8月の微熱
ジリジリと、太陽が照り付ける。
恭介はサングラス越しに仰ぎ見た、真っ青な空に目を細めた。
ここは綾小路家が所有するプライベートビーチだ。5LDKのこじんまりした別荘と、ちょっとした砂浜。
財産管理能力というものが皆無であった綾小路家は、かなりの景観を誇る、そこそこの広さを有するそのビーチを、かつては宝の持ち腐れにしていた。
手付かずで荒れるがままに放置されていた綾小路家所有の別荘地にホテルを建てて一大リゾート化したのは、婿入りした元である。
現在はそのごく一部が綾小路の私有地として残されており、静香は毎年夏になるとこの地を訪れていた。
もっとも、『こじんまり』『ごく一部』と言っても一般庶民の感覚では立派な豪邸にプライベートビーチだ。
うまい具合に岩場で挟まれているので、ホテルの人間が迷い込んでくることも、普通は、ない。
――真夏の海とは思えないよな……
恭介は胸の中で独りごちる。
真っ白な砂浜に、真っ青な海と空。
その波打ち際を、華奢な身体を際立たせるシンプルな白いワンピースを身にまとった静香が、腰までもある黒髪を揺らしながら散策している。
彼女は夏の風物詩とも言える、人がひしめき合う海岸など、目にしたこともないに違いない。
いわゆる『芋洗い場』にいる静香を想像してみる。
……違和感この上ない。
「浮きまくりだな」
苦笑混じりに呟いて、恭介はよっこらせと木陰に腰を下ろした。
慣れ親しんだ場所で特に危険なことがあろう筈もなく、恭介はのんびりと主人の後ろ姿を目で追う。
彼女は、時々しゃがんでは砂をいじっている。貝か何かでも拾っているのだろう。
響いているのは波の音と、梢を揺らす風の音のみ。
世俗とかけ離れた場所で、静香はまるで一枚の絵の中の存在の様だった。
――平和だな。
恭介がそんなふうに思った時だった。
「すみませぇん」
唐突に、背後から鼻にかかった甲高い声が響く。
別荘に居るのは、静香と恭介、それに身の回りのことをしてくれる中年のメイドとごつい二人の警備員だけだ。こんなふうに耳に響く声を出す者はいない。
濃色のサングラスの下で眉をひそめながら振り返った恭介は、そこに場違いなものをみつけて、更に眉間のしわを深くした。
いったいどこから入り込んだのか、立っていたのは二十代前半と思しき二人の女性である。
二人とも水着の上にパーカーを羽織っているが、極端に布面積が少ない水着姿であることを隠そうとしているのかどうかは、はなはだ疑問であった。
他に民家などはないから、恐らくホテルの宿泊客なのだろう。しかし、確かにホテルは『隣』に建っているが、気軽な散歩で辿り着ける道程ではない。
恭介は立ち上がりながら少し離れたところからこちらを窺っている警備員に軽く手を振ると、闖入者に視線を戻した。
「どちら様?」
明らかに不審な色を滲ませて訊いたつもりだったが、何故か彼女たちは「キャー」っと歓声を上げる。
「渋い声!」
「いいわ!」
二人の間で何を盛り上がっているのか、恭介にはさっぱり訳が解からない。
質問にも答えをもらえず、彼はより一層、仏頂面になった。
サングラスを外せば、さっさと逃げていくだろう。自分の眼光の鋭さにはある意味自信がある恭介が、そう思って、手を上げかけた時だった。
「この別荘、お兄さんのものなんですか?」
「あちらは妹さん?」
「ホテルも素敵ですけど、ここもいいですね!」
「あのホテルのオーナーさんだって、ホントですか!?」
目を輝かせ、一秒三回の瞬きを繰り返す彼女たちは、交互にそう尋ねてくる。矢継ぎ早の質問は、果たして答えを要求しているものなのかどうなのか。
だが、そのセリフで、恭介はようやく状況を呑み込めた。
