2月の事変
胸の前で固く腕を組み、眉間に深いしわを刻んで胡坐を組んでいる元の前で、恭介はキッチリと膝を揃えた正座で姿勢を正していた。
「で? あいつにももう言ってあるのか?」
彼の言う『あいつ』が誰のことかなど、問い返すまでもない。恭介は頭を振って答える。
「いえ、まだです」
「まだ――って、お前、じゃあいつ話すんだよ」
不機嫌そうに元が問う。
そう、彼は妙に不機嫌そうだった。だが、恭介には彼が何故怒っているのかが、今一つ判らない。
およそ三十分ほど前にこの部屋に入ってから今この瞬間まで、元の気に障るようなことを言った覚えはないのだが。いや、普段の彼の様子を思い返すと、むしろ諸手を挙げて喜びそうなものだ。
内心で首を捻りつつ、恭介は答える。
「春になったら、伝えます」
「春、な……あいつに言うのは『ソレ』だけだろうな?」
「え?」
「他に、余計なことを言うつもりじゃねぇよな?」
睨み付けてくる元の目は、彼の望まぬ言葉を発したら直ちに恭介を焼き尽くしてしまいそうな光を帯びている。
「いいえ、余計なことなど言いませんよ」
彼の言いたいことを何となく察しつつ、恭介はシレッとそう答えておいた。あながち間違いでもない。彼は確かに『余計なこと』を言うつもりはなかったのだから。
彼が彼女に告げようと思っているのは至極『大事なこと』であって、断じて『余計なこと』ではないのだ。
――そう、春になったら。
卒業を迎えたその日に、彼は彼女に伝えるつもりだった。
三月をもって、今のこの職を辞するのだ、と。
*
綾小路家はいくつかの別荘を所有している。
かつては東西南北各地にあったのだが、元が当主になってからは殆ど使わないものは処分されていた。今残っているのは夏に行く海辺の別荘と、夏は避暑地として、冬はスキー場としても有名な高原にあるものの二つのみになっていう。
後者の高原の別荘に、静香が避暑目的で訪れることはない。来るのは冬の最中、三学期の期末テストが終わった後の試験休みにもっぱらスキーをする為だ。
スキーと言っても、静香がするのはゲレンデスキーではなくクロスカントリースキーである。私有地の山中をスキーを履いてのんびり散歩するもので、スポーティーさは皆無だった。
今も、長い黒髪がなびくことすらないスピードで、葉の落ちた木々の間をのんびりと散策している。降り積もった雪はサラサラで、時折表面をかすめるポールでパッと舞い上がる。
空は薄曇り。
灰色のような、薄青のような、曖昧な色。
鮮やかな色は一つもなく、白と黒とその間の色に支配された世界だ。そんな中で、深紅のスキーウェアを身に付けた静香だけがくっきりと浮かび上がる。
その色を選んだのは恭介自身だった。何故その色なのかと言えば、ひとえに目立つからだ。
実際のところ、彼女に似合う色は『白』だと思うが、その色はこの風景に溶けてしまうだろう。
こんな山の中で彼女を見失うなど、想像するだにぞっとする。どれだけ離れてもすぐに目に付くようにと、それだけを最優先に、恭介は派手な赤を選んだのだ。
静香の後を追いながら、恭介はふと空を見上げる。
雲が少し増え、風も少し出てきているようだ。別荘を出る前に天気予報はしっかりチェックしてきたが、いかんせん、山の天気は変わりやすい。
「お嬢サマ」
前を行く静香に呼びかけると、彼女は足を止めて振り返った。
「どうかして、武藤?」
「ちょっと雲行きが怪しいですよ。少し吹雪くかもしれません」
「まあ」
相変わらず、緊迫感のない主人だ。
別荘まで帰ろうと思えば、三十分ほどかかる。もう一度見上げた空は暗さを増していて、チラチラと小雪も舞い始めていた。
三十分は、もたないかもしれない。
「少し、急ぎましょう」
恭介に言われて、静香も空に視線を向けた。いつの間にやら風も強まってきており、悪天候に四苦八苦する羽目になるのは時間の問題だった。
彼に目を戻した静香が、頷く。
「そうね、そうしましょう」
「じゃあ、俺が先に行きます」
そう言うと恭介は静香の隣を通り抜け、彼女の前に出る。
林にはほとんど手を加えていないのだが、別荘への道標は随所に仕込んである。散策だったら特に目印を探す必要はないが、さっさと帰りたいときにはそれに従って進めばスムーズだった。背が高い恭介が探す方が効率がいいし、余分なことに気を配りながらでは体力もその分消費するだろう。
