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3月はお別れの月

 げんは警備主任からの報告を聞き終えた。

 高部たかべという名のその男は寡黙かつ優秀だ。常に表情を崩さず、冷静に行動をする。

 その彼が、今は微かに眉間にしわを寄せていた。

 問題が大きかったからではない。

 むしろ逆だ。

 高部自身、その報告に上げる価値があるのかどうか、迷うところがあったのだろう。

 時計を見れば、時刻は八時十七分――静香しずかたちは車の中だ。

 恭介きょうすけの携帯にかけてもいいのだが、狭い車内では当然静香にも気付かれる。愛娘にくだらない些末事を聞かせるのは気が進まなかった。

 ――さて、どうしようか。

 元は腕を組んで考える。

 五月からこっち、『奴』に動きがあったという報告は、今回で五度目になるのだ。その都度恭介に知らせて警戒させていたが、毎回、何事もなく空振りに終わっていた。

 結局、『奴』はケチな小悪党に過ぎないのだろう。

 綾小路の周りをチョロチョロするばかりで爪一つ立てられやしない。

 そんな輩の為に、静香の晴れの日を曇らせなくてもいい。

「帰ってからでいいか」

 何となく嫌な予感を覚えながらも、元はそう呟いた。

 どうせ今日は卒業式。昼には帰ってくる。

 ――約四時間後、彼はこの決断を死ぬほど悔やむことになるのだ。


   *


 三月三日。

 今日は私立聖恵せいけい女子学院の卒業式である。この日をもって、ついに静香も高校卒業だ。

 取り敢えず無事に式を迎えることができたことに安堵する恭介の気持ちは、恐らく静香自身よりも大きいに違いない。どんな成績だろうともストレートで卒業させてくれる学院の方針には、感謝の一言しかない。

 卒業後の静香は進学せずに元のサポートに回る。

 元の跡を継ぐ為に必要な知識はすでに身に付けているから、大学へ行く必要はないのだ。前々から、彼女が元の代わりにパーティーなどに出席することがあったが、今後は次の綾小路を担う者として行動することになる。

 まさに別世界の住人――今の『付き人』という職を辞すれば、静香と恭介の接点など針の先より小さくなってしまうことは必至だ。

 手を伸ばせばすぐに触れることができる距離。

 この近さに居られるのも、今日が最後なのかもしれない。

 ふと胸の中に吹き込んだ弱気の風を振り払おうとして、恭介は隣で車の窓の外を眺めている静香へ声をかけた。

「卒業式が終わるのは十一時半でしたっけ?」

「ええ」

 車窓から恭介へと視線を移した静香が頷く。

「少しお友達とゆっくりしてから帰りますか?」

「いえ、琴子様方とはまた後日のお約束がありますので、今日はすぐに帰りますわ。お父様とお母さまもお待ちになっていらっしゃいますし」

「わかりました」

 そうして、会話が途切れる。が、静香の目は恭介に向けられたままだ。その色はどこか沈んでいる。

 恭介は、落ち込ませるようなことを言った覚えはないのだが、と首をかしげつつ問いかけた。

「どうかしましたか?」

「いいえ……高校を卒業しても皆様が遠くに行ってしまわれるわけではありませんのに、少し寂しく感じられてしまって。皆さまと共に進学しないことを選んだのは、わたくし自身ですのに」

 そう言った静香の口元に浮かんでいるのは、微かな苦笑だ。彼女の台詞に、恭介は自分の八年前――卒業の時を思い返してみた。

 そう言えば、彼も何となく心許ない気分になっていたような気がする。

 在籍していた時にはさして感じなかったが、『学校』というものはあれで意外に拠り所というものになるらしい。

「ずっと同じではいられませんわ。それは承知しておりますけれど、いざその時が来てしまうと、寂しいこと」

「そうですね」

 彼女の台詞が自分のことも含んでいるような気がして、恭介の胸がチクリと痛む。静香にはまだ何も伝えていないので、気の所為あるいは気にし過ぎに違いないのだが。

「ねえ、武藤」

「はい?」

 何となく胃の辺りに手をやりながら、恭介は答える。横を向けば、全てを見透かすような深い眼差しが彼に向けられていた。

「あなたは、変わらずわたくしの傍にいてくださる?」

 見つめながらのその問いに、恭介の息が一瞬詰まる。

 彼はまだ何も告げてはいない。だから、その言葉に深い意味はないのだろう。

 ただ、卒業という人生の節目で少しナーバスになっているだけだ。

 彼女に気付かれないようにこっそりと深呼吸をして、恭介は考える。

 静香が望んでいるのは、今のままの関係なのだろうか。

 だとすれば、答えはノーだ。恭介は、この『主』と『従』の関係を切ろうとしているのだから。

 だが、彼女が別の関わりでも彼が傍にいることを求めてくれているのであれば――

 恭介には、はっきりとした答えを口に出すことができなかった。

 自分の望むものと彼女の望むもののすれ違い具合が、判らなくて。

「それを決めるのは、俺じゃないですよ。……ああ、ほら、着きました」

 結局そんなふうに逃げてしまって、何か言おうとした静香を遮るように、恭介は窓の外に目をやりながらそう告げた。折よく、彼の言葉と共に、車は聖恵女子学院の駐車場へと進入する。

