤一輝だ。
今、静香はその新藤一輝と共に、この巨大なビルの最上階にいる筈だった。しかし、目をすがめてみても、当然のことながら二人の姿など見えやしない。
――まさに、雲上人、だな。
殆ど苦笑混じりに、恭介は内心でそうつぶやく。
秋らしからぬ陽光の中でため息を一つつくと、彼はのろのろと腰を上げた。出てくるのに五分近くかかるなら、当然、戻るのにも同じだけかかる。
改めて『彼ら』との住む世界の違いを思い知らされただけの『気晴らし』に、恭介の気分は晴れるどころか、より一層雲が厚くなっただけだった。
駐車場に入りかけた恭介に、唐突に、ゴウと強い風が吹き付ける。
眉をひそめて見上げた空には、黒い雲が増えていた。
――荒れてくるのだろうか。
風、雨、雷。心の片隅でそれらを望んでいる己がいることを、恭介は自覚していた。
*
きっかり一時間で、静香は戻ってきた。
「お待たせいたしました。帰りましょう。ああ、こちらを召し上がってくださいな」
そう言って、彼女は杉田と恭介とに可愛らしくラッピングされた代物を差し出す。
「お、いつものですね?」
杉田が嬉しそうに手を伸ばし、続いて、恭介も彼女の手の上にあるそれを取った。
新藤一輝の元に行くと、静香はいつも土産を手にしてくる。
中身は菓子なのだが、見た目は明らかに手作りだというのに、美味さが半端ではない。きっと、よほど腕のいい料理人を抱えているのだろう。
強面の外見に反してかなりの甘党な恭介にとっては、正直言って、嬉しい。彼を訪問するのはあまり嬉しくないのだが、この土産にだけは、どうしても頬が緩んだ。
「今日は冷菓ですの。今召し上がるとよろしくてよ?」
言われてみると、確かに手の上のそれはひんやりとしている。恭介が迷う隙を与えず、杉田がさっさとラッピングを解き始めた。
「いただきます。チョコのババロアですかね? 美味いですよ」
グラスに入ったココア色のものにホイップクリームで丁寧に飾りつけがなされているそれを、杉田はせっせと口に運ぶ。
ここで、恭介一人が我慢してみても仕方があるまいと、彼も包みをはがし始めた。姿を現したそれを、添えられているスプーンで一口掬い取る。
確かに、美味い。
だが、と、恭介はふと手を止めた。
彼のそんな様子に気付いて、静香が微かに頭をかしげて覗きこむ。
「どうかなさいまして? 美味しくありませんの?」
「え、あ……いえ、美味いですよ。普通に」
いつもが職人級だとすると、今日のものはまさに『普通』だ。
フカフカに泡立ててから固められたババロアは、甘過ぎず、適度にほろ苦い。
恐らく、新藤一輝は恭介ほど甘党ではないのだろう。ホイップクリームも甘さ控えめで、軽く振りかけられたシナモンがアクセントになっている。
美味しいことは美味しいが――取り立てて目を見張るほどではない。
「普通……」
「なんですか?」
静香が、ほんの一瞬微妙な顔になる。が、すぐにまたニッコリといつもの笑顔を浮かべて恭介を促した。
「……いいえ、何でもございませんことよ。どうぞ、召し上がって?」
「はい」
スプーンを口に運びながら、先ほどの自分の台詞の中の、いったいどの部分が彼女にあんな顔をさせたのかと恭介は考えてみたが、さっぱり思い当たらない。
――別に、静香が作ったわけでもなかろうに。
そう心中でつぶやいて、恭介はハタと思い出した。彼の誕生日に、静香がホットケーキを作ってくれたことを。
まさか、新藤一輝の執務室で菓子が作れるのだろうか。
確かに、冷菓なら冷蔵庫といくつかの調理器具があればできるから、いつもの料理人に教えてもらって、静香が作ったのかもしれない。少なくとも車を出てエレベーターに乗るまでは手ぶらだった筈だが、原材料などもその料理人が用意していたのだろう。
となると、これは『新藤一輝の為に』作ったものか。
これから共に過ごしていく為に、彼についての諸々のことを学んでいるところなのだろうか――彼の好みや何かを。
そんな考えが頭をよぎった瞬間、甘いババロアがビターチョコレートよりも苦く感じられるようになる。
「武藤?」
