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4月は始まりの月

4月のお話。

 四月は素晴らしい。特に、学年順位百五人中百二位のウチのお嬢様が、無事進級できた四月は。

 まさにお嬢様学校万歳だ。

 武藤恭介むとう きょうすけ(二十五歳)は、薄紅の花びらが舞い散る中、しなやかな黒髪を揺らしながら桜並木を歩いている『主人』の背中を見守りながら、その思いをつくづくと噛み締めていた。

 彼が仕えるお嬢様――綾小路静香あやのこうじ しずかは由緒正しい旧華族、綾小路家の一人娘だ。

 系図を辿れば、平安時代だかに行き着くらしい。

 ただし、この綾小路家、その由緒の正しさが災いしたのか、家人の誰もが浮世離れしていたせいで危うく破産の憂き目に遭いかけたこともある。それを立て直したのは、婿入りした静香の父、げんであった。眠っていた土地や株式を運用し、広大な屋敷を手放さんばかりになっていた綾小路家を見事に返り咲かせた手腕は、見事の一言だ。

 そんな野心的な父親を持つ静香だが、残念ながら、その部分は欠片も受け継がなかった。全てにおいて、浮世離れも甚だしいことこの上ない少女なのだ。

 恭介がこのお嬢様の元に就いたのは五年前のことになる。

 けっして頭は悪くない――いや、かなり優秀であるにもかかわらず、試験というものに対する熱意を全く持たない静香は、毎年この時期、彼を冷や冷やさせてくれる。

 問題を解くのに苦労するわけではない。

 やろうと思いさえしてくれれば、きっと、手紙か何かを書くよりも簡単に、解答欄を埋められるだろう。

 だが、そもそも、その気になってくれないのだ、このお嬢様は。

 ほぼ全教科赤点を取り、追試代わりのレポートをのほほんと提出するのがいつものことだ。

 以前、恭介は静香に、何故真っ当に試験を受けないのかと尋ねたことがある。

 その時彼女は、こうのたまった。

『試験というものは、自分の力がどの程度にあるものか評価し、基準に到達しているかを確認する為に行うものでしょう?』

『ええ』

『では、それがすでに判っているならば、必要ないのではなくて?』

 添えられたのは、艶やかな微笑みだった。

『テストの問題に答えるよりも、レポートの方が面白くてよ』

 そう答える彼女のレポートは、確かに教師陣を唸らせる出来なのだ。

 だが、そうは言っても。

 ――やんごとなきお血筋のお嬢様が留年ギリギリなんて、カッコ悪すぎだろ。

 溜息をついた恭介の前で、その『お嬢様』が不意にクルリと振り返った。

「ねえ、武藤。『桜の樹の下には屍体が埋まっている』というのを、お聞きになったことがあって?」

 桜吹雪が舞い散る中で真っ直ぐに彼に向けられているその眼差しに、一瞬――ほんの一瞬だけ、頭を持っていかれる。

「――何ですか、それ」

 ほんの少し開いてしまった間に、静香は気付かなかったらしい。

 両手を掲げて手のひらで桜の花びらを受けるのに、気を取られている。

「ふふ。綺麗な文章でしょう? でも、こんなにも美しいものに対して、あんまりだと思わなくて?」

 そう言って、彼女は艶やかに笑う。

「わたくしなら、そうね……どなたかの『想い』が埋まっているとするかしら」

「はあ?」

「誰かの秘めた想いを吸い上げて、桜は仄かに染まるのよ」

 また、感傷的なことを。

 恭介は半ば呆れ、半ば自分でもよく解からない気持ちを抱きながら、手を伸ばす。そして、彼女の髪に絡まった桜の花びらを摘み取ってやった。

「そういうのもいいですが、少しは勉強も真面目にしてくださいよ。特に、数学と物理と化学。もう、やばいでしょ、あの点数」

 溜息をつきながらそう進言する彼に、静香は「まあ」と目と口を丸くする。

