SS① 避けては通れぬ道
「静香さんを俺にください!」
「断る!」
――麗らかな春の昼下がり、響いたのは、そんな声。
綾小路家のだだっ広い和室の中にいるのは、正座で深々と頭を下げた恭介とその隣で背筋を真っ直ぐに伸ばしている静香、そしてその正面に腕を組んで胡坐をかいた元とその横で夢見るように微笑んでいる雅だ。
先の台詞、当然前者は恭介、後者は元から出たものである。
渾身の一撃を一刀のもとに弾き返された恭介は、額を畳に触れんばかりにした格好のままピシリと固まった。
そんな彼を顎を上げて下目で見ながら、元が鼻で嗤う。
「猫や犬の子じゃあるまいし、寄越せと言われてハイどうぞとやれるか、愚か者が」
彼の台詞に、恭介はぐうと言葉に詰まった。
これは、完全に言いがかり――いちゃもんだ。それが判っているから、恭介もうかつに反論できない。
恭介は静かに深呼吸をし、意を決して顔を上げる。
「今すぐではありません。まずは結婚を前提としたお付き合いを――」
許していただきたい。
そう続けようとした恭介だったが、容赦なく遮る元の声に、最後まで言い終えることはできなかった。
「は! お前は今のところで働き始めたばかり。言うなれば見習い。ひよっこ。バイトに毛が生えたようなもんだ。この先モノになるという保証もない。そんなヤツに娘を任せられると思うのか」
「ッ!」
元の台詞は正論で、取りつく島もない。
だが、何としてでも彼を説得しなければ、この家を出てしまった恭介は静香と会うこともままならないのだ。
杉田を味方につけてこっそり逢うという手もないことはないが、元のこの態度は静香を愛していればこそのものだ。
やはりきちんと筋を通したいし、そうすべきだろう。
これから永く共に過ごしていくというのに、嘘やごまかしなどを間に入れたくはない。
――第一そんなことをして後から元にバレたりした日には、いったいどんなことになるやら。
腹に力を込め、恭介は真っ直ぐに背を伸ばして膝の上で拳を握り締める。
「それは、おっしゃる通りです。ですが、俺は必ず静香さんを幸せにします」
「口先だけなら何とでも言える。肝心なのは実践できるかどうかだろうが」
恭介の覚悟をすっぱり切り捨てた元の眼差しは、「話はそれだけか」と言っている。今すぐにでも立ち上がり、部屋を出て行ってしまいそうだった。
一筋縄ではいかないとは思っていたが、何筋縄でも太刀打ちできそうもない。
何か彼を説得できる言葉は無いかと頭をフル回転させようとした恭介の隣で、涼やかな声が上がる。
「そのことでしたら、恭介様はもう成し遂げてくださいましてよ?」
「ああ?」
どこか挑むような笑みを含んだ静香の台詞に、元が眉を上げた。
「わたくしは恭介様と共に過ごせるだけで幸せですの。お傍に置いていただけるだけで、ただそれだけで、充分でしてよ?」
静香は元から恭介へと視線を移し、艶やかに微笑む。
輝く黒曜石のような彼女の目を見れば、その言葉に一片の装飾もないことは明らかだ。
「静香……」
うっかり彼女を呼び捨てにして、恭介は元の眼差しに射殺されそうになる。
そんな父親の殺意に気付いているのかいないのか、静香が小さく首をかしげて彼に問いかけた。
「お父様は、わたくしの気持ちをよくご存じでいらっしゃる筈。それでも、反対なさるのですか?」
にこやかに綻んだ口元はそのままに、『それでも』の部分には心持ち力が込められている。
元の奥歯がたてた砕けんばかりの歯軋りの音が、返事の代わりにその場に響いた。
固く唇を引き結んでいる元と、柔らかな微笑みを浮かべた静香――ただし、彼女も目は笑っていない――の睨み合いが続く。
父と娘の無言の応酬に、恭介は口を挟む隙間を見い出すことができない。