無意識のうちに、表情が動いてしまったのかもしれない。
静香がいぶかしげに彼の名前を呼ぶ。それには答えず、恭介は黙々と器を空にする。口に出す言葉が、どうにも見つからなかったのだ。
「……ご馳走様でした」
「お粗末様でした。ごめんなさい、期待外れにさせてしまいましたのね」
恭介の表情が優れないのを、静香は菓子が予想通りに美味くなかった為と取ったようだった。そして、その台詞は、やはり彼女の手作りであったことを示している。
「あ、いや、そうじゃなくて……」
彼はとっさに否定の言葉を口にしてしまったが、他の男の為に作ったものだったからだ、とは口が裂けても言えない。
言葉を濁す恭介に、静香が髪をサラリと揺らして首をかしげる。
「え?」
「いえ、その、美味かったです、本当に。ただ、――そう、シナモンは苦手で」
「まあ、そうでしたの。次からは気を付けますわ」
「新藤氏がお好きなら、それでいいんじゃないですか?」
そんな言葉を口にしながらも、恭介の胸の内はチクチクと疼く。黒いサングラスの奥の目を思わず静香から逸らしてしまっていたから、彼女が怪訝そうに眉をひそめたのには気付かなかった。
「一輝様?」
「俺の好みより、彼の好みをしっかり掴んだらいいですよ。男は手作りに弱いから」
「何故、そこで一輝様が出ていらっしゃるのです?」
「普通はそうでしょう」
「普通……? ……何故?」
使用人よりも将来の伴侶を優先するのは、自明の理だ。むしろ、何故そこで疑問形になるのか、恭介の方が訊きたいくらいだ。
噛み合わない会話は、静香が世間知らずな為だろうか、それとも、何か他に理由があるのだろうか。
彼女の考えは、いつも恭介には推測困難だった。
自分から男女の仲について説明するのは何だか気が進まず、恭介は口を閉ざす。いや、意識して黙り込んだわけではなく、ただ、何と言っていいか判らなかっただけだ。
静かになった後部座席に、会話が途切れたと思ったのか、杉田が口を開く。
「ああ、どうも空が暗いですね。先ほどの天気予報でも、今夜はかなり荒れると言ってましたよ。雷も来ますかねぇ」
その言葉に、隣の静香がピクリと身をすくませた。その顔が、わずかに――ほんのわずかに、硬くなっている。
おっとりした外見にそぐわず、静香にはほとんど苦手に思うものはない。爬虫類や昆虫の類も大丈夫だし、ホラーやオカルト、スプラッタもサラリと笑顔で受け流す。
そんな彼女が唯一表情を変えるのが、『雷』だった。
なんでも、子どもの頃に近所で続けざまに落雷があり、そのあまりの迫力にトラウマになってしまったらしい。折悪しく元も雅も留守にしており、子守も他の用事で手が離せなかった為、嵐が通り過ぎるまで、独りで耐える羽目になったとか。
「稲光は、とても美しいとは思いましてよ? ただ……音が……あれは、必要以上に大き過ぎませんこと?」
今よりももう少し彼女が幼かった頃、遠雷が響くたびに普段よりも恭介との距離を詰め、静香はそう言っていた。
別に怖いなら怖いと素直に言えばいいのにと彼は内心で呆れつつ、滅多に見せない彼女の意地っ張りな一面を少しおかしく思ったものだ。
年々、その頻度は落ちていったが、やはり苦手なものは苦手らしい。
「この時期ですから、そんなにたいしたことにはならないですよ」
「……そうね、きっと」
恭介の言葉に、静香は微かに笑みを浮かべて小さく頷く。
「もう、十月ですもの」
そうしてふと視線を車の外に流すと、彼女はもう一度、独りごつようにポツリとこぼした。
紗を隔てているような見えない何かに阻まれて、そうつぶやいた彼女が何を考えているのかを察することができない。
恭介はそれ以上声をかけることができずに、ただその横顔を見つめるだけだった。
*
恭介は分厚い経済学の専門書のページを繰る手を止め、ふと耳を澄ます。
夕食を終え、食後のお茶も済ませた静香は、自室に戻っていた。
風は強いものの雨も雷もなく、いつもと変わらぬ夜を過ごしていた――筈だった。
だが、つい今しがた、ゴロゴロと空気を微かに震わす地響きのような音が耳に届いたような気がしたのだ。
――雷か……?
