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1月の霹靂

 新しい年が訪れた。

 ラジオ体操のオープニングのようだが、一月一日というのは、実際、そういう日だ。

 恭介きょうすけは玄関前に横付けした車に寄りかかり、冷たく晴れ渡った空を見上げていた。空気が冷たく凍っているせいか、同じ快晴でも、夏と冬では違う色のように見える。

 今日は風も穏やかで、ここ数日続いていた身を切るような寒さは感じられなかった。

 ――いい初詣日和だよな。

 恭介はぼんやりと、そんな感想を抱く。

 もっとも、どんな天気が『いい初詣日和』なのかは、彼にも判らなかったが。

 冬なのだから雪があった方が風情がある、という者もいるだろうし、こんなふうに温かく過ごしやすい方がいい、という者もいるだろう。

 まあとにかく、これから静香しずかと出かけるとなれば、寒くなく、雪もなく、という状況の方がいいのは言うまでもないことだ。

「武藤、お待たせいたしました」

 玄関が開き、そんな声と共に、静香が姿を現す。

 振り返り、彼女を視界に入れた時、一瞬、恭介はサングラスの下の目をすがめた。

 自宅でもしばしば和装で過ごすことがある静香だが、元旦の今日は一際艶やかないでたちに身を包んでいる。

 普段はあまり着ることのない振袖は、灰梅色の地に袖や裾に鮮やかな紅梅がちりばめられている意匠だ。大きめな蝶文庫に結ばれている萌黄色の帯には、飛び交う蝶が金糸銀糸であしらわれていた。

「良く、似合ってますよ」

 そんなシンプルな言葉では足りないような気がしたが、恭介にはそれ以上のものが思い浮かばない。だが、そんな素っ気ない彼の台詞にも、静香は嬉しそうな笑みを浮かべた。

「ありがとうございます、柄はお母さまが選んでくださいましたの」

「そうですか」

 相槌を打ちながら車の扉を開けてやる。静香の後に続いて、恭介も車に乗り込んだ。

「で、今日はいつも行く神社ではないんですよね?」

「ええ。あちらへは、また後日参りましょう。今日はお約束がありますのよ」

「西園寺さんですか?」

「琴子様? いいえ、別の方ですわ」

 静香にかぶりを振られ、恭介は首を捻った。こういったことで静香が行動を共にしそうな相手は、琴子の他には思い浮かばない。

「俺の知らない人ですか?」

「いいえ、ご存じでしてよ、きっと」

 そう言って、静香はクスリと笑う。

 顔を合わせるまで秘密にしておきたいのか、静香はそれ以上答えようとしなかった。

「お会いになってのお楽しみ、ですわ」

 そう言った静香は、どことなく、浮かれているように見える。

 ――会って楽しい相手なのかよ。

 常の彼女らしくない静香の様子に内心でそうぼやきながら、恭介は小さく「そうですか」と呟いた。


   *


 静香と恭介を乗せた車が向かったのは、都心の喧騒から離れた住宅街だった。

 庶民的な家屋が並ぶ中、小さな鳥居がひっそりと佇む前に車は停まった。入口は狭いが参道はそこそこ長いらしく、鳥居の外からでは拝殿を窺うことはできない。

「じゃあ、武藤君。この辺は駐禁なので少し流してきますね。予定よりも早くお帰りになるようだったら、電話してください」

「頼みます」

 恭介が軽く頭を下げると、運転手の杉田はチャッと片手を上げて、車を発進させた。せせこましい道を流れるように曲がっていくその後ろ姿を見送って、恭介は静香に向き直る。

「どこで待ち合わせしてるんです?」

「手水舎の前でしてよ。参りましょう」

 彼の問いにそう答えると、静香は先に立って歩き出す。

 その後に続きながら、先に待つのはいったい何者なのだろうかと、恭介は考えを巡らせた。

 少なくとも、彼がいる前で静香が誰かと初詣云々の話をするところは見ていない。いったい、いつの間に段取りをつけたのだろう。

 穴場というべきか、寂びれているというべきか、参拝客はまばらだ。ちらほら見かけるのは、この辺りの住民だろうと思われる年寄りが数人のみで、歓声を上げる子どもなどはいない。数歩前を歩く静香の足音はひそやかで、恭介の耳には砂利を踏む自分の足音が妙に無粋に響く。

