6月の憂鬱
六月に入ってから降り続いている雨は、今日も庭木の緑を深くしていた。
午前のお茶の準備を整えた恭介は、静香の姿を捜して部屋部屋を覗いて回る。
彼女が休日の日中に好んで時間を過ごすのは、自室か図書室、あるいは温室だ。温室に行くには庭を通らなくてはならない。この雨の中、わざわざ外に出て行くとも思えず、恭介は、まずは屋敷の中を巡ってみることを選択した。
自室――いない。
図書室――
「いないな……温室なのか?」
予想に反して自室と図書室のどちらにも見当たらず、呟いた恭介は温室を目指す。
庭に面した廊下に出ると、ザアッと、砂を転がすような音に気付かされた。
明け方は霧雨だったが、今は随分と雨音が耳に付き始めている。
足早に廊下を歩いていた恭介はその音に引かれてふと庭へと視線を流し、次の瞬間、自分のその目を疑った。
雨滴がけぶらせる窓の外、屋根のない、樹の枝すら差し掛けていない野晒しの庭の小道に、屋敷に背を向けて少し空を仰ぐようにして佇んでいる姿がある。
――それが自分の主であることは、疑いようがなかった。
遠目にも、彼女の烏の濡れ羽色の髪がまさに濡れそぼっているのが見て取れる。
「何、やってんだ……?」
呟きながらも恭介は身を翻し、駆け出した。途中で浴室に寄ってバスタオルを引っ張り出すのを忘れずに。
*
窓から見えた場所に恭介が着いた時、静香はまだそこにいた。一歩たりとも動いた様子はない。
彼女がどこかに行くつもりでそこに立っているわけではなく、何らかの意図を持って留まっているのだということは、たいして頭を働かせなくても判った。
「ちょっと、お嬢サマ、こんなとこで何やってるんですか」
恭介の呼びかけに静香はゆっくりと振り返り、彼の姿を認めて花開くように微笑んだ。曇天でくすんだ庭が、一瞬、明るくなったように感じられて、思わず彼は目を瞬かせる。
髪の先から雫を滴らせているというのに、静香はまるで気にしていない。爽やかな晴天の下で、心地よい日差しを楽しんでいるかのようだ。
「まあ、武藤」
「まあ、じゃないですよ。びしょ濡れじゃないですか。ほら、屋敷に戻りますよ。六月ったってこんな天気じゃ気温は低いんですから」
ふと触れた静香の頬は、すっかり熱を失っている。
「……冷えきってんじゃないですか。風呂の用意をしますから、入っちゃってくださいよ」
傘の柄を顎に挟んだ恭介はバスタオルを彼女の頭に被せ、屋敷へ促しながらぶつぶつとそう言い聞かせる。
さしたるこだわりはなかったのか、彼女は特に拒むことなく、素直に恭介に従った。だが、常と変らぬおっとりした歩みはカタツムリのようで、彼はいっそ肩に担ぎ上げてしまいたくなる。が、流石にそれはできないので、ジリジリしながら精一杯の速度で急き立てた。
屋内に戻った恭介は、風呂が沸きあがるまでの間、取り敢えず大判のタオルで丁寧に静香の髪を乾かし始めた。
彼女の髪はストレートだが細いので、うっかりすると絡まってしまう。
ここで働き始めた頃、つい自分の髪と同じように扱ってしまってえらく難儀したのは、色褪せない記憶だ。
――今では、もう、すっかり手馴れたものだが。
「まったく……何考えてんですか」
小言を口にしながらも、丁寧に、だが手早く髪の水気を取る恭介の耳に、タオルの下から小さな笑い声が届く。
「ふふ。雨が、懐かしくて」
「え?」
「しばらく雨に濡れるというものを経験していなかったから、思い出したくなってしまったの」
「そんな経験、しないに越したことはないでしょう」
呆れながらそう答え、恭介はその言葉の裏にあるものに気付く。
しばらく、ということは、以前に濡れたことがあるということか。
だが、彼が来てから、そんな目に遭わせた記憶はない。となると、自分が居付く前のことだ。
――こんなお嬢が、雨に濡れることなんてあるのか……?