和室からは、元の歯軋りの音以外が全て消え去る。
息詰まる、沈黙。
――それを破ったのは、雅だった。
「うふふ」
口元に手を添え、彼女は楽しそうに笑う。
「旦那さまの負け、ですわ。ご自身でもお判りですのに。あんまり恭介さんをおいじめになったら、静香さんに嫌われてしまいましてよ?」
「雅」
女性二人を向こうにまわし、反論の術を失ったのは元の方だった。彼は苦虫をまとめて十匹ほど潰したような顔で唸り声を上げる。
「旦那さま?」
銀の鈴が転がる声。
「……ッ」
ギロリと睨んでくる元を、恭介は真っ向から受け止める。
と、不意に元は立ち上がり、振り返りもせずに襖を開けて出ていった。床を踏み抜きそうな荒い足音が遠ざかっていく。
それが完全に消えてから、雅がほう、と小さく息をついた。
「旦那さまもお解かりにはなっていらっしゃってよ? でも、恭介さんがあまりに一足飛びにおっしゃるから、旦那さまも少々意地をお張りになっておしまいなの」
片手を頬に当てて、少し困ったような顔で雅が微笑む。
「すみません……」
確かに、雅の言うとおりだった。
普通は、まずは「お付き合いさせてください」だろう。
だが、恭介は焦ってしまったのだ。高校を卒業した静香には、次々に縁組の話が舞い込んでくるだろう、と。
彼よりも静香と年が近く、彼女と同じ世界に生きてきた――より静香に相応しい男が現れる前に、彼女とのつながりを確かなものにしておきたかったのだ。
腿の上で固く握り締めた恭介の拳に、温かなものが羽のようにそっと触れる。
目を落とせば、静香の白く細い指先があった。
「お父様は、わたくしが説得いたしますわ」
笑んではいるが、その眼差しは強い光を湛えている。少々怒りもにじんでいるように見えるのは、気の所為か。
フッと息を漏らし、恭介は彼女の華奢な手を取った。
ひと月前には触れることさえままならなかったそれを、握る。
「いや、それは俺がやるべきことだ。時間はかかるかもしれないが、俺自身の言葉で許しを得ないといけない」
「でも……」
「時間はかかると思う――待っていてくれるか?」
語尾がわずかに弱くなる。
彼の弱気を察したように、静香は彼女の手を包み込む恭介の手に、もう一方の手を重ねた。
「その答えは、もうご存知でしょう? わたくしは十年、待ちましたのよ? お父様のいじわるになんて、屈しませんわ」
そう言って、静香はふわりと笑った。
典雅でいて、強かな彼女。
恭介はその滑らかな頬へと伸びそうになる手を心の力で抑え込む。今は雅の前なのだ。
「絶対に、『よし』と言わせてみせる――絶対に」
今度は力強く言い切った恭介に、静香の目は嬉しそうに輝いた。
*
一週間、通い詰めてみた。
恭介も仕事があるので、訪問はいつも夜のことになる。当然それは元が家にいる筈の時間だった。
だが、彼は恭介に顔を見せようともしない。
「お父様がこんなに駄々をおこねになる方だなんて」
綾小路家の庭を歩きながら、静香がポソリと言う。
これが『娘を持つ父親』というものなのか。
雅の言った通り恭介が唐突過ぎたのかもしれないが、それにしても、とてもではないが底辺まで没落した綾小路家を立て直した有能な企業家だとは思えない。
絶対に許しをもらうぞという恭介の意気込みは、ほんのわずかも褪せてはいない。しかし、会うことすらままならないとなると説得どころではなかった。
ピタリと足を止めた静香が、恭介を見上げてくる。
「やはり、わたくしが――」
「いや、俺が言う」
彼女を遮り、恭介ははっきりと宣言した。そんな彼を、静香は眉をひそめて見つめる。
「でも……お父様があのような態度では、恭介様が正々堂々となさる義理はございません」
その声の響きに、恭介はまじまじと静香を見下ろした。彼女はムッと唇を引き結んでいる。