「数式を覚えて、そこに数字を当てはめて数値を出すだけのことに、どれほどの意義があるのかしら」

 また、このお嬢様は屁理屈を……。

 恭介はグッと言いたいことを呑み込み、真面目な表情を作る。

「少なくとも、成績を付ける目安にはなりますよ。進級できなかったらどうするんですか。そこらの高校生みたく、留年するなら辞めるってわけにもいかんでしょう?」

「あら、そうしたら、少し早めに夢を叶えてしまおうかしら」

 いたずらっぽく笑った静香は、こともなげにそう答えた。彼女がそんな顔を見せる相手は、数少ない――家族とごく限られた使用人だけだ。

 普段の彼女の取り澄ました笑みは、恐らくそれを向けられた相手の多くを魅了するだろう。だが、恭介はこういう、ふとした時に見せる彼女の顔の方が、いいと思う。

 静香の笑顔に危うくごまかされそうになった恭介だったが、ハッと直前の彼女の発言を思い返した。

「ちょっと待て。夢より先に、現実のハードルをクリアしてくださいよ」

 渋面で言う恭介を、静香は軽く首をかしげて見上げてくる。そして、何を思ったのか、彼女は自分の額の辺りを指先で軽くトントンと叩いた。

「? 何ですか?」

「し、わ。ただでさえドキドキしてしまうお顔なのに、眉間に皺なんてついてしまったら、余計によろしくなくてよ?」

 屈託なくそうのたまった、お嬢サマ。

 余計な世話だ、と恭介は内心で呟く――呟きながらも、無意識のうちに指先で眉間に触れていた。

 『ドキドキしてしまう顔』というのはかなりの婉曲表現になる。

 実際には、恭介の容貌は強面を通り越して極悪人面だ。

 たとえ長じてどんなに不細工になってしまった者でも、たいていの場合、子ども時代の写真は『可愛い』と言ってもらえるものだ。だが、恭介に限っては、産まれたばかりの頃の写真でも、赤ん坊らしからぬ鋭い眼光が見るものの顔を引きつらせる。

 そしてその目付きと育ちに育ったガタイの所為で、学生時代は喧嘩を売られまくり(お陰で腕っ節はかなり強くなった)、仕事の面接も落とされまくった(受けた面接は両手両足の指を使っても全然足りない)。

 彼の視線は、道端のヤンキーあるいはヤクザの闘争心を駆り立て、ごくごく真面目な面接官をびびらせるのだ。そして、これ故に静香と巡り会うことになったのだと言っても、過言ではない。

 今から五年前――恭介二十歳、静香十三歳の初夏。

 バイトで食いつなぎながら正社員募集の面接を受け続け、三十二件目。

 そこからも不採用の連絡を受け取った日、このお嬢様と出会ってしまった。

 その時、静香は何故か一人で出歩いており、たまたま彼が通りかかったところで野郎三人に絡まれていたのだ。

 彼としては、いたって穏やかに諭したつもりだった。

 そのつもりだったのだが――

 十分ほどが過ぎた頃、その男たちは呻き声を上げながら、地面に這いつくばっていた。

 まあ、お陰ですっきりしたよなぁ、などと思いつつ、彼らとやり合うことになったそもそもの原因のことなどすっかり忘れてその場を立ち去ろうとした恭介は、まさに『銀の鈴を振るうような声』に呼び止められた。

 振り返ってその姿を視界に納めた時、これは同じ人間なのかと、彼は目を疑ったものだった。

 とてもほっそりとしているのに骨張ったところは全くない、華奢な身体。

 しみ一つ無い陶磁器のような白い肌に、涼やかで繊細な顔立ち。

 まだあどけなさを残す造りの中で輝く黒目がちの目はどこか大人びていて、それを向けられた彼の心臓は、何故かドクリと強く胸の内側を打ち据えた。

 言葉を失っていた恭介は、そのままスゥッと寄ってきた車に押し込まれ、しばし走った後に行き着いた大邸宅に連れ込まれ、気づいた時には、彼女の付き人として働くことを了承させられていたのだ。

