馬鹿な会話
ひたすら馬鹿な会話を書き連ねるつもりだったのに。
日曜の午前三時。携帯電話の奏でるけたたましい音楽に僕は目を覚ました。目覚ましのアラームを仕掛けてあったわけではない。
音楽はなかなか鳴りやまない。疾走感のあるリードギターが起きぬけの頭にやかましく響いている。
カチリという小気味よい音とともに携帯電話を開く。液晶には予想した通りの人物の名前が表示されている。これで無視するという選択肢は消えた。そんなことをすればたぶん家まで押し掛けてくる。しぶしぶ通話ボタンを押しこむことにした。
通話の相手は、戒井舞菜。高校二年生。僕の、親友。
「おはよう親友! グッモーニン、元気?」
僕は軽く寝癖を撫でて、深く息を吐いた。
……参ったな、今口を開いたところで死ね以外の単語が出てこない気がする。ここは一旦深呼吸でもして落ち着こう。浅く二回息を吸って、深く一度吐きだす。ひっひっふー。
よし、なんとか素敵な単語が産み出せそうだ。
「くたばれ」
「何で!?」
「失礼、間違えた。こんばんは親友。どうした? ついに時計の見方がわからなくなったのか? 君の頭の中の消しゴムは本当に高性能だな」
「はぁ? 何言ってんの? 時計くらい読めるに決まってるじゃない。現在時刻九時半、でしょ」
「本当に読めていなかったのか」
信じられない。時計の見方なんて幼稚園の時分には親から教わっているはずだ。遅くとも小学校の算数の授業で習うだろう。しかしこいつ朝っぱらから飛ばしてるな。寝起きの頭ではついていけないかもしれない。むしろついていきたくない。
「あんたの方が間違ってるんじゃないの? 短い針は左に向いてるし、長い針は下を向いてる。これが九時半じゃなくて何が九時半だっていうのよ」
「本当に? 時計が狂ってるんじゃないか?」
「あいにく電波時計ですよーだ。大人しく非を認めなさい。思いっきり笑ってあげるから」
彼女があまりに自信に満ちた声で言うのでもう一度時計を確認することにした。時刻は午前三時。デジタル時計なので読み違えるはずもない。
……ああ、なんとなくわかった。こいつたぶん時計を逆さまに読んでいる。
恐らく仰向けの姿勢で、ベッドから頭だけ垂らして時計を見ているのだろう。考えただけで頭に血が上りそうな格好だ。
「なぁ、天井って上と下どっちにあるもんだっけ?」
「あんた本当に大丈夫? そんなの上に決まってるじゃない。普段私に馬鹿馬鹿言うくせに、あんたの方がよっぽど……って、なんじゃこりゃ! 天井が下にある!?」
予想的中。どうやら狂っているのは時計ではなく本人の方だったようだ。電波時計とは人を狂わせる電波を放つ兵器の名称らしい。だが親友は僕が必ず治してみせる。これが医者を志した理由だ。
……などという事実はない。悲しいことに彼女は昔からこうだ。現実は厳しい。
「助けて親友。天地逆転現象だ!」
「そのまま空に落ちて大気圏突破しろ。もしくは寝返りを打て」
「寝返り? そんなのでこのリヴァースド・ワールドから抜け出せるのね? よーし、えい!」
がしゃん、とまるで通話中の携帯電話を床に叩きつけたかのような音がした。猫が着地に失敗したときのような声も聞こえた気がする。
狭いベッドの上で思い切り寝返りを打てばどうなるかわかりそうなものだが、そこはさすが我が親友。必ず期待に応えてくれると信じていた。
しばらくの間電話口からはうめき声が聞こえていたが、それはしだいに唸り声のようなものへと変わっていった。馬鹿すぎて獣人化でもしたのだろうか。
「うがー! 何やらせんのよ、思いっきり腰打ったじゃない。この性悪め!」
「それはおしかったな。頭を打っておけばもう少しお利口になれたかもしれないのに。ところで世界はリヴァースし直したか?」
「あれ、いつの間にか元に戻ってる。あんたが直してくれたの?」
「ああ、僕の古代魔法の力だ」
「古代魔法!? すごいな親友! 今度私にも教えてよ」
「それはできない。そんなことをしたら君まで命を狙われることになる」
「わりと重い設定!?」
「どうしても知りたければユーキャンで習うといい。月3000円の十回払いだ」
「通信講座で習得できるんだ! あんたの世界観がわからない!」
律儀に突っ込みを入れてくれる舞菜。こんな馬鹿な会話に付き合ってくれるのも、ひとえに彼女の優しさ故だろう。
そういえば彼女は何故こんな時間に電話をかけてきたのだろうか。彼女は馬鹿だが馬鹿なりに常識というものをわきまえている人物だ。
こんな深夜にかけてきたということは、何か緊急の用事でもあったのだろうか。
「うわ、よく見たら今三時じゃない。こんな時間に電話かけてくるなんて、あんたちょっと常識ないんじゃない? そんなに私の声が聞きたかったの?」
「……」
馬鹿な子ほど可愛いという言葉を考えた奴は今すぐここに来て土下座した方がいい。今の僕なら本当に古代魔法を使えそうだ。
なるべく苦しみそうな魔法をくれてやるとしよう。毒系とか。
「まぁ、丁度いいや。私もあんたに頼みたいことあったしね」
「頼みたいこと?」
「うん、えっとね、あれ? ちょっと待って、今思い出すから」
「わかった。じゃあ一旦切るよ」
「えっ、ちょ……」
ピッ。彼女がまだ何か言っていたようだが気にしない。
数秒後、すぐに着信があった。携帯電話のイルミネーション機能がボタンを色とりどりに輝かせて僕の目を楽しませてくれる。
