5月の迷路
5月のお話。
ある初夏の昼下がり。
武藤恭介は、彼が仕えている少女、静香の父であり由緒正しき旧華族綾小路家当主である綾小路元からようやく解放されて、玄関を出ると同時にホッとネクタイを緩めた。
時計を見てみれば、呼び出しを受けてから一時間ほどしか経っていない。しかし恭介の中ではその数倍にも感じられていた。
今日の元の用件はごくごく『普通』な内容で、特に緊張する必要はなかった筈なのだが、元からは常に無言のプレッシャーが発散されているような気がするのだ。
まったく、恭介の何がそれほど気に入らないのか。
彼は別に何もしていないのに、不意に射殺しそうな眼差しを向けてくるのは、止めて欲しい。
大事な大事な――それこそ、余裕で目の中にも入れられるほど大事な愛娘が、ある日突然見知らぬ男を連れてきて「傍に置く」と言い出したわけだから、元からしてみれば、未だに納得がいかないのかもしれない。だが、もう、五年も経っているのだ。
いい加減慣れろよ、とも思うし、何か言いたい事があるのならハッキリ言ってくれよと、溜息をつきたくもなる。
これから、あと何度こんなことがあるのだろうか。
その自問は、最近になって頓に増えたものだ。
いったい、いつまでこんな日々が続くのだろう、と。
実際のところ、この『仕事』はかなり特殊だ。果たしてこれが『職』として名乗っていい代物なのかも疑問である。
そもそも、何故自分は『真っ当な』仕事を求めようとしていないのか。こうやって自由になる時間もあるのだから、職探しをしようと思えば、できる筈だというのに。
タイムリミットが見え始めた頃から時折胸中をよぎるようになった幾つもの問いには、いつものように答えが出ないままだった。
そう、いずれそう遠くない未来に、恭介は静香のお守りから解放される。
それは、もう確定した、変えようのない事実だ。
綾小路家の一人娘として、彼女の結婚は義務とも言えることだし、彼女自身もそれを受け入れているだろう。
多分、婿を取ることになるのだろうが、それでも、こんな男が傍にいては夫となる者の気分は良くない筈だ。
静香が『誰か』を選んだその時、自分は、常に彼女の一番近くにあるこの立ち位置を、失うことになる。
仮にこの家にとどまったとしても、今のような関係のままではいられない。
――清々するじゃないか。
胸中でそう呟き、お仕えしているお嬢サマが最後の高校生活を送っている学校に向かう車の窓から、恭介はきれいに晴れ渡った五月の空を眺めやった。
*
五月になったばかりのある日、世間では『ゴールデンウィーク』と呼ばれる連休の、後半第一日目のことである。
恭介は渋面で――普段と殆ど変わらないが、よくよく見ると、眉間の皺がいつもよりも深い――主人を見下ろした。
「何でまた、急に公園なんて行く気になったんですか?」
それは、客観的にみても、至極当然の疑問だろう。
この屋敷の庭はヘタな公園よりも広く、庭木も美しく整えられている。グルリと回れば、充分に散歩を堪能できる。
それなのに、静香は唐突に言い出したのだ。
――公園に行ってみたい、と。
「先日、琴子様とお話していて、わたくしがあまり外を散策したことがないと申しましたら、一度覗いてみてはいかが、とおっしゃられましたの。『デート』の定番なのだから、と」
彼女は、恭介の反応を窺うように小さく首をかしげて見上げてくる。
琴子というのは静香が一番親しくしている高校の同級生で、やはり旧家のお嬢サマなのだが、静香よりもだいぶ世間慣れしている少女である。どうやら、先だってのバイト騒動も、この琴子の入れ知恵だったらしい。
まったく、余計なことをしてくれる。
舌打ちしたい内心を押し隠し、恭介は静香を見下ろし説得を試みた。
「連休中の公園なんて、家族連れやらカップルやらでうっとうしいだけですよ? この庭でいいじゃないですか」
「他の方々がいらっしゃる中を、歩いてみたくてよ」
柔らかく口元を綻ばせて静香はサラリと絹糸のような髪を揺らした。黒曜石のような瞳を輝かせて恭介を見つめてくる。
「しかし、ですね――」
その視線を一身に受けながらも眉根を寄せた恭介の頭の中で、午前中に元からもたらされた情報が再生される。