 車が停まるとさっさと降りて、恭介は静香の側のドアを開けてやった。

「じゃあ、また後で」

 わずかな間、静香は釈然としない顔付きで恭介を見上げていたが、やがてホッと小さな息をついた。

「……行ってまいります」

 短くそれだけ言って、静香はふわりと裾を翻して校舎へと向かっていく。

 この期に及んでごまかしてしまう自分の往生際の悪さにうんざりするが、現実的に時間がなかったことも事実だ。卒業式に遅刻させるわけにはいかないのだから。

 言い訳がましくそう自分に言い聞かせ、恭介は車に戻る。運転席との仕切りを開けて杉田に声をかけた。

「杉田さん、そうしたら、お願いします」

「了解。十一時半までに戻るんだよね?」

「はい。俺の用事はすぐ済むんで」

「じゃ、行こうか」

 杉田はそう言うと車を発進させた。

 しばらくの間、車内は静まり返ったまま走り続けた。が、やがて沈黙に耐えきれなくなったのか、杉田が口を開く。

「武藤君、ホントに辞めちゃうの?」

「ええ、もう決めてますから」

 残念そうな杉田に、恭介はきっぱりと答える。

 静香が学校に行っている合間に、恭介は次の勤め先を探していた。それには杉田の協力が欠かせなかった為、彼には静香の元を離れることを教えてある。

 今、そのことを知っているのは彼と元だけだった。

「お嬢様、泣いちゃうかもですよ?」

「それはないでしょう」

 からかいは皆無の杉田の台詞に、恭介は力なく笑った。

 涙をこぼす静香など、想像もできない。

 実際のところ、これは一か八かの賭けだった。

 いや、もう少し分は良いと思っている――思いたい。

 だが、恭介から辞職を願い出て、にっこり笑ってさようならと言われてしまえば、彼女とのつながりを修復することはかなりの困難を極めるだろう。

 もちろん、努力はする。

 だが、努力をしても、それが報われるとは限らないのだ。

 考えているとマイナス方面への想像ばかりが進んでしまい、もしかしたら今のままの方がいいのではないかとぐら付く時もある。しかし、その度に彼は顔を上げて気持ちを奮い立たせてきた。

「着いたよ」

 物思いにふけっていた恭介を、杉田の一言が現実に引き戻す。

「ありがとうございます。三十分ほどで終わりますんで」

「じゃ、そのくらいにまたここで待ってるよ」

「どうも」

 頭を一つ下げて車を降りた恭介は、目の前の雑居ビルを見上げた。五階建てのビルの三階の窓に貼られているのは『榎本総合研究所』の文字だ。そこが、四月から彼が働くことになっている場所だった。

 恭介は狭い階段を使って三階を目指す。

 『榎本総合研究所』は個人で経営コンサルティングを行っている。

 所長の榎本倫太郎はさる大手不動産会社の社長だったのだが、それを引退後、殆ど老後の楽しみとして開業したらしい。不動産会社の社長といったらどちらかというとガツガツした人物を想像するが、榎本は穏やかな好々爺だ。

 静香の元を辞すると決めてから、元に叩き込まれた知識を武器に、恭介は様々な業種を片っ端から当たってみた。その中で彼を拾ってくれたのが、この『榎本総合研究所』だ。

 事務所のドアを開けると、すぐに穏やかな声がかけられる。

「やあ、来たね」

「こんにちは」

 ごちゃごちゃとした室内は、所狭しと書類やら何やらが積み上げられていて、歩くのも気を遣う。だが、榎本はそんな状況にも慣れているのか、スタスタと歩いて恭介の元にやってくると、手を差し伸べて促した。

「入って入って。みんな――と言っても僕の他には二人しかいないんだけどね。少数精鋭なんだよ。二人とも、君を待ってたんだ。ほら、彼が武藤恭介君。四月からここで働くよ」

 榎本は事務所内にいた男女を手招きする。どちらも三十代そこそこだろう。ペコリと頭を下げてくる。

「じゃ、ちょっと話を詰めようか」

 恭介を手招きしてソファに座らせると、榎本は手帳片手に切り出した。

「仕事始めるのは四月からでいいんだよね?」

「それですが、来週からでも来ていいですか? 給料は結構です。四月から動けるように、少し仕事を拝見しておきたいので」

「それはいいけど、今のところはいいの? そんなに急に辞めちゃって」

「はい、大丈夫です」

 元々、仕事と呼ぶのもはばかられる代物だ。別にいなければならないというものではない。

 静香は元の後継者として忙しくなるだろうが、そちらについては新しく付く個人秘書が面倒を見てくれる。

 恭介の出る幕はもうない。

 そう自分に言い聞かせつつ、彼は頷いた。

 多分、一番問題なのは、彼自身が、静香がいない状況に慣れることなのだ。こちらで仕事を始める前に、その猶予期間が、少しでも欲しい。

「じゃあ、三月の十五日からってことでいいかな」

「はい」

「うちは週休二日でね。盆暮れ正月も休み。僕も年だからそんなに働きたくないんだよ。その分、勉強はしてもらいたいんだけど……君はもう必要なさそうだよね。知識は充分、後は実践あるのみってね。まあ、でも、人生死ぬまで学ぶことはあるからね。頑張ってね」

「はい、よろしくお願いします。では、そろそろ行かないとなので」

「あ、うん、今は今の仕事が優先だからね。じゃあ、また。これからよろしくね」

 恭介は深々と頭を下げると立ち上がった。

 のんびりとした榎本の喋り方の所為か、話した内容はさほど多くないのに時間はそこそこ経っていた。

 ビルから出ると、すぐに杉田の待つ車が目に入る。駆け足で向かい、乗り込んだ。

「遅くなりました」

「いえいえ、ほぼ時間どおりだから。じゃ、学園に行くよ」

 走り出した車は真っ直ぐに聖恵女子学院へと向かう。

 恭介は窓の外を眺めながら、先の事を思った。あと十日もすれば静香のいない生活になる。

 五年間――いや、もう六年と言ってもいい――常に彼の視界には静香の姿があった。

 彼女がいない生活がどんなものだったか、今はもう思い出せない。

 その前の二十年間は、彼女のことなど知りもしなかったというのに。

 いつしか彼の胸の奥深くに入り込んでいた存在は、今は何よりも大事なものになってしまった。

 静香の傍にいたいと思う。

 だが、隣にいても触れることができない関係は、もうゴメンだった。この腕で抱き締めて、彼女の名前を声に出して呼びたいのだ。

 ――その為には、一歩を踏み出さなければ。

 もしかしたら隣にすらいられなくなるかもしれない可能性は敢えて無視して、恭介は何度目になるか判らない気合を入れた。


   *


 卒業式は滞りなく終えられたようで、静香は時間通りに駐車場に現れた。隣には彼女の友人である西園寺琴子さいおんじ ことこの姿もある。

 恭介にはすぐに気付いたようで、下級生からもらったらしい山のような花束を抱えて琴子に一礼すると、彼の方へ向かってくる。

「卒業おめでとうございます」

 よくぞ落とさず持っていられたものだと感心するほどの花の山を受け取りながら、恭介は取り敢えずそう口にした。

 戻ってきたのは色取り取りの花束よりも艶やかな、笑顔。

「ありがとうございます、武藤」

「……行きますよ」

 反射的に目を逸らしそうになるのを抑え、恭介は車へと歩き出した。杉田が開けてくれたトランクに花束を入れ込み、二人は車中の人となる。

「何処か寄りますか?」

「いえ、このまま帰ります。……お家に着きましたら、お話したいことがありますの。お聴きになってくださる?」

 静香のその台詞に、恭介は微かに眉根を寄せる。いちいち確認を取らなくても、彼が静香の話を聞かなかったことなどない筈なのだが。

「ええ……?」

 怪訝な顔をして頷く彼に、静香は嬉しそうに微笑んだ。いつもと変わらぬその笑顔の裏にあるものを見ようとしても、恭介には無理だった。そして静香はそれ以上何も言わず、窓の外へと目を向けてしまう。