恭介は時折静香がついてきていることを確認しながらも立ち止まることなく、目をすがめて道標を探しつつ進む。
そうしている間にも、初めはちらついているだけだった粉雪は、次第に濃さを増していった。
遠くの一本一本まで見通せていた木々は霞み始め、静謐だった枝は吹き抜ける風で笛のように細い音をたてている。
「もう少しですから」
恭介は肩越しに静香を振り返って、励ますようにそう言った。さぞや心細いことだろうと思ったのだが、彼女は案じる気配などまるで見せることなく微笑み返してくる。
「お気遣い無用でしてよ?」
変わらずサラリとした静香の様子に安堵して、恭介は小さく頷いてまた前を向いた。そうして、このお嬢サマが取り乱すことなどあるのだろうかと、感心する。
付き合い始めてこの方、彼女が狼狽したところを見たことがない。苦手な雷が鳴っている時ですら、一見したところでは『彼女が雷を苦手としている』とは思われないだろう。
単に、静香がそんな反応を示すような状況に陥ったことがないからなのかもしれないが、恭介はそれを見たいわけではないし、そもそも、彼女をそんな羽目に落とし込むつもりも更々ない。
だからそれでいいと言えばいいのだが。
――と、そんなふうに考えていて。
彼はふと思う。
自分が『あのこと』を告げる時、彼女はどんな顔をするのだろうかと。
いつものように笑って、「ご苦労様」と言われてしまうのだろうか。それとも――
恭介の脳裏に、神社でのひと時のことが浮かぶ。
彼女の気持ちが自分にあるとうぬぼれることができるほど、強い何かを感じたわけではない。だが、今の状況から一歩を踏み出そうと思えるほどの何かは、確かにあった筈だ――この距離を変えられるかもしれないと期待できるほどの、何かは。
それが自分の希望的観測だとは思いたくない。
背中に静香の気配を感じながら、恭介は小さく息をつく。彼女と面と向かって相対する前に、頭を切り替えておかなければ。
じきに、別荘の影が見えてくる。気付けば、だいぶ雪の勢いは強くなっていた。
恭介は玄関のドアノブに手をかけて、ふと首をかしげる。
鍵が、かかっていた。
留守番の家政婦がいるから、鍵をかける必要などない筈なのだが。
おかしいなと思いつつ、彼はポケットから鍵を取り出して開ける。
入ってみると別荘の中は静まり返っていて、電気も点いていない。室温も、外ほど寒くはないが、冷えた体を温めてくれるほどのものではなかった。
「あら……理緒さんと杉田さんはお出かけなさっていて?」
恭介の後に続いて入ってきた静香も、家政婦と運転手の名前を口にして首をかしげた。彼女達の姿を探してキッチンに行くと、テーブルの上に一枚の紙切れが置かれているのが目に入る。
「……買い物らしいですよ」
「まあ。この雪で、大丈夫かしら」
言いながら静香は視線を巡らせる。
彼女が見た先にあるのは電話機で、そこには留守電メッセージが残されている証の赤いランプが点滅していた。再生ボタン通すと、理緒の申し訳なさそうな声で「すみません」と始まった。
「町に買い物に下りたのですが、雪が降ってきてしまって……見通し良くないので、少し小降りになるのを待って、帰ります」
続いて機械の声で告げられた時刻は、十五分ほど前のものだた。
車の運転は、いつものように杉田がしている筈だ。下は、彼ほどの運転の腕前でも走るのをためらうほどの天候なのだろうか。
「無理をなさってらっしゃらなければよいのですが……」
窓際に寄った静香が、そこから外を窺いながらそう言った。
窓の外は、ずいぶんと白くけぶっている。多分、そう長くは降り続けないとは思うのだが、勢いはそれなりに強そうだ。
「わたくし、着替えてまいりますわ」
「え? ああ、そうですね。そうしてください。ああ、ついでに風呂に入ってきたらどうですか? その間に部屋を暖めておきます」
静香の黒髪に付いていた雪は溶けて、その毛先から雫となって滴り落ちている。濡れた頬を手のひらで拭ってやりたい気持ちを、恭介は拳に握りこむことで堪えた。
彼のそんな我慢はつゆ知らず、静香は軽く首をかしげて頷く。
「そうね……そうさせていただこうかしら」
「じゃ、風呂の準備しますよ」
「あら、構わなくてよ。わたくし、自分でできますもの」
まあ、確かに、浴槽に栓をして蛇口を捻るだけだ。何も難しいことはない。
恭介も世話をし始めた当初は何もできない彼女に呆れていた筈なのに、いつの間にやら率先して何でもかんでも手を出してしまうようになっている。