 未だに、どういう運びでそんなことになったのか、よく理解できていない。

 ただ、彼女を迎えに来た車の中で根掘り葉掘り色々訊かれ、知らないうちに自分のことをあれやこれや話してしまい、いつの間にやらそういうことになっていたのだ。

 何度も繰り返すが、出会いから、五年。

 五年も経ったというのに、自分の『主人』のことを、いまひとつ理解しきれていない恭介だった。


   *


 新学期が始まって早々に、静香がまた突拍子もないことを言い出した。

「もう一度、言ってもらえますかね、お嬢サマ?」

 高校からの帰りの車の中、頬を引きつらせながら、恭介は訊き直す。そんな彼に、彼女は片手を頬に当てて軽く首をかしげた。

「あら、尖ったお顔」

「――怖いのは今更です。ではなくて、今、何て仰いました?」

 恭介の問い掛けに、静香は優雅に微笑んで、同じ台詞をのたまった。

「アルバイト、というものをしてみようかと思うのです」

 聞く気も起きないその言葉に、恭介は目眩を覚える。

 有り得ない。

 自分の身の回りのことすら碌にできないお嬢サマが、『仕事』など。いったい、どこでそんな情報を仕入れてきてしまったのか。

「そんな必要、これっぽっちも無いでしょう? 何だってまた、そんなことを思い付いたんですか」

「わたくし、もう高校三年生でしてよ? 大学に進む気はございませんから、学生生活はこの一年が最後ですもの。今のうちに、したいことはしておかないと」

 お嬢様が高卒でいいのかよ……というツッコミは心の中だけのものにしておいて、恭介は懇々と諭した。

「いいですか? アルバイトというものは、そんなに簡単なもんじゃありません。曲りなりにも、『仕事』なんですよ? そもそも、あんたみたいなお嬢サマを雇ってくれるところなんて、ありゃしません」

 世間一般では、従業員を採用する前には面接がある。

 おっとりのんびり、箸よりも重いものは持ったことがありません、という風情の静香を雇ってくれるようなところは、普通はあるまい。が、彼女は、恭介の指摘に対してこともなげに笑顔になった。

「それは問題ありませんことよ。お父様に紹介していただきましたの」

 そう言って鞄の中を探ると、一枚の紙を取り出して恭介に見せる。

「……」

 そこにあるのは『喫茶店 ドリーム』という名称と、住所に簡単な地図。その場所までは、結構距離がある。放課後に行くのは大変そうだ。

 しかし、恭介が引き寄せられたのは、『そこ』ではなかった。

 よりにもよって、喫茶店だと? しかも、名前がなんだかいかがわしい。

 かなりの独断と偏見に満ちた感想を、無表情な顔のまま、胸中で毒づく。

 あのクソ親父、何を余計なことをしでかしているのかと、恭介は内心で罵った。

 彼の中の『元がしでかした余計なこと』のナンバーワンは、これまでのところは昨年の『お見合いもどき』だった。何を思ったのか、あの父親は、その当時十七歳だった娘に、さる若き実業家を射落としてこいと指令を出したのだ。

 ――幸いにして、その話はいつの間にか立ち消えになっていたが。

「では、杉田。こちらにお願いね」

 軽やかな静香のその声で、恭介はハッと我に返る。彼女は勝手に運転手に紙切れを渡すと、指示を出してしまっていた。

「ちょ、お嬢サマ!?」

 慌てて阻止しようとした彼を、静香がキョトンと見つめてくる。『否』という答えが返されようとは、これっぽっちも思っていない顔だ。

「どうかなさって?」

 どうかもくそもない。この容姿でウェイトレスなどやった日には、野郎共が群がること間違いない。元がいったい何を考えているのかは知らないが、仮にも名家のご令嬢に、そんなことが許される筈がなかろう。

「あのね、お嬢サマ。もう少し、ご自分の立場ってものを考えてくださいよ。あなた、働く必要なんてないでしょうに」

「『働く』必要はなくても、『社会勉強』の必要はあると、お父様は仰ってらしてよ。わたくしは箱入りが過ぎるから、と」

 打てば響くように、彼女は返してくる。

 確かに、それはその通りだ。だからと言って、こんな職業を選ばなくてもいいではないか。そう、これが事務か何かの裏方作業であれば、恭介もおとなしく付き従おう。

 潰れかけた名家を立て直したのは一種の天才だとは思うのだが、それ故なのか、時々、あのタヌキ親父が何を考えているのか判らなくなる。

 ああ、クソ!