いったい、何をしでかしたのだろうかと首を捻りながら、タオルの隙間から見え隠れする彼女を見下ろす。少し髪が乱れた彼女の顔は、いつもよりも幼く見えた。
その顔に、ふっと恭介の脳裏に何かがよぎる。だが、陽炎のように不確かなそれは、ほんの一瞬で消え失せた。
「どうかして?」
彼の手が止まったことに気付いた静香が、そっとタオルを掻き分けて見上げてくる。髪が濡れているせいかいつもよりも目が大きく見えて、仔猫のようだと思いながら、恭介はバスタオルを取り去ると肩を竦めた。
「いや……何でも……そろそろ風呂が準備できた頃ですよ。バスルームに行ってください」
「――そうさせていただきますわ。あなたも随分濡れてらっしゃること。早くお着替えになってね?」
そう答えた静香はスルリと恭介の手の中から抜け出すと、彼の横をすり抜けて浴室へと脚を向ける。その背中を見送って、彼は手の中に残ったタオルを何となく弄んだ。
*
風呂から上がった静香の髪を、恭介はドライヤーで乾かしていく。指の間からサラサラと零れていく黒髪はしなやかで柔らかく、『絹糸のような髪』とはこういうもののことをいうのだろう、と恭介はつくづく思う。
外では雨が降りしきり、分厚い音のカーテンがかかっているようだ。部屋の中には、ドライヤーのモーター音だけが響いている。
「ねえ、武藤?」
おとなしく恭介の手に身を任せていた静香が、不意にその名を呼んだ。
「何ですか?」
手を止めることなく、恭介は問い返す。続いた彼女の声は、歌うように滑らかだ。
「……わたくし、雨の日が好きでしてよ。こうやって、雨の日にガラス越しで外を見ていると、世界には他に誰もいないような気がしてこなくて? 世界には、わたくしと……あなたの二人きり」
静香の背後に立つ恭介には、彼女が今どんな表情をしているのかはわからない――彼女がその言葉の裏で、何を考えているのかも。
恭介は無言で受け流すと、ドライヤーのスウィッチを切った。彼女の髪をサラリと掬い取り、乾ききったことを確認する。癖のないそれは、呆気なく彼の手を滑り落ちていった。
――本当に世界で二人きりなら、こうやって触れることにためらいを覚えることは、ないだろうに。
ふとそんな考えが頭をよぎり、恭介はそれを振り払うように口を開く。
「雨になんて、いつ、濡れたんですか?」
「え?」
唐突な恭介の問いに、静香は珍しくいぶかしげに眉をひそめた。
「しばらく濡れていなかったら、と言ったでしょう、さっき? 前に濡れたのは、何でそんなことになったんですか?」
そう促され、静香は軽く首をかしげた。そして、「ああ」と小さく声を漏らしてクスリと笑う。
「わたくしがまだ幼い頃に、お屋敷をこっそり抜け出したことがありましたの」
「抜け出したって、何だってまた、そんなことを……」
「わたくしも、子どもでしたから。少々困ったことが起きてしまいまして、考えあぐねて、つい。今思えば、お父様や他のどなたかにご相談申し上げれば良かったのですけれど、その時は思い至りませんでしたの」
そこで、彼女は何を思い出したのか、ふふ、と小さく笑いを漏らした。そして肩越しに振り返って恭介を見上げながら、この上なく幸せそうに顔をほころばせる。
「その時に、わたくしはとても素敵な方にお会いしましたわ」
――ステキな方? ……男なのか……?
眉をしかめた恭介に気付いたのか、気付いていないのか、静香は微笑を残したままで続ける。
「とてもお優しくていらっしゃって、困っていたわたくしを助けて下さいました」
「困っていたって、何があったんです?」
恭介の問いに、彼女が軽く頭を傾けた。その仕草で、サラリと髪が揺れる。
「お庭に、仔猫が迷い込んできましたの」
「猫?」
「ええ。小さくて、白くて、とてもお可愛らしい仔猫でしたわ。でも、武藤もご存じでしょう? お母様は動物にアレルギーがおありですから、ここでお世話することができなくて。あの時も今と同じようなお天気で、あんなに震えている仔猫を雨の中に放っておくこともできなくて、どうしようかと考えているうちに、気付いたら、お屋敷から外に出てしまっていたの」
「よく出られましたね」
何年前のことなのかは判らないが、それでも、警備はそれなりに厳しかった筈だ。そう簡単に抜け出せるものではないだろう。
感心と呆れが混じった声で言った恭介を見上げて、静香はイタズラっぽく目を細めた。
「ふふ。ここはわたくしの『お家』でしてよ」
「警備の穴を知っていて、黙っていたんですか?」
彼女の目が、キラリと光る。それを目にした恭介は、その『穴』が未だに残っているのかどうなのかは知らないが、一度全部洗い直しておかなければと心の中のメモに書き留めた。
そんな彼の心中など知らずに、静香が続ける。
「ちょうど、今頃の季節でしたわ。わたくしが仔猫を抱いてお店の軒先に立っておりましたら、その方が声をかけてくださいましたの」
「……男でしたか?」
「ええ。とてもお優しい殿方で、もう陽が落ちるから早く帰るようにとおっしゃって。見ず知らずの子どもに、そんな心配をなさるような方でしたわ。そして、もうわたくしは随分と濡れてしまっていたのに、ご自身の傘をお貸しくださいました」
