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第2話 仮の婚約者?!

私は夢を見ていた。

もうずっとずっと昔の夢だ。


両親を突然の事故で亡くした私はお葬式の後、こっそり家を抜け出しての公園の隅っこで蹲って泣いていた。


──『恋、大丈夫?』


顔をあげれば、近所に住んでいた仲良しのしゅうちゃんが心配そうに私をのぞき込んでいる。


『ぐす……っ、しゅうちゃん……パパとママが……』 


──『うん。聞いた……』


そう言うとしゅうちゃんは私の隣にちょこんと三角座りをする。


『もう会えないんだって……お空は遠いから恋には行けないよっておばあちゃんが……ぐす……』


しゅうちゃんは黙ったまま私の小さな身体を両手で抱きしめた。


──『僕が恋の悲しいも涙も貰ってあげられたらいいのにね』


そしてしゅうちゃんは私を抱きしめたまま私の頭をそっと撫でた。


──『…………悲しいの悲しいの飛んでいけっ……』


一生懸命、涙を浮かべながらそういって『おまじない』を繰り返す、しゅうちゃんの声に耳をから向けているうちに心が温かくなって、大丈夫だよって優しく心に寄りそってくれた気がして、私の涙をいつのまにか引っ込んでいたことを思い出す。


あの日から、私は何度もこの『おまじない』に救われてきた。


『しゅうちゃん、ありがとう』


──『どういたしまして』


そうして公園から並んで家まで帰った帰り道、しゅうちゃんが別れ際に私を真っすぐに見つめながらこう言った。


──『大きくなったら僕がずっと恋のそばにいてあげる』


そう言ってしゅうちゃんがにっこり笑って私もにっこり笑ったことを思い出す。


(しゅうちゃんの夢なんて……いつぶりだろう……)


ふわふわと曖昧な感覚で夢と現実の狭間を彷徨いながら、私は海の底から浮上するように意識を覚醒させていく。


「ん……しゅう、ちゃん……」


私が目をこすりながら、ゆっくりと目を開ければ、長いまつ毛を揺らしている修哉の綺麗な寝顔がこちらを向いていた。


「えっ……?!」


私はガバっと起き上るとすぐに辺りを見渡す。


私は寝心地抜群のスプリングの効いたキングベッドの上に居て、周りはクローバーデザインのハイグレード商品である大理石と天然ヒノキを使用した『ダイヤモンドクローバーシリーズ』の家具が並んでいる。


(す、すっごい豪華な部屋……数百万円はするわよね)


(どうゆうこと? これまだ夢の中?)


そう思った私は自分の頬っぺたをぎゅっとつねってみるが普通に痛い。


「痛っ……え、もう何がどうなって……」


「──起きましたか?」


「きゃあ……っ」


隣で眠っていたはずの修哉が起き上がると、毛布がはらりと修哉の腰元に落ちる。私は修哉の鍛え上げられた上半身に思わず顔を背けた。


そしてすぐに自分の着ているワンピースに乱れがないか確認する。


「大丈夫ですよ、添い寝しただけで《《まだ》》何もしてません」


(ま、まだ?!)


「えぇっと、ごめんなさい……記憶が全くなくて……」


「ああ。昨日はタクシーに乗った後も恋さんが起きないので僕の家に連れて帰ったんです」


「な……っ。そんな……っ」


私がお酒が弱いのは事実だが、記憶をなくしたのは初めてだ。


「大事なことなので聞きますが、記憶はどのくらいないですか?」


「そ、それはどういう意味でしょうか?」


「ちなみに僕の名前は?」


「あの、えっと修哉、さん?」


記憶を手繰り寄せながらおずおずと答えた私に修哉がふっと笑った。


「正解。実は昨日はここに連れて来てから、恋さん一度起きたんですけど、お酒が抜けてなかったようで……僕に添い寝されながら結構お話してくれましたよ?」


「なっ……、お、お話……? あの全然記憶がないんですけど……も、もしかして……」


「はい。二年付き合った恋人に振られたこと、後輩に寝取られたこと、クローバーデザインで営業事務をしていること、あとはご両親を事故で亡くしたあとおばあ様に育てられ、そのおばあ様も五年前に亡くなったこと……そして初恋の男の子の名前が「しゅうちゃん」だということを僕に話してくれましたよ」


「嘘……っ」


「嘘ではないですし、僕は嬉しかったですよ。恋さんのこと色々知れて」


修哉はあまりのことに目を見開いて固まっている私にむかってニッコリ微笑む。私はすぐにベッドの上で正座をすると深く頭を下げた。


「ごめんなさい……っ! 酔ってたとはいえ見知らぬ方にこんなご迷惑を……あ、あの昨日のことはその綺麗さっぱり全部その忘れて貰えたら……」


「それはできません」


「えっ!!」


修哉はすっと立ち上がると白いシャツを羽織り、テーブルの上から紙を一枚手に取った。


(ま、まさか……記憶ないけど吐いたとか? 何か物壊したとか?)