どうやら、何かの拍子に、ホテルの隣にあるのがそのオーナーである綾小路家の別荘であることを知ったらしい。おそらくこの二人は、あわよくば……と考えたのだろう。
「ここは私有地ですから、ホテルのお客様は立ち入り禁止ですよ。お帰りください」
一応、『客』だから、と、努めて穏やかな口調でそう伝える。だが、女性陣にはどこ吹く風、だった。
両側から、するりと恭介の腕にそれぞれの腕を絡み付かせ、ギュウと素肌を押し付けてくる。温かな身体は、かなりのボリュームがあった。
「ええぇ、いいじゃないですか。ねえ、私たちと遊びません?」
「ホテルでお食事でもいいですよ?」
果敢に、というよりは不躾に挑んでくる二人に、恭介が少々うんざりし始めた、その時だった。
何かを感じてふと顔を上げると、こちらをジッと見つめている静香と目が合った。その直後、彼女はクルリと踵を返して別荘の方へと歩いて行ってしまう――いつもよりも、やや足早に。
静香らしからぬ動きに恭介は眉をひそめるが、彼女がいないとなれば、彼もここに留まる理由がない。
「放してください」
乱暴にならない程度に強く腕を振り払い、二人から逃れる。
「あ、ちょっと!」
再び捕まりそうになるのを、スルリとかわした。
「いいですか、ここは私有地です。早々に出て行ってください。今後も無断で立ち入るようであれば、警備員につまみ出してもらいます。警察を呼んでもいいですが、それは嫌でしょう?」
「何よそれ!」
犯罪者扱いされた女性二人は、キリリと眉を吊り上げた。
だが、綾小路といえば今では相当の資産家なのである。その私有地に無断で入るということは、何かを疑われても仕方があるまい。
「ここは当家の敷地内ですから、あなた方の行動は不法侵入です」
淡々と、だがピシャリと言い切った恭介に、彼女たちは揃って声を上げた。
「信じられない!」
「行こ!」
憤慨した彼女たちは、他にも何やら女性らしからぬセリフを残しつつ、立ち去っていく。
「『信じられない』のは、こっちだ」
その背中が視界から消えるまで見送った恭介は小さくぼやいて、静香の後を追うべく別荘に向かって走り出した。
*
結局、先に別荘に帰った静香はそのまま部屋にこもってしまって、夕食まで出てこなかった。
夕食の席でも言葉は少なく、何やら考え込んでいるようにも見え、恭介も声をかけることがはばかられて互いに無言のままで終わらせたのだった。
機嫌が悪い、というのとはちょっと違う気がする。
具合が悪い、というわけでもないようだ。
再び自室に戻っていった静香の様子を一応メイドに見に行かせたのだが、普通に笑って大丈夫だと言われたらしい。
恭介は夕涼みがてらベランダに出て、ぼんやりと海を眺めやった。下弦の月が放つ光は闇を照らすほどの充分な明るさをもたらしてはいなかったが、海面はその輝きを反射してきらきらと揺らめいている。
と。
「?」
目を細めて微かに波が立つ海面を見つめる。
「何だ?」
思わず、呟いた。気のせいではない。光の反射とは別に、何か、白いものがちらちらと見え隠れしていたのだ。
「イルカ……? まさかな」
魚にしては大きいが、こんなところにそんなものが来る筈もなかろう。更に目を凝らしてみて、気が付いた。
「ウソだろ!?」
その正体を悟ると同時に、恭介は信じたくない思いと共に、隣室に向かう。
時刻はまだ夜の十時。
普段の静香であれば、まだ起きて本でも読んでいる頃合いだ。だが、夕方の様子を見ているともしかしたら寝ている可能性もあり、恭介は控えめに扉をノックする。
二回。
返事はない。
もう二回。
やはり、静まり返っている。