不穏なその内容故に、今は人混み――特に不特定多数の者がいる場所は避けたいところなのだが。
彼の心の中の懸念がどんなふうに外面に出ていたのかは判らない。判らないが、芳しいものでなかったことは明らかだ。
「わたくしと外を歩くことが、それほど、お嫌でして?」
色よい返事をしようとしない恭介に、下からにこやかな声がかけられる。視線を下ろしてみると、声にそぐった静香の笑みがあった。
それは、紛れもなく微笑である。
だが、しかし。
――やばい、怒らせた。
笑顔は笑顔でも、そこに微かに滲む色合いが、違う。
他の者では気付かないだろうが、まろやかかつ艶やかなその表情の裏にあるものが、恭介にははっきりと見て取れた。
これ以上の逡巡は、どうやら得策ではなさそうだ。
目の前の主人の不興と、起き得る可能性のある危険とを量りにかけた天秤は、ゆっくりと前者に傾く。
「わかりました……でも、後日でいいでしょう?」
「今日はこんなにお天気がよろしいのに?」
静香は、膨れっ面で言い放ったわけではない。目を心持ち見開いて、「あら、心外な」と言わんばかりに風情を見せるだけである。だが、それは、婉曲かつ明白な『拒絶』だった。
彼女には、「今日、これからの、公園での散歩」を譲るつもりはないらしい。
「……では、車を手配するので、ちょっと待っててください」
諦念に満ちた恭介の声だったが、その返事に静香がパッと笑顔になる。いつもの物静かな微笑ではなく、子どもが何かご褒美をもらった時のような、屈託のない笑い方だった。
――ええい、くそ。
恭介は、何に対してなのかが自分でもよく解かっていない罵りの声を、胸中であげる。
結局、彼女が時たま見せるこの顔に、負けるのだ。
そうして、独り呟くことになる。
もう、どうとでもしてやるさ、と。
*
選んだロケーションも悪かったのかもしれないが、案の定、公園は人目を気にせずいちゃついているバカップルや、アイスを持ったまま駆けずり回る子どもを放置した家族連れやらで溢れかえっていた。
最近の子どもは体格がいいから、下手に衝突すれば静香の方が転がされるだろう。子どもの動きというものは予測不能だし、目を光らせていてもガードしきれる自信がなかった。
恭介が就いてから静香にはかすり傷一つ負わせたことがないのだが、その記録が破られるかもしれない。
「だいたい、確かに公園はデートの定番ですが、そういうのは『そういう相手』と行くべきなんですよ。みんな容赦なくぶつかってきますから、気を付けてくださいよ?」
物珍しそうに辺りを見回す静香に、恭介はうんざりした口調を隠そうともせずそう告げる。その声音に、彼女はチラリと視線を上げてポソリと答えた。
「……承知いたしましたわ」
せっかく希望の場所に連れてきてやったのに、何だか不満そうだ。
本人に何が気に食わないのか尋ねても答えはしないだろうから、恭介は触らぬ神に祟りなし、とばかりに放っておいた。現状では、彼女のご機嫌を取るよりもその身の安全を保つ方が重要だ。
「じゃあ行きましょう」
静香を促し、歩き出す。
確かに、初夏の晴れ渡った青い空の下、緑溢れる木々の間を縫うのは心地良い。枝葉は豊かに茂り、直接浴びれば少し強いと感じるであろう陽射しを和らげてくれていた。確かに、大事な相手と歩くには最適な日だろう。
うっかりすると気が緩みそうになるのを、「これは仕事だ」と自分に活を入れる――その度に眉間の皺が深まっていくことに、恭介は全く気付いていなかった。
二人で肩を並べて歩いていると、通りすがりにチラチラと振り返る視線をイヤでも感じる。
極悪な目付きで周囲をねめ回している男といかにもお嬢様然とした清楚な少女という組み合わせは、さぞかし異様なことだろう。すれ違う人々が、二人のことをいったいどんな関係なのかと勘繰っているだろうことは、頭を使わなくても容易に察せられた。
「武藤?」
そこそこの距離を歩いた頃、不意に静香が彼の名を呼んだ。
「ナンですか?」
恭介は気もそぞろに生返事をする、が、続きが来ない。怪訝に思って見下ろしたが彼女の視線とかち合うことはなく、その桜色の唇はいつもよりも引き結ばれていた。
――何、ヘソ曲げてんだ……?
