SS③ 揺れる気持ち
「……は?」
梅雨が明け、夏本番となった今日この頃。
榎本総合研究所、略して榎本総研所長の榎本の口から出た台詞に、恭介は眉間に深いしわを刻んだ。
そんな彼へ向けて、榎本はにこやかに繰り返す。
「だからね、今度ちょっとしたパーティーがあるんだけど、恭介君、行ってきてよ」
「パーティーって、何ですか、それ」
静香の付き人だった頃ならいざ知らず、一般人となった恭介は、そんな単語とは縁が切れたものだと思っていた。
「毎年、この時期に開かれてるんだけどね、経済界の有名どころが集まるからコネ作りにいいんだよ。何、大丈夫大丈夫。メインは香奈ちゃんだから。あの子が動いてくれるよ。君は彼女のおまけ、飾りみたいなもんだよ。こういうのは、カップルで行くものだからね。今までは直也君にお願いしてたんだけど、彼はもう嫌だって言うからさ。新人が入ってきたんだから僕が行く必要はないでしょうって」
佐野香奈と高嶋直也はどちらも榎本総研のスタッフだ。
香奈は姉御肌の美人で、三十を二つばかり越している今も独身である。いつも「顔が良くてスタイルが良くて金持ちのシルバーグレイのおじ様と結婚したい」と言っているのに、仕事中毒だ。この上なく有能で、いくつもの案件を同時進行でこなしている。
一方の直也は割とドライでオンオフがはっきりしており、毎日きっかり定時に帰る。それでも仕事が滞ることがないのは、やはり能力があるからなのだろう。確かに直也なら、時間外の『仕事』は嫌がりそうだ。
他に人もおらず、一番の新入り、下っ端の恭介に白羽の矢が立つのは、当然と言えば当然なのだが。
「俺も、そういうのはちょっと……それに、この顔ですよ?」
眉をひそめて言ってみた。
はっきり言って、恭介の顔は怖い。そこらのヤクザなど可愛く見える目付きなのだ。
どう考えても『看板』の役には立たないと思う。営業にマイナスになりこそすれプラスにはなりそうもない。
しかし、榎本はそんな彼の抵抗を笑い飛ばす。
「平気だって。そんなので左右される人なんて来ないような会だから」
にこやかにあっさりとそう言われ、恭介はそれ以上抗う術を持たなかった。そのげんなりした顔に、彼が諦めの境地に至ったことが解かったのだろう。
「じゃ、お願いね。ああ、別にタキシードとかは必要ないよ。普通にスーツでオッケーだから」
「はあ……」
そんなこんなで、まさかのパーティーに出る羽目になった恭介だった。
*
パーティー当日。
恭介と香奈は、日本でも三本の指に入る、超が付くほどの高級ホテルのホールの入口に立っていた。
美女を連れた恰幅の良い中高年の男性が、幾人もその中に入っていく。
そんな中でどちらも三十歳そこそこの恭介たちは、かなり目立ちそうだ。
だが、香奈はそんなことは全く気にならないようで、天井からぶら下がっているシャンデリアよりも眩く、その両目を輝かせる。
「今日こそ、素敵なおじ様捕まえてやるわ! 男はやっぱり四十からが勝負よね。なかなか独身がいないのが玉に瑕だけど。あ、あれ見て、上條グループの総帥だわ。流石にレベル高いわねぇ……」
香奈は恭介の左腕に両腕を絡ませ、彼の耳元で囁いた。
恭介もかなり大柄な方だが、香奈は元々長身な上に踵十センチのピンヒールを履いている。軽く背伸びをするだけで、彼女の口元は恭介の耳に届いた。
彼はわずかに首を傾け、香奈の視線が向いている方へ目を走らせる。
「上條グループって、あの上條ですか?」
「そう。もう少し年食ってたら、良かったんだけどなぁ……で、ほら、隣のあの彼女が妹さん。すっごい美人よね。旦那さんは画家なんだって。一回り以上年が離れてるらしいけど、どんなロマンスがあったのかしらねぇ」
「はあ……」
「何よ、気のない返事ね。あんな美人、そうはいないでしょ」
「まあ、そうですね……」
頷きつつも、恭介は生返事をする。
隣で香奈が「信じられない」とばかりに片方の眉を吊り上げたが、実際、恭介の心はさほど動かなかったのだ。
件の女性は、確かに滅多に見ないほどの美人だ。しかし、彼女を「美しい」と思うのは、恭介にとっては優美な花をきれいだと思うのに似ていた。
凛として日本人形のように整った容貌は、どことなく静香と共通した雰囲気を持っている。しかし、静香を目にした時のように、どうにも目を逸らせなくなる気持ちは、恭介の中に湧き起ってこなかった。