 恭介の方にも、話はあった。

 彼女が卒業式を終えたら、辞職を切り出そうと思っていたのだ。

 都合がいいと言えば都合がいい――そう思おうとした恭介だが、改まっての静香の話の内容が気になって仕方がない。

 ジリジリと落ち着かない気持ちの恭介をよそに、杉田はいたって安全運転でのんびりと車を走らせているし、静香は静香で黙って窓の外を眺めている。

 と、不意に。

「あら。武藤、お車を停めて下さる?」

 突然静香が振り向いたかと思うと、そんなことを言い出した。角を曲がれば屋敷の門だ。

「え? あ、はい。杉田さん、停めてください」

 何だろうと思いながら、恭介は運転席との仕切りを開けて杉田に告げる。

「了解です」

 そう答えつつも、後続車のこともあり、杉田は少し走らせてから路肩に寄せた。とは言え、流れは多くない。一台が追い越していけば、それきりだった。

「何なんです?」

「お車の故障の様でしてよ」

 静香が後方を振り返りながら言う。

 彼女の目が向けられている方を見てみると、確かに一台の車が路肩に停められており、脇に途方に暮れている風情の初老の男が佇んでいた。

「お困りのようでしたら、お手伝いなさってあげてくださる?」

「……わかりました。中で待っていてください」

 パンクかガス欠程度なら、恭介にも何とかなるだろう。スーツを脱いでシャツの袖をめくりながら、車を降りる。

「どうしました?」

 男に近付いて声をかけると、彼はおたおたと振り向いた。えらくくたびれた様子の男で、パッと見七十近いかと思われたが、実は意外に若いのかもしれない。

 その顔に、恭介は「おや」と思った。

 どこかで見たような気がしたのだ。

 どこでだろうかと思い出そうとした矢先、しどろもどろに男が口を開く。

「あ、その……タイヤが……」

 男の視線が向いた方へ目をやると、右後輪がぺちゃんこになっている。

「ああ、パンクですか。レッカーを呼んでもいいですが……スペアのタイヤはありますか? ジャッキとか」

「あ、はい、積んである筈です」

「じゃ、取り敢えずそれに換えますんで、また車屋に行ってちゃんとしたのに換えてもらってください」

「ありがとうございます! 助かります!」

 大げさなほどに男は感謝の声をあげ、バーコード頭を振り乱しながら何度も頭を下げてくる。

 一本だけだから、十五分もあれば終わるだろう。やれやれと内心でため息をつきながら男にトランクを開けてもらう。恭介はジャッキとレンチ、スペアタイヤが揃っていることを確認する。

「そっちで待っていてください」

 男に歩道に入るように指示を出しておいて、車の脇に屈みこむ。恭介はガソリンスタンドでバイトをしていたこともあるので、タイヤ交換もさして苦ではない。ねじを緩めてジャッキをセットし、車体を持ち上げた。手際よく作業を進めていく。

 それが起きたのは、ちょうどタイヤを外し終えた時だった。

「うわ!?」

 前方で上がった声に、恭介はハッと顔を上げる。いつの間にか男の姿が無くなっている。

 首を巡らせてまず目に入ったのは、運転席から引きずり出されて地面に転がる杉田の姿。

 そして走り出す、車。

 リアウインドウ越しに、静香と目が合った。

 呆然自失したのはほんの一瞬だった。すぐさま杉田の元へ走りながら、携帯を取り出す。

「怪我は?」

「ないです。でも、お嬢様が……!」

 顔を歪めて呻く杉田の腕を引いて立ち上がらせつつ、短縮ボタンで元を呼び出した。三コールでドスの利いた声が応じる。

「何だ?」

「お嬢サマが攫われました」

 正門に向けて歩き出しながら、端的に、事実だけを伝える。返ってきたのは、沈黙だった。そして続いた舌打ち。

「申し訳ありません」

「いや……ワシも油断していた。今どこだ?」

「屋敷のすぐ外です。門の間際でやられました」

 仮にも名家のお嬢様なので、帰宅ルートは数通り用意してランダムに変えている。だが、家の近くまで来てしまうと、道は限られてきてしまうのだ。きっと、犯人はそこを狙ってきたのに違いない。

「すぐ戻ります」

「監視室で待ってるぞ」

 それきりブツリと切れた電話を閉じて、恭介は杉田を振り返る。

「俺は先に行きます」

 言い置いて、後は全力で駆け出した。


   *


 伝統的な日本家屋に見える綾小路家も、セキュリティはかなり入念に張り巡らされている

 。随所に仕掛けられている監視カメラをモニターしているのが監視室だ。ずらりと並べられたモニターは、常時二人の人間の目で異常がないか見張られていた。

 息せき切って恭介がその監視室に跳び込むと、すでに到着した元が肩越しに振り返る。彼の他に、勤務中の警備員二人と警備主任である高部がいて、モニターの一つを覗き込んでいた。

「おう、来たか」

「申し訳ありません……」

 喰いしばった歯の間から絞り出すようにして、恭介は辛うじてそれだけ言う。どんなに言葉を尽くしても、彼の失態は取り戻せないのだ。

 そんな彼に、元が苦笑する。

「いや、ワシも油断していた。今朝、また奴が動いたってぇ報告は受け取ったんだがな、また大したことはするまいよと、高を括っちまった。五度目の正直だったな。これも奴の企んだことならちと評価を変えてやるが、ただ単に、ようやくふん切れたってだけだろうな。クソ忌々しい」