 所詮、恭介はただの使用人だ。主人がしたいということを、止める術はなかった。


   *


 着いた先にあったのは、随分小さな喫茶店だった。

 扉を押し開けると、そこに付けられていたカウベルがカランコロンと音を立てる。中にテーブル席はなく、カウンターに五脚の椅子が並べられているだけだった。

 そのカウンターの奥に立っていた小柄な老人が、静香の姿を認めて笑顔になった。ツルンとはげた頭とは対照的に、白い口ひげ顎ひげは豊かだ。好々爺の笑みは、もう少し恰幅が良ければサンタクロースの装束が良く似合いそうだった。

「やぁ、来たのぅ。話は聞いとるぞ。ワシがここの『マスター』じゃ」

「恐れ入りますが、よろしくお願い申し上げます」

「なんだ、堅苦しいのぅ」

 優雅に腰を折って頭を下げた静香に、マスターは肩を竦める。そうして、カウンターの下をゴソゴソと探ると、包みを彼女に向かって差し出した。

「まあ、取り敢えずは着替えだな。制服で働かせるわけにはいかん。こっちの戸の奥が居間になっとるから、そこで着替えたらよかろう」

「かしこまりました。使わせていただきます。では、少々失礼いたします」

 そして再び一礼し、静香は指示された部屋へと上がっていく。

 残された恭介は、マスターを無遠慮に観察する。

 元からの紹介だということは、この老人と元とは何らかの関係があるということなのだろうが、いったい、どんなつながりだというのか。

 疑問を残しておくのは気に入らない性質たちの恭介は、さっさと訊いてしまうに限ると結論付けた。

「で、マスターは彼女の父親と、どんな関係で?」

「は? ワシか? あの子から訊いとらんのか?」

「知らんから訊いてるんでしょう」

「んん、あの子が言っとらんのに、ワシから言うわけにはいかんのう」

 そう言って、老人はニヤリと嗤う。

 その顔に、恭介はどこか見覚えがある様な気がした。ふとよぎった面影を捕まえようとした時、居間とのドアが開き、静香が姿を現す。

 着替えた彼女の姿を目にした瞬間、恭介は勢い良く、噴いた。

「この、クソ爺ぃ!!」

 喉から飛び出しそうになった怒声を、かろうじて押し潰す。

 カウンターがなければ、マスターの胸倉を掴みあげていただろう。その上に両手をついて身を乗り出した恭介から遠ざかるように老人は数歩後ずさり、彼はニンマリと笑みを浮かべた。

「よぅ似合ってるのぅ」

「うるせぇ、エロ爺!」

「まあ、武藤、乱暴はいけなくてよ? この制服、とても可愛らしくなくて? わたくしには、似合わないかしら」

 そう言って、静香は残念そうに小さく首をかしげた。それに伴い、絹糸のような黒髪がシャラリと音を立てる。

 いや、似合っているのだ。似合っているから、たちが悪い。

 その『制服』は、メイド服――それもどこぞの電気街に生息しているような、丈は短くレースは過剰な、いかにも男の目を引きそうな代物なのだから。

「爺ぃ、さっさと別の服を出せ。さもなくば、この話は無しだ」

「ち、勿体ないのう」

「武藤、少し乱暴ではなくて?」

「あなたは、さっさと居間に戻ってください。俺が服を持っていくまで、待っているんです」

「わたくしは、これでも……」

「俺以外の男の前で膝を出すな」

 彼女は、それがどれほど男の目を引き付けることになるのか、まったく理解していないのだ。そして、そういう格好をした自分が、そいつらの頭の中でどんな目に遭うことになるのかも。