「もう、つまんないわね」
反応の鈍い恭介に、香奈が呆れ気味に鼻を鳴らす。が、気を取り直したように肩を竦め、恭介と腕を組んだまま会場へ向けて歩き出した。
「まあ、いいわ。行きましょう。挨拶が始まっちゃう」
箸の先のようなピンヒールにも拘らず、香奈はサクサクと足を運ぶ。
殆ど引っ張られるようにしてそれに続きながら、恭介はぼんやりと静香のことを想った。
そう言えば、ここ二月ほど忙しくて、ろくに彼女と逢えていない。
今、恭介は、元からの課題を一刻も早く達成する為に、昼夜を問わずパソコンと書類に向き合っていた。数日に渡って実際に現地に飛ぶこともしばしばだ。
そんな生活だから、直接静香と顔を合わせることができたのは、両手の指の数にも満たなかった。
電話では殆ど毎晩話しているが、元々恭介は口数が多い方ではない。「おやすみ」の挨拶を交わす程度になりつつある。
それも皆、静香を手に入れる為――
自分で自分にそう呟きかけて、恭介はこっそりため息をつく。
それは、言い訳に過ぎなかった。彼自身にも、よく判っている。
元からの課題をクリアしてからでなければ、恭介は静香に指一本触れることができないのだ。
けれど、電話越しでも彼女の気配を感じてしまえば逢いたくなるし、逢ってしまえば触れられないのは殆ど拷問のようなものだった。
だから、受話器を通して声を聴くことすらできなくなりつつある。
――まったくもって、己の自制心の無さが情けない。
付き人として傍にいた時、何故あれほど冷静でいられたのだろうかと、恭介は我ながら不思議に思う。
触れたら、元との約束を破ることになり、結婚の赦しも得られない。
静香は「いざとなったら駆け落ちでもしたらいい」と冗談混じりに笑うが、恭介は元の課題をキッチリクリアしたかった。
今の時点でも彼と自分との間には大きな格差がある。
何しろ、元は数十年で今の綾小路グループを作り上げた男なのだ。それに比べて、恭介には何もない――何もなさ過ぎる。
何がしかを成し遂げれば、少しは自信を持てるようになれる気がしたのだ。
静香を任せてくれと元に対して胸を張れる自信を。
そんなふうにぼんやりと自分の考えに没頭しているうちに、いつしか恭介は会場の直中に引っ張り込まれていたことに気付く。
立食の会場では、煌びやかな衣装に身を包んだ熱帯魚のような女性たちを連れた経済界の重鎮たちが、そこかしこで談笑している。
「さって、じゃぁ営業しないとね。行くよ、恭介君。君も顔を売らなきゃ」
そう一声かけて、香奈は手近な男性のところに恭介を引っ張っていく。
「田原会長、ご無沙汰してます」
「おや、香奈ちゃん。久し振りだね」
にこやかな声をかけられて、田原と呼ばれた初老の男性は、香奈に向き直ると相好を崩した。
「このヒト、今度うちに入った新人です」
さらっと笑顔で水を向けられ、恭介は田原に向けて一礼する。
「武藤恭介です」
「へえ、榎本君が見込んだ人かい? それは、前途有望だね。確かに、良い目をしているよ」
「そうなんですの。うちは少数精鋭がモットーですから。また、何かの折にはお声をかけてください」
「そうだね、頼りにしてるよ……ああ、そう言えば、一つ相談したいことがあったんだ。急ぎじゃないんだけどね、また連絡させてもらうよ」
「お待ち申し上げておりますわ」
艶やかに笑う香奈に田原が返すのは、まるでわが娘を見ているような眼差しだ。
そうして、恭介はふと気付く。
この場に彼を連れてきたのは、彼自身の顔見せの為だったのだと。こうやって香奈がつなぎになってくれれば、スムーズに経済界の面々と渡りを付けることができる。駆け出しの彼にとって、人脈が伸びることほどありがたいことはない。
「ほら、武藤君、次行くわよ!」
しみじみと感謝の念を噛み締めていた恭介を、絡み合わせた腕で香奈が引っ張る。
「あ、はい――」
応えながらクルリと恭介が振り返ろうとした時だった。
「恭介様?」
鼓膜を打った、涼やかな声。久し振りに聞いた、電話というクッションを通さない生のその声に、恭介の心臓は熱い手で握り締められたかのような感覚に襲われた。
「綾小路グループの……」
声の主をいち早く目にしたらしい香奈が、隣で囁いた。
だが、何も言われなくても、それが誰なのか判る。
踵を返した恭介から三歩ほど離れた場所に、彼女が立っていた。着飾った女性が溢れる中だというのに、恭介の目はまるで吸い寄せられるようにそこに行く。