そう思って、窓の外に目を向けた直後だった。
バタバタバタと屋根に豆を撒いているかのような音が響いたと思うと、それは一気に激しさを増し、あっという間に窓ガラスには滝のような流れができあがっていた。雨の音で目立たないが、風もかなり強いようだ。暗闇の中で、庭の木が大きくうねっている。
稲光と……十ほど数えて、響く音。
再び夜空が煌き、いくつか時を置いて、雷鳴。
そして、閃光と、直後に響く霹靂。
その音はバリィンとまるで夜空を割ったような轟音で、恭介は思わず眉間に皺を寄せた。
立て続けに響き渡るそれは、鼓膜を痺れさせる。
と、その爆音を縫うようなタイミングで。
コンコン、と、控えめなノックの音が恭介の耳に辛うじて届く。
それを鳴らしているのが誰なのかは、ドアを開ける前から判っていた。恭介はサッと立ち上がると足早にそちらへ向かう。
果たして、開いた扉の向こうにいたのは、予想通りの人物だった。
「入ってもよろしくて?」
「お嬢サマ」
どうしたのか、などとは訊くまでもない。
静香の口元から笑みが消えるのは、滅多にないことだ。時刻はもう二十三時も間近で、常ならば、こんな夜更けに彼女が恭介の元を訪れることなどない。よほど、この雷に耐え兼ねたのだろう。
「……どうぞ」
いつもよりも更に透き通るような白さを増しているその頬を見れば否とは言えず、恭介は静香が入れるように一歩身を引いた。彼女は彼のその仕草に、ようやくほっと頬を緩める。
「ありがとう」
微かとはいえ笑みを取り戻した静香は、小さく頭を下げると部屋の中に足を踏み入れた。
彼の部屋にあるのは書き物机とベッドだけだ。静香はベッドに歩み寄ると、その端の方に腰を下ろし、手にしていた本を膝の上で開いた。
その様子を見て、恭介は思わず内心で舌打ちをする。他に座るところがないから仕方ないと言えば仕方ないのだが。こんな夜中に、男の部屋のベッドになんか座るんじゃねぇよとこっそりとボヤく。
彼女がそんな行動を取れるのは、やはり恭介のことを『男』と認識していないからなのだろう。
静香の耳には届かないほどの小さなため息を漏らし、彼も机に向かう。
激しい雨音と、雷鳴。
部屋の中にある音は、それだけだ。
チラリと静香に目を走らせると、彼女は膝の上の本はそのままに窓の外へと視線を注いでいた。ページが繰られた気配はない。微かに眉根が寄せられていて、耳をつんざく轟音が響くと、その都度彼女の細い肩がピクリとすくむ。
やれやれと思いながら、恭介は机の上に注意を戻した。
その専門書も元の『宿題』で、明後日までに読み切るように言いつけられているのだが、まだ、半分ほどが残っている。今の彼にはそれほど難しい内容ではないとはいえ、文量がとにかく多いのだ。今日中に三分の二までは読み進めておきたい。
しかし、恭介の目はふと気付くと同じ行を何度も往復しており、それでもしばらくは本に集中しようと努力をしたが、やがて諦めてしおりを挟んだ。そうして、椅子から立ち上がる。
「何か、飲み物でも持ってきましょうか?」
「え?」
恭介の申し出に、静香はキョトンとした眼差しを彼に向ける。
「何か温かいものでも、持ってきますよ」
繰り返した彼の言葉に、静香は微かに視線を揺るがせた。
「いえ、その……」
珍しく歯切れの悪い彼女の返事に、恭介は「ああ、そうか」と心の中で頷いた。
――独りになるのが心細いのか。
彼女が口に出すことはけっしてないが、怖がっているのは明らかだ。
「稲光と音の間が開き始めましたから、もうじき通り過ぎますよ」
「ええ……そうね」
静香を安心させようと口にした恭介の台詞に、彼女は柔らかく微笑んで頷く。部屋に入ってきた時よりも随分と頬の色も戻ってきていて、だいぶ気分もほぐれてきているようだった。
恭介に向けられる静香のその眼差しの中にあるのは、寛ぎの色のみだ。
人ごみの中にいようと、二人きりでいようと、どんな時でも同じだった。
では、新藤一輝と一緒の時には、どんな色を浮かべるのだろうか。
少なくとも、こんなに安心しきったものではない筈だ、と恭介は自嘲する。しかし、そんなふうに、彼女の中にある彼に対する気持ちが信頼と安心だけだから、こうやって始終傍にいることができるのだ――心細い時に、真っ先に彼女が頼ってくるのが彼でいられるのだ。