 たとえそれが彼らにとって他愛のない想像に過ぎないのだとしても、恭介には看過できない。

「……まあ」

 静香が口元に手を当てて絶句したが、恭介は頓着しなかった。

 というより、自分がどんな台詞を口にしたのかをわかっていなかったとも言える。

 ただでさえ向けるだけで子どもを泣かせる目付きを更に鋭くして、マスターに迫った。

「爺ぃ、他にもあるんだろうな? さっさと出せ」

 まるでカツアゲだ。

「まったく、えらい独占欲が強いのぅ……」

 ブチブチとこぼしながらも、マスターは再びカウンターの下を探り始める。

 これは独占欲などではなく、良識の問題だと恭介は言ってやりたかったが、下手に反論すれば余計に曲解されそうな気がして、ただ老人を監視するのに留めておいた。

 彼は、さほど時間をかけずに新たな包みを取り出す。

「ほいよ」

 カウンターに置かれたそれを殆どひったくるようにして取ると、恭介は包みを広げて服を確認した。

 どうやら、無難な白シャツに膝下程度のタイトスカートのようだ。これなら良かろう。

 最初からこっちを出せよ、とマスターを睨み付け、それを手にして静香が待つ部屋の戸を叩く。

「開けますよ」

 数秒待って、実行した。

 畳ばりの部屋の中、彼女は背筋を伸ばし、きちんと膝を揃えた正座で恭介を見つめてくる。まるで三つ指突いて頭を下げてきそうだ。

「こっちに着替えてください」

 畳の上を滑らせて彼女に服を渡し、早々に戸を閉めた。


   *


 再び姿を見せた静香は、確認したとおり、白いシャツに膝下丈の黒いタイトスカートに身を包んでいた。若干身体の線が出過ぎている気もするが、さっきの『アレ』よりははるかにマシだ。

 マスターが相好を崩してウンウンと頷いてみせる。

「おお、それもよぅ似合ってるの。さて、それじゃぁ仕事をしてもらうとするか。そうだの、ちと足りない食材があるから、スーパーで買ってきてもらおうかな」

「それだったら、俺が……」

 何もそんな雑用に静香をかり出さなくてもいいだろう。そう思って恭介は手を挙げたが、当の彼女から却下された。

「まあ、いけないわ。これはお仕事でしてよ? わたくしが参ります」

 そうは言っても、一人で外を歩いたことなど数えるほどしかないような彼女に買い物など、まずムリに違いない。スーパーに辿り着くことすらできないかもしれない。いや、そもそも、彼女は自ら財布を出して買い物をしたことがあるのだろうか。少なくとも恭介がついてからの五年間では、一度も見たことがない。

 そのことを指摘すると、彼女は少し口を尖らせた。

「いくらわたくしでも、独りで外に出たことくらいあってよ」

「それはもしや、あの男たちに絡まれた時ですか? 俺と会った時の」

「……それ以外にも、ありますわ」

 何となく、含みがあるような彼女の眼差しが気になったが、恭介には目下更に訊いておくべきことがあった。

「じゃあ、買い物は? どうやるのか、知ってますか?」

「まあ。それくらい、テレビで観たことがありますもの」

 やはり、実地ではないらしい。

 ちょっと待て、十八歳にして『はじめてのお使い』なのか?