「何か?」
静香が訝しげに首をかしげる。
「いや……もしかして、かなり怒っているのか?」
過去五年間を振り返ってみても、彼女が『怒り』をはっきりと見せたことがあったか、思い出せない。誘拐されたあの時ですら、殆ど普段と変わりなかったような気がする。
こんなふうにあからさまに心の内を露わにしたことなどなかったから、かえって、それがホンモノなのか判断が付けにくい。
静香は一瞬口を閉ざし、少し顎を引いて彼を見た。
「お嫌、ですの?」
「は?」
「感情を露わにするわたくしは、お嫌?」
「まさか」
確かに今まで目にすることのなかった彼女の一面ではあるが、それを嬉しく思いこそすれ、疎むわけがない。
目を丸くして恭介は即答する。
と、静香の口元が綻んだ。
いつもの整った――隙がないものではなく、ふと漏れてしまったような、ホッと緩んだような、笑み。
その柔らかな表情を目にした瞬間、恭介の手は意図せぬままに動いていた。
静香の頬はしっとりと温かく、彼の掌にすっぽりと納まる。ほんの少し力を込めると、顎が上がった。月明かりでも、その唇の桜色は鮮やかだ。
恭介は首を傾け、彼女に顔を寄せる。目蓋が伏せられ、長いまつ毛がほんのりと色付く頬に濃い影を落とした。
互いの唇が触れ合おうとした、その時。
突如背後から響いた咳払いの音。
ビクリと肩を震わせて、恭介はばね仕掛けの人形のように身体を起こした。そして、音の発信源へ振り返る。
そこにいたのは、一人の老人だった。
齢は七十を越しているだろう。
だが、背筋はきっちり伸びており、豊かな白髪はきれいに整えられている。
「まあ……新見、ですの?」
恭介の後ろを覗き込み、静香が声を上げる。
その老人とは、恭介も一度だけ会ったことがある。
彼、新見孝信は恭介の前に静香の付き人をしていた人物だ。
六年前、彼が引退するからということで、恭介が雇われることになったのだが。
見下ろした静香も心持ち目を丸くしているところを見ると、何も知らなかったようだ。
「お嬢様、お久しぶりでございます。お健やかなご様子で何よりです」
紳士然とした彼は、穏やかに微笑と共に腰を折った。
「どうなさいましたの? 確か、イギリスの娘さんのところにいらっしゃったのでは?」
「はい。お陰様で孫の成長もたっぷりと堪能することができました。あの子も大きくなりまして、さて次は何をしようかと考えていたところに、旦那様から是非とも戻ってきて欲しい、と仰っていただきましてさっそく馳せ参じた次第です」
「お父様が……?」
「はい」
目を細めて静香を見つめていた新見は彼女に頷きを返すと、ツイと恭介に視線を動かす。
「武藤さんも、お久しぶりですね」
唐突に水を向けられ、恭介も慌てて頭を下げた。
「あ、はい、お久しぶりです……」
笑顔は変わらない。
だが、恭介に向けられたその視線は、静香へのものにはなかった鋭さがある。
「貴方へ、旦那様からの伝言があります」
「元様から?」
「はい」
新見は至って品良く頷いた。
「まずはこちらを」
彼は魔法のようにどこからか一封の封筒を取り出すと、恭介にそれを差し出した。
中に入っていたのは、一枚の紙切れ。そこに書かれているのは一つの名前。
目に疑問符を浮かべて新見に視線を戻した恭介に、彼はにこやかに言った。
「それは綾小路グループの傘下にあるホテルの名前です。何でも採算が合わず閉鎖を考えているとか」
「はあ……」
それが自分と一体何の関係が――と首を捻りつつ頷いた恭介に、新見は続けた。
「旦那様は、そのホテルを貴方に立て直して欲しい、と仰っておいでです」
「はい?」
「期限は二年。二年以内にそこの収益を五倍にすることが条件で、もしも達成されなかった場合、『絶対に静香はやらん!』とのことでございました」