「お嬢サマ?」
先に声をかけたのは静香の方だろうに、呼びかけても、彼女は真っ直ぐ前を向いたままおっとりと歩き続けていた。その足取りは重みを感じさせない優雅さに溢れている。
しばらく待ってみたが、彼女は黙々と足を進めるだけだった。
返事を寄越さないのなら仕方がない。
普段は取り澄ましているが、静香もまだ子どもだ。最近、頓にこうやって意味不明の行動が増えているような気がしないこともないが、まあ、こういうムラ気は、年相応といえば相応なのだろう。少なくとも、恭介の記憶にある高校三年生の女子というものは、もっとキャンキャンしていたものだ。
両者無言のまま遊歩道を行き、やがてちょっとした噴水のある広場へと辿り着いた。
「疲れてませんか? ちょっと座ります?」
噴水の周りに置かれたベンチは、人出の割には空いている。恭介はそのうちの一つを示して静香に声をかけた。彼女はサラリと髪を揺らしてそちらを見やると、頷く。
「そうね。……わたくし、喉が渇きましてよ」
「じゃ、帰りますか?」
すぐそこに水飲み場があるが、まさか、それを使うわけにもいくまい。家に帰れば舌を噛みそうな名前の紅茶やら何やら、好きなように飲めるのだ。
これ幸いとばかりに帰宅を促した恭介に、静香はニッコリと口元を綻ばせた。
「それよりも、わたくし、まだ缶ジュースというものを口にしたことがありませんの」
「そんなもの、あなたの口には合いませんよ」
買いに行くには静香をここに一人で残していくことになるのだが、それは避けたい事態だった。そもそも、ただの砂糖水に匂いだけつけたような代物を、好き好んで飲む必要もない。そう思っての忠告だったが、静香は更に笑みを深くして続ける。
「一度、頂戴したくてよ。いただけて?」
そうして、追加のニッコリ。これはもう、さっさと買って来いという無言のプレッシャーだ。
こっそりと舌打ちをし、恭介は頭を上げて辺りをグルリと見回す。と、樹の陰に半分以上隠れてはいるが、辛うじて見える範囲に自動販売機があった。
「ショウチイタシマシタ。買ってきますから、ここから絶対に動かないでくださいよ? 誰かに声を掛けられても答えないで。万一触られたら、声をあげてください」
「わたくしは幼い子どもではなくてよ」
静香は微かに口を尖らせる。
そんな表情は年齢相応の筈なのだが、普段が淑女然と大人びているだけに、常になく彼女を幼く見せた。
しかし、それでも、いや、なお一層、野郎どもの目を引くのには違いない。
子どもじゃないことも問題なのだと、恭介は胸中で呟く。
とにかく、パッと行ってパッと戻ってくればいいと、気持ちを切り替えた。やりたいことをやって気が済めば、彼女も帰る気になってくれるだろう。
「いいから、ジッとしていてください」
そう言い置いて、彼は駆け出した。半分ほど行ったところでチラリと振り返り、ベンチに腰を下ろして恭介の方を見つめている静香の姿を視界におさめる。
何の変わりもない。
自動販売機には先客がおり、その肩越しに品を見繕う。缶コーヒーは、とてもじゃないが飲めたものじゃないだろう。紅茶はギリギリいけるか。炭酸は飲んだことが無い筈だから、むしろ試してみたいかもしれない。
結局、柑橘系の微炭酸を選んだ。
ジュースを手に踵を返し――ギクリとする。
彼女が、いない?