(あの紙に弁償するものが……書いてある? あぁっ……思い出せないっ)


何度も昨晩の記憶を取り戻そうと首を捻るがやっぱり何も思い出せない。


「これを見てください。忘れたとは言わせません」


私は修哉が差し出している紙を受け取ると私はすぐに目を通していく。そして記載されている文言に私は口をあんぐりと開いた。


「……仮・婚約者……契約……へ?」


「最後まで読んでください」


修哉に促されて最後まで読み進めると、ミミズが這ったような文字で『有川恋』と私の直筆のサインが書いてある。


「そちらの契約書の内容を要約すると、三カ月の仮の婚約期間を経て両者の合意があれば婚姻届けを提出できるというものです」


「ええっ!! 婚姻届?! それに……この人……っ」


私は同じく契約書にサインしている、お相手の名前を見て狼狽する。


だってその名前は──。


「……四葉(よつば)……修哉? さんって?」


(まさか……?)


「はい。四葉修哉は僕の名前で恋さんが働くクローバーデザインの副社長です」  


(──!!)


にっこり微笑む修哉を見ながら私はこれでもかと目を見開いた。


「オフレコですが一昨日、ロスから帰国し来週から恋さんと同じ本社勤務の予定です」


私は口をぱくぱくさせたまま言葉が出てこない。


クローバーデザインの現・社長である四葉孝彦(たかひこ)には娘と息子が一人ずついると聞いている。ただ長男の四葉洸哉(こうや)がプロ写真家として活躍しているうえに会社経営に全く興味がないことから、婚外子である次男を副社長に据えたと数年前聞いたことがあった。


「その顔だと……僕のことはご存じみたいですね」


「えと、その……噂レベルですけど」


「恋さんは正直な方ですね、そんなところも素敵です」


(す、素敵……って)


私の顔を火が出たように熱くなる。顔面偏差値国宝級のイケメンからこんなことを言われて、平然を装える人なんているんだろうか。


「この僕たちが昨日交わした仮の婚約者契約、通称『仮婚』のこと、やっぱり記憶にないでしょうか?」


「仮婚?! ななな、ないです……っ、本当にごめんなさい。全くもって、お、覚えてなくて……」


「そうですが……。昨日は今お付き合いされている方もいないとのことで僕の申し出に快くサインして頂いたのですが……」


(僕の申し出?)


「えっと……それはどう言う……」


「単刀直入に聞きます。恋さんは僕の婚約者になるのは嫌ですか?」


「それは……」


修哉が口篭った私から契約書を受け取ると眉を下げる。


「そんな顔をされると……少々落ち込みますね」


「え……いやっ、その何て言ったらいいのか……その私なんかじゃ、その、四葉副社長には不釣り合い……かと。それにそもそもなぜ私なのかも……わからなくて……」


私の言葉にすぐに修哉がはっとした顔をする。


「あ! それもお忘れでしたか。ではご説明を。僕は昨日恋さんに一目ぼれしてしまったんです!」


「へ!?」


思わず素っ頓狂な声を出した私を見ながら修哉が綺麗な二重の目を細めた。


「ちなみに僕が一目ぼれした女性は神と仏に誓って恋さんが初めてです」


「ちょっと待ってください……えぇっと……」


「もし恋さんが僕を生理的に受け付けないとかじゃなければ少しずつお互いを知っていけたらと思っています」


そう言うと修哉が私の方へ一歩距離を詰め、私をのぞき込んだ。ギシッとキングベッドのスプリングが軋む。


「恋さん、ダメですか?」


その修哉の真剣な瞳に私の心臓は大きく跳ね上がった。


「だ、ダメというか……その、副社長にはもっと素敵な方がいらっしゃると思いますし、仮にも私なんかが婚約者だなんて、しゃ、社長も反対なさると思いますので……」


「それなら大丈夫ですよ。社長にはメールですがすでに連絡済みで承認いただいてますのでご安心を」


「な……っ」


「父は後継者、ようは孫を早く見たがっていまして。なかなか結婚に前向きでない僕が恋さんと仮とはいえ婚約したいと連絡したら一つ返事で了承してくれましたから。これで恋さんの心配事は解決しましたよね?」


「えっと……」


「大切にします。僕の婚約者になってください」


修哉の大きな手のひらが私に向かって差し出される。


(こんなことが……起こるなんて)


もう自分の心臓じゃないかのようにドキドキしっぱなしで苦しい程に鼓動が跳ねて高鳴っていく。修哉はずっと頭を下げたままだ。


「あ、の……私に務まるかわかりません、が……」


気づけば私は差し出された修哉の手のひらをそっと握り返していた。博樹にフラれた翌日、イケメン御曹司から婚約者になって欲しいと言われて了承するなんて真面目が取り柄の私らしくない。でも何故だか私はその手を取らずにはいられなかった。


「良かった……本当に嬉しいです。じゃあこれからは敬語はなしで修哉と呼んでください。さぁ、どうぞ」


修哉は私の手を握ったまま満面の笑顔を見せている。


「いや、あの……その」


「名前を呼んでくれるまで、この手離しませんから」


(な、なんて事を言うの?!)