静香が、それを懐かしむように微笑む。
そう言えば、静香の部屋には一本の黒いこうもり傘がある。以前見かけた時に、何でこんなものが、と思ったが、そういう曰くがあったのか。
しかし。
――ちょっと待てよ、どんな下心があるか判ったもんじゃないだろう。
恭介は声に出さずにそう毒づいた。
その時の静香が何歳だったかは知らないが、今の彼女を鑑みるに、年齢には関わらず、きっと人目を引く容貌だったに違いない。そんなのが独りでポツンと立っていれば、そのケがない野郎でも、多かれ少なかれ気を引かれる。
それなのに、声を掛けられてホイホイ応えてしまうとは。
やきもきする恭介をよそに、彼女が続ける。
「わたくしが仔猫のことをお話ししましたら、では、自分が引き取るから、とおっしゃってくださいましたの」
その頃のことを思い出しているのか、静香は少し遠い眼差しで笑みを深くした。それは、ただ、懐かしんでいるだけではないような気がする。
彼女の目の中に浮かんだ色に、恭介の胸の内にはジリジリと炙られるような感覚が湧き上がる。
「で、猫を渡してそれっきり?」
「ええ」
「へえ……」
気の無い相槌を打ちながらも、何だか面白くない。『その男』が静香の中でどんな位置にいるのかは判らないが、誰かを想う時に彼女がこんな顔をするのは見たことがなかった。静香は誰に対しても人当たりが良いが、裏を返せば、特別に扱う相手もいなかったような気がする。
「その後すぐに護衛の方々に見つかって、お屋敷に連れ戻されてしまってよ。お父様にはひどく叱られましたの」
浮かべているのは苦笑だが、その思い出を話す静香は、とても幸せそうだった。
彼女が幸せなのであれば、それは歓迎すべきことだ。その筈なのだが、恭介には何かモヤモヤとしたものが残った。
最後に彼女の髪をすくって、わずかな湿り気も無いことを確認する。
「髪、乾きましたから、お茶の準備をしてきます」
恭介は、それだけ残して、部屋を後にした。
*
厨房を目指して廊下を歩いていると、角を曲がって元が姿を現した。彼は恭介の全身を一瞥して、フンと鼻を鳴らす。
「おう、どうした色男。濡れてんじゃねぇか」
指摘されて、恭介は自分の服や髪が湿っていることに気が付く。そう言えば、着替えるのを忘れていた。とは言え、水気は失せており、パッと見たところでは判らない筈だ。相変わらずの元の目ざとさに感心する。
「見苦しくてすいません。ちょっと庭に出たもので」
小さく頭を下げた恭介に、元が眉を上げる。
「こんな天気に何やってんだ」
「静香サンですよ。何でか、傘も差さずに庭に出ていて」
「あいつが?」
「しばらく振りに濡れたくなったとか、何とか」
恭介の台詞に、元が何やら奇妙な顔になる。これは……
――何か、怒らせるようなことを言ったか、俺?
元のごついこめかみには微かとは言え確かに青筋が立っており、口元はブツブツと呟きを刻んでいる。恭介は、耳を澄ませてその声を拾おうと試みた。
――『運命の人』? 何だ、それ? 『探し出した』? 何を? 『親子揃って一目惚れ』……? 誰のことだ?
辛うじて漏れ聞こえてきた細切れの言葉は、全く要領を得ない。とにかく、誰かを呪い殺しそうな元の雰囲気に、そのまま呟かせておくのも気味が悪く、恭介は早々に口を挟むことにする。ちょうどネタがあって、助かった。
「ところで、ちょっと気になることがあるんですが」
「何だ?」
パッと表情を改めて、元が問い返してくる。切り替えの早いのは、彼のいいところだ。どうやら、正気に戻ってくれたらしい。
「この家の警備なんですけど、穴とか無いでしょうね?」
「ああ? 昔、静香が抜け出したってヤツか? あれ以来、定期的にチェックしてるさ」
「なら、いいんですが……」
肩を竦めた恭介だったが、ギロリと見据えてきた元の目つきに身じろぎする。元は頭半分ほど恭介よりも背が低いのだが、彼の全身から発する気迫というもののせいだろうか、対峙すると逆に見下ろされているような気がしてくるのだ。
グッと顎を引いた恭介に、元が何ごとかを問うてくる。
「で?」
「はい?」
「他に、何か聞いたか?」
「何かって、何をです? 猫の話とか?」
「それだけか?」
要領を得ない、遠回しに探るような言葉は、元らしくない。怪訝な眼差しを向けてしまう恭介を彼はジッと見据えていたが、やがて一つ息を吐いた。
「まあ、いい。行けや。静香が待っとるんだろうが」
「……はい」
彼のその態度は奇妙だったが、静香を待たせている事も確かだ。
「では、失礼します」
小さく頭を下げてそう告げた恭介に、元はシッシと言わんばかりに片手を振って寄越した。
*
ウェッジウッドのティーポットにカップ。ティーポットからはアールグレイの香りが立ち昇っている。この時間はお茶請けがないので、静香は蜂蜜を多めに入れるのを好むのだ。
もう一度準備し直したそれらを載せた盆を手に、恭介は静香がいる部屋の扉をノックした。が、返事がない。
「?」
――また、どこかに行ってしまったのだろうか?