主従関係が身に沁みついてしまっているというかなんというか。
この関係を変えるには、まずは自分自身の姿勢から変えていかないといけない気がする。
微かに深くなってしまった恭介の眉間のしわをどう受け止めたのかは判らないが、静香はふと微笑んだ。
「ありがとう。武藤も、先に着替えてらしてね? あなたもずいぶん濡れていらっしゃってよ」
「ああ……はい、そうします」
頬を伝ってきた水滴を手の甲で拭い、恭介は頷く。
静香はそんな彼にもう一度笑みを向けると、着替えのある寝室に入っていった。
残された恭介は、すぐには自室に向かわなかった。
静香にはああ答えたが、先に火を起こしておいた方が効率はいいだろう。彼女が出てくるまでには、部屋を暖めておきたい。
この別荘の暖房は薪ストーブになっていて、レンジ代わりに料理もできる代物だ。そこそこ山奥なので電線は引かれておらず、電気は自家発電でまかなっているからだ。エアコンなど使ったらすぐに電気不足になってしまうだろうが、その点、薪はそこらにいくらでもある。
薪ストーブに向かいながら、恭介は小さく「まいったな」と呟いた。
独りになると、シンと静まり返った邸内に、他に人がいないのだと実感する。
まさか、こんな隔絶されたところで二人きりになろうとは思わなかったのだ。
あの初詣の日から、恭介は静香と二人きりになることを極力避けてきた。
もしかして……と思ってしまった今では、いつ自分の中の箍が外れてしまうか、予測できなかったからだ。
他に誰もいない状態で彼女のあの目で真っ直ぐに見上げられたら――ボロを出さずにいられる自信など、まったくなかった。
「早く帰ってきてくれよ?」
この場にいない二人に向けてかなり切実な気持ちを込めてぼやきながら、恭介はストーブに薪を放り込もうとキャリーの蓋を開ける。
と。
そこには、常に満杯の薪が入れられている筈だった。だが、今は数本しかない。
多分、理緒も買い物から戻ってきたら外の薪小屋から足しておくつもりだったのだろう。二、三時間は、充分もつと言えばもつのだが……
我ながら、情けない。情けないが、これを口実にしたかった――静香と極力距離を取っておく為の。
恭介はキャリーの中に残っている薪をストーブの中に積み、火口にした堅く絞った新聞紙に火を点ける。これがなかなかの曲者で、火を点けたからといって目を離すと、いつの間にか消えてしまっていたりするのだ。
しばらくストーブの前に留まり充分に火が回るのを確認して、恭介はメモに走り書きを残した。
外の薪小屋に薪を取りに行ってくる、と。
気付けば三十分ほどは経っているから、そろそろ静香も戻ってくるかもしれない。
恭介は一度廊下の奥に目をやってから、薪を入れる為の麻袋を手に玄関へと向かった。
*
外は吹雪に近いが、未だ視界は保たれていた。吹き付ける風雪に恭介はダウンジャケットの襟を立て、しっかりとフードを被る。
薪小屋は、本邸から少し離れた風通しの良い場所にしつらえられていた。敷地面積にしたら、三、四畳分はあるだろう。
恭介は袋の口を広げて、薪をその中に入れていく。単純作業に没頭し、頭の中からは余計なことを消し去った。背後からは風の唸りが聞こえ、時折恭介の背中にも突風が吹き付けてくる。
袋の中を一杯にし終え、恭介はさて戻ろうかと本邸に向けて踵を返した。
が、そこで目にしたものに足が止まる。いや、見えなかったものに、か。
視界は、真っ白だった。間断なく降り続ける粉雪が全てを純白に染め上げている。
なまじパウダースノウなだけに一度地面に降り積もった雪も風に舞い上げられ、まるで下からも雪が降っているかのようだ。まさに一寸先は白い闇、だった。
本邸までの距離はたいしてないから、視界が奪われていたとしても辿り着けないわけではない。
だが、この状況で敢えて動くこともないだろう。どうせじきに止むだろうから、少し待ってからでもいい筈だ。書置きを残してきたから、静香もおとなしく待っていてくれるだろう。聡い彼女がこの雪の中、彼を探して外に出るという愚挙を冒す筈がない。
言い訳がましくそんなふうに考え、恭介は袋を足元に置くと積み上げられている薪に寄り掛かった。
そうして、真っ白な空を見上げる。
こんなふうにぼんやりとできるのは、ずいぶんと久しぶりな気がする。
