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7月の珍事

 主である静香しずかから恭介きょうすけが突然の休暇を言い渡されたのは、突然のことだった。

武藤むとう、明日はお休みなさってくださる?」

 ニッコリと微笑んでそうのたまった彼女に、恭介は眉間の皺を深くして、呆れた声で返した。

「はあ? そういうわけにもいかんでしょう」

 確かに、明日は日曜日、世間一般では休日だ。しかし、この綾小路家で働き始めてから、彼にとって休日が休日であったことはなかった。

 別に、それを不満に思ったことはない。

 休みが欲しいと思ったこともなく、くれると言われても小躍りして喜ぶこともない。

 静香のそばを離れたとしても、自分がいない間にこのお嬢サマが何をしているのやらと気になって、息抜きにもならないだろう。

 何しろ、彼女の身の回りの殆ど全てのことは、彼が世話をしているのだ。いなくなったら何もできない、というわけではないだろうが、それでも、生活に難儀するのは間違いない。

「俺がいなくて、一日どうやってしのぐんです?」

 解せない顔をしている恭介の前で、静香は自信満々で頷いた。

「あなたがいらっしゃらない間は久枝ひさえさんにお世話していただくから、心配はご無用でしてよ」

「彼女もそんなに暇じゃないですよ」

 久枝とは古株の家政婦の名前だ。しかし、彼女にも仕事がある。一日中静香のお守りを押し付けておくわけにもいくまい。

 渋い顔を崩さない恭介に、静香は少し困ったように眉根を寄せて首をかしげた。

「武藤? わたくしでも、多少の身の回りのことは自分でできましてよ? あなたが来られる前は、少しの間とはいえ、独りで過ごしておりましたから。それに、お休みの日ですもの。問題はございませんわ」

「しかしですね……」

 更に言い募ろうとした恭介を静香が遮る。会話の最中はまどろっこしいまでに相手の言葉をきちんと聞く静香において、それは滅多にないことだ。

「存外に心配性ですこと。いいからお休みになって。これは決定事項です」

 やんわりとした声だが、それは有無を言わせない『命令』だった。

「……承知しました……」

 そうして、恭介は、働き始めてから初の『休暇』をいただくことになったのである。


   *


 平素の恭介の朝は早い。

 静香を朝の六時には起こさないといけないから、その一時間前には起床する。

 五時に起きて自身の身支度を整えると、次は静香の登校の準備だ。制服を用意し、朝食のテーブルを整える。そしてその日の予定を再確認し、彼女の部屋に向かう。世話のないことに、カーテンを開けた段階で目を覚ましてくれるので、そこはさほど手間取ることはない。

 静香がおっとりと朝食を摂る間にその日の予定を読み上げ、食べ終わったら車へ。

 ――その諸々がない今日は、気がついたら昼も間近な11時だった。

 目覚まし時計のアラームは、多分鳴ったのだろう――鳴ったはずだ。スヌーズが切れてしまったのか、あるいは無自覚のうちに彼が止めてしまったのかは判らないが、覚醒させる役割を果たしてくれなかったことは、明らかだ。

 少々違和感のある天井を、恭介は寝ぼけ眼でぼんやりと見上げる。

 綾小路家で働き始めてからはあちらに住み込んでいるのだが、恭介は昨晩遅くのうちに移動し、今は実家のベッドの上だった。20年間過ごした部屋も、5年使わずにいるとどこか自分のものではないように感じられる。

 しかし、寝坊など、随分と久しぶりの事だった。

 自分ではそのつもりはなかったが、やはり、気が緩むらしい。

 ふと気付くと何やら腹の上が重苦しく、視線を向けてみるとよわい10年にはなる武藤家の飼い猫シロが、そのでっぷりとした体を長々と伸ばして横たわっていた。自然と目が覚めたのは、もしかしたらこいつのせいかもしれない。

