伯爵夫人の密かな計画 不倫夫に鉄槌を!
「この子だけは、決して渡さない……」
リヴィエラは腕の中で無垢な寝息を立てる三歳の息子、ナサエルを強く抱きしめた。
その瞳には、悲壮な決意と静かな怒りが宿っている。
*
夫であるカルバン・ドエスト伯爵が猫を被っていたのは、結婚してわずかな間だけだった。リヴィエラがナサエルを身ごもるや否や、彼はその本性を剥き出しにした。
湯水のごとく金を使い込む浪費癖。領地経営を妻に丸投げする無責任さ。そして、家庭を顧みず愛人宅に入り浸る放蕩ぶり。絵に描いたようなクズだった。
愛の欠片もない夫は、我が子が産まれた際も、ひと月以上も顔を見せなかった。たまたま着替えを取りに戻った際、偶然出くわした乳飲み子を見て「ああ、産まれたのか」と鼻を鳴らしただけ。それが、父親と息子の初対面だった。
それでも、リヴィエラはじっと耐え忍んだ。この国の法では、貴族の嫡男は「父親の所有物」に近い。離縁しても、ナサエルは爵位継承のためにカルバンの元に残される。
(この男に預ければ、この子はどんな地獄に突き落とされるか分からない)
母としての本能が、彼女を奮い立たせた。
リヴィエラはただ耐えるのをやめ、密かに反撃の準備を開始した。
まず、カルバンが買い漁った悪趣味な調度品を秘密裏に売り払い、資金を作った。
友人の伝てで特殊な効果を持つ「魔道具」を調達し、出入りの商人には、酒好きなら喉から手が出るほど欲しがる年代物の極上ワインを手配させた。
信頼できる執事のトーマスにだけはすべてを打ち明け、彼女は「その日」を待った。
*
数ヶ月ぶりに、カルバンが帰宅した。
彼が自由に使っていた口座の送金をリヴィエラが止めたため、金の無心をしに戻ってきたのだ。
「おい、どういうつもりだ! 俺の金が引き出せないじゃないか!」
喚き散らす夫に対し、リヴィエラは淑女の微笑みを崩さない。
「あら、それは失礼いたしましたわ。何かの手違いでしょう。すぐに手配させますわ」
毒を孕んだ愛想笑いを浮かべ、リヴィエラは軽やかに手を打ち鳴らした。
「それより、今日はちょうど良いお帰りにございました。ナサエルの誕生日ですもの」
実際の誕生日は二ヶ月も先だ。だが、自分の息子の年齢すら怪しい夫が、誕生日など覚えているはずもない。
案の定、カルバンは「ああ、そうだったか……」と適当に合わせながら、一刻も早く女の元へ戻ろうと踵を返しかけた。
「実家の兄から、素晴らしいワインが届きましたの。私にはもったいなくて、ぜひ貴方に飲んでいただきたいと思いまして」
執事のトーマスが、仰々しく一本のボトルを捧げ持つ。
ラベルを見た瞬間、カルバンの目がぎらりと光った。喉が鳴る音が聞こえるほど、彼は露骨に食いついた。
(掛かったわ……!)