「静香……」
「え、呼び捨て?」
思わず彼女の名を呟いた恭介に、香奈が丸くした目を向けてくる。
「あ、ええ……」
こんな場所に出る時は大抵振袖だが、今日は淡い水色のワンピースだ。シンプルで清楚な装いが、彼女の典雅な容貌を際立たせている。
恭介の腕を捉える香奈の手に心持ち力がこもり、彼の左の二の腕が豊かな双丘に押し付けられた。だが、不意に目にしてしまった静香の姿に気を取られ、恭介にそちらを気にする余裕はない。
新見を従えた静香は、真っ直ぐに恭介を見つめていた。と、その視線が、一瞬、チラリと左側に揺れた気がする。
「――……られませんのに」
静香が、何かを呟いた。しかし、それはあまりに小さな声で、この雑踏の中では恭介の耳まで届かない。
一歩近付き問い返そうとした矢先、香奈がグイと恭介の腕を引っ張った。
「ねえ、お知り合いなの?」
そう訊いてきた彼女のその目は、好奇心を隠そうとしていない。
綾小路グループは、経済界ではかなり名を馳せている。その財力と由緒の正しさも一因だが、何より、没落した綾小路家を元が一代で建て直したということが、当時の経済人の注目を集めたのだ。
顔の広い香奈は、当然熟知している。
この春から元の名代としてあちらこちらに顔出しするようになった静香のことも、雑誌か何かで目にしたのだろう。
「あ、ええ……彼女は俺のこ――」
婚約者。
そう言いかけて、はたと恭介は固まった。
まだ正式には、元に認めてもらえていない。まだ胸を張ってそう言える立場ではないのだ。
「ちょっと?」
香奈が再び腕を引いて催促する。
「その……」
『恋人』ならば公言しても許されるだろうか。あるいは、元はそれすら認めていないのだろうか。
そんなふうに逡巡し口ごもった恭介を、静香は真っ直ぐ見つめていたが、不意に、ニコリと笑顔になった。
――それは笑顔だが、笑ってはいない。
長年彼女の笑みを見てきた恭介には、その表情が心からのものなのか作ったものなのか、一目で見て取れた。
――怒った……?
大多数の者が心潤される艶やかな微笑みにも拘らず、恭介は即座にそう察する。だが、その理由が判らない。
彼が戸惑ううちに、静香がふわりと一礼した。
「初めまして、綾小路静香と申します。武藤様には、以前に大変お世話になりましたの。お久しぶりにお顔を拝見できて、とても嬉しゅうございました。お連れの方がいらっしゃいましたのにお邪魔をしてしまって申し訳ありません。では、ごきげんよう」
にこやかにつらつらとそう述べて、静香は変わらぬ表情のままもう一度頭を下げると、恭介に声をかける暇も与えず身を翻した。そうして、さっさと歩き出してしまう。
「何だ?」
静香の胸中がさっぱり読めずに思わずそう呟いた恭介に、黙って見ていた新見がその口を開く。
「武藤さん」
「はい?」
名を呼ばれて恭介がそちらを向けば、カミソリよりも鋭い眼差しが突き付けられていた。
まるで、ひんやりとした刃を喉元に突き付けられているような気になる。
「この次第は、元様に報告させていただきますので」
その言い様は、恭介がとんでもない失態をしでかしたかのようだ。
だが、『次第』といっても、仕事の関係で偶々鉢合わせしてしまっただけで、恭介は静香に触れてもいない。
咎められるようなことは、何もしていない筈だ。
「それは、どういう――」
問い返そうとした恭介に、しかし新見は鋭い一瞥を投げてよこしただけで、無言のまま静香の後を追ってしまう。
「何なんだよ、いったい」
思わず恭介はぼやく。と、その隣で香奈が声をあげた。
「もしかして」
「何です?」
見やった先では、香奈がニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべている。
「あのさあ、もしかして、やきもちじゃないの?」
「え?」
「彼女、あなたのことが好きなんでしょ? 可ぁ愛いなぁ。ていうか、武藤君みたいな朴念仁が、ねぇ」
香奈のニヤニヤ笑いは止まらない。だが、恭介はその殆どを耳から耳へと聞き流していた。
恭介は先ほどの様子を思い返す。
今はもう離れているが、彼と香奈はしっかりと腕を組んでいた。
もしかしたら、香奈がしなだれかかっているようにすら見えたかもしれない。
――静香が、やきもち?