ほんの三分前に静香が座っていたところは、今はポカンと空いていた。
全力疾走で戻ってみたが、やはり、彼女はいない。キツイ目付きを更に尖らせて右、左と見渡しても、求めた姿は影も形もなかった。
「クソッ!」
毒づいた恭介の手の中で缶がグシャリと潰れる。その時の彼に、勢いよく噴き出しその手をしとどに濡らす炭酸ジュースに頓着する余裕は、無かった。
*
静香は、いったいどこに行ったのだろう。
彼女が自分自身の意思で動いたのか、それとも、誰かに動かされたのか。後者であれば、必ず人目に触れそうなものだが、彼女のことだから、おっとりと構えている間に連れて行かれてしまった可能性もある。
恭介は左右を見回し、隣のベンチに座っているカップルに目を付ける。彼らは、恭介がジュースを買いに行く前からそこにいた筈だ。潰れてしまった缶をゴミ箱に放り入れ、ハンカチで手を拭いながらそのカップルに歩み寄った。
「あの、ちょっと」
額が触れんばかりに顔を寄せ合っていた二人は、恭介の声に表を上げる。と、彼と視線を合わせた途端にあからさまに顔を強張らせた。
この反応は、馴染みのものだ。
恭介の極悪な目付きと視線を合わせてしょっぱなっから笑顔を返してきたのは、静香くらいだった。ぎょっとされるのはいつものことなので、恭介は彼、彼女の表情には取り合わず訊くべきことを口にする。
「隣に高校生くらいの女の子が座ってたと思うんですけど、どこに行ったか知りませんか?」
「いや……オレら、見てなかったから……」
しどろもどろに彼氏の方が答える。他を見ていないというよりも、互いしか見ていなかったのだろう。思わず舌打ちをすると、ビクリと二人は身を竦ませた。
「あ、すんません。何でもないです。おジャマしました」
軽く頭を下げ、恭介は彼らから離れる。どんなに二人きりの世界を作っていても、隣で少女が拉致されようとしていれば気付くだろう。少なくとも、騒動は些細なものすらなかったようだ。
ということは、静香が自分でどこかに移動したか、全く騒ぎにならない方法で連れ去られたか。
自分で動いたとすれば、それは何故なのか。
恭介がジュースを買いに行って戻ってくるだけの時間すら待っていられないなど、常の彼女からはさっぱり考えられない。
――誰かが連れ去ったとするならば。
恭介は、数日前に元から聞かされた話を反芻した。
少し前に元の会社の重役が不正を働き、元はその男を解雇したのだという。不正の内容は甚だみみっちいもので、その重役の悪党ぶりの程が知れるものだ。元からは、どうせたいしたことはできないだろうが、万一に備えて、静香の身辺には重々気を付けておくようにとの厳命が下されていたのだ。
午前中にも、その男の動向を聞かされていた。著変はないが、引き続き警戒せよ、と。
そんなこともあって、公園に来ることを渋っていた恭介だったのだが。
果たして、その男が関与していることなのかどうか。
元の会社の重役であれば、静香の顔見知りでもあるかもしれない。不正を働いたことを知らなければ、何も疑わずについていってしまった可能性もある。だが、それにしても、恭介に黙って立ち去るとは考えにくかった。
「ああ、くそ」
このご時世、普通の女子高生であれば、携帯電話という文明の利器があるわけだから、どこにいようが連絡を取るのはたいして難しいことではないだろう。
だが、必要がないから、と静香は携帯電話を持とうとしなかった。常に傍にいる恭介が、彼女の携帯電話のようなものだから。
――こんなことになるなら渡しておくべきだった。
恭介は歯噛みするが、後悔先に立たずとはまさにこのことだ。
取り敢えずは、元に報告せねばなるまい。
電話を取り出し、短縮ダイヤルを押す。コール三回で応答があった。
「おう、何だ」
野太い、八百屋の親父のようなだみ声が鼓膜を震わせる。