 その結論に辿り着いた恭介は、愕然とする。

 そんなバカなことがあってもいいものなのだろうか。いや、彼女なら有り得る。

 自問自答する彼の耳に、軽快なカウベルの音が届いた。ハッと振り向いた時には、静香の姿は店内のどこにも見当たらなかった。

 即座に後を追って店を出ようとした恭介の背中に、のんびりとした声がかけられる

「まったく、小学生じゃあるまいし、ちと構い過ぎじゃろう? 歩いて十分の場所だぞ?」

 恭介はグッと言葉に詰まった。確かに、過保護かもしれないと思う時もある。

 だが。

「これが俺の仕事だ」

 そう言い置いて、恭介は店を後にした――それが、先ほどの静香と同じ台詞であったことには気付かずに。

 外に出れば、彼女はすぐに見つかった。

 スラリと伸びた背に、揺れる黒髪。

 静香とて、『歩行』という行為のためには左右の脚を交互に繰り出しているわけだが、恭介には、それが自分のしているものと大差のない動きだとは、到底思えなかった。ただ歩いているだけだというのに、何故、あれほどに優雅な所作を見せられるのか。

 道ゆく者も、彼女とすれ違うたびにチラリチラリと振り返っていた。見慣れた恭介でさえ、目を奪われることがあるのだ。ふと気を惹かれてしまうのも、無理もないことだろう。

 静香は十字路で立ち止まると、手の中の何か――恐らく地図――に目を落す。しばし首を傾げた後、右手を選んでまた歩き出した。

 マスターの言ったとおり、道は単純で、距離的にもたいしたことはなかった。

 間もなくスーパーに辿り着くと、静香はいかにも物珍しそうに店内を見回した。やかましい店内放送など、彼女にはさぞかし耳障りなことだろう。

 だが、恭介の予想に反して、静香はウキウキと軽やかな足取りを売り場へ向けた――手ぶらで。

「ちょっと、待て。カゴだ。カゴを持てって」

 そんな離れた場所で呟いても彼女に届く筈がないのだが、恭介は思わずそう口に出してしまう。近くを通り過ぎた中年の女性が怪訝な眼差しを向けてきたが、彼の顔付きを目にした途端にサッと視線を逸らせた。

 傍に行ってしまおうかという考えが彼の頭の中をよぎった時、どうやら他の客の様子を見て気付いたらしい静香が、買い物カゴが重ねられている場所まで戻ってくる。

「よし」

 無意識に小さくガッツポーズを取ってしまう。道ゆく人が心持ち大きめに彼を迂回していったのは、気の所為ではないかもしれない。

 店の奥へと消えていった静香を見失う前に、恭介もスーパーの中へと向かった。

 一番手前は野菜売り場だ。静香はそこで右手にレタスを、左手にキャベツを持っている。彼女は両方をしげしげと見つめているが、迷っている様子からすると、どちらか一方を買っていくことになっているのだろう。

 固唾を呑んで見守る恭介の目の前で、彼女は、ひょいと両方を買い物カゴに入れた。

 最初からどちらも買うことになっていたのか、それとも、区別がつかなかったのか。

 今更言っても仕方がないが、マスターに購入するものを訊いてくれば良かったと、恭介は歯噛みする。

 彼が手を出せば、静香は怒るだろう。

 とは言え、露骨に膨れたりはしない。

 彼女は、にこやかに臍を曲げるのだ。そう、その下でマグマを胎動させる休火山のように。

 やきもきする恭介を置いて、静香は次の売り場へと移っていく。

 牛乳、塩、グラニュー糖……

 あのクソ爺、何でよりにもよって重いものばかりなんだ?

 彼は苛々と内心で老人を罵った。

 静香は、彼女にとっては明らかに重量オーバーな買い物カゴを、しきりに持ち直している。

 それでもどうにか店内を一巡し、指示されたものを仕入れ終えたらしい彼女は、レジに向かう。列に並び、前の人を倣ってカゴを置き、金を出す。

 と。

「あ、お客さん、お釣りお釣り!」

 恭介がホッとしたのも束の間、金を渡してさっさとサッキング台に移ってしまった静香を、店員が呼び止めるのが聞こえる。彼女はキョトンとしながらも、差し出された釣銭を受け取っていた。