恭介は、胸の中で繰り返す。
嬉しい、と思ってしまった。
そして、即座に彼はそれを振り払う。
「すみません、俺、ちょっと行ってきてもいいですか?」
「いいわよぅ。その代わり、後で洗いざらい聞かせてね」
香奈はヒラヒラと手を振ると、そう言って恭介を送り出してくれた。
何だかいいおもちゃを与えてしまった感があるが、今はそれどころではない。
人の波を縫って、恭介は静香を捜す。
こういう場で彼女が一息つきたくなった時に行くような場所は、恭介もよく知っていた。
頭の中でこのホテルの造りを思い返し、一番静香がいる可能性が高そうな場所に向かう。
果たして、殆ど迷うことなく、天井まで届くガラス張りの展望台の入口に佇む新見を見つけた。
「新見さん」
名を呼んだ恭介を、彼は冷たく見返す。一歩踏み出し、恭介の行く手を阻むように立ちはだかった。
「……お嬢様は、傷付かれておられます」
「わかってます。傍に行かせてください」
真っ直ぐに背を伸ばした新見は、ヒタと恭介を見据えてきた。
恭介の方が十五センチは背が高いというのに、何故か見下ろされている気がしてくる。
しばしの睨み合いの末、新見がゆっくりと脇にどく。
「ありがとうございます」
頭を下げ、恭介は足早に展望台へと進んだ。
ホールの一階上にあるこの展望台も、パーティーの為に貸切になっている。
宴もたけなわな今は皆階下にいるようで、ガラスの向こうを見つめる静香の他に、人はいなかった。
足音は聞こえているだろうに、彼女の華奢な背中は、ピクリともしない。
「静香」
名を呼ぶと、一呼吸おいて、静香がゆっくりと恭介に向き直る。
だが、何も言ってはくれない。
眼差しも穏やかで、憤りや悲しみがそこに潜んでいるようには見えなかった。
手を伸ばしても、辛うじて触れずにいられる距離。その距離を保って、恭介は言葉を選んで話し出す。
「彼女は――佐野さんは、職場の同僚だ。今日は榎本さんに言われて二人でここに出るように言われて……個人的に来たんじゃない。榎本総研の従業員として来たんだ」
そして、沈黙。
ややして。
静香がわずかに首をかしげる。それと共に、腰までの長い髪がサラリと揺れた。
「そうですの」
呟くようにそう言い、微かに笑む。
それは、本物の微笑みだった。いつものパッと華やぐものではなく、どこかホッとしたような、泣き笑いのような、儚げな、笑み。
その瞬間、恭介の胸に熱くて苦いものが込み上げる。
電話でろくな返事をしなかったことを悔やんだ。
直接逢って顔を見ることを避けたことを悔やんだ。
自分の気持ちを制御することにかまけて彼女の不安を顧みなかったことを悔やんだ。
静香の肩に伸びてしまいそうになる両手を、恭介はグッと握り締める。
「悪かった」
全てに対して、そう思う。
フォークが挟めるだろう程に深まっているに違いない眉間の皺を見つめるように、静香は恭介を見上げてくる。
その磨き上げられた黒曜石のような眼差しに、彼は酔いそうになった。
今すぐ抱き締めることができたなら、どんなに満たされる気持ちになるだろう、と恭介は歯噛みする。
懸命に理性で感情を抑え込もうとしている恭介に、不意に繊手が伸ばされた。
桜色をした爪の先まで美しいその手を、彼はしげしげと見つめてしまう。
それに気を取られ、眉をひそめた恭介の耳朶をくすぐった声を、彼は一瞬聞き逃す。
「――……はい?」
間の抜けた声で問い返した恭介に、静香はにっこりと首をかしげて同じ言葉を繰り返す。
「わたくしと踊っていただけませんこと?」
彼女の顔に試すような色はなく、ただ、花が咲くように笑んでいるだけだ。
だが、踊るということは、すなわち触れるということで。
「駄目だ。元様との約束があるだろう?」
即座に首を振った恭介に、静香はサラリと答える。