「それでも、俺が気を付けていたら良かったんです」

 その言葉と共に、恭介は強く拳を握り込む。それで自分の横っ面を殴り飛ばしたくてたまらなかったが、今は解決策を探すのが何よりも先決だった。

「警察には?」

「いや、ウチの奴らで片を着ける」

 確かに、警察を呼べば洩れなくマスコミもついてくる。

 静香の容姿はさぞや衆目を集めることだろう。誘拐されたとなれば、妙な醜聞で彼女を中傷するような輩も出てくるかもしれない。

 そんなのはゴメンだ。

 恭介は警備員たちの視線が集まるモニターを覗き込む。

 映し出されているのは、屋敷の中ではなかった。それは、走り去った車内の様子である。

 普段は使われることがないが、いざという時の為に、静香や元が使う車にはカメラとマイク、そしてグローバル・ポジショニング・システム――いわゆるGPSが仕掛けられている。恭介がここで働き始めてから稼働しているところを見るのは初めてだが、備えあれば憂いなしという言葉が今ほど身に染みたことはない。

 左右に分割された画面の左には運転席に座る男の顔。右には後部座席に座る静香とその両側に一人ずつ男の姿。そのうちの一方は、あのパンクした車の傍にいた初老の男だった。

「こいつか……」

 恭介は、後部座席の男を食い入るように見つめる。

 最初――五月に注意するようにと指示された時に写真を見せられたのだが、言われてみると、そこにあった男の面影がある。

 だが、それよりも随分とやつれ、少なくとも十歳は年を取っているように見えた。

「まったく、ケチな横領だったから警察には突き出さないでやったものを……変な情けはかけるもんじゃねぇな」

 恭介の隣で、元が苦々しい声でぼやいた。

 事の始まりは、五月。

 綾小路グループのメイン分野である不動産会社の重役だったこの男――鈴木三郎が横領をしたことが発端である。

 額は数百万であり、手口も甚だお粗末なものだった。本来ならば警察を介入させて処罰するところを、変に騒がれるのも面倒だと元は解雇しただけで済ませてしまった。

 逮捕されれば数年は食らい込むところを免れたというのに、どうやら鈴木は逆恨みをしたようで、以降チョロチョロと綾小路の周辺をうろついていたのだ。

 もっと深刻に受け止めておくべきだったと、恭介は臍を噛む。

「あの車、遠隔操作でエンジン停められるんでしょう?」

 他のモニターに映し出されている地図上を動く点は、どんどん屋敷から遠ざかっていく。GPSが見失うことはないだろうが、恭介は気が気ではない。

「いえ、そうしたら車を捨てて逃げられてしまうでしょう。ある程度泳がせて、目的地まで行かせてしまった方がいい。もうじき救出部隊のメンバーが揃いますから、到着し次第出発します」

 画面から目を放さず、高部が冷静な口調で言う。だが、鈴木三郎はともかく、他の二人の風体は明らかにゴロツキだ。彼らが何か良からぬことを考えたら、鈴木に抑えられるとは思えない。

 もしも奴らが静香に擦り傷一つ付けようものなら――

 軋むほどに奥歯を噛み締めた恭介を、高部の声が現実に引き戻した。

「あ、話し始めましたよ」

 そう言って、高部がスピーカーの音量を上げる。

 恭介は頭の中に立ち込めたどす黒いものを振り払って、スピーカーに集中した。

『鈴木様とおっしゃいましたかしら?』

 そう切り出した静香の声に、怯えは微塵もない。まるでパーティーか何かで話しているかのように朗らかだ。

『ええ、よく御存じで。お父さんにクビにされましてね。一文無しになってしまったので、ちょっと退職金をいただこうかと思ってるんですよ』

『まあ……それはお気の毒ですこと』

『そうでしょう? この年になったら、再就職も難しいですからね』

 痛ましげな静香の声と、それに気を良くしたような鈴木の返事。

 そうやって宥めていてくれれば、救出まで穏便に過ごせそうだ。

 恭介が少し安堵したのも束の間のことだった。

 続いた静香の台詞に悲鳴を上げたくなる。

『父も、甘いところがおありですから。きちんと相応の罰則をお与えになっていらっしゃったら、鈴木様がこのように血迷うことはありませんでしたのに』

『は?』

『あるいは鈴木様がもっと父を感嘆させられるようなことをなさってらっしゃれば、今頃はまだ同じ地位におられたかもしれません』

『え?』

『確か、事務用品の代金を水増しして、その差額を着服されたとか。なんとも、お小さいこと。それでは、とてもとても……』

 のんびりおっとりした静香の口調でごまかされているが、鈴木を貶していることに間違いない。

 チンピラ二人のせせら笑いが、BGMに入る。

 ここまできて、ようやく彼もけっして自分が同情されているわけではない、ということに気が付いたようだ。

『な、何不自由のないお嬢様のあんたに、何が解かるというんだ! あんたの父親の所為で、あんたの父親がクビにした所為で、妻と子は出て行ったんだ! 文無しに用はないとばかりにな! 俺の気持ちが解かるか!? 解からんだろう!?』

 激昂する鈴木など、静香はどこ吹く風という風情だ。ニッコリと微笑んで彼の怒りに応じる。

『ええ、そうですわね。申し訳ありませんが、鈴木様のお気持ちは解かりかねます。ですが、奥様方のお気持ちは解かる気がします』

『何?』

『わたくしにもお慕い申し上げる殿方がおりますの。相手の方を尊敬する気持ちがあれば、お金の有無は大きな問題ではありません。その方がたとえ一円もお持ちでなかったとしても、わたくしは一生お傍に居させていただきたいと願いますわ』