 やがて手水舎が姿を現し、その傍に、一組の男女が立っているのが見えてきた。

 男は背を向けているが、彼に相対している女性の容貌は見て取れる。

 こちらを向いていた女性の方が逸早く静香に気付き、パッと輝くような笑顔になって手を振ってきた。

「あ、静香ちゃん」

弥生やよい様」

 小走りで近寄ってきたのは、静香と同い年か、もしかしたらいくつか下に見える少女だ。小柄だが、恐らく高校生だろう。

「あけましておめでとうございます」

 静香は言いながら、彼女に向けて綺麗に腰を折った。

「おめでとう、今年もよろしくね」

 弥生と呼ばれた少女も、ペコリと静香にお辞儀を返す。そうして顔を上げると、小さく首をかしげて、恭介を見上げてきた。

「静香ちゃん、この人が、そう?」

「ええ、この方ですの」

「そうなんだぁ」

 恭介にはよく解からない会話をしていたかと思うと、弥生はしげしげと彼を見つめ、やがてニッコリと笑った。

 美少女というわけではないのだが、妙に人好きのする子だ。

 物静かな静香の微笑みに慣れた恭介には、若干戸惑うほどの開けっ広げな笑顔だった。

「あの……?」

 顎を引きつつ、恭介は眉間にしわを寄せる。

 その表情に気付いたらしく、弥生は「あ」という顔になった。そして、今度は恭介に向けてヒョコンと頭を下げる。

「はじめまして。わたし、大石弥生です」

「武藤恭介、です」

 静香の学校のお嬢様連中とは、明らかに毛色が違う。いったいどこで作った知り合いなのかと首を捻る恭介に、その答えが近付いてきていた。

「あけましておめでとうございます、静香さん」

 穏やかな、声。

 その声に振り返った先には、三つ揃えのスーツを着た、すらりとした男――冷たく見えるほどに整った容貌には、見覚えがある。

「新藤一輝……」

 恭介は、その名を口の中だけで呟く。それは小さな声で、その場にいる他の者の耳には届いていなかったようだ。

 恭介たちの元へ来ると、彼はごく自然に弥生の隣に立った。

「初めまして。僕は新藤一輝です。そちらは武藤さんですよね?」

「ええ、はい」

 スッと差し出された手を、恭介は躊躇いがちに握る。新藤一輝は微かに目元を緩めて、言った。

「初めまして、ですが、初めての気がしませんね。お噂はかねがね」

「噂……?」

 新藤一輝のその台詞に、恭介は眉をひそめて静香に視線を移した。彼女は、ニコリと微笑みを返す。

 いったい、どんな噂をされているものやら。

 恭介が新藤一輝にそれを確かめようとするより先に、彼の隣から釘が打ち込まれた。

「一輝君」

 弥生が、新藤一輝のスーツの袖を引きながら、咎めるような声で彼の名を呼ぶ。

「ああ、すみません。余計なことを言いましたね」

 そう言って、傍らの少女を見下ろした彼のその表情。

 週刊誌などで見かける新藤一輝が常にその身にまとっていた冷たさは、彼の視線が弥生に向けられると同時に払拭された。代わりに溢れ出したのは蕩けんばかりの甘やかさだ。

 ――なるほど、な。

 恭介は胸の中で頷いた。

 新藤一輝のその眼差し一つで、二人の関係がどんなものなのか、説明されずとも充分に見て取れた。これを兄妹だとか友人だとかと判定する者がいたら、それは余程鈍い奴に違いない。

