9月の月兎
九月半ばのその日は見事な秋晴れで、そして仏滅だった。
綾小路家にはいくつかの年間行事があるが、そのうちの一つがこの『月見』だ。とはいえ、内々のことなので、別に派手なことをするわけではない。ただ、八月十五夜にススキを飾り、団子を用意し、月見酒を少々たしなむ程度である。
恭介は古参の家政婦の久枝に言われて、和室の縁側に月見道具一式を運んでいた。
和室では、先に渡しておいた黄色い菊、赤い水引、紫紺の竜胆、そしてススキ――それらを静香と彼女の母の雅が二人して、ああでもないこうでもないと水盤に活けている。
「ねえ、静香さん。ご覧になって? ふふ、この可愛らしい菊。まんまるで、お月様のように見えなくて?」
そう言いながら見事な球形に整えられた菊を月の隣に掲げて軽やかな笑い声を上げるのは、雅だ。今年三十八歳の彼女はふっくらとした口元に常に柔らかな微笑みを浮かべていて、時に怜悧な印象を与える静香よりもまろやかな雰囲気を帯びている。年齢よりも若々しく見える雅と、実際よりも大人びている静香が並ぶと、まるで姉妹のようだった。
雅と元は十三歳離れている年の差カップルで、驚くなかれ、アプローチしたのは雅の方からだったという。
出会いは雅十六歳、元二十九歳の時。
彼女の一目惚れから始まり、二年間の猛追で元を口説き落としたとか。
ほんの少し水を向ければ、彼女はうっとりした眼差しで滔々とその馴れ初めを語ってくれる。
恭介も、ここで働き始めてから何度それを耳にしたことか。
はっきり言って、もう聞きたくない。
だが、今も、雅はふと手を止めると、縁側から見える中秋の名月を眺めやりながら小さく溜息をついた。
「わたくしが旦那様と初めてお会いしたのは、こんなふうな月がかかった秋の夜でしたの」
「初めて行かれた、秋祭りの夜でいらしたのですよね?」
「ええ」
微笑みながら静香が繋げると、雅は胸元に両手を当てて、静香によく似た、けれども彼女よりも夢見がちな色を浮かべるその眼差しを伏せる。
「わたくしはお友達とはぐれてしまって、いつの間にか旦那様がなされていた金魚すくいのお店に行き着きましたの。金魚たちはお小さくてお可愛らしくて、思わず見とれてしまったわたくしに、旦那様が声をかけてくださって。手持ちがないと申し上げましたら、一度だけなら、とおっしゃって、最中をくださいましたの。捕まえられないでいたら、最後に小さな袋に入れて、一匹くださいましたわ。その時の笑顔がとても素敵で、一目で恋に落ちましたのよ」
何度も何度も聞かされたその件に、恭介はいつものように、胸中でマジかよ、とツッコんだ。美女と野獣もいいところなその組み合わせの上に、野獣の『素敵な笑顔』とくる。
「神主様に旦那様のことを伺って、お家を尋ねましたの。旦那様はとても驚かれておられましたわ」
その当時、元は二十九歳。呼び鈴鳴って、扉を開けたら年端もいかない美少女が、となったら、そりゃ驚くだろう。しかも――
「旦那様はなかなか信じてくださらなくて、わたくしは何度も気持ちをお伝えしましたの。わたくしの旦那様になってくださいませ、と」
その美少女から開口一番プロポーズされたとなれば、尚更だ。
「旦那様が頷いてくださった時は、本当に、天にも昇る心持ちでしたのよ」
「素敵ですわ、お母様」
母子は幸せそうに笑みを交わしている。
その時の元の心中を推し量ると、恭介は普段は憎たらしさしか覚えない相手に、若干の同情と共感の気持ちを禁じ得ない。ふと見ると、いわゆる『コイバナ』に興じる二人の手元はお留守になっていた。
「そろそろ、その花いいですか?」
声をかけつつ、恭介は静香たちの前に置かれている生け花を指差す。
取り敢えず全ての花は挿し終えているようだが、生け花に造詣の深くない彼には、それが完成しているのかどうなのかの判断は難しかった。
恭介の言葉にハッと我に返った二人は、鏡に映った鏡像のように揃って、彼にニコリと笑いかける。
「もう少しお待ちになってくださる?」