 どうやら、『釣銭』という概念がなかったらしい。

 そんなことが有り得るのかと、恭介はあまりに浮世離れした彼女に呆れたが、しかし、これであとは帰るだけである。

 同じ道を辿ればいいのだから、どうにかなる筈だ。

 やはり荷物が重いのか、店を出た静香は、少し歩いては袋を置き、また歩き、また下ろす、を繰り返している。距離は同じでも、時間は数倍かかりそうだ。

 恭介が見守る中でソレが起きたのは、カタツムリの歩みのような速度での帰路の、半分ほどが過ぎた頃だった。

 再び手を休めた静香に、一人の男が歩み寄る。にやけ面をしたその意図を推察するのに、頭を働かせる必要はなかった。

 執拗に誘いをかけている男を、静香は首をかしげて見つめているようだ。恭介の位置からは彼女の顔を見ることはできないが、恐らく、内心の困惑など微塵も見せない柔らかな微笑を浮かべていることだろう。

 静香は、普段から、直截な断りは口にしない。きっと今も、厚さ十センチはある真綿で包んだようなその婉曲な拒絶を述べているのだろう。だがそれは、男には通じなかったと見える。

 彼は手を伸ばして下に置かれたスーパー袋を取り上げようとした。

 すかさず、恭介は潜んでいた電信柱の陰から一歩進み出る。不意の彼の動きに気を取られた男の目を、ガッチリと捉えた。そのままヒタと見据えながら、無言で伸ばした親指を自分の首に向けて水平に走らせる。そして、その親指で、真下を指した。

 瞬間、凍りついた男の手から、どさりと袋が落ちる。不審な彼の素振りに、再び静香が首を傾げたが、男は数歩後ずさったかと思うとクルリと身を翻し、足早に去って行った。

 静香はその後姿を見送っていたが、やがて荷物を手にすると、再び歩き始める。

 やれやれと胸を撫で下ろし、しばらく身を隠した後、恭介は彼女の後を追った。


   *


「まあ、武藤。どこに行ってらしたの?」

「ほらの、すぐに帰ってくると言ったじゃろ? せっかく迎えに行ったのに、擦れ違うてしまったようだの」

 恭介が店の扉を開けた途端、呆れたような静香の声が響いた。

 マスターが肩を竦めて彼女に答えるが、恭介が静香の後を追いかけたことを言わないでいてくれたのは、彼女の自尊心を護る為か、はたまた恭介の体裁を保たせてくれた為か。

 いずれにせよ、言い繕う必要はなさそうで、恭介は軽く頭を下げるに留めておく。

「すみませんね」

「もう。そんなに心配なさらなくても、わたくしでも、このくらいの事はこなせてよ?」

 少し拗ねたようにそう言った静香だったが、続いたマスターの台詞に微かに頬を染めた。

「だがのう、頼んだのはキャベツだけなのに、レタスも入っとるぞ」

「それは……お二つとも、よく似てらっしゃるでしょう? 『キャベツ』の中にも種類があるのかと存じましたの」

「レタスとキャベツくらい、家庭科で習わないのか?」

「家庭科ではテーブルマナーをご教授いただきましたけど、お野菜の種類まではうかがわなくてよ」

 恭介の問いに、ごくごく当然のことのように、彼女は返す。

 普通は順番が逆だと思うが、やはり恭介と静香とでは住んでいる世界そのものが違うらしい。いつもはただの天然娘の相手をしているだけなのだと思えるが、時々、ふとその現実を知らされる。