 交わす眼差し一つで砂を吐きそうな二人の様子を、静香は微笑ましそうに見つめている。そこに妬ましげな色は微塵もなかった。

「弥生様には、時々お菓子の作り方を教えていただいておりますの」

 弥生に笑みを投げかけながらの静香のその台詞に、恭介は目を瞬かせる。

 菓子作り。

 時折新藤商事に行っては菓子を持ち帰ってきていたのは、そういうことだったのか。静香は、新藤一輝ではなく、この弥生の方に会いに通っていたのだ。

 ――なんだ。

 事実を知って、やきもきしていたあの時間を返してくれと、恭介は胸中でぼやく。

 そんな彼の密かな愚痴に当然彼女たちは気が付く筈もなく、楽しげな会話は続く。

「静香ちゃんのお菓子、おいしいでしょう? どんどん上手になってるよね」

「ふふ、弥生様にそうおっしゃっていただけるなんて、ありがとうございます」

「お世辞じゃないからね? ほんとに上手になってるよ」

「でも、まだまだ、弥生様のおいしさには到底及びませんの」

「練習してたら、もっともっと上手になるよ」

「そうでしょうか」

「だいじょうぶ、だいじょうぶ!」

「ありがとうございます」

 二人はそう言いながら、姉妹のように笑みを交わす。

 恭介には、何だか、そこだけ空気の色が違うような気がしてならない。ふわふわとしたパステルカラーだ。

「さて、そろそろ参拝に行きませんか?」

 恭介にはただ横で聞いているしかなかった静香と弥生の会話が途切れたわずかな隙を縫って、新藤一輝が割って入る。

「あ、そうだね、時間が無くなっちゃう」

「ええ。一輝様は多忙でいらっしゃるから」

 輪唱のようなやり取りを終えると、女性人二人は先に立って歩き出した。


   *


 一同は手水舎で身を清めてから拝殿へと向かう。

 狭いけれどもどこもかしこもきちんと整えられており、境内にはゴミはおろか落ち葉一つない。

 人もまばらな拝殿は、待つことなく参拝することができた。

 弥生が鈴緒を揺らして鈴を鳴らすと、めいめいが好きなように賽銭を投げ入れる。目を閉じてジッと手を合わす弥生の隣で、静香は丁寧に二拝二拍手していた。

 最後に静香が深くお辞儀をするのを待って、参拝を終える。

 歩き出してややしたところで、斜め前方に目を留めた弥生が小さく声を上げた。

「あ、ほら、静香ちゃん、おみくじ引こう? 弟たちのお守りも買わなきゃ」

 そう言って、彼女は静香の手を引く。

「おみくじ、ですか?」

「そう。引いたことない?」

「ええ……」

「じゃ、初おみくじだ。一輝君、ちょっと行ってくるね」

「はい。僕と武藤さんはここでお待ちしています」

「うん。静香ちゃん、行こ」

 やんわりとした口調で有無を言わさず、弥生は静香を連れておみくじ売場に向かう。

 女子二人の背中を見送って、ふと恭介は隣に立つ新藤一輝に気付いた。

 彼はほんのひと時でも視界から逃がしたくないと言わんばかりに、弥生の姿を目で追っている。

 彼のそのひたむきな眼差しに、恭介は自分も同じようなものなのだろうかと、少々複雑な気持ちになった。

 居心地悪く身じろぎをした恭介に、新藤一輝が振り返る。

「失礼。あまり一緒にいられる時間がないものですから、会うとつい、目が離せなくて」

「いえ」

 そんなに堂々とのろけられても返事に困るのだが、流石にその一言では素っ気なさ過ぎるかもしれない。

 恭介は無難な台詞を付け足した。

「弥生さんとは、同じ高校だったんですか? 仕事しながら高校生と付き合うのは、大変でしょう」

 かなり庶民的な弥生と、制服で高校に通う姿すら想像できない新藤一輝の接点が、恭介には思い浮かばない。だが、この年頃の男女が出会う場所となれば高校くらいだろう。新藤一輝は確か静香よりも一つ年上の筈だから、高校は去年卒業している。英才教育の賜物か、大学には進学せずに今の新藤グループ総帥の座に就いた筈だ。