「は!?」
「……達成したら許す、ではないところが、姑息ですこと」
恭介の隣で静香が低く呟いたが、呆然としている彼の頭には届かない。
回転数の落ちた頭で、恭介は今新見に言われたことを考えた。
期限付きでのホテルの経営再建。
確かに、恭介の今の仕事は経営コンサルタントだ。経験が浅いとはいえ、無理難題を押し付けられたわけではない。
これまでに元から課せられてきた『宿題』の数々を思い出す。振り返ってみれば、達成不能な課題は与えられたことがなかった。
きっとこれは、元が真面目に考えた、恭介が娘を委ねるに値する男かどうかを評価する為の試験なのだ。
――そうに違いない。
ハッと我に返った恭介は、新見に頷きを返す。
「わかりました。やります」
「恭介様」
静香が咎めるような声で恭介の袖を引く。
そんな彼女に向き直ると、その両肩に手を置いて目を覗き込んだ。
「元様の申し出ももっともだ。ろくに仕事もできない男に、大事な娘は任せられないだろう? それに、これを蹴ったらきっと俺は絶対に認めてもらえない」
「……お父様の事なんて、放っておいたらよろしくてよ」
少し拗ねたようなその言い方に、恭介の胸中には無性に彼女への愛おしさが込み上げてくる。今の静香は確かに彼の手の中にいて、その心の内も、ちゃんと彼に見せてくれようとしているのだ。
恭介の両手が静香の背へと滑りそうになった時、まるでタイミングを計っていたかのように新見が声を発する。
「あ、そうそう。もう一つ、条件があることを忘れておりました」
「もう一つ?」
その存在を思い出して振り返った恭介に、新見が生真面目な顔で答えた。
「はい。条件を達成するまで、お嬢様には指一本、触れるなとのことです」
「さわ、るな……?」
「ええ。指一本」
新見がその部分を繰り返す。一言一言を区切るように、はっきりと。
その瞬間、恭介の脳裏にはしてやったりと言わんばかりの元の笑みが浮かんだ――この上なく鮮明な、笑みが。
もしかしたら、あれほど怒って見せたのも演技だったのかもしれない。
まさか、全てただの嫌がらせだったのだろうかという疑いが頭の中をよぎっても、もう後の祭りだった。
「では、旦那様には武藤さんが条件をお呑みになった旨、確かにお伝えしておきます。そうですね、今日は四月の十二日ですから、開始はキリよく五月の一日から、というところでいかがでしょうか。武藤さんがお勤めの『榎本総合研究所』にも、正式な依頼としてそのように申し入れをさせていただきます。あ、今後、お嬢様には私めがお供いたしますので。では今晩のところは失礼いたします」
笑顔でつらつらと滑舌よくそう告げ終えると、新見は七十歳越えとは思えない足運びで去って行く。
その背を言葉もなく見送る恭介に、静香がそっと声をかけてきた。
「恭介様?」
「……俺はしくじったのか?」
憮然とした顔でそう呟いた恭介に、静香が笑顔と共に返す。
「恭介様なら、成し遂げられますわ」
その目に溢れているのは、彼に対する全面的な信頼だ。それを裏切ることなど、恭介にはできなかった。
「やってみせるさ」
そう返した恭介に、静香はニコリと笑う。
「お待ち申し上げております……どうしても辛抱できなくなってしまいましたら、駆け落ちでもいたしましょう?」
大輪の花がほころぶような笑顔で、彼女はそう言った。
互いへの気持ちを打ち明けあってからひと月。
そのひと月の間も、逢う度に彼女への愛しさは募っていくばかりだ――まるで、それまで抑え込んでいた分がバネにでもなったかのように。
胸を締め付ける想いと共に、彼は再び彼女に向けて手を伸ばす。
――新見の登場で妨げられたことの続きをする為に。
触れ合った唇は温かく、そして柔らかかった。