 それは即ち、鈴木が尊敬するに値しない男だということで。

『クソ、この……!』

 鈴木の肩がブルブルと震えているのが見て取れる。今にも拳を振り上げそうな彼の隣で、静香は真っ直ぐに背を伸ばし、柔らかく微笑んだままだ。

「怒ってんなぁ、あいつ……」

 隣で漏れた元の呟きが示す『あいつ』がスズキのことでないのは明らかだ。

 呑気すぎる元に、恭介はそんな場合じゃないだろう、と彼の胸倉をつかんで揺さぶりたくなった。

 辛うじてその衝動を抑え込み、高部へ向き直る。

「まだですか」

 恭介が尋ねたのは、救出部隊のことだ。高部はチラリと腕時計に目を走らせる。

「そうですね。そろそろ到着する頃です。では、皆さんはこちらでお待ちになっていてください。必ず静香さんは取り戻しますから」

 そう言って部屋を出て行こうとする彼を恭介は追いかける。

「俺も連れて行ってください」

「しかし、荒事になるかもしれません。相手の数もはっきりしませんし」

「黙って待っているなんてできないんです。頼みます」

 恭介は懇願と共に深く頭を下げた。

 彼が行っても何もできないだろうが、少しでも静香の傍に行きたいのだ。遠く離れた場所でただ待つだけだなんて、とてもではないが我慢できない。

 顔を上げて高部を見ると、困惑した眼差しで恭介を見、そして元を見た。

「いいさ、連れてってやってくれよ。相手が鉄砲でも持ってたらヤバいだろうが、そこまでのヤツをあいつが仲間にできるとも思えんしな。まあ、怪我をしたら自己責任ってやつだ」

「綾小路さん……」

 元の後押しがあってもまだ少し迷いがあったようだが、やがて高部は小さく息をついて頷いた。

「まあ、いいでしょう。助け出した時に、あなたがいた方が静香さんも安心するかもしれませんね。その代り、指示には従ってくださいよ?」

「はい、ありがとうございます」

 恭介は再び頭を下げる。今度は感謝の意を込めて。

「では行きましょう」

 先に立って監視室を出た高部に続き、恭介も玄関へと向かう。と、部屋を出てすぐに雅と行き合った。

「武藤さん」

「雅様」

 娘を案じる彼女は両手を胸の前で固く握り合わせている。その顔も手も血の気を失っていた。

「静香さんをお願いね? 早く連れて帰ってあげてね?」

「もちろんです」

「あの子はきっと武藤さんをお待ちしていてよ」

 恭介は、今度は無言で頷いた。静香は彼を信じて待っているだろう。あの吹雪の時に、蒼白になりながらもじっと待っていたように。

「雅」

 彼女の声を聞き付けたのか、監視室から元が顔を出した。

「旦那様」

 小走りで駆け寄りそっと彼に寄り添った雅の肩に、元が腕を回す。出会った当初は何と不釣り合いな夫婦だろうと思ったものだが、そうやってピタリとくっついている姿は、これ以上はない似合いの夫婦に見えた。

「頼んだぞ、武藤」

 元が彼の名を呼ぶことは、滅多にない。それだけに、その一言に元の強い気持ちが込められていることがヒシヒシと伝わってくる。

「すぐ、戻ります」

 短くそれだけ言って、恭介は高部の後を追いかけた。


   *


 GPSが示したのは、山梨県との県境に近い奥多摩湖湖畔に散在する、打ち捨てられた別荘のうちの一つだった。

 この辺りは、かつては別荘地としてそれなりに盛っていたが、今は過疎化が進み手入れも満足にされていないような住宅が目立っている。

 その中でも湖から少し離れてポツリと佇む一軒の廃屋の近くに、恭介と高部、そして彼の五人の部下は身を潜めていた。

「確認できた限りでは、相手の人数は鈴木三郎とチンピラ二人の三人だけですね。他にはいなそうだ」

 スコープで中を窺いながら、高部が囁く。

 外からでは、静香と鈴木の姿を見ることはできない。時折窓を横切るのは、チンピラばかりだ。

「元様のところに身代金の請求があったのは一時間前です。用意に六時間かかると告げたら、すんなりそれを受け入れてくれたそうですけど、そんなもんですかね」

 声を潜めた恭介の問いに、高部が肩を竦める。

「交渉しない辺りはいかにも素人くさい。相手の言うことをすんなり聞いてしまっては優位に立てないですから、形だけでもごねるもんです。チンピラたちも単に腕っぷしを必要とされているだけ――成功報酬で誘拐の片棒担いだってところでしょう。外の様子を全く気にしていないですね。追手が来るとは夢にも思っていないようだ。手強い相手ではありません。静香さんの状況が判ればより安全に救出できるのですが……」

 高部が少し迷いを含んだ声で呟く。

 重要なのは、静香の安全だけだった。ほんの一筋たりとも彼女を傷付けるわけにはいかない。

 それ故に慎重にならなければならないのだが――気が逸る。

 多分、静香は泰然自若としていることだろう。

 必ず元と恭介が助けると信じているから。

 ろくでもない男に囲まれている静香を想像して死ぬほど怯えているのは、恭介の方だ。一刻も早くこの手に静香を取り戻さなければ、彼の頭はおかしくなりそうだった。今すぐにでも突っ込んでいきたいところを、かろうじて自制する。

 拳を握り締めた恭介は、高部の声で我に返った。

「取り敢えずはチンピラ二人を制圧しましょう――加瀬と野村はチンピラA、山木と赤根はチンピラBをやれ。鈴木には気付かれないようにな。浜田は外で見張りだ。奴らの仲間が他にいるとは思えないが、もしも誰かが来るようであれば連絡を。武藤さんも浜田と外に残ってください」

「いや、俺も行きます」

「しかし……」

「後ろに隠れてますから、行かせてください」

 一歩も引かない恭介の眼差しに言い争うだけ無駄だと悟ったのか、高部は小さく息をついた。

「……――わかりました。ですが、決して勝手に動かないでください。いいですね?」

 実際のところ、静香を目の前にして動かずにいられる自信はなかったが、恭介は無言で深い頷きを返す。

 高部は若干の疑いを含んだ眼差しを彼に向けたが、揉めても埒が明かないと判断したのだろう。部下五人に目配せをすると、蛇のようにひそやかに、別荘に向けて動き始めた。


   *


 チームの動きは鮮やかなものだった。

 玄関の鍵をピッキングで数秒のうちに開け、チンピラどもに背後から音もなく近づくと一瞬にして無力化した。縛り上げ、猿轡を噛ませた二人を納戸に押し込めたのは、侵入してから五分も経たないうちの事だった。

「さて、静香さんはどこでしょうね。散って探した方が効率がいい。二階建てで地下もあるのか……なら、加瀬たちは地下、山木たちは二階を見てきてくれ。私と武藤さんは引き続き一階を捜索する。行け」