 だが、恭介のその質問に、新藤一輝は微かに目を見開き、そして、ニヤリとした。

「彼女にそう言ったら、むくれられるかもしれませんね」

「え?」

「彼女はもう二十二歳ですよ」

「――はい?」

「僕よりも三歳上です」

 アレで二十歳越えとは。絶句したままの恭介に、新藤一輝が続ける。

「幼く見えますけれどね。彼女は僕の何よりも大事な支えです」

「……そうですか」

「何か、気になることでも?」

 恭介のその口調に何か引っかかるものを感じ取ったのか、そう言うと、新藤一輝は目を細めて恭介を見つめてくる。

「いえ、その……」

 口ごもった恭介に、新藤一輝は再び視線を弥生たちの方に向けながら、言った。

「僕と静香さんの間に、特別な感情はありません」

「はい?」

「あなたが気にされているのは、そこではないのですか?」

「……」

 図星だ。

 静香からは新藤一輝のことをどうも思っていないと聞かされていたが、まだ、その疑念は恭介の胸の片隅にわだかまっていた。

「僕と静香さんとの間で、恋愛感情は湧きません」

「全然?」

「ええ。そうなるには、僕たちは、似過ぎていますから。人としては尊敬していますが、女性として見たことはありません」

 しかし、一般的に見ると、静香は女性としてもかなり上位にいるのではなかろうか。見た目も家柄も良く、淑やかで賢い。大方の野郎共は、彼女に好意を抱くと思われるのだが。

 そんな恭介の考えは顔に表れていたと見え、新藤一輝は薄く微笑んだ。

「僕にとって、『女性』は弥生さんだけです。他の誰のことも、彼女のようには想えない。静香さんは『戦友』にはなれても、『伴侶』にはできません」

「そうですか……」

 改めて当人に断言されて、どこかホッとした気分になった自分が、恭介は情けなく感じられた。静香のことを、誰がどう想っていようが、彼自身の気持ちには何の関係もない筈だというのに。

 黙り込んだ恭介に、新藤一輝が静かに告げる。

「僕には、弥生さんという支えが必要です。そして、それは静香さんも同じでしょう。彼女は強い人ですけれどね。それでも、これからの彼女には、隣で支えとなる者がいるべきだ」

「……彼女には、誰か想う人がいるらしいです」

 恭介のその台詞に、返ってきたのは、無言だ。少し迷って、彼は付け加える。

「新藤さんには、思い当たる人がいますか?」

「あなたには心当たりがないのですか?」

「いえ、全く」

「本当に?」

 念を押してくる新藤一輝に、恭介は目を向ける。と、思いの他真剣な彼の眼差しといき合った。

 探るような新藤一輝の目が、恭介にヒタと据えられている。その視線に縛られて、まるで蛇に睨まれた蛙のように、彼は身じろぎ一つ、できなくなる。

 それは、短い間のことだった。

 じきに新藤一輝は恭介から目を離し、再び弥生を見つめる。この上なく愛おしそうな色を溢れ出させて。

 そうして、独白のように語り出した。

「僕は、以前、弥生さんのことを諦めそうになったことがあります。その時僕の背中を押してくれたのが、静香さんでした。まあ、正確に言うと、押されるというよりも蹴飛ばされたと言った方がいいかもしれませんが。いずれにせよ、今、僕が弥生さんの隣にいられるのは静香さんのお陰です」