リヴィエラは確信した。
カルバンがボトルを奪い取ろうとするより早く、彼女は冷ややかに命じた。
「開けて差し上げて」
グラスに注がれたワインは、吸い込まれそうなほど深い濃密な赤色をしていた。芳醇な香りが部屋を満たす。
酒の魔力に当てられたカルバンは、吸い寄せられるようにグラスを掴み、一気に煽った。
「……っ、うまい!」
すぐさま二杯目が注がれる。カルバンは底なしの酒好きだが、それほど強いわけではない。
一本目が空くと、リヴィエラはすかさず二本目を用意させた。
中身はただの安物だが、すでに酔いが回った彼には「極上」の続きにしか感じられない。
結局、八本ものボトルを空けた頃、カルバンは椅子に座っているのもやっとの泥酔状態に陥っていた。
今が好機。リヴィエラの目配せを受け、トーマスが音もなく一枚の書面を差し出した。
「旦那様。こちらはナサエル様への贈り物に関する書類です。ご確認のサインを」
「ああ、なんだ。いいぞ、勝手にしろ……」
カルバンは震える手で羽根ペンを握らされ、腕を支えられながら、内容も読まずにサインを書き殴った。さらに言われるがまま、五指の捺印までも。
「……終わったわ」
用済みとなった「粗大ゴミ」は、そのまま迎えの馬車へと放り込まれた。行き先は彼が愛してやまない、愛人の家だ。
*
「奥様、ついに指輪が盗まれました」
麗らかな日差しが降り注ぐ庭園。
ナサエルと手を取り合い散歩を楽しんでいたリヴィエラのもとへ、息を切らせた侍女が駆け寄った。
盗まれたのは、ドエスト伯爵家の女主人が代々受け継ぐ家宝の指輪――を精巧に模したレプリカである。
「そう。ようやく時が満ちたのね」
リヴィエラは、静かに目を細めた。
夫・カルバンが囲っている女の素行は、すでに調査済みだ。男爵家の手に負えぬ毒娘として持て余されていた彼女は、カルバンが用意した隠れ家に移り住み、今は我が物顔で贅沢を貪っているという。
指輪が盗まれた。それは、あの愚か者たちが一線を越え、リヴィエラに牙を剥く準備を終えた合図だ。
(すべては計画通り。離縁を切り出されるのも、もう間もなくでしょうね)
リヴィエラは、ナサエルの柔らかな髪を撫でながら、人知れず冷ややかな微笑を浮かべた。
*
数日後。指輪が偽物だと気づき、憤慨したカルバンが伯爵邸に乗り込んできた。
しかし、女主人不在の邸内は静まり返っている。
「皆様は別荘へ赴かれました」
留守居の従僕にそう告げられたカルバンは、かえって好都合だとばかりに下品な笑みを浮かべ、すぐさま件の女を連れてきた。
二人は荒々しく邸内をひっくり返し、本物の指輪を捜索したが、見つかるはずもない。本物はすでに、リヴィエラの個人口座の貸金庫に眠っている。
やがて探し疲れた二人は、邸の酒と食事を意地汚く食い散らかすと、あろうことか主の寝室で醜く絡み合い始めた。
*
翌日。実家で機を待っていたリヴィエラは、従僕からの報せを受けると、騎士数名と執事のトーマスを伴い、邸へと足を踏み入れた。
寝室の扉を開ければ、そこには酒の悪臭と、真っ裸で睦み合う男女の姿。
しかし二人は狼狽えるどころか、闖入者となったリヴィエラを逆恨みするように怒鳴りつけた。
「フン、ちょうどいい! お前のような可愛げのない女とは、今日限りで離縁だ!」
「そうよ、さっさと出ていきなさい! ここは私の家になるんだから!」
狂ったように喚く二人を前に、リヴィエラは眉ひとつ動かさず、一枚の書面を差し出した。
「承知いたしました。では、こちらにサインを」
カルバンがなぐり書きするようにサインを終えると、控えていた騎士がそれを手際よく回収する。魔導具に紙面をかざすと、淡い光が文字を読み取った。
「受理されました。これより、お二人の離縁が正式に成立いたしました」
騎士の宣告を聞き、カルバンは勝ち誇ったように鼻を鳴らす。
「ああ、せいせいした! ナサエルはこちらで引き取る。お前はとっとと出て行け!」
「哀れねぇ。もう貴女の居場所なんて、この家のどこにもないのよ?」
勝ち誇る二人。だが、執事トーマスの冷厳な声が、その高笑いを切り裂いた。