静香の隣にいると、どうしても色々と考えてしまうのだ。彼女の指先の動き、視線の一つ一つに、いちいち心が反応してしまう。
女性と付き合ったことは今までにも何度かあったが、思えば、自分から心が動いて相手を求めたくなったのは、これが初めてかもしれない。
彼の場合、たいてい、相手の方からの「武藤君って、見た目と違って優しいのね」という言葉から始まって、何となく付き合うようになり、そして「恭介って、優しいんだけど、物足りないの」という台詞と共に終わっていた。
彼女たちと共に過ごしている間はそれなりに楽しかったが、別れを切り出されたからといって恭介に惜しむ気持ちはなかった。彼女たちが新しい相手を見つけてそれぞれ幸せになって行く姿を、半分ホッとしたような気分で見送ったものだ。
だが、同じように静香が誰かと共に生きていく姿を想像すると、恭介の胸の中には何とも言えない不快なものが込み上げてくる――彼女が他の誰かの隣にいたり、他の誰かのことを想っていたりする姿を想像すると。
そう、それは、確かに不快なものだった。
腹の底が焼けるような、時には吐き気さえもよおしそうな不快な感覚。
だが、決して心地の良いものではないのに、恭介は何故かそれを捨て去ってしまいたいとは思えなかった。
きっと、これが『独占欲』というものなのだろう。
幼い頃まで振り返ってみても、彼は今まで何かに執着するということのない性質だった。
何が何でも欲しいと熱望するものもなく、失って惜しいと思うものもなく。
恭介の胸の中に渦巻く感覚は確かに不快なのだが、同時に、一種の心地良さをも覚えさせるものだった。
それは即ち、自分の中が大きく揺れ動くほどに強く想う気持ちを知ったということでもあるからだ。
自分の手には入らないものなのかも知れなくても、そんなふうに想える相手ができたということそのものが、ある意味、悦びであるのだ。
恭介は、ふと目を上げた。
いつしか風は和らぎ、視界がひらけている。静香のいる本邸も、今はくっきりと見えていた。
「戻る、か」
呟き、彼は薪の詰まった麻袋を持ち上げた。
*
思った以上に時間は過ぎていて、玄関に置かれた柱時計の長針は、恭介が出た時からほぼ一周していた。
長くても三十分ほどだと思っていたのだが。
「すみません、遅くなりました。急に吹雪いてきてしまって」
ブーツを脱ぎながら、リビングへ向けてそう声をかける
微かな足音が耳に届き、恭介は振り返ろうとして――身体を捻りきる前に勢い良く胸にぶつかってきたものを、受け止める。咄嗟に手放した袋が落ちて、ゴスンと鈍い音を立てた。
「お嬢、サマ……?」
呼びかけに返事はない。ただ、彼の胸に押し付けられた頭が、微かに動いた。
しがみついてくる力は儚いのに、強い。仔猫が必死に爪を立てて離されまいとするような、そんな強さだった。その身体は小刻みに震えていて、恭介は上げた両手を彷徨わせる。
彼女の背に回すわけにはいかない。だが、そのまま体の脇に下げておくこともできなかった。
ふわりと鼻先に漂うシャンプーの香りと、次第に伝わってくる彼女の熱。そして、震え。
間近に感じるそれらに、恭介の心はぐらりと揺れる。
さっさと離れないと、マズイ。
そうは思っても、華奢な身体のその震えを感じてしまえば無理に引き剥すことなどできはしなかった。
――今の俺とこいつは主人と僕、上司と部下、雇用主と使用人だ。
言うなれば社内恋愛のようなもので、ここはやはりケジメを付けておかなければならない。いっそ抱き締めてしまいたくて疼く腕を辛うじて押し留め、自身にそう言い聞かせる。
自制心を総動員させた恭介は、結局その両手の行き場を静香の細い肩に定めた。
そっと、ゆっくり、置く――ただ、置いただけだ。力は込めていない。
だが、その瞬間彼女の身体はピクリと震え、恭介は自分の胴に回された彼女の腕からフッと力が抜けるのを感じた。
そのまま二、三の呼吸の後、静香がゆっくりと腕を解く。
俯きがちに一歩下がり、そして恭介を見上げた彼女は、もういつも通りの微笑みを浮かべていた――いいや、完全に平静ではない。よく見れば、常に動じぬその眼差しが微かに揺れている。
恭介と視線が合うと、静香はわずかに目を伏せた。そして、言う。
「なかなか戻られないのですもの、心配しましてよ?」
常に人の目を真っ直ぐに見て話す静香の視線が、今は逸れたままだ。
恭介は浮かせたままのその手を彼女の頬に伸ばしたくてたまらなくなったが、そうしなかった。代わりに固く握り締め、下ろす。