 恭介が体を起こすと、シロは全く目覚める気配なく、ゴロリと転がっていく。

「あぁ……くそ。寝過ごした……」

 ボヤキながら、パジャマにしているTシャツとスウェットパンツのまま、恭介は寝癖の付いた頭を掻きつつリビングに向かう。

「おそよう」

 生あくびを噛み殺しながらリビングの暖簾のれんをくぐった恭介にそう声をかけてきたのは、母の美恵みえだ。看護師をしているが、今日は恭介同様休みで家にいる。

「ああ……おは――」

 ――よう。

 そう続けかけた恭介の口は、『は』の形で固まった。

 上機嫌でヒラヒラと手を振る美恵の隣――そこには、恭介の眼にはよく馴染んだ、けれどもこの家のダイニングには全く馴染んでいない、姿があった。

「お……じょう、サマ……?」

「ごきげんよう、武藤。よくお休みになれまして?」

 寝起きの恭介の頭からすっきりと眠気を吹き飛ばす笑みを浮かべながら、静香はごくごく自然にそう問うてくる――まるで綾小路家の食堂にいるかのように。

 見慣れた笑顔が夢ではなく現実のものなのだと認識するまでに、たっぷり十秒間は費やす。

 そして、我に返った恭介は、至極当然の質問を口にした。

 すなわち――

「何でここにいるんですか?」

 と、すかさずテーブルの上に置かれていた塩の小瓶が飛んでくる。的確に顔面を狙ってきたそれをとっさに受け止め、投げつけた相手を睨みつけた。

「ちょ、何だよ!」

「やかましい! せっかく来てくれたこんな可愛い子に向かって、その言い草は何だい」

 言いながら、美恵はグリグリと静香の頭を撫でている。彼女の繊細な髪の毛が鳥の巣のようになるのも意に介さずに。

「やめろって。絡まるだろう」

 母親の手をつかんで持ち上げ、捨てる。幸いにして、くしゃくしゃになった黒髪はリカバリ可能なレベルだった。

 恭介は毛先のもつれからほぐし始め、手櫛を使って丁寧に整えてやる。

 ついつい甲斐甲斐しく世話を焼いてしまう息子の姿にニヤつきながら、美恵がため息をついた。

「ああ、女の子が欲しかったのに、出てきたのはこんなに目つきの悪いのでさぁ。しかもどんどんでかくなるし」

 彼女はそう嘆いたが、この母親から出てくる娘が繊細で可憐な少女になるとは、とうてい恭介には思えなかった。

 『これ』と同じものが二体になるのか、と恐ろしいことを想像してしまい密かに身を震わせた恭介の横で、わざとらしいため息をつく美恵。

 彼女の言葉に、静香が少し身を乗り出すように前かがみになった。テーブルの上に置かれている何かを覗き込んだようだ。

「ですが、こちらはとてもお可愛らしくていらっしゃいます」

 言いながら、静香が右手を伸ばし、その何かをいじる。恭介は彼女の肩越しに何気なくそこを覗き込み、そして、思わず声を上げた。

「ちょ、何見てんだよ!?」

 とっさに手を伸ばしてそれを取り上げようとしたが、美恵の手がいち早く遠ざける。

 テーブルの上にあったのは、タブレット端末だ。

 そのタブレットのスクリーンに映し出されていたのは、真ん中に堂々たる地図を描いて天日に干された布団と、その前で何故か得意げにピースサインをしている子どもの姿。その子どもは、見間違えようもなく、恭介自身だった。

「これはね、こいつが最後におねしょした時の写真。確か、四歳だったかなぁ。まだ、うちの旦那も生きててね、おねしょするたんびに、証拠写真だって言って撮ってたんだ。大きくなって偉そうな口をきいた時に見せてやるんだって」

「ユニークなお父様ですこと」

 恭介は当然のことながら、そんなことは覚えていない。きっと、うまく父親にノせられて、ピースをさせられていたに違いない。父親が交通事故で死んだのは恭介が小学校に上がったばかりの頃のことで、もうおぼろげな記憶しか残っていないが、それでも、この母親にふさわしい、独特な思考回路をした男だったことだけは覚えている。