「――出ていくのは、そちらの方々でございます」
「あぁん? トーマス、貴様ボケたか。主である俺に向かって……」
「バカじゃないの? クビよ、クビ!」
口汚く罵る二人を、騎士が事務的な視線で射抜く。
「現在、ドエスト伯爵位を継承されているのは、ナサエル様です。そして公式後見人は、実母であるリヴィエラ様ただお一人。……カルバン様。貴方には、この邸宅に留まる権利も、ナサエル様に接触する権利もございません」
「な……なんだと!? そんな話、いつ……!」
「先日、ご自身でサインなされたではありませんか。あの夜のことです」
トーマスの指摘に、カルバンの顔色がみるみる土気色に変わっていく。
「貴様ら……俺を酔い潰して、無理やり書かせたな!」
「滅相もございません。私は確かに『ナサエル様のために、内容をよくご確認の上でサインを』と申し上げましたよ。……それを選んだのは、貴方様でございます」
「騙したな! こんな書面、不履行を申し立ててやる!」
喚き散らすカルバンに、リヴィエラが静かに歩み寄った。
「よろしいのですか? 防犯のため、この邸のすべての部屋――ええ、この寝室での『不貞の証拠』もすべて、魔法映像で記録してございます。女王陛下へ提出してもよろしいのですよ?」
その瞬間、二人の動きが凍りついた。 清廉潔白を旨とし、貴族の醜聞を何より嫌う女王陛下。その耳にこの映像が届けば、カルバンは貴族社会から永遠に追放され、二度と日の目を見ることはない。ことによっては、収監さえも。
「貴様……よくもこれほど汚い真似を……」
震える声で絞り出すカルバンを、リヴィエラは氷のような瞳で見下ろした。
「我が子を守るためならば、母親はどんなことでもいたします。貴方たちのような悪魔に、あの子を渡すわけには参りません。……あの子の未来のためならば、私は鬼にも蛇にも、喜んでなりましょう」
リヴィエラの毅然とした宣告。
その後、二人は騎士たちによって力ずくで邸から放り出された。
*
這々の体で借家へと逃げ帰ったカルバンと女を待っていたのは、底なしの泥沼だった。
伯爵家からの送金はぴたりと止まり、女の実家である男爵家からも「これ以上、家の泥を塗るな」と冷酷に絶縁を突きつけられた。
焦ったカルバンは、「伯爵位の譲渡は不当だ」と必死に訴えを起こした。
しかし、リヴィエラが管理する領地経営は極めて健全であり、対してカルバンはすでに三ヶ月以上も前に家を退去し、不貞に耽っていた事実は明白。
司法も彼の支離滅裂な訴えを受理することはなかった。
金も、名誉も、頼れる後ろ盾もない。 追い詰められた二人は、なおも貴族という虚飾の肩書きにしがみつき、甘い言葉で他家を騙して回る詐欺に手を染めた。
だが、その悪行も長くは続かない。
ほどなくして御用となった二人は、冷たい獄舎の中で互いを罵り合いながら、公衆の面前で断罪されたのだった。
一連の醜聞に対し、非の打ち所がない対処を見せたドエスト伯爵家にお咎めが及ぶことは、全くなかった。
*
それから数年。 ドエスト伯爵邸には、以前とは違う明るい活気が満ちていた。
リヴィエラは、信頼のおける使用人たちの献身的な支えを受け、領地経営にその手腕を振るった。
彼女の誠実な政は領民にも支持され、地盤はかつてないほど盤石なものとなっている。
そして、何よりの宝であるナサエルは、母の背中を見て、他者の痛みがわかる聡明で思いやりのある少年へと成長していた。
(ああ、あの時――諦めなくて本当に良かった)
執務室の窓から、庭園で元気に遊ぶ息子の姿を眺め、リヴィエラはそっと胸を撫で下ろす。
書類仕事を終えた彼女の前に、執事のトーマスが静かに、そして丁寧な所作で茶を置いた。
「お疲れ様でございます、奥様。本日のハーブティーは、領地で新しく採れたものですよ」
「ありがとう、トーマス。……とても良い香りね」
立ち上る温かな湯気と、愛する我が子の笑い声。 守り抜いた穏やかな日常の中で、リヴィエラは心からの安らぎと共に、至福の一杯を味わうのだった。