 高部の合図と共にサッと四人が動く。

「では行きましょう」

 恭介に指を振って合図をすると、高部は壁に沿って歩き出した。

 結構大きな別荘で、一階だけでも五部屋以上ある。チンピラたちは足音を立てて歩き回っていたからすぐに見つかったが、おとなしくされているとなかなか厄介だ。

 一つ一つのドアの前で気配を探り、中を確認していく。

 と、四番目のドアの前に立った時だった。

「時々、学院の外から中をご覧になっていらっしゃったのは鈴木様でしょう?」

「ああ、そうだ」

 静香と鈴木の声だ。

「貴方のその行動で、学園祭の警備が増えてしまいましたの。高校生活最後の学園祭でしたのに」

 おっとりと、世間話をしている口調。今度は鈴木の返事はない。

「わたくしは、今日、とても大事なご用がありましたのよ? もうずいぶん前から、今日こそはと心に決めておりましたの」

「だから、何だ!? 俺は人生を潰されたんだぞ?」

「それは、貴方がなさったことの為。そうではありませんこと? お父様はあのように見えて実は情に弱いところがおありですから、貴方を罪には問われませんでした。そこで奥様と第二の人生を歩まれたらよろしかったのに。初めのうちは、奥様もお傍にいてくださったのではなくて? 仮にも貴方はお父様がそれなりの地位にお就けになった方。最初からおできにならない方だったとは、思えません」

 また、無言。だが、張り詰めた空気が扉の向こうから漂ってくる。

 ――頼むから、もう口を閉じていてくれ。

 殆ど祈るような気持ちで恭介は胸中で呟いたが、無駄だった。

 容赦なく、静香が言葉を綴る。

「わたくしならば、愛しく想う方の手を放したりはしませんことよ? その方が、わたくしがお慕いした方のままでいる限り。貴方は、奥様がお慕いした貴方とはお変わりになってしまわれた。それは、いつの頃からのことでしょう? お父様が貴方を辞めさせられた時? 貴方が不正をお始めになった時? それとも、更に前でしょうか? 奥様のお気持ちを、お金でお引き止めになろうと思われたのでしょうか?」

 直後に響いた、ガタンという何かが倒れた音。そして、怒声。

「うるさい! 黙れ!」

 サッと、高部が恭介に目配せすると、一気に扉を開け放った。

 飛び込んだ先にいるのは、背筋を伸ばしてベッドに腰掛けている静香と、のしかかるようにその前に立つ鈴木三郎。

 突然姿を現した恭介たちに鈴木は一瞬呆気に取られたが、驚くほどの速さで静香を抱え込むと背広のポケットからナイフを取り出した。

「来るな! 何だお前たちは!? あいつらはどうした!?」

 二人に向けてナイフを突き出しながら、鈴木ががなり立てる。

「チンピラ二人なら、拘束した。あなたにはもう仲間はいない。おとなしく静香さんを放すんだ」

「うるさい……うるさい! さっさとそこをどけ!」

 鈴木は口から泡を飛ばしてそう怒鳴る。そして、あろうことか、ナイフを持つ方の肘を曲げ――静香の首元へと突き付けたのだ。

「貴様――ッ」

 詰め寄ろうとした恭介を、高部が引き止める。

「落ち着いて」

 耳元で囁かれ、恭介は奥歯をきつく噛み締める。目の前に静香がいるのに――しかも他の男の腕の中にいるのに、手を伸ばせないとは。

 はらわたが煮えくり返りそうだ。

 感情が目に映るものであるならば、恭介の身体からは炎のように噴き出す怒りが見えるに違いない。気圧されたように、鈴木が静香を捉えたまま一歩後ずさった。

「……いいか」

 激昂したものではない、低く押し殺した声で、恭介が告げる。

「彼女にほんの少しでも傷を付けてみろ。その腕引っこ抜いて貴様の胃の中にまで捻じ込んでやる」

 『人の十や二十は殺しているのは間違いない』と親にも言われるその目付き、雇ったチンピラの数倍恐ろしい顔で睨み付けてくる恭介に、鈴木の手が震える。無意識のうちに、静香を捉えている彼の腕が緩んだ。

 と、次の瞬間。

 宙に舞った、大柄ではないが決して小柄でもない鈴木の身体。

 そして響いた、それが床に叩き付けられる音。

 呻き声。

「投げ、た……?」

 恭介の隣から呆気に取られた声が上がる。

 床に転がった鈴木も、ポカンと目と口を開けて天井を見上げたままだ。

 どこからどう見ても淑やかなお嬢様でしかない静香が大の大人を投げ飛ばせば、それは確かに我が目を疑うだろう。だが、静香は一通りの護身術を身に付けているのだ。普段の練習風景を目にしている恭介には、見慣れた光景だった。

 すかさず彼は静香に駆け寄り、さっさと鈴木から遠ざける。

「武藤、お迎えに来てくださったのね?」

 彼の前に立った静香は、そう言って満面の笑みを浮かべた。まるでいつもの出迎えのように、何の陰もない笑みを。

「すみません、俺が――」

 目元を歪めて静香を見下ろし言いかけた恭介の唇に、彼女の指先が触れる。その柔らかさと温かさに、口どころか全身が固まった。

「貴方が来てくださると、信じておりました。少しも怖くありませんでしたのよ?」

 何の気負いもなくそう言われ、恭介は言葉もなく唇に当てられたままの彼女の手を両手で包む。少しの間そのまま口元にとどめ、そして下ろした。手は握ったままで、放さない。

 恭介が静香の黒曜石のようなその目を見下ろすと、彼女も彼を真っ直ぐに見つめ返してくる。

 互いの目を覗き込んで身じろぎ一つしない二人の間に、どこか気まずげに第三者の声が忍び込んだ。

「あの……私は彼を連れて先に車の方へ行っていますので」

 鈴木を捉えた高部は意味ありげな笑みを浮かべて会釈をすると、連れ立って部屋を出て行った。鈴木の処分は、元が決めるだろう。今度こそ警察に突き出すのか、あるいはまた別の方法で罰するのか、いずれにせよ、それは恭介の関与するところではない。

 恭介はチラリとその背を見送って、再び静香に目を戻す。その顔をジッと見つめ、そして片手を上げて彼女の頬に触れる。ナイフが触れそうだった側の髪をよけて、また見つめる。