「そんなの取っておくなよ、さっさと消せって」

「チッ、しょうがないなぁ。ほら」

「……やけにあっさりしてるな」

 怪訝に思ってそう口にした恭介に、美恵はにんまりと笑みを浮かべる。

「ん? だって、パソコンと外付けハードディスクとCDにちゃんと保存してあるし」

 呆気に取られている恭介を無視して、美恵は静香に向かって「今度来た時にはもっといい写真見せてやるから、楽しみにしておきな」と、得意げにほざいている。

 がっくりとテーブルに両手を突いた恭介に、ほんわりとした静香の声が届けられた。

「とても朗らかなお母様でいらっしゃるのね」

 朗らか――そんな素晴らしい言葉で表していいものなのだろうか。

 確かに、父親を早くに亡くしたという境遇で、母のこの能天気な性格に随分助けられてはきたが、トータルで考えてみると、救われた部分よりも引っ掻き回されたことの方が多かったのだ。

 20年以上を一緒に過ごしてきて、恭介は未だにその御し方を学べていない。

「こちらの方は、お父様でいらっしゃいますの? 恭介様によく似ておられますこと」

 不意に耳に届いた静香のその声で呼ばれた自分の名前に、一瞬ドキリとして恭介は顔を上げる。

 名を呼ばれたのは、初めてだ。

 奇妙な胸のざわつきを抱えながら視線を移すと、静香と美恵は、恭介のことなど気にも留めずに再びタブレットを覗き込んでいる。

 恭介『様』。

 美恵への問いかけだったから、そう呼んだのだろう。だが、苗字での呼びかけよりも、どこか他人行儀な気がした。

 ――実際、他人なのだから、他人行儀なのは当たり前だ。それのどこが悪い?

 不可解な戸惑いを覚える恭介の前で、熱心な眼差しでスクリーンを見つめている静香に、美恵が得意げに胸を張っている。

「そう、いい男だろ? 恭介が産まれてきてさぁ、パッと見た時にあんまりそっくりだったから、大笑いしたもんだよ。こりゃ、父子だって、一目で判るって」

「本当に……目が、同じですわ」

「こんな、人の十や二十は殺してるぜって目ぇしてるくせに、もう、やっさしいヤツだったんだよね。未だに、あたしはコイツ以上の男に出会ったことはないよ」

「ふふ、素敵ですわ。わたくしもそのようなお相手と、共にありたいと存じます」

「あはは、手に入るといいねぇ。頑張りなよ?」

「はい」

 そう言い交わし、二人は微笑み合っている。

 何やら妙に通じ合っているように見える静香と美恵に、恭介は眉根を寄せた。自分がいないうちに、いったい、どれだけ話し込んでいたのだろう。

 深窓のご令嬢と上品さの欠片もない母親は、意外に気が合ったらしい。

 なんだかイヤなカップリングだとげんなりしながら、恭介は無言でテーブルを離れる。

 リビングの戸口をくぐりかけたところで、声がかかった。

「武藤、どちらへ?」

「ちょっと、着替えてきますよ」

「そう。お待ちしておりますわ」

 微笑んでそう言った静香に目で頷いて再び出て行こうとした恭介に、今度は美恵から声がかかる。

「ああ、あんた、汗臭いからついでにちょっとシャワー浴びてきなよ」

「え?」

 自分では気づかなかったが、そうなのだろうか。

 静香はいつも通りに微笑んでいるが、思わず恭介は腕を上げて臭いをかぐ。そんな彼に、美恵は犬を追うようにシッシッと手を振った。

「いいから、さっさと行きなって」

 真っ直ぐに向けられた静香の笑顔に見送られながら、殆ど追い立てられるように、恭介はその場を後にした。


   *


 シャワーを浴びて自室に戻った恭介は、被ったタオルでガシガシと髪の水気を取る。頭を拭き終わったタオルをばさりとベッドに放り投げると、巻き起こった微かな風に、シロが迷惑そうにクルリと寝返りを打った。