「すみません。雪で視界が悪くて、下手に動かない方が良さそうだったもので」
「そう。……何事もなくて、何よりでした」
言葉少なにそう残し、静香はクルリと踵を返す。しなやかな黒髪がふわりと揺れて、唐突に、恭介は腕を伸ばして彼女を引き止めたい衝動に駆られた――そうして、腕の中にしっかりと彼女を閉じ込めたいと。
だが、今はまだ、それをしてはならない。
静香の身体を捕まえる代わりに、恭介は身を屈めて落とした麻袋を掴む。
下を向いたついでに、ため息を一つついておいた。
*
「すみませぇん! 遅くなりました!」
明るい声と共に理緒がリビングに駆け込んでくる。
「お帰りになりましたのね?」
「はい、お嬢様に留守番なんてさせてしまって、スミマセン」
「お気になさらないで。何事もなければ、それでよろしくてよ」
「ありがとうございます。あ、お茶淹れますね!」
にぎやかな声でそう言いおいて、理緒はパタパタと足音を立てながらリビングを出て行った。入れ代わりに、杉田が姿を見せる。
「すごい雪でしたねぇ、あんなの初めて見ましたよ。ホワイトアウトって、本当に白くなるんだなぁ」
たいていの悪天候を経験してきた杉田でも滅多にないことだったようで、彼の目には驚きの色が濃い。そんな彼にも、静香は笑みを向ける。
「お帰りなさい。ご無事で何よりですわ」
「いや、走ろうにも走れず……お嬢様がお帰りになる前に、戻ってる筈だったんですけどね。申し訳ないです」
「いいえ、ご無理なさって事故でも起こしたら、大変ですもの」
「ホントにすみませんねぇ」
ペコリと頭を下げる杉田に、静香は柔らかく微笑んだ。そこへ、紅茶を載せた盆を手に理緒が戻ってくる。
「こっちは大丈夫でしたか? 何もなかったですか?」
「こちらも同じように、窓の外が真っ白になるほどでしたわ。何も見えなくて……」
「そうですかぁ。あれって、ちょっと怖くなかったですか?」
静香の前に紅茶を出しながら、眉をひそめて理緒が訊く。
静香は口元に淡く笑みを刻んでわずかに首をかしげた。そして視線を落とし、答える。小さな声で。
「ええ、そうね……怖かった、わ」
彼女のその囁くような声に、紅茶を口元に運びかけた恭介の手が止まる。目を上げても、静香の後ろに立っている彼には、艶やかな黒髪が見えるだけだ。表情は、見えない。
「ですよねぇ、あれは怖いですよ。杉田さんが一緒にいてくれたから良かったけど、独りだったら泣いてたかも」
それに答えたのは、忍び笑いだ。
あの時の彼女は、泣いてはいなかった。けれど、心は大きく動いていた。それは恭介も確信している。
では、その動揺の理由は何だったのか。
一人残されて心細かった?
いいや、静香がそんなことで動じるとは思えない。
では、恭介の事を案じたからだろうか?
恐らく、そうだ。
それならば、彼の事を案じる気持ちの奥にあるものは、どうだ。
ただいつも傍にいるだけの身近な存在に対してのものなのか、あるいは、もっと違う何かがあるのか。
恭介は後者だと思いたい――いや、思うことにした。
新藤一輝に指摘されたように、あまりに後ろばかり見ていたら、見逃してはならないものも見落としてしまいそうな気がする。
どうせ、このままでは後も先もないのだから、多少自信過剰になってしまってもいいと思うことにしたのだ。
もしも『ハズレ』なら、うぬぼれ過ぎだと苦笑いすればいい。
「あ、武藤さん、お茶のおかわりいかがですか?」
物思いにふけっていた恭介を、理緒の明るい声が引き戻す。
気付けば、首を捻って振り返った静香が彼を見上げていた。目が合うと、彼女はニコリと笑いかけてくる。
まるで、本当に、何もなかったかのように。
「いや、もう結構」
恭介の胸の内にあることを切り出した時、静香がどんな反応を見せるのかは謎だ。
喜ぶのか、驚くのか、流すのか。
――もっと解かり易いヤツなら楽だったんだけどな。
内心でそうぼやく。
だが、こればかりは相手を選んで気持ちが湧いてくるわけではない。
誰かを好きになるということがこれほど制御不能なことだとは、恭介は思いも寄らなかった。自分でも意識しないうちに生じていて、気付けばどうしようもなく嵌り込んでしまっていたのだ。
厄介だが、仕方がない。
今更なかったことにはできないし、なかったことにしようとも思えない。
恭介はため息をごまかしながら、カップをテーブルに置いた。