「今日のわたくしは『綾小路静香』ではございませんの。父の名代として参っておりますのよ? これは、個人的なお誘いではなく、『綾小路グループ』としてのお誘いですわ」
どこかで耳にしたような言い回しで、歌うように彼女は言う。
静香はそれ以上説こうとはせず、ただ、その輝く瞳で恭介を見つめるだけだ。
だが、いつもと同じように凛として見えるその眼差しの中に、微かな不安が見え隠れする。
何をそんなに案じているのかが、恭介には判らない。
けれども、彼女が揺れている理由は、紛れもなく自分なのだ。そのことだけは判っている。
恭介の腕が魅入られたように勝手に上がり、静香の手を取った。
一度触れてしまえば身体は自然に動いてしまい、左手は彼女の手をしっかりと握り、右手は彼女の背中に回った。
残された理性で礼儀正しい距離を保ち、展望台に流れる微かな音楽に乗ってユルリと身体を揺らす。
静香に触れているのは両手だけだが、その温もりが手のひらから恭介の全身に染み渡っていく。
束の間、彼の頭はかつて彼女の付き人をやっていた時分に跳んでいた。こうやって、しばしば彼女の練習相手になっていたものだ。
いや、彼の方が練習させられていたというべきか。
幼い頃から、静香は優雅に踊った。
あの頃と同じように彼女を腕に抱きながら、自分の気持ちはいつから変わっていったのだろうと振り返る。けれど、いつもその答えは出ないのだ。
ふと視線を感じ、恭介は現在に戻ってくる。
見れば、静香はその眼差しに物問いたげな色を浮かべていた。
「どうした?」
「いえ……」
珍しく、歯切れが悪い。
恭介は足を止めてもう一度問う。
「何もないという顔ではないな。言ってみろよ」
静香は迷うように口を少し開け、閉じる。そして彼女は目を伏せ、小さな囁きで答える。
「わたくしを、お嫌いになってしまわれたのかと思っておりました」
「はあ?」
恭介は思わず声をあげてしまう。どこからそんな発想が、と言い掛けて、彼は最近二、三週間の態度を思い出して口をつぐむ。
逢おうとしない、会話もしようとしない、ではそう思われても当然だった。
恭介は懸命の努力で腕の力を総動員し、静香を胸元に引き寄せてしまいそうになる我が身を抑える。腕を強張らせ、歯ぎしりするように言葉を絞り出した。
「それはない。絶対に、ない」
そう断言して、静香の背に置いた手のひらを、彼女を宥めるようにゆっくりと上下させる。
「俺の気持ちが変わるだなんて、有り得ないからな」
恭介のその宣言に静香は再び目を上げると、花がほころびるような笑みを浮かべた。
今日初めて彼が見た、彼女らしい笑みを。
その笑顔を受け止めながら、恭介は己に誓う――二度と、静香の顔を曇らせるようなことはするまいと。
自分の全ては、彼女を幸せにする為にあるのだから。
*
久方振りに、穏やかで幸福な時間を噛み締めて。
そろそろ戻らなければと言い出したのは、静香の方だった。
できるなら、まだ彼女と二人きりの時間を過ごしていたい。
心の底からそう願った恭介だったが、それが実現不可能な願いであることは解かっている。
「……そうだな」
深いため息と共にそう答えた恭介に、静香はきらりと目を輝かせて微笑んだ。
「武藤さん」
静香に続いて展望台を出てホールに戻ろうとした恭介を、ひっそりとたたずんでいた新見が呼び止める。
彼が言おうとしていることは、判っていた。
恭介は新見と真正面から向き合う。祖父と孫ほども年の離れた二人は、対等な力強さで視線を絡ませた。
生まれた時から静香を見守ってきた男が、冷ややかな声で告げる。
「これはツケにしておきます。しかし、今度お嬢様から笑顔が消えるようなことになれば、その時は――判っていますね?」
今日のことを見逃すのは、あくまでも静香の為なのだ。
それは恭介にも、よく、判っていた。