「まったく、あの人は何を考えてるんだか」

 唐突に休暇を言い渡し、唐突に家まで押し掛けてくるとは。

 静香は、確かに学校の成績は惨憺さんたんたるものだが、決して頭が悪いわけではない。

 というより、むしろ聡い方だ。

 日本語だけでなく、英・仏・独・伊・中の計六か国語をネイティブのように繰ることができるし、人の機微を読み取るのも、まるで心が読めるかのようだ。

 通知表の評価が低いのは本人が必要ないと考えているからやらないだけであって、彼女がやろうと思えば難なくクリアできる。

 まるで剣豪が相手の太刀筋を見切るようにいつもいつも芸術的なほどギリギリな成績で必ず進級できているのが、その証なのだろう。

 いくらお嬢様学校でも、本当に箸にも棒にも引っかからないような状態だったら、流石に留年あるいは退学させる筈だ。

 そのよく巡る小さな頭の中でいったい何を考えているのか、恭介にはさっぱり理解不能だった。

 取り敢えずは手早く身支度を整え、階下に向かう。

 と、部屋のドアを開けた瞬間、ふわりと甘い香りが漂ってきた。

 恭介がそれに気づくと同時に、チリン、と小さな鈴の音が響く。

 振り返って見ると、シロが鼻先を上げてフンフンと空気を嗅いでいる。かと思ったら、普段は怠惰なデブネコは、その図体に似合わないしなやかな動きでベッドから降りると、恭介の足の間をすり抜けていく。

「まったく……」

 だから、太るのだ。

 半ば呆れながら、恭介もチリン、チリンと鈴の音を鳴らすシロに続いて階段を下りた。

 甘く香ばしい匂いは、次第に強くなる。

 ダイニングに舞い戻った彼は、テーブルの上に並べられたものを見て、目を丸くした。

「何ですか、これ?」

 間が抜けた恭介の質問に、静香と美恵が顔を見合わせた。答えたのは、美恵である。

「見りゃ判るだろ?」

 確かに、モノは判る。解らないのは、何故、それがあるのか、だ。

「まま、いいじゃんか。ちょうど昼食時だし、ほら、さっさと食べなって。バターが冷めちゃうよ」

 言いながら、美恵がコーヒーを注いで並べる――五段重ねのホットケーキが載せられた皿の隣に。

 ――何で、ホットケーキ……。

 一見強面で実は甘党な恭介にとっては嬉しいことではあるが、もう、ここ何年も――三度の食事を綾小路家でいただくようになってから――ホットケーキなどという代物にはお目にかかってもいない。