恭介にそう答えると、静香は袂を指先で押さえて花々をちょいちょいといじる。何が変わったのか判らないが、何かが変わったらしい。
静香は首をかしげてしばらく見つめた後、雅に問う。
「これでいかがでしょうか、お母様?」
「まあ、素敵ですこと。ここを、もう少し……」
よく似た、銀の鈴を転がすような声での遣り取り。
母娘の周りの空気だけ、まるで別世界のようだ。時の流れさえ、ゆっくりと進んでいるような気がする。
恭介は、見えない壁を隔てているような心持ちで、ぼんやりと二人を眺めながら完成を待った。
派手ではないが優美な着物姿の二人の間には、丸い菊を月に見立てた風雅な生け花。その向こうにはしっとりと整えられた和式の庭園が広がっており、少し目を上げれば空にはほぼ真円の明月が浮かんでいる。
彼女たちの交わす言葉はおっとりとして、どこか音楽的だ。
恭介は、不意に自分が場違いに居合わせてしまった気がしてくる。居心地の悪さを覚えて、身じろぎをした時だった。
「おう、準備はできたのか」
どかどかと近付いてきた足音と場の空気を打ち破るどすの利いた声が、唐突に響き渡る。
「旦那様!」
パッと華やぐ笑顔を浮かべた雅が、ふすまを開いて現れた元を迎えようと、腰を浮かした。それを片手で制し、彼はどかりと雅の隣に腰を落とすと胡坐をかく。
「きれいなもんだな」
活けられた花に感心した声をあげる元に、雅は顔を輝かせる。
「うふふ」
嬉しそうに笑みをこぼした彼女は、まるで少女のようだ。ほんのりと頬を上気させ、至上の存在を見つめる眼差しを元に注ぐ。
「旦那様、御酒をどうぞ」
そう言っていそいそと徳利を向けた雅に、元がお猪口を差し出した。彼が酒を呷る様まで、雅はうっとりと見入っている。一挙手一投足、頭のてっぺんからつま先まで、彼女の所作には元に対する想いが溢れ返っていた。
すでに二人の世界を作りつつある両親の傍から離れた静香が、恭介の隣にやってくる。
「いつも仲がよろしくていらっしゃること」
「そうですね」
内心で、何であんなおっさんに……と付け加えながら、恭介は頷く。両親を見つめる静香の目にあるのは憧れの色だけで、彼がそんなふうに思っていることがばれたら、怒られそうだ。
「お邪魔をしてはいけないわ。お庭に参りましょう」
新婚並みのいちゃつき振りを際限なく見せ付けられるのはたまらない。恭介は一も二もなく彼女に従った。
*
リィィィ、リィィィ、と、鈴虫のどこか寂しげな鳴き声が辺りに響く。
月明かりを楽しむ為、庭に置かれた雪見灯篭の火袋に灯りは入っていない。煌々とした満月で足元は照らされているが、静香には恭介の腕につかまらせていた。
薄いシャツ越しに感じる彼女の指は柔らかく、少しひんやりとしている。やんわりとした力は、つかまるというより、触れている、といった方が適切か。
静香と恭介が近付くと鈴の音はピタリとやみ、しばらくするとまた後ろの方でリィィィ、リィィィと翅を振るわせ始める。
小さな池のほとりまで辿り着くと、静香は足を止めた。
「何て見事なお月様」
微かに頭を傾けて、夜空に浮かぶ輝きに口元をほころばせる。
夜の九時を少し回ったところで、高度を上げた月は乳白色から銀色へと変わっていた。
恭介は、彼の腕に手を添えた静香の横顔に視線を落とす。
月明かりを浴びた艶やかな彼女の黒髪は、まるでそれ自身が光を放っているようだ――睫毛の先まで、月光を弾いている。
その輝きに微かな目眩を覚え、恭介は逃げるように空へと目を投げる。
二人の間に沈黙が横たわると、じきにすぐ間近で鈴虫たちが謳い始めた。
静香は押し黙って月を見上げたまま、まるで彫像のように佇んでいる。
そこはかとない居心地の悪さというか、居た堪れなさというか。
鈴虫の声しか聞こえない風雅な静けさに耐えられず、何かに急かされたように恭介は口を開いていた。
「月と言えば、あれですよね。月に何かを誓おうとして、形の変わるものになんて……というくだりが、何かの話にありましたよね」