「お嬢サマ? 開けますよ?」
一応、そう声をかけておいて、扉を開ける。ベッドの上にも書き物机の前にも、静香の姿はない。
「クソ!」
短く毒づいて、恭介は身を翻して玄関に向かって走り出した。
*
恭介は砂浜に出ると、少し高い場所に立って海面に目を凝らす。
だが、ベランダからは窺うことができた水中も、その程度の高さでは中に居る者の姿を確認することは全くできなかった。
それに、月明かりがあるとはいっても、半月の光の強さはたかが知れている。むしろ月光で輝く水面が、暗い海の中を見る妨げになっていた。
「チッ! 全然見えねぇ……」
苛立ちに、つい舌打ちが漏れる。
静香は、いったい、どこにいるのか。
果たして、この中にいるのだろうか。
――潜っているのだとすれば、長過ぎはしないだろうか。
最後の疑問に、恭介はギクリとする。時間は計っていないが、もう長いことこうやって水面を見つめ続けているような気がした。
昼に見ればあんなにも美しかった海も、今は全てを呑み込む得体の知れない怪物の様だ。
胸の中が次第に不安で泡立っていくことを、恭介は抑えることができない。
この暗い海で見失い、このまま二度と手にすることができなかったら……。
そんな不穏な考えを、恭介は強く頭を振って打ち払う。
懐中電灯を取りに戻るべきだろうか。
そう、恭介が考えた時だった。
パシャン、という小さな水音と、海面から現れた横顔。
髪を掻き上げる静香は、浜に立つ恭介に気付いていないようだった。一瞬、月を見上げた後、また潜ってしまう。
それを認めた瞬間、彼は走り出していた。
こんな暗い中で泳ぐなど、まともな考えができる者なら、決してしないだろう。暗闇の中で方向感覚が狂って、うっかり沖まで行ってしまうかもしれないのだ。
しかも、見守る者もなく、たった一人で、ときている。
静香の泳ぎは達者だが、足がつったり何かの拍子に水を飲んでしまったり、事故はいくらでも起こり得る。
――まったく! 子どもじゃあるまいし、何だってこんな事を!
恭介は胸の中で絶え間なく主の無謀行為を罵り続ける。
そうしながら、水の中で揺らぐその白い影を見失わないように片時も視線を放さず、ズボンが濡れるのも厭わずに波を掻き分けて海中に進むと、狙い違わずにむんずと掴み上げた。胸の下まで水に浸かっていたが、濡れて身体にまとわりつく服の事など、一切意識に上らない。
片手で掴みきれてしまいそうな二の腕は、温かい。
その温もりに、恭介はホッとした。
ため息をついたことで、今まで自分が息を詰めていたことに気付く。
唐突に水中から引き揚げられた当の本人はと言えば、腕を取られたまま、きょとんと恭介を見上げていた。
綺麗に磨き上げられた黒曜石のような瞳が、真っ直ぐに彼を射抜く。それは、優雅だが隙のない常の彼女とは違う、いつもよりも無防備で、幼さを感じさせる眼差しだった。
その時、恭介は突然気が付いた――自分の中にある、一つの感情に。
いつかは、離れるつもりでいた。
彼女から離れることができると、思っていた。
だが、それは間違いだったのだ。その証拠に、ほんの一瞬、彼女が永遠に失われてしまうかもしれないという考えが頭の中をよぎっただけで、彼の中から何かがゴッソリと奪われたような心持ちになったではないか。
それは、職務の域を、明らかに越えていたことを自覚する。
この感情がいつからその胸の中にあったのかは、彼自身にも判らない。しかし、たった今生まれ、またすぐに消えるものではないことは判っていた。
始まりは、いったいどこなのか。
五月のあの時、彼を押し潰しそうになった焦燥は、前触れだったのだろうか。
――あるいは、それ以前から……?