怪訝に思いながらも、恭介は扉を押し開いた。
部屋の中に足を踏み入れてグルリと見渡せば、窓の方を向くようにして椅子が置き直されており、その背もたれからは小さな頭が覗いていた。ドアの開く音は聞こえただろうに、彼女は微動だにしない。
恭介は盆をテーブルに置き、静香の前に回った。彼女は軽く頭をかしげていて、その目蓋は下ろされている。
「――お嬢サマ?」
そっと声を掛けてみたが、規則的で穏やかな呼吸は変わらない。
雨は変わらず降りしきり、サアッという微かな音だけが部屋の中に届くのみ。彼女の言葉を借りるならば、「世界に二人きり」のようだった。
滑らかな白い頬には、濃い睫毛が影を落としている。それは精巧なビスクドールのようで、恭介は生身のものであることを忘れそうになった。いつの間にか自分の指先が彼女の頬に触れかけていることに気付き、思わずギュッとその手を握り込む。
「何やってんだよ」
自分に向けて罵りを呟き、恭介は小さく舌打ちを漏らす。
静香を起こそうとその肩に手を掛けたところで、思いとどまる。そのまま背中と膝裏に手を差し込み、抱き上げた。柔らかな重みが、両腕にかかる。
基本的に、静香が人前で『隙』を見せることはない。だから、こんなふうに彼女に触れることは、滅多にない。
記憶に残っていたものよりも随分とまろみを帯びたその感触に、恭介の腕はかすかに強張った。と、まるで彼の戸惑いが伝わったかのように小刻みに彼女の睫毛が震え、薄っすらと目蓋が開く。茫洋とした眼差しが恭介を捕らえて、微かに笑みが浮かんだ。その黒い輝きの中には、恭介の姿だけが映されている。
「……武藤?」
「寝てていいですよ」
恭介の言葉に静香は何か返したようだったが、唇が小さく動いただけで、声は彼に届くほどにはなっていなかった。彼女の目は再び目蓋の奥に隠され、恭介の両腕の中にある肢体から力が抜けたことが、微かに増した重みで察せられた。
軽く揺すって胸にもたれてくる頭を少しずらし、自然な位置に戻す。
続き部屋へのドアを開け、天蓋付の大きなベッドへ静香を下ろすと、流石に脱がせるわけにはいかず――着衣はそのままに羽根布団をかけた。風呂で温まったとは言え、あれだけ冷たい雨に打たれた後だ。しっかり休ませてやった方がいいだろう。
恭介は、少し迷って、ベッドの端に腰を下ろした。滑らかなスプリングはわずかな軋みもあげず、フワリと揺れる。
眠り続ける静香はいつもよりも幼く見えて、出会ったばかりの頃の彼女を彷彿させる。
『お仕事をお探しでしたら、わたくしのもとに就いてくださらないこと?』
長く仕えてきてくれた『お付の者』がもう随分といい年になってしまい、そろそろ引退させてやりたいから代わりの者を探していたのだと。
そう言ったのは、まだ13歳の少女だった。
たったの13歳だった彼女の微笑みに、一瞬――そう、ほんの一瞬だけ、その時20歳だった恭介は、目を奪われた。
――「『お付の者』って、なんだよ」というツッコミも、忘れて。
あれよあれよという間に屋敷に連れ込まれ、待たされ、何故か射殺しそうな目をした元と面接し、そして気づいた時には彼の『就職先』が決まっていたのだ。
そうやって、五年間。
この五年間の彼女であれば、多分、誰よりもよく知っている。
だが、それ以前のことは、殆ど知らなかった。
13歳からの静香を見てきたことで全ての彼女を承知しているつもりになっていたが、そうではないのかもしれない。もっとも、出会う前のことまで把握しておこうなどとは、土台無理な話なのだ。それは、解かっている。至極、当然のことだ。
――だが、何故かスッキリしない。
静香の寝顔を見ていたところで、何が判るわけでもない。幼い頃から彼女の中に存在し続けているかもしれない、誰かのことも。
「別に、どうでもいいことだろう? ……俺には、関係ないことだ」
聞かせる相手もおらずに、恭介はそう呟いた。
そうして静かに立ち上がり、もう一度静香を見下ろしたのち、部屋を後にする。それからは振り返ることはせずに、彼はゆっくりと、扉を閉ざした。