「シェイクスピア? 『夜毎に変わる月に愛を誓うなんて』――ね? ……わたくしは、月に誓いを立てても良いと思ってよ?」
「え?」
意外な言葉に、恭介は静香を見下ろした。彼女が首をかしげると、サラサラと髪が揺れる。
「月は、たとえ朔で目には見えなくても、必ず空には在り続けるでしょう? 欠けても、また満ちていきますもの。想いも、見失ってもまた戻ってくるなんて、素敵なことだと思わなくて?」
そう答え、彼女は月影のように淡く微笑んだ。まるで触れたら消え失せそうなその風情に、恭介は目を逸らすことができなくなる。
彼のその眼差しを真っ直ぐに捉え、静香は囁くように続けた。
「あのお話は、終わり方があまり好みではありませんの。あんなふうに終わらせてしまうだなんて……わたくしなら、『家』も『愛しい人』も、両方とも、諦めはしませんことよ?」
ふふ、と小さく笑みを漏らした静香の目が、一瞬キラリと光を放つ。薄闇の所為か、それ以外の何かの為か、その一瞬の彼女の顔は大人びて見え、恭介の心臓がドクリと脈打った。
込み上げてくる何かを堪えようと、彼は奥歯を強く噛み締める。
そんな恭介の様子には気付いたふうはなく、静香は再び月を眺めやる。
「月にはウサギが棲むというでしょう? あれは、自己犠牲のウサギだそうよ。敬愛するものの為に我が身を差し出した、ウサギですって」
恭介の腕に乗せられた彼女の指先に、ほんのわずか、力がこもる。
「わたくしは、自己犠牲が好ましいこととは存じませんの。あなたの為に我が身を捧ぐ、だなんて、差し出された側はどんなふうに受け止めたらいいのかしら?」
そう言って、静香は、クルリと首を巡らせる。再び彼女の視線が注がれて、恭介は一瞬息を止めた。
「大事な方を幸せにしたければ、まず、自分自身が幸せにならなければ。わたくしは、そう心に決めておりますの」
恭介に向けられた、透き通った、しかし、心の奥底は窺わせることのない、静香の眼差し。
彼女のその眼差しと言葉に、恭介の胸の中に細波が波紋を広げていく。ザワザワと、堪えがたい何かに襲われ、彼は腹にグッと力をこめた。
「……誰か、想う相手がいるんですか?」
否定を返して欲しかった。
だが、恭介のその問いに、静香はやんわりと微笑を浮かべる。
それは言外の肯定で、彼は両の拳をきつく握り締めた。そして、辛うじて笑みといえる形に唇を歪ませる。
「なら、俺にできる限りで、力になりますよ」
「本当に?」
「ええ」
――そんなことができるか。
胸の中でそう吐き捨てた恭介に、静香は華やかに笑む。
「嬉しい。約束でしてよ?」
その笑顔は、心地良くも恭介の胸をえぐった。引きつった笑みを唇に張り付かせたまま、彼は頷く。
「約束です」
静香はクスクスと嬉しそうに忍び笑いを漏らすと、スルリと彼の腕から手を放した。
「わたくし、先にお部屋に戻りますわ。武藤は御酒でも召し上がってらして?」
そう言い残して静香は長い袂を翻し、歩きにくい和装にも拘らず危なげない足取りで軽やかに去っていく。艶やかな蝶のようなその後ろ姿が見えなくなると、武藤は身体の力を抜いた。思わず、ため息もこぼれる。
――まったく、人の気も知らないで。
そんな理不尽な考えが恭介の頭の中をよぎる。静香には何も伝えていないし、意図して自分の中の気持ちを押し隠しているのだから、彼女が恭介のことを気にも留めないのは当たり前だ。文句を言うのは筋違いだと判っていても、やはりぼやきたくなる。
「まったく」
声に出して、そう呟いた時だった。
不意に鈴虫の声が途切れ、打って変わって野太くどすの利いた声が背中に投げつけられる。
「おう、何だよ、ため息なんぞつきやがって」
「元様」
振り返った先にいるのは、縁側で雅と酒を呑んでいた筈の雇い主だった。
「静香はどうした」
「先に屋敷に戻られましたよ」
「そうか……あいつがお前から離れているなんて、珍しいな」
恭介の返事に、元がボソリと呟いた。そして、ギラリと目を光らせる。
「まさか、お前、何かしでかしたんじゃあるまいな?」