修哉は私の反応を楽しむように握っている手のひらに更に力を込めた。


「えと……あの……」


「大丈夫ですよ、待ちます」


「あの、えっと……しゅ、修哉……。うぅ恥ずかしい……っ」


名前を呼んだだけで頬が紅潮して身体がかっと熱くなる。


「よくできましたね。じゃあ恋、今日から宜しく」


そういうと修哉は私の体をそっと包み込んだ。


この時の私はまだ気づいていなかった。

私の恋時計がまた動き始めたこと。


そしてまるで絵本の中のお姫様のように、私はもうしないと誓ったはずの恋の階段を既に登り始めていたことを。


「これ……夢じゃないよね……」


私はあのあと修哉の運転する数千万はくだらないであろう真新しいベンツで自宅マンションに送ってもらったのだが、修哉は家に上がり込もうとすることもなく、LINE交換だけ済ませるとすぐに帰っていった。


私は現実味がないまま、シャワーをあびて着替えると、冷蔵庫から麦茶を注ぎ入れる。


そしてテーブルに座ったと同時にスマホが震える。


──『体調は大丈夫?』


私はスマホに浮かんだ『四葉修哉』の四文字を確認してからすぐに『大丈夫です、送って頂きありがとうございました』と送信する。


──『だから敬語なしで、俺も使わないから』


(あ……普段は俺なんだ。えっと……)


修哉の一人称が僕ではなく俺だった、たったそれだけのことなのに私の心臓がとくんと跳ねる。雲の上の存在だと思っていたクローバーデザインの副社長である修哉と仮とはいえ婚約者になったことにじわじわと現実味が増してくる。


「信じられない……だって昨日博樹に振られて未希に馬鹿にされて……どん底だったのに……」


私はテーブルの端に見えた、化粧用の小型の鏡をのぞき込んだ。そこには見慣れた自分の顔が写っていて困ったような顔をしている。


「うーん……自分で言うのもなんだけど……別に美人でもないし……身寄りもないし、このマンションだって賃貸だし」


その時またブルッとスマホが震える。


──『恋、早速だけど明日仕事終わりに夕飯食べに行かないか?』


「えっ……!」


──『これから恋の婚約者としてもっと恋のことが知りたい』


ストレートな修哉の言葉に気恥ずかしさを覚えながらも嫌じゃない。むしろ、昨日博樹と別れたばっかりなのに修哉のことをもっと知りたいと思う自分に驚いている。


「夢じゃないんだな……私が修哉のこ、婚約者……だなんて」


私は少し悩んでから『明日の食事楽しみにしてます』と送ると、紅潮した頬を両手で覆った。


月曜日──私は戸惑いと不安を抱えながら出社すると自分のデスクのパソコンを起動させる。


出社すれば各自メールを確認することから始まるのだが、今日の私は朝から社内メールに釘付けだ。


そこには本日付で四葉修哉が副社長として就任すること、また彼の簡単な経歴と自己紹介について書かれている。


(修哉って四か国語話せるんだ……それにイタリア留学経験に……ロス支社ではクローバーデザイン全体の五割を占める売り上げを叩きだしてるなんて……)


私は一通り社内メールに目を通すと静かに息を吐きだした。


(やっぱり……いくら修哉がああ言ってたとしても丁重にお断りするべきかも……)



その時──事務所の扉が開くと聞きたくないピンヒールの音が聞こえてくる。



「恋せんぱ~い、おはようございまぁす」


「……おはよう」


未希は私の横の自分のデスクに腰かけると、すぐに私の方へ椅子を寄せ小さな声で話しかけてくる。


「博樹のこと、改めてすみませんでした~。ずっと心苦しかったんですけど~恋先輩も分かってくれたって聞いてほっとしてますぅ」


(心苦しい? わかってくれた? 馬鹿にしないでよ……っ)


何一つ消化できないまま博樹に勝手に別れを告げられた上に、朝から未希の勝ち誇った顔を見ていると悔しさからやっぱり涙が出そうになる。


(絶対泣くもんか……)


「……もう終わったことだから」


「え~、恋先輩ってあっさりなんですね~てっきり土曜日、博樹からプロポーズでもされるんじゃないかって浮かれながらレストラン行かれたのかと思って心配して〜食事も喉通らなくて」


私は未希からのあからさまな悪意ある言葉に耳を塞ぎたくなってくる。それでも後輩に寝取られたからと言って朝から会社で涙も弱いところも誰にも見せたくない。


「博樹とは……別に結婚前提でもなかったし、恋人がいながら浮気するような奴、別れて正解だと思ってるから」


「あれ、やっぱり怒ってます