 訳が分からないままに椅子に腰を下ろした恭介は、我が身に注がれる女性陣の視線に気まずさを覚えながらもナイフとフォークを手に取った。

 ナイフを入れると、ジュワリと微かな音がたつ。

 まだ熱く、溶けたバターとメープルシロップの独特の風味が、ふわふわのケーキによく染み込んでいる。

 普通に、美味い。

 黙々とホットケーキを口に運ぶ恭介に、焦れたように美恵がテーブルを指先で叩いた。

「ちょっと、あんた。何か言ったらどうなの?」

「何かって、何だよ」

 手を止めて、恭介は美恵の苦情に答える。いつも、食事の感想など訊いてきたことなどないのだが。

「そんなの、言わなくても判るだろ? おいしいとか、素晴らしいとか!」

 怪訝そうに眉間に深いしわを刻んだ恭介に、美恵はため息をつきつつじれったそうに言った。訳が分からないまま、彼は答える。

「ああ、普通に美味いよ」

 恭介の短いその一言に、美恵の眉がビリリと吊り上る。

「この、朴念仁!」

 母親がいったい何に対してイラついているのか、恭介にはさっぱり理解不能だった。そんな美恵の隣で、静香はクスクスと忍び笑いを漏らしている。

「でも、お母様、とてもおいしそうに召し上がってらっしゃいましてよ?」

「まあ、そうだけどさ。やっぱり、言葉で返して欲しいじゃないの」

 鼻息も荒い美恵に、静香は少し困ったように首をかしげて微笑んでいる。

 と。

 チリン。

 下の方から、鈴の音が響く。

 どうやら、放っておかれたシロが、しびれを切らしたらしい。

 足元を覗き込めば、静香といつも餌をくれる美恵の間に、その巨体をデンと据えていた。

「まあ……お可愛らしいこと」

 言いながら、静香が手を伸ばす。前足の脇に手を差し入れて、抱き上げようとし――上半身がわずかに上がったところで止まった。

「あら?」

 7キロを超える図体は、どうやら彼女の手には余ったらしい。

 静香はデブ猫をそっと床に戻すと、丸々と太った背中を撫でる。

 ご満悦そうに喉をゴロゴロ鳴らす音が、恭介のところまで聞こえてきた。いつもはふてぶてしいデブ猫が、心地良さそうに目を細めて、静香の手に頭をこすりつけている。

「ふふ、柔らかい」

 まさに借りてきた猫といった風情のシロを半ば呆れながら眺めていた恭介だったが、ふと目に付いたものに眉を潜めた。

「お嬢サマ、それは……?」

 シロを撫でる静香の手の甲にあるもの。

 直径5ミリほどの、水ぶくれ。

 恭介は椅子から立ち上がり、彼女のその手を取る。

「これ、どうしたんです?」

 彼女はすぐには何のことか解らなかったのか、ゆっくりと目を瞬いた。そして軽く首をかしげて自分の手に目を落とすと、「ああ」というように小さく頷く。

「油が跳びましたの」

「油!? 何で……って、まさか、あれ……?」

 思わず恭介は空になった皿を振り返る。その様に、美恵が頭の後ろで腕を組んで声を上げた。

「全く、察しが悪いなぁ。判るだろう、普通」

 ――判るか。

 まさか、茶一つ自分ではれたことのない静香が『料理』をしようとは、ほんのわずかも考えが及ばなかった。

 呆れたような美恵を無視し、恭介は身を翻して救急箱を取りに行く。

「ほら、手を出してくださいよ」

 戻ってきた恭介はそう言いながら促したが、どうしても声が無愛想になってしまう。

 彼の手の上に置かれた静香のそれは、自分と同じヒトという種のものとは思えない代物だ。指先はマシュマロか何かのように柔らかく、薄い皮膚はあるのかないのかわからない。

 恭介はその甲にある水疱を熱した針で軽く突き、皮が破れてしまわないように清潔なガーゼをそっと押し当てた。静香はその恭介の一連の動作を物珍しそうにジッと見つめている。

「痛くないんですか……?」

「ええ、まったく。ありがとう」

 抗生剤入りの軟膏を塗り、大きめの絆創膏で保護をすると、その手を放す。

「でも、何だってまた、料理なんて思いついたんです? 湯も沸かしたことが無いじゃないですか」

 心底からの疑問だった。だが、そう問いかけた恭介の後頭部をスパンという小気味良い音と共に衝撃が見舞う。

「おい! 何すんだよ!?」

 彼は、スリッパを手にした母親を振り返り、食って掛かる。そのスリッパがどんな役割を果たしたのかは、言わずもがな、だ。

 美恵は再びそれを履き直しながら、溜息をついた。

「まったく、そういう鈍いところは、アイツそっくり!」

「鈍いって、何が!」

 この母親の手が早いのは子どもの頃からのことだが、流石にはたかれるのは久し振りのことだ。しかも静香の前でときたら、自然、恭介もヒートアップしていく。

「鈍いから鈍いって言ってるんだろ」

「ナンなんだよ、まったく、この暴力女!」

 つい、普段と変わらずやり取りしてしまった恭介の腕に、そっと触れるものがあった。そちらに顔を向けると、優しげに微笑んだ静香と、目が合う。

「お母様にそのような言い方、よろしいこととは存じませんことよ?」

「しかしですね……」

「武藤」

 彼の反論を、静香は笑んだまま穏やかにその名を呼ぶことで封じる。

「……スミマセン。口が過ぎました」

「お母様にね?」

 ニッコリと、口元の笑みを深くしながら、静香。

「悪かった」

 ニヤニヤしながら恭介と静香のやり取りを見ている美恵に、彼はイラッとしながらも頭を下げる。

 母親は鷹揚に頷いて、肩をすくめた。

「まあ、仕方ないよね、自分の誕生日も忘れちゃうようなヤツだし」

「誕生日……? ……あ」

 言われて初めて、思い出す。そういえば、三日前に26歳を迎えたのだ。

「これ、ソレなんですか……?」

 尋ねた恭介に、静香は軽く首をかしげて頷いた。

「武藤は甘いものがお好きでしょう? お茶の時、美味しそうに召し上がっていますもの。いつもお手を煩わせていますから、今日はわたくしが何かして差し上げたいと思いましたの」