 白くまろやかな頬にも、スラリとした首にも、どこにも傷はない。

 苦しいほどに胸に込み上げてくるものは、ただ安堵の気持ちだけだった。

 頭が働くよりも先に腕が動いて、彼女の背に回る。その細い身体を引き寄せ、抱き締めた。

 艶やかな黒髪に頬を寄せて、振り絞るように囁く。

「無事で、良かった」

 返事はない。言葉の代わりに彼女が寄り添ってくるのを感じて、恭介は腕の力をわずかに増した。


   *


 屋敷に帰ると、静香を待っていたのは嬉し涙で頬を濡らした雅の抱擁だった。

 元は妻に抱きつぶされそうになっている娘の頭をガシガシと乱暴に撫で、恭介に満足そうな笑みを向けた。

 杉田も大泣きで、一番宥めるのが大変だったのは、彼かもしれなかった。

 誘拐された当の本人である静香が一番落ち着いており、夕食の頃には、綾小路家はすっかり普段の様子を取り戻していた。

 そして、今、恭介は中庭の池のほとりにいる。

 夕食後に、この時間、この場所に来るようにと静香に乞われたのだ。

 半月よりも少し丸い下弦の月は、充分な明るさを放っていた。水面に映る月影を、微かな風が揺らす。

 彼女が呼び出してくれたのは、恭介にも好都合だった。昼間のうちに言おうと思っていたことを、ようやく告げられる。

 深く呼吸をし、恭介は、自分の両手のひらをジッと見つめる。

 昼間抱き締めた静香の身体。

 全身で彼女を感じた時、心の底から手放したくない――手放せないと思った。その為には、何でもしよう、と。

 その覚悟と共に両手を握り締めた恭介の耳に、砂利を踏む微かな音が届く。次いで、鼓膜を震わす、柔らかな声。

「武藤?」

 振り返った先にいるのは、当然静香だ。

「お待たせしました」

「いえ……」

 ――何と言って切り出そう。

 伝えることは多くないというのに、恭介にはうまい言葉が見つからない。静香も何かを迷っているように、彼女らしくなく口ごもっている。

 三月の夜更けはまだ寒く、そよと吹いた微かな風に、静香が小さく身震いした。恭介は上着を脱いで彼女に着せ掛ける。

「武藤、それでは貴方がお寒いでしょう?」

「大丈夫です」

 一度口を開くと、まるで潤滑油を注されたかのように恭介の舌は回り始めた。

「今日は大変な思いをさせてしまって、すみませんでした」

「それは、武藤の責任ではなくてよ? あの時『助けて差し上げて』と申したのは、わたくしでしたもの」

「それでも、謝らせてください。俺の注意が足りなかった。それに、実は、謝ることがもう一つあるんです」

「もう一つ?」

 恭介のその言葉に、静香が小さく首をかしげる。むしろ、これからが本題だった。恭介は一つ大きな深呼吸をして、続ける。

「あなたの付き人の仕事を、辞めさせてください」

「え……?」

 静香の目が、キョトンと彼を見上げてくる。

「ここを辞めて、別のところで働きたいんです」

「それは……わたくしの元にいらっしゃるのがお嫌になったということですの?」

「違う!」

 咄嗟に大声を出してしまい、恭介は自分を抑えた。

 また深呼吸をして、気持ちを整える。彼女に自分の思いが間違って伝わってしまわないように、慎重に言葉を選んだ。

「そうじゃない……そうじゃないんだ。俺は『今の』あなたとの関係を終わらせて、新しいものを作っていきたいんです。使用人ではなく、一人の人間として、男として、あなたの傍にいられるように」

 自分の声が充分彼女に浸透するように、恭介は一度言葉を切る。

 月明かりを受けて輝く彼女の目が、瞬きひとつせずに彼を見つめていた。

 その眼差しを受け止め、恭介は更に言葉を重ねる。

「あなたは今朝、『変わらず傍にいるか』と訊いたでしょう? 俺はこの先もずっとあなたの傍にいたいと思う。だけどそれは、ただ隣にいるだけのものでは、満足できないんです。俺とあなたの間に誰か――他の男がいて、それを指をくわえて見ているなんて、無理だ。あなたの名前を呼んで、触れて――抱き締めたい」

 最後は、かすれた囁きになった。そこで初めて、静香が大きく瞬きをする。まるで、眠りから目が覚めたというように。

「……嫌、ですか?」

「……それは、武藤がわたくしの事を想ってくださってる、ということですの? そう捉えてもよろしくて?」

「はい」

 恭介は深く頷く。と、静香の目が一瞬見開かれた。そして口元がほころび、ふわりと、艶やかな大輪の花が開くような笑みへと変わる。

 嬉しそうに、幸せそうに、それはまさに夜闇の中で輝くような笑顔だった。

 目を奪われる恭介に、静香が応える。

「恭介様」

 唐突に名前を呼ばれ、恭介の心臓がドクリと胸壁を叩いた。

 彼女はただ名前を呼んだだけ。

 それなのに、何か魔法をかけられたかのようにクラリとする。

 高まった鼓動を抑えようと深く息を吐いた恭介に、静香が告げた。まるでいつもと変わらぬ口調で。

「わたくしも、同じことを申し上げようとしておりましたの」

「え?」

「『お仕事』を辞めてくださいませんか、と。そうして、わたくしの旦那さまになっていただけませんか、とお願いしようと、ずっと思っておりました」

「そう、だん――旦那!?」

「はい。……お嫌ですの?」

 ふと不安げに微かに眉根を寄せた静香に、恭介は慌てて首を振る。

「いや! ただ……」

「ただ?」

 恭介の中にあるのは、先に言われてしまった、というショックだ。彼女のその言葉はつまりプロポーズというもので、それはいずれ彼の方から口にする筈だったのに。

 そう、彼とて最終的な『ゴール』はそこだった。だが、そこに至るまでには、もう少し段階というものがあるではないか。まずは気持ちを告げて、それを深めて、そして――と思って、恭介は気が付いた。静香に対するこの気持ちが、これ以上深くなることがあるのだろうか、と。