 首を巡らせ、彼は切り込むような目で、恭介を見据えてくる。

「静香さんを女性としては見ていませんが、幸せになって欲しいと思っています。彼女は僕にとって恩人ですから」

「恩人……」

 大げさな、とは思えなかった。きっと、新藤一輝にとって弥生は何ものにも換え難い、大事な相手なのだろう。彼の所作一つ一つに、その想いが溢れている。

「あなたは、どうですか?」

「え?」

 不意に話を振られ、恭介は戸惑った。

「あなたは、静香さんの幸せを望んでいますか?」

「それは……」

 言われるまでもない。多分、目の前のこの男の何倍も、そう思っている。

 そう思ってはいても言葉にできずにいる恭介に、新藤一輝が続ける。

「僕は弥生さんの幸せを願い、それを為すのが自分でありたいと思いました。他の男の手に委ねるなんて、真っ平でしたから」

 常に冷ややかで氷のようなイメージしかなかった彼に、炎が見え隠れした。恭介は、グッと顎を引く。

 そんな彼に、新藤一輝は更に言葉を重ねた。

「相手の為、と思っていることが、本当にそうだとは限りませんよ。その台詞を、逃げることの言い訳にするべきではない」

 彼のその言葉は、恭介に次から次へと突き刺さる。

 そんなふうに強気でいられるのは、新藤一輝には自信とそれに相応しいだけの力があるからだ。

 ――そう、反発めいた気持ちが胸の中に湧き上がったが、その『力』が相応かどうか、誰かを幸せにする為に充分かどうかの基準などというものはない。

 結局のところ、『天井』は自分自身で決めるものなのだ。

「ああ、彼女たちがそろそろ戻ってきそうだ」

 新藤一輝は、呟くようにそう言った。そして、弥生たちを見つめたまま、続ける――殆ど、独り言のように。

「彼女の想い人について、あなたは『判らない』とおっしゃいましたが、本当に、そうでしょうか? 見えているのに、見えていないつもりになっていませんか?」

「どういう意味です?」

「言葉のとおりです。本当は、弥生さんから余計なことは言うなと釘を刺されていたのですが――どうにも歯痒いもので。人は、見たくないものは見えないふりをしますから。僕自身も含めてね」