 恭介は、言葉に詰まる。静香の『初めての料理』が自分の為に作られたものだと思うと、妙に胸がざわついた。

「武藤」

 眉をしかめた恭介に、静香が怪訝な顔をする。

「いや、何でもないです。美味しかったですよ、ありがとうございます。自分の誕生日なんて、すっかり忘れてました」

「ふふ」

 そう言って恭介が軽く頭を下げると、静香は、嬉しそうに目を細めた。そして、立ち上がる。

「では、そろそろお暇いたしますわ。美恵様、今日は楽しゅうございました。今後とも、よろしくお願い申し上げます」

「こちらこそ!」

 優雅に腰を折って一礼した静香の頭を、美恵は手を伸ばして、またくしゃくしゃにする。

「いつでも遊びに来なよ。また、面白い写真用意しておくから」

「まあ、それは楽しみですこと」

 美恵がニッカリと笑って言うのへ、静香は目を輝かせた。

 面白い写真とやらのネタは自分の事なのだろうということは明らかで、恭介は苦虫を噛み潰した顔になる。どうやら、彼が起きてくるまでの間に友好を深める時間をたっぷりと与えてしまったようだった。

「……俺も帰りますから、ちょっと待っててください」

「武藤も? まだゆっくりなさっていてもよろしくてよ?」

「充分休みましたから」

「そう?」

 答えた静香がどことなく嬉しそうに見えたのは、自分の気の所為だろうか。

「じゃあ、荷物取ってきますので」

 美恵と静香を二人きりにするとまた何を吹き込まれるのか判ったものではなかったが、恭介はその場を後にして自室に向かう。

 手早く部屋を片付けて財布やら携帯電話やらをポケットに詰めると、さっさと階下に戻った。女性二人はダイニングに現れた恭介を見て、何やら含みありげに笑みを交わす。

「じゃあ、そういうことでね。よろしく頼むよ。あたしも楽しみ!」

 いったい何の話をしていたのか、気になって仕方がない。仕方がないが、恭介は先に立って玄関へ向かう。

「行きますよ」

「では、美恵様、ごめんくださいませ」

「またね!」

 最後にもう一度静香は美恵に向かって丁寧に頭を下げると、恭介と共に武藤家を後にした。


   *


 綾小路家へ向かう車の中。

 恭介はチラリと隣の静香へ視線を流し、口を開いた。

「母とはえらく会話が弾んだようですね」

 その『会話』の中身を漏らすように水を向けてみたが、静香はさらりと頷いただけだった。

「ええ、とても楽しく時間を過ごさせていただきました。朗らかで素敵なお母様ですこと」

 その朗らか過ぎるところを恭介はしばしば持て余すのだが、たまに会う分には面白い人間で済むのかもしれない。

 おっとりふんわりしたみやびを母に持つ静香からしてみれば、さぞかし新鮮だったに違いない。

 静香の美恵への賞賛の言葉は聞き流し、遠回しに探りを入れたのではのらりくらりとかわされると悟った恭介は、ズバリと切り込んだ。

「うちの母親と、何を話ししたんです?」

「まあ。それは、女性同士の内緒のお話でしてよ?」

 あでやかに笑って、スパンと一蹴。

 恭介は更に問いかけようと口を開けかけて、やめる。

 内心を悟らせない微笑みでガードした静香からこれ以上聞き出すのは、不可能なのだ。

 この上なく気になりつつも、恭介は撤退する。

 諦めて窓の外へと視線を流した恭介は、静香が自分を見つめて笑みを深くしたことに、気が付かなかった。


 明日からは、また、いつもと同じ毎日が始まるのである。


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