決して恭介一人のものにはならないけれど、誰よりも近い位置にはいられる。
それはそれで、『唯一』の存在に違いなかった。
「随分、雷も遠のいたようですよ?」
唐突に始まった嵐は去っていくのも素早いようで、気付くと雨音も随分と静かになっていた。まだ時折閃光はきらめくものの、つい先ほどまではガラス戸を震わすほどだった雷鳴が、遠くの空での轟き程度になっている。
恭介の台詞に静香も少し首をかしげて雷の音に耳を澄ますと、やがてニッコリと晴れやかな笑みを浮かべた。
「まあ、本当」
言いながら、静香はベッドから立ち上がる。そうして一度窓から外を眺めると、ドアへと向かった。ノブに手を掛けたところで、彼女は振り返る。
「どうぞ、お勉強の続きをなさってね。夜更けにお邪魔してしまって、申し訳ありません」
「次からは、新藤氏に電話でもしたらいいですよ」
問題が解消すればあっさりと出て行こうとしている静香の背中に、恭介は思わずそう声をかけてしまっていた。別に彼女を引き止めたかったわけではない。そんな気は毛頭なかった。
「はい?」
出て行きかけていた静香が、再び振り返る。
怪訝そうな彼女の目に、恭介は口ごもる。その先に続ける言葉など、考えていなかった。
「……新藤氏も、迷惑とは思いませんよ、きっと」
普段毅然としている静香に頼られれば、新藤一輝も悪い気はしないに違いない。特に、彼のような『指導者』タイプなら尚更だろう。
だが。
「何故、一輝様のお名前が出ていらっしゃるの?」
「え?」
今度は恭介が眉根を寄せる。もしかしたら隠しているつもりだったのだろうかと思ったが、目の前の静香は心底からの疑問を顔に浮かべている。
「彼のことが好きなんでしょう?」
「わたくしが? 一輝様のことを?」
目を丸くしているその様は、ごまかしているとは思えない。恭介は眉間に皺を刻みながら確認する。
「前に言っていた『想う方』は、彼なんじゃないですか?」
「あれは……」
静香が何か言いかけて、やめる。そして彼をヒタと見つめてきた。
「一輝様では、ありませんわ」
彼女はきっぱりとそう言いきる。
しかし、恭介が知る限り、静香と釣り合いが取れそうな男は他にいない。彼女の高校は教師まで女性ばかりだし、使用人の中にも同年代の者はいなかった。さっぱり思い当たらない。
「あの方が、わたくしの想う方だと、武藤はそう思われて?」
静香のその問いに、考えにふけっていた恭介は彼女へと目を向ける。静香のその表情は、何を意味しているのだろうか。
怒っているのとは違う、だが、どこか挑むような強い光を浮かべた眼差しが、恭介に注がれている。
「てっきり、そうだと思ってました」
戸惑いながら答えた恭介に、静香は微かに視線を落とし、そして、また彼を見上げた。揺ぎ無く、真っ直ぐに見つめてくる。
「違いましてよ」
では、いったい誰なのか。
そんな疑問が彼の顔に表れていたのだろうか、静香は軽く首をかしげて不意に笑みを浮かべた。いたずらを仕掛けようとしているような、そんな笑みを。
「貴方も良くご存知の方でしてよ」
「俺が?」
更に対象が絞られてくるが、それゆえに一層判らなくなってきた。
首を捻る恭介を置いて、静香がドアを開ける。
「わたくしからは、答えを差し上げませんわ――まだ」
かしげた首に、サラリと髪が揺れる。
「『宿題』、です」
そう残すと、静香は薄く開いた扉の隙間からスルリと出て行った。
閉じたドアを見つめながら、恭介は彼女の言葉を反芻する。
彼がよく知る、男。
そして、彼女の想い人。
まさか、『元』とか。
いや、静香はファザコンではない。間違っても、「将来はパパのお嫁さんになるの」というタイプではない筈だ。
雨風はいつしか遠く過ぎ去っていたが、恭介の中にはまた別の嵐が残された。
元の『宿題』を消化しようとデスクに戻って本を開いても、ただ目が文字を追うだけで、内容がさっぱり頭に残ってこない。
静香が誰を好きであろうと、彼女が将来誰と結婚することになろうと、自分は傍にいるだけだ。
そう心に決めている筈だというのに、それでも考えてしまう。
「クソ」
いい年をした男が、グダグダと情けない。未練がましいにもほどがある。
だがしかし、そうは思っても、頭が勝手に『そこ』に向かってしまうのだ。
――結局、二日続けて徹夜をする羽目になる恭介だった。