不意に、初めて会った時の彼女の眼差しが脳裏によみがえった。険しい彼の目を怯むこと無く見返してきた、その眼差しが。
その記憶は、未だ鮮明だ。
今の彼女とその時の彼女とが、重なる。
まさか――
彼はその考えを否定しようとして、それが否定しきれないものであることを、悟った。
きっと、そうなのだ。
年端も行かない少女だったとか、ただ目が合っただけに過ぎなかったとか、そんなことは関係ない。
きっと、その瞬間に囚われた。
だが、その事実を受け入れた瞬間に、もう一つ、理解したことがある。
――恭介がどんなふうに想おうとも、彼女は決してその手の中に留めてはいられない。
いつか必ず、他の誰かのものになる。
彼女と共に綾小路家を盛り立てていく、誰かの。
それは、決して覆せない、そして彼が受け入れるべき事柄だった。
「……武藤?」
ヒタと見据える恭介の視線を受け止めて、静香が彼の名を呼ぶ。
呪縛を解かれたように、ハッと彼は瞬きをした。
さも不思議そうな透き通った眼差しを向けられている事に気付き、恭介の中には苛立ちとも何とも付かない嵐のようなものが湧き起る。
「何をやってるんですか」
疑問ではなく、殆ど叱責だった。それを向けた相手は、果たして彼女なのか、それとも自分自身なのか。
とにかく、胸の中に凝ったモヤモヤしたものを吐き出すように、言葉を口に出す。そして、気付かぬうちに静香の腕をつかむ手に力が入ってしまっていたことに、彼女が微かにひそめた眉で気付かされた。
恭介が思わずパッと手を放すと、それまでの支えを失った静香が反射的に彼の腕にしがみつく。
「……すみません」
小さく謝罪し、彼女の両腕を、今度は注意しながら取った。先ほど握ったところが微かに赤みを帯びているのが夜目にも見て取れ、恭介はもう一度、呟く。
「すみません」
そんな彼を覗き込んだ静香は、楽しげな、とは言えない、さりとて苦笑とも違う、どこか曖昧さを感じさせる笑みを浮かべる。
「何か?」
心中を悟らせない彼女のその表情に、恭介は訝しむ声で訊く。静香はそれにゆるく頭を振って答えた。
「何も……いえ、ただ、そのような目をされると、誰かがあなたの目蓋に妖精の粉でもふりかけてくださったのかと、思いたくなってしまったの」
「何のことです?」
なぞかけのような台詞に恭介は眉をひそめたが、静香は黙って再び微笑んだ。
月明かりの中のその笑みはいつになく儚げで、恭介の手は脳の支配から放れてしまう。
勝手に上がった右手が、彼女の濡れた頬を包み込んだ。親指でそっとそのまろやかな曲線を辿ると、静香はゆっくりと瞬きをする。伏せられた瞬間に頬に落ちた影は、驚くほどに濃い。
恭介のその手に頬を押し付けるかのように彼女がわずかばかり首をかしげたのは、彼の気の所為だったのだろうか。
あたりに響くのは規則正しく繰り返される波の音だけで、まるで時が止まったかのようだった。無言のまま視線を結ぶ二人を、そよりと風が撫でていく。
と。
「ックシュ!」
不意に響いた小さなくしゃみが、唐突に世界を現実に引き戻した。
恭介はハッと手を引っ込めようとし、ふと気付いてもう一度触れ直す。そうして、眉間の皺を深くした。
「武藤?」
渋面になった恭介に、静香が問いかける。
「熱があるじゃないですか」
「え?」
「少し、体温が高い。微熱だが、熱がある」
「まあ、そうですの?」
彼女はキョトンと目を丸くする。自分の身体のことだというのに、まるで他人事のようだった。
「さあ、さっさと戻りますよ」
言うなり、恭介は彼女の腰に腕をまわして引き寄せると、浜を目指して歩き出した。
細いのに柔らかな、いつもよりも温度の高い、その感触は敢えて無視して。
静香が楽に歩ける深さまで戻ると、恭介は早々に手を放した。彼女はそのまま浜に上がり、別荘に向かって歩いていく。
恭介も彼女の後に続こうとして、立ち止まった。
もう一度、暗い海を振り返る。
自分の中にあるものは、今、ここに沈めていってしまうべきなのだろう。だが、そう試みて出来るものでもない。
代わりに恭介は元の場所、胸の奥深くへとそれを埋め直す。
見つけてしまったものを無いものとはできないけれど、そうしていれば、いつかは色褪せてくれるだろう。
「武藤?」
「今行きます」
離れた所から名を呼んだ静香に応えて、恭介は歩き出した。
*
案の定、部屋に戻って体温を測ってみたら静香には微熱があった。
追いやるようにして風呂に入れ、髪を乾かし、今の彼女はベッドの上だ。
「体調は悪くなかったんですか?」