「……」

 唇を引き結んだまま何も言わない恭介に、新藤一輝も口を噤む。

 彼に反発して返さずにいるわけではなく、ただ、返す言葉が見つからないだけだった。

 黙り込んで突っ立っている二人の元に、やがて軽やかな笑い声を上げながら女性陣が戻ってくる。

 男たちの間に流れる微妙な空気に気付いたのか、弥生と静香は笑顔を消して足を止めた。

「どうかなさいまして?」

「別に、何も」

 静香の問いかけに、恭介は首を振る。彼女に聞かせるような話ではない。

 静香は気遣わしげな眼差しを彼に注いでいたが、それ以上の追及はしてこなかった。

 そんな二人の横では、弥生が新藤一輝を睨んでいる。

「一輝君てば、武藤さんに何かいじわるな事言ったの?」

「いいえ、まさか」

 いかにも「心外な」という声で、新藤一輝が弥生に返している。

「ほんとに?」

「もちろんです。僕をお疑いですか?」

「そんなことないけど……」

 新藤一輝は、口ごもる彼女の肩を抱き寄せた。

「そろそろ僕たちは帰りましょう」

「ええ? もう?」

 抗議の声を上げた弥生を、新藤一輝が見つめる。

「弥生さん、僕たちが前回逢えたのは、二週間も前でしょう?」

「う……そう、だけど……」

「この次は、また一週間先なんですよ。少しくらいは、二人だけで過ごさせてくださってもいいのでは?」

「う……ん……」

 甘く囁かれ、弥生は彼の腕の中で顔を赤くしながら頷いた。同意を取り付けた新藤一輝は、満足そうな笑みを浮かべる。

「僕たちはこれで。今日は有意義な時間を過ごせました」

 彼は静香に会釈し、そして、恭介に右手を差し出した。

 会った時と同じように、恭介はその手を握り返す。

 一瞬、痛みを覚えるほどの力が彼の手に込められ、切れ長の怜悧な眼差しが恭介の目を捉える。

「では、またお会いしましょう」

 視線を絡めたままそう言うと手を放し、新藤一輝は弥生を促して踵を返す。去って行く二人の背中を、恭介は静香と共に見送った。

 彼らの姿が見えなくなると、静香が口を開いた。

「一輝様と、何か問題でも?」

「いや、本当に、何でもないんですよ」

「そう?」

「ただ、話をしていただけです。気にしないでください。そろそろ杉田さんが戻ってきますから、我々も行きましょう」

「ええ……」

 恭介は、両手をスーツのポケットに突っ込んで、歩き出す。微かな足音で、静香がついてきているのが判った。

 時折すれ違う人々に会釈をしながら、恭介は先ほどの新藤一輝との会話を思い返す。

 自分は、逃げているのだろうか。

 相手を思いやることと、逃げと、その境界線はどこにあるのだろう。

 自分のこの目に映っているのに見ようとしていないことが、あるのだろうか。

「クソ」

 思わず小さく毒づいた恭介に、後ろからそっと声がかかる。

「武藤?」

 しまった、と思っても、口から出てしまった声は取り戻せない。

 どう言い繕おうかと考えながら振り返ると、静香は笑みを消して彼を見上げていた。

 その目には、彼を案じる色がある。

 静香にかける言葉を探しているうちに、彼女の方が先に口を開いた。

「ごめんなさい」

 謝罪で始まる理由が解からず、恭介は眉根を寄せる。変な態度を取ってしまい、謝るとすれば彼の方だ。

 戸惑う彼に、静香が続ける。

「武藤が一輝様のことを気にされているようでしたから、会っていただければよろしいかと思いましたの」

「はい?」

「わたくしが一輝様を好いている、と思ってらっしゃってでしょう?」

「それは、――」

「武藤」

 適当に言い逃れようとした恭介の口は、途中で封じられる。相手を遮るように静香が話すのは、余程言いたいことがある時だけだ。

 恭介は黙って彼女の台詞を待つ。

「確かに一輝様に好意は抱いておりますけれど、それは恋愛感情ではございませんの。一輝様も、わたくしのことを『特別に』思っていらっしゃるということは決してありません。弥生様をご覧になって、お判りになったでしょう?」

「それは、もう、イヤというほど」

「あのように想い会えるお二方に、わたくしは憧れますわ」

 先ほどの仲睦まじい二人の様子を思い出したのか、静香の口元に微かな笑みが浮かぶ。が、すぐにそれを消して、恭介を真っ直ぐに見上げてきた。

「わたくし、いつまでもあなたに誤解したままでいて欲しくありませんでしたの」

 口を噤んだ静香の眼差しが彼の胸に突き刺さる。

 そして、その言葉も。

 何か返さなければと、恭介は思った。思ったのだが、静香は恭介の言葉を待つことはしなかった。

 口ごもる恭介を見上げて、彼女はふわりと微笑む。

「そろそろ参りましょう?」

 ふと視線を参道の方へ向けると、そう言って歩き出した。

 彼女のその背中を見つめながら、恭介はポケットの中の両手を握り締める。

 静香の、あの台詞。

 あれは――

 彼の視線の先で、静香がゆるりと振り返る。

「武藤?」

 そう呼ぶ柔らかなその声は、もういつもの彼女だ。首をかしげた拍子に、艶やかな黒髪が流れる。

「今、行きます」

 答えて、恭介は静香に向けて一歩を踏み出した。

 一足ごとに、彼女は近くなる。

 ――こうやって距離を縮めるのは、簡単な事なんだけどな。

 ふと、恭介の頭の中をそんな考えがよぎっていった。だが、同時に、ぼんやりと理解する。

 ことを難しくしているのは、他ならぬ、彼自身なのだ、と。

 ――人は、見たくないものは見えないふりをする。

 新藤一輝の台詞が恭介の脳裏によみがえる。あれは、彼にとっては、少し違う。恭介にとっては、見ることが怖いことは、見えないふりをする、だ。

 そう、それは紛れもない『逃げ』だった。

 見ようとすれば、様々なことが見えてくる。

 最後の一歩で、恭介は静香の隣に立った。そこで立ち止まり、彼女を見つめる。

「武藤?」

 何も言わずに佇む彼を、静香はいぶかしげに見つめ返してきた。

 恭介は、その、白くまろやかな頬に触れたくなる気持ちを抑える。触れてもいいのかもしれないが、まだ、彼の中には躊躇いがあった。

 恭介は胸の中で呟く。

 春だ。春が来たら、この胸の中にあるものを吐き出そう。この想いが叶うにしろ叶わないにしろ、そこで一度けじめをつけるのだ。

「行きましょう」

「……はい」

 静香に声をかけ、共に歩き出す。

 いつものように後ろや前ではなく、隣を。

 触れそうで触れない距離を保ちつつ、恭介は彼女の温もりを確かに感じていた。



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