「すみません、静香さんがいなくなりました」
「ああ!? 公園に行ってんだろ? はぐれたんか?」
「いえ、そうではなく、少し目を離したら姿が消えてて」
「どういうことだ」
ドスの効いた声が一段と低くなる。恭介はかいつまんで状況を説明した。
「念の為にあの男にぁ人を付けてんだがな。特に動きがあったってぇ連絡はねぇぞ。……まあいい、取り敢えずそっちに何人か送るわ。外はそいつらに任せて、お前は園内を捜してくれよ。一人にしろ、誰かがいるにしろ、まだ中にいる算段の方が高いだろ」
「わかりました」
言葉少なに返して電話を切ると、恭介は走り出す。
静香が一人でウロウロしているだけなら、問題はない。公園から外には出ないくらいの分別は持っている筈だし、不慣れなナンパにでも四苦八苦しているのが関の山だ。
まずは拉致された可能性を重視し、最寄りの西出口を目指した。恭介が同伴していることは知られているだろうから、彼に見つかる前にさっさと公園から出ようとする筈だ。
この公園に、出入り口は四つ――東西南北にそれぞれ一つずつある。
一気に走り抜け、あっという間に西出口に到着したが、道中に求める姿はなかった。
「クソッ! いねぇ」
即座に踵を返し、別の出口に向かう。今度は南だ。
木々を楽しむために複雑に入り組んで造られた道は、まるで迷路のようだった。
委細漏らさぬ眼差しをあちらこちらに送りながら走る間に、恭介は自嘲する。
公園の中はのどかの一言で、子どもの喧嘩すら起きていない。
実際のところ、静香が何者かに連れ去られた可能性など、ゼロに近いだろう。ただ、恭介の目の届く範囲にいないだけ。静香も子どもではないのだから、のんびり散歩しながら捜せばいい。それなのに、自分のこの慌てようは何だ。
――これではまるで……。
ふとその『答え』に辿り着きそうになり、恭介は慌ててそれを振り払った。
自分が静香のことを案じるのは当然だ。常に彼女に付き従っているのは、警護も兼ねているのだから。彼女の身に何かあれば、それは職務を全うできなかったことになる。
――これは、仕事なんだ。
そう、心中で呟く。常に傍にいることが仕事なのだから、意図せず離れてしまったことで落ち着かない気分になるのは、当然のことなのだ。
自分自身にそう言い聞かせ、走る。
五月の晴天の日差しは意外に強く、恭介の身体はすぐに汗まみれになった。脱いだ背広を腰に縛りつけ、また駆け出す。
南の次は東――そして、北。
行ったり来たりを繰り返し、全ての出入り口を廻っても、何も見つからなかった。
「戻るか……」
最後の北出口で足を止めた恭介は、額を伝う汗を袖口で拭い、呟く。
昼の公園でワイシャツをぐっしょりと汗で濡らしているスーツ姿の男に、人々は奇異の眼差しを向けていく。
収穫のないまま、恭介は最後に静香を見た広場へと舞い戻った。そうして、噴水の飛沫を見ながらどうしたものかと立ち竦む。
やはり、静香は一人で園内をウロウロしているのか。そうなると、お互いに動き回っていたらいつまで経っても合流できないかもしれない。
「今後はぜってぇ一人にしねぇからな」
そうぼやいてはみたものの、まずは見つけなければ話にならなかった。
一人では擦れ違うばかりだと見切りを付けて、恭介は再び電話を取り出した。何人か中にも人を裂いてもらって捜した方がいい。
息が整うのを待ってパカリと携帯を開き、指を伸ばした時だった。
「武藤……?」
滅多に聞かない、おずおずとした声。
勢い良く振り返った恭介の目の前に、両手を胸の前で組んだ静香が立っていた。
*
思わず伸びた両手が、静香の細い肩に届いた。無意識のうちに、その手にグッと力がこもる。そして腕を引き――
「武藤?」
ヨロリと彼女の身体が数センチ近付いたところで名を呼ばれ、恭介はハタと我に返る。
――今、何をしようとした……?