「武藤、どうかして?」

 黙り込んだ彼の顔を、静香が覗き込む。

「何でもありませんよ」

 胸の中でモヤモヤと渦巻く何かを押し潰して恭介がそう返すと、彼女は「そう?」と小さく首を傾げた。更にもの問いたげな静香の視線を、無言で受け止める。

 何となくわだかまってしまった空気を動かしたのは、マスターの能天気な声だ。

 いや、正確にはその内容か。

「静香も、もうちょい常識を覚えんといかんのう」

 ――『静香』。

 恭介は、『そこ』に反応する。思わずピクリと頬が引きつった。

 呼び捨てとは、聞き捨てならない。確かにマスターは彼女の上司にはなるが、呼び捨ては不快だった。いかにも馴れ馴れし過ぎる。もっと節度を持って接してもらわなければ。

 だがしかし。

 毅然とした態度でその主張を口にした恭介に向けられた二人の眼差しは、彼の発言に対して面食らっている、キョトンとしたものだった。

 マスターが眉を上げて静香を見遣る。

「何じゃ、静香。お前、わしの事をまだ言っとらんのか」

「とっくに、ご存知かと……あら、でもそう言えば、お引き合わせしたことがなかったかしら……」

 独りごちる静香に、マスターはやれやれと肩をすくめた。怪訝な顔でいやに親しげな二人を、恭介は憮然とした顔で見比べる。彼のその視線に気付いたのか、彼女はにこやかな笑みを向けてきた。そして事も無げに事実を告げる。

「蚊帳の外に置いてしまって、申し訳なくてよ。こちらは、わたくしの父方の祖父ですの」

「……はぁ?」

「わたくしの、おじい様ですの。父の父」

 祖父。

 大柄な元に対して小柄なマスターで、その印象の差にごまかされてしまった。

 だが、確かに、言われてみれば顔は元に似ている。どことなく人を食ったところは、気付いてしまえばそっくりだ。

 親子二代に渡って振り回されている恭介を予想してほくそ笑んでいるだろう元の姿が脳裏に浮かび、彼は臍を噛む。静香によって引き合わされて以来、何故か、あの男には目の仇にされているのだ。

 何故かは、判らないが。

 声もなく主人の父親を罵る恭介を現実に引き戻したのは、苦笑交じりの静香の声だ。

「でも、あのお父様が、何の縁も無いところを紹介される筈がないと思いませんこと?」

 彼女のその台詞は、もっともだった。そもそも、あの溺愛過保護親父が接客業をあてがったあたりで、何かおかしいと気付くべきだったのだ。

「また、ネタにするんでしょうね、あの人は……まったく、何を考えているんだか」

 ぼやいた恭介に、静香が「おかしなことを」と言わんばかりに目を細める。

 だが、恭介が口にしたのは紛れもない事実だ。

 静香が学校にいる間のことなので多分彼女は知らないが、彼が一生使う当てもないような分野の勉強を押し付けられたり、彼が一生足を踏み入れることがないような場所を連れ回されたり、彼は元から嫌がらせとしか思えないことを度々言いつけられていた。

 高卒の恭介にそんなことをしてみても、無駄の一言に尽きるというのに。

 それが嫌がらせではなくてなんだというのか。

「お父様は、意味のないことはされなくてよ」

「それはどうだか」

 半分あきらめたような口調でそう返した恭介に、静香はふふ、と小さく笑った。

 それは、極々自然な笑みで。

 ギュッとみぞおちの辺りが締め付けられて、恭介は無意識のうちにその辺りに手をやった。

 その奇妙な感触は一瞬で消え失せて、彼は眉をしかめる。

「どうかされまして?」

 声をかけられて目をやれば、静香が気遣わしげな眼差しで彼を見上げていた。

「ああ、いえ、別に何でも」

 恭介が静香の元にいるのも、もう、それほど長いことではないだろう。

 この間の『お見合い』はなし崩しに消滅したが、高校を卒業し、彼女に大学進学の意志がないのであれば、他に残された道は限られている。

 そして、その道を進むことになれば、恭介はお払い箱だ。

 それは、あと五年……?

 三年……?

 ……一年?

 恭介は、主人を見下ろした。

 この少女は、いったい、どう考えているのだろうか。

 出会ってから五年、静香が取り乱したり、感情を露わにしたりするところを見たことがない。常に静謐な眼差しを向けてくる彼女が何を考えているのか、恭介には量り兼ねる。

 訳が解からないうちに始まったこの『仕事』からさっさと解放されたいと思っているのか、それとも離れ難く思っているのか、彼自身にも、よく判らなかった。

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