「何かってなんですか。別に何もしてませんよ」
普段は冷静沈着、徹底した客観視、孫請けのそのまた先まで行き届く広い視野で有能極まりない綾小路グループ会長だというのに、妻と娘のことになると針の先ほどしか見えなくなる。
呆れながらも、恭介はそう言えば、と元の隣にあるべき姿がないことに気付いた。
「雅様は、どうされたんです?」
「ああ、月見酒でいい気分になっちまったよ。ったく、酒の相手には向かねぇな、あいつは」
そう答えた彼の目が、ガラリと色を変える。
馴れ初めはどうあれ、今の元はこの上なく愛妻家でこの上なく子煩悩だ。厳つい熊のようななりをして、妻や娘のことでは締まりなく相好を崩す。
恭介は内心で呆れると共に、それほど想う相手を手に入れられた彼に、微かな羨望を抱くのだ。
「では、俺は戻りますんで」
軽く頭を下げて、恭介はその場を後にしようとする。が、それを元が呼び止めた。
「ああ、『宿題』、お前の部屋に置いといたからな。三日でやれや」
「……ショウチイタシマシタ」
恭介は、棒読みでそう返す。
『宿題』。
何故か、元は、恭介にそれを出す。きっと、四六時中静香の傍にいることに対する嫌がらせか、必要のない時は彼女から引き離しておこうという作戦なのに違いない。
それは経営や経済に関する分厚い専門書を読んでレポートを書けというものであったり、山ほどのデータをまとめて企画書をあげろというものであったり、ネタは色々なのだが、いずれにせよ、何でそんなことをさせるのかと、理解に苦しむものばかりだ。
一応、教師というかアドバイザーというか、サポートしてくれる者はいる。だが、大学やそれ以上の学府で学ぶような内容を、高卒止まりの恭介にやれというのだ。
今でこそ随分知識が付いたが、ここに来た当初は与えられた課題に頭がパンクしそうだった。
一つを仕上げると、三日と空けず、また次がやってくる。
げんなりしながらも、恭介は、その『宿題』の待つ自室へと向かおうとした。
「静香をくれてやるのは、あいつを幸せにする奴にだけだ」
踵を返した恭介の背後で不意に発せられた、静かな声。それは、彼に向けて放とうと意図されたものではないようだった。だが、その内容に、恭介は足を止めて振り返る。
「え?」
何の脈絡もない元の台詞に、その意図を掴みかねて恭介は眉をひそめた。
「ものの解かっておらん腑抜けのでくの坊には、断じてやらん」
ギラリと目を光らせて何も答えずにいる恭介を見据えると、あとはもうむっつりと口を閉ざし、元は来た道を戻っていく。
結局、彼は何をしに来たのか。
恐らく、静香に向ける恭介の眼差しの中に滲むものに、元は薄々感付いているのだろう。あの言葉は、牽制だ。だが、そんなこと、恭介は言われなくともきちんとわきまえているつもりだった。
元が去り、身じろぎ一つしない恭介の周りで、再び鈴の音が響き渡り始める。
その、競うのではなくただ相手を求めるだけの物悲しい鳴き声が、彼の全身に沁み渡っていく。
――静香を幸せにする者。
彼女の『幸せ』には、彼女自身のことだけでなく、連綿と続いた歴史と血筋、彼女の夫となる者が背負わなければならない大きなもの、それらも全て含まれる。
努力で何とかなるようなものであるならば、いくらでも力を尽くそう。だが、それだけではどうにもならないものもある。
ほんの少しだけ、元のことを羨ましく、そして恨めしく思った。
静香がかつての雅と同じように、消えかけている家名しか持たない少女であったなら、恭介にも手が届いたかもしれない。彼の方から彼女を求めていたかもしれなかった。
だが、そうではない――そうではないのだ。
恭介は最後にもう一度、月を振り仰いだ。
彼女は、自己犠牲の兎は容認できないと言った。だが、それしか差し出すものがない者は、どうしたらいいのだろうか。この身と、露わにはできない想いしか持たない者は。
どんなに見つめようとも、月は、答えを教えてくれはしない。
それは恭介の問題だ。
彼自身で、どうするのかを決めなければならないのだ。