 すでにこれまでにないほど深まっている気持ちなら、一足飛びに求婚でも構わないのかもしれない。

「なんでも、ないです」

 恭介はかぶりを振って答える。そして手を上げかけて止め、訊いた。

「触れても……いいですか?」

 確認するようなことではないのだろうが、恭介にはまだ今一つ自信がない。静香は瞬きをして、にっこりと微笑んだ。

「『静香』と、呼んでくださるのなら」

「……静香。触れても、いいか?」

「はい」

 恭介は彼女の頬に指先で触れ、確かにそこにあることを実感する。華奢な肩に手を回し、己の胸の中に引き寄せた。それはまるでパズルの最後の一ピースがはまったような感触だった。

 彼の腕の中で、静香が頬を寄せてくる。

 彼女の全てを包み込むように抱き締める恭介の頭の中に、ふと疑問が浮かんだ。

 五年――いや、六年前のあの時から、静香の眼差しも仕草も、ずっと同じだ。少なくとも、恭介にはそう見えた。いったい、いつから彼女は自分の事を想ってくれるようになっていたのだろう、と。

「静香」

「はい?」

 少し体を離して、彼女の顔が見えるようにする。やはり、その目の中にあるものは、ずっと見てきた輝きだ。

「その……あなたは、いつから――俺の事を……?」

「お慕い申し上げていたか、と?」

「ああ」

 頷いた恭介に、静香は少し首をかしげて答える。

「初めてお会いした時からですわ」

「六年前の、あの時から?」

「いいえ」

「?」

 かぶりを振った彼女に、恭介は眉根を寄せる。初めて会ったのは、彼女が十三歳になる直前の春だった。もうじき六年――間違いはない筈だ。

 彼の疑問が伝わったのか、静香が小さな笑いを漏らす。

「恭介様はお忘れかと存じますが、わたくしが初めて恭介様とお会いしたのは、十年ほど前のことですの」

「――十年?」

 十年前と言えば恭介が十五歳――中学か高校か、というところだ。夜空を仰いで振り返ってみても、さっぱり思い浮かばない。戸惑う彼に、静香が微笑んだ。

「はい。覚えていらっしゃらなくても当然ですわ。わたくしはその時まだ八つでしたもの」

「やっつ……」

 そう言われると、改めて年の差を実感する。自分が高校の時に、彼女はランドセルを背負っていたのだ。

 いや、今の彼女は十八、それは赦されるはずだと恭介は自分自身に言い聞かせる。

 そんな彼の心中を知ってか知らずか、静香は続けた。

「あの時、わたくしは仔猫を抱いておりました。屋敷に迷い込んできた仔猫を飼うわけにもいかず、さりとて放っておくこともできず。屋敷から抜け出して彷徨い、途方に暮れていたら雨も降り出してしまって、どうしたらよいのか判らなくて――」

 それは、前にも聞いたことがある話だった。

 不意に恭介の脳裏に閃いた映像。

 濡れた少女と、小さな白い猫。

 あれは――?

「今度は思い出してくださいまして?」

「え、ああ……」

 今も実家にいる白い巨猫。あれを飼い始めた経緯など、恭介はすっかり忘れ去っていた。

 腕の中で、静香が続ける。

「雨の中、軒先に佇む少女のことなど、誰も気に留める方はいらっしゃいませんでした。何人もの方々がわたくしの前を行き過ぎていかれましたわ。その中でただ一人足を止めてくださったのが、恭介様、貴方でしたの」

 歌うようにそう言って、静香は彼の胸に頬を寄せる。

「あの時の貴方の笑顔を、忘れることができませんでした。そして、次にお逢いしたのが六年前」

 意外なほどのつながりの深さに呆然としていた恭介は、彼女のその言葉に我に返る。そうして、ふと浮かんだ疑問を口にした。

「そう言えば、あの時、なんだってあなたはあんなところに? しかも、たった一人で」

 恭介は、男三人に絡まれていた静香の姿を思い出す。彼女を一人でうろつかせていたなど、今思えばぞっとする。無意識のうちに、静香の背に回した恭介の腕に力が入った。彼のそんな胸中を知らず、静香は続ける。

「あなたにお逢いできないかと思いましたの」

「え?」

「時折、あなたにお会いしたあの場所に、赴いておりましたの。もしかしたらまたお逢いできないかと願いながら。もちろん、お父様には内緒でしてよ? ……再び助けてくださったのが貴方だと判った時、わたくしは後先考えずに行動してしまいました。次の事を考えず衝動的に動いたことは、あれが最初で最後ですの」

 腕の中から、クスクスと笑いが届く。

「本当は、今のこの年になってからお逢いするつもりでしたのよ?」

「この年?」

「ええ。きちんと大人になってから、お逢いしようと思っておりましたの。そうでなければ、わたくしの気持ちをお伝えしても、本気にしてくださらないと思っておりましたから」

「それは……」

「二十歳の時に十四の子どもが『お慕いしております』と申し上げても、受け止めてはくださらなかったでしょう? 特に恭介様は、少々お考えが固くていらっしゃるもの」

 そんなことはない、とは言えなかった。確かに、様々なしがらみに囚われて、今の今まで身動きが取れなかったのだ。

 しかし、実際にはどうなのだろう。

 拉致に近い状態で連れて行かれて子どもの面倒を見ろなどと言われても、普通は冗談だろうと笑い飛ばしておしまいの筈だ。だが、あの時の恭介は承知した。普段はいたって常識的な彼が、何故そんな突拍子もない事態を受け入れたのか。

 その疑問にしっくりする答えは、一つだ。

 恐らく、すでにあの時から静香に囚われていたのだ。だが、二十歳の男が十四の子どもに惹かれるなど、あり得ない――あってはならない。少なくとも、彼の倫理観ではそうだった。

 だから、否定した。

 けれど、傍にいて、間近で彼女を見続けて、想いが募らぬわけがない。

 無駄な足掻きをしたものだ。

 思わず、大きな溜め息が恭介の口から漏れる。もっと早くに認めていれば、こんなに悩まずに済んだのに。

「恭介様?」

 腕の中で静香が頭を反らせて見上げてくる。それを胸に押し付けて、恭介は笑った。

「何でもない」

 そうして、彼女を抱き締める。

 もう二度と間違えないように――自分をごまかさないように。

 その愛しいカタチと温もりを、しっかりと包み込んだ。



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