「ええ、まったく」
大きなベッドの上で枕にもたれた静香が頷く。その手には、恭介が入れてきた温めた蜂蜜入りレモン水がある。
気付いていなかったのなら、仕方がない。
しかし、海に入ったことで高熱にでもなったら……と思うと、恭介は気が気ではなかった。あるいは、泳いでいる時に急に熱が上がって意識が遠のき、溺れていたという可能性もあったのだ。
ベッドの中の静香は、熱の為か、微かに頬を紅くしている。
頬が紅いということは、間違いなく生きているということで。
――本当に、何事も無くて良かった。
恭介はしみじみとそう思う。
彼女がレモン水を飲み干す間、黙っているのも手持ち無沙汰で、何か話題を探す。
思いついたのは一つだけだった。
「でも、何だってまた、こんな夜更けに海に入ったりしたんです?」
海で得られなかった回答を、再び求める。
カップに口をつけようとしていた静香の手が止まり、彼女はそのままそれに視線を落とした。
「お嬢サマ?」
気晴らしだとか、涼む為だとか、そんな――取り敢えず納得できるような理由で充分だというのに、何をそんなに迷うことがあるのか、彼女は押し黙ったままだ。
固まられては、カップの中身も減らなくなる。
返事はいらないから、さっさと飲んでしまってくださいよ。
恭介がそう言おうとした時だった。
ポツリと静香が返す。
「少し、頭を冷やしたくて」
「……はあ?」
「昼間、おかしな態度を取ってしまったでしょう? 申し訳ありませんでした」
「おかしな……って、あまり喋らなかったことですか? きっと、その時から調子が悪かったんでしょう。自覚がなかっただけで」
辻褄の合う恭介の解釈に、静香は曖昧に微笑む。
「そう……そうかもしれません。熱があったから……」
彼女の声は小さくて、恭介は最後まで聞き取れなかった。
「今、何て?」
恭介がそう問い返すと、彼女は小さく首を振りかけて、そしてふと止まった。伏せていた睫毛を上げてチラリと彼を見ると、またすぐに視線を落とす。
「……あの方々……美しくていらっしゃいました」
唐突に言われて、恭介は何のことかと首を捻る――が、思い当たらない。
顔にクエスチョンマークを浮かべているのが見て取れたのか、静香が言葉を付け足した。
「昼間の、方々。武藤に話しかけてこられた、お二人の女性です。とても女性らしい……スタイルもよろしくて」
その補足で、ああ、と思い出した。
顔は記憶に残っていないが、あれだけ押し付けられたのだから、胸がでかかったことだけは覚えている。
「まあ……そうですね」
静香がどんな回答を望んでいるのか今一つ察することができず、恭介はあやふやに答える。
そんな彼の言葉に、彼女は一つ瞬きをした。
「やはり――殿方は……あのような方がお好きなのでしょう?」
「あのような?」
「ええ……豊艶な……」
この場合は肯定が正しいのだろうか、否定が正しいのだろうか。迷った末、恭介は選んだ。
「俺は、モンローよりもヘプバーンの方が好みですよ」
彼の返答に、静香は意表を突かれたようにパチクリと瞬きをする。
「そうですの?」
「まあ、メリハリあるのが好きなのもいれば、スレンダーな方が好みなのもいますから」
「そう……」
こぼした彼女の頬は、微かに緩んでいるように見える。
なんだか妙な方向に進みつつある話に終止符を打つべく、恭介はすっかり冷めてしまったカップを静香の手の中から取り上げた。
「さあ、もう休んでください」
恭介のその言葉に、静香は抗うことなく横になる。
羽毛の肌掛けをきちんと整えて、恭介は部屋を後にする。
電気を消し、戸口から出ようとした時、そっと声がかけられた。
「武藤?」
恭介は立ち止まり、一つ息をついてから振り返った。
暗がりの中、ベッドの方に目を向ける。
しばらく待ってみたが、続きが来ない。
「お嬢サマ?」
歩み寄ることなくその場で呼びかけると、ややしてから先ほどよりも小さな声で返してきた。
「……何でもないわ。おやすみなさい」
その時、恭介がもう少し深く訊こうとしていれば、静香は何かを答えてくれたのかもしれない。
けれども、彼はそうしなかった。
その『何か』を聞くのは良くないことのように思えたし、現状を維持することを決めた彼は聞くべきではないという戒めが、頭の片隅をよぎったのだ。
「おやすみなさい、お嬢サマ」
定型の言葉を返し、扉を閉める。部屋を出た恭介はしばしドアに背を預けて瞑目した。
再び歩き出したのは、随分と時間が経ってからの事だった。