あー、すごいなこれ。あんまりまともに見たことなかったけど綺麗だなー。
ひとつ残念なことは着信音がロックミュージックであることか。この光の芸術にはちょっと雰囲気が合わない。今度からはクラシックを設定しておくことにしよう。ベートーヴェンの第九なんかいいかもしれない。
そろそろ出てやるか。通話ボタンをクリック。
「ちょっと、何で切るのよ! 後早く出なさい!」
「すまない、ちょっとルミナリエっていた」
「ルミナリエる!? なんて幻想的な響き……!」
「それと電話を切ったのは君のためだ。君が何か思い出そうとすれば、最低一時間はかかるだろう。通話料金が残念なことになること請け合いだ」
「失礼ね、もう思い出したし。それでね、今日あんた暇でしょ。一緒にホッピングに行かない?」
「高校生二人で!?」
二人でひたすら跳ね続ける場面を想像しただけで絶望的な気分になった。ホッピングって。言われてもわからない人いるだろ。
ちなみにホッピングというのはあくまであの道具の商品名で、本当の名前はポゴスティックというらしい。どうでもいい。
「あれ? 間違えたかな。ほら、あのサランラップで余った料理を……」
「ラッピング?」
「宇宙ステーションに宇宙船が……」
「ドッキング」
「私……実はずっとあんたのことが好きだったの!」
「ショッキング!」
「あ、それ近いかも。買い物って英語で何て言うんだっけ?」
「最初からそう聞きなよ。ショッピングだろ」
「そうそう、そのショッティングに行こうよ」
「何を撃ち殺すつもりだ。別に行くのは構わないけど、何か目当てのものはあるのか?」
「んー、特には決めてないけど。ま、いーじゃん。目的もなくブラブラするってのも面白いと思わない?」
こいつ、僕が暇なことを前提で話を進めてやがる。こちとら華の高校生だ。舞菜の乾燥したチーズ並みにスカスカの頭では想像できないかもしれないが、休日に暇なんてことがあるはずがないだろう。信頼できる友人たちと、物語の中のような青春劇を紡いでいくに決まっている。
まぁ、暇だけど。
彼女に付き合ってやるのはやぶさかではないが、何となく腹が立つので少し嫌がらせをしてやるとしよう。
僕は伝家の宝刀を抜き放つことにした。
「それは、デートということでいいのかな?」
沈黙。
僕がただ一言放っただけで、今まで軽快な口調で話していた彼女が黙り込んでしまった。
それもそのはず、彼女はこの手の話題にめちゃくちゃ弱いのだ。今頃は電話口の向こう側で顔を真っ赤にしていることだろう。
やがて彼女が何かもごもごと話し始めるが、どれも意味のある言葉ではない。どうやらかなり戸惑っているようだ。
さて、どんな返答をしてくるだろか。しばらくはこのネタで弄りまわしてやるとしよう。
「そう、そういうことになるのかな」
何、だと。
予期していなかった、彼女の肯定の言葉。
「じゃあ、いつもの場所に十時でいい、よね?」
待て。
「そっか、デートかぁ。」
待ってくれ。
楽しみだなぁ。
それだけ言って、彼女は通話を切った。まるで熱に浮かされたような口調だった。
何てことだ。冗談のつもりだったのに。自分の顔が熱を持っているのが分かる。鏡など見なくてもわかる。僕の顔は今間違いなく茹でダコよりも真っ赤だ。
この上なく見事なカウンターパンチ。伝家の宝刀は両刃の剣でもあったらしい。
無論、彼女と二人きりで出掛けるのは初めてではない。これまで何度も遊びに出掛けたことはある。ただ、それはあくまでお出掛けだ。そういう名目だったからこそ、お互い憶面なくいられたのだ。
だが、今回はデート。僕が、そう言った。
そう考えただけで、全身が風邪でも引いたかのように熱い。舞菜のことを言えた立場ではない。我ながら信じられないほどに恋愛沙汰に対する耐性が皆無だ。
僕は、彼女のことが好きなのか?
自問するまでもない。僕は彼女のことが好きだ。しかし、それはあくまで親友という立場から見た場合であって、恋愛という観点から見るとそれはまた違ってくるのではないだろうか。
確かに彼女は顔は悪くないし、馬鹿だけど気遣いはできる。話していて面白いし、気も合う。
好きになる要素は十分ではないだろうか。
でも人を好きになるということは、そういった表面的な条件で判断すべきかというとそれもまた何か違う気がするし、ああもう。
僕がベッドの上を転がりまわっていると、不意に携帯電話が鳴った。思わず身体がビクリと跳ね起きた。
電話の着信音とはまた違う音楽。これは確かメールの着信音だったか。おそるおそる携帯を開き、手紙の形をしたアイコンを選択する。
心臓が大きく高鳴るのを感じた。差出人は、戒井舞菜。
件名は無題。メールを開こうとする指が小刻みに震えた。決定ボタンが妙に重く感じられた。
それでもなんとかメールを開き、本文を読み終えた僕は、ベッドに倒れこんだ。
そこには、ただ一文だけ。
「恋の古代魔法はいかがだったかな?」
やられた。
なんのことはない。彼女も魔法が使えたのだ。それも僕なんかよりもずっと強力な。
何故だか悔しさはない。それどころか勝手に口が曲がって笑みの形を作っていた。
どうせこれは前哨戦に過ぎないのだ。六時間後の本番に向けて、何か仕返しの方法を考えておくことにしよう。彼女が真っ赤になるような、とびっきりの方法を。
彼女がメールの送信をためらっていたことを、僕は知らない。
どうしてこうなった。