見下ろした静香は微かに眉根を寄せている。その顔をさせているのが彼女の肩を掴んでいる自分であるということに気付き、彼は咄嗟に両手を放した。もしかしたら、痣を作ってしまったかもしれない。
腕を下ろした恭介は、一歩後ずさる。数呼吸の間に自分を取り戻し、ムッと静香を見据えた。
「どこ行ってたんですか!」
恭介の詰問に、彼女は微かに顎を引いて樹が立ち並んでいる方を指差す。そちらには、何もない。そこに立っていたのなら、最初に見回した時に気付いた筈だ。彼が静香を見逃す筈がない。
もしや――
「隠れてたんですか!?」
まさかと思いながらそう声をあげると、彼女は小さく頷いた。この上なく申し訳なさそうな顔で。
「あなたが駆けていってしまって、わたくしもすぐに追いかけましたのよ? でも、見失ってしまって」
「だったら、最初から隠れなきゃいいじゃないですか。何で、またそんなことを」
おかげで、心臓が止まりそうな思いをさせられたのだ。
両脇に下ろした拳を握りしめて静香を睨み据えると、彼女は心持ち瞼を伏せてる。濃く長い睫毛が、白い頬にくっきりと陰を落とした。
「わたくしと歩いていて、あんまり、あなたがおイヤそうだったから、つい……」
囁くような、声。
恭介はその返事に戸惑う。
全く、そんなつもりはなかったのだ。
「別に、イヤだったわけでは――」
「ずっと、渋いお顔をなさってらっしゃってよ?」
顔を上げた静香は、いつもの彼女とはどこか違っていた。
――拗ねている?
まさか。
恭介は速攻で打ち消した。
静香に限って、そんな反応を見せることなどありえない。
ただ単に、彼を試してみたくなっただけなのだろう。
「それは……だからって、そんな子どもっぽいことをしなくても……」
いいではないか。
恭介はそう言いかけて、止める。
確かに、周囲に気を取られていたことは否定できない。
ヒタと見上げてくる静香の眼差しを、気まずい思いで受け止めた。
考えてみれば、せっかく楽しみの為に来たのに、同伴者が仏頂面をしていれば、気が悪いのも当然だ。
静香のことだから、そうやって遠回しに抗議してみたつもりなのだろう。
――けっして、拗ねたとかそういうのではなく。
「武藤?」
「いや、すみません。俺も悪かったです」
ペコリと頭を下げると、静香はホッと口元を綻ばせた。そして軽く首をかしげて恭介を見つめてくる。
「赦してくださって?」
「いいですよ。おアイコですから」
溜息混じりの恭介のその返事に、彼女は嬉しそうに破顔する――何がそんなに嬉しいのかと思わせるほどの、満面の笑みだった。その笑顔に引きずり出されたかのように、恭介の口からポロリと言葉がこぼれる。
「でも、もう、勝手にどこかに行かないでくださいよ」
考えるよりも先に口を突いて出てしまったその言葉は、自分の胸の中にある想いとは微妙に違うような気がする。もっと正しい台詞があるように思われたが、恭介にはそれを掴むことができなかったのだ。
一方で、彼のその台詞に、静香は微かに目を見開く。そして、何かを確かめるようにジッと視線を注いできた。静謐な眼差しに彼が微かに顎を引くと、彼女はフッと目元を緩ませた。
「承知いたしましてよ」
何故か嬉しそうにそう頷き、次いで眉をひそめた。
「随分、汗をおかきになってること。すぐに帰りましょう」
「散歩はいいんですか?」
「早く着替えないと風邪を引いてしまうもの」
気遣わしげな眼差しで、少し背伸びした静香が手にしたハンカチで恭介の額の汗を拭う。羽根のように柔らかに触れたその手をそっと押し遣り、恭介は辛うじて笑顔と呼べるものを浮かべた。
「ハンカチ汚れますから、いいですよ」
「いいえ……わたくしが隠れたりしたせいですわ」
短いやり取りを交わすうちに、彼が取りこぼしたその言葉は、更にうやむやなものとなってしまう。濃い霧のような、曖昧模糊としたものに。
このすっきりしない霧のようなものが晴れ、目の前にまっすぐな道が広がる時が、いずれ訪れるのだろう。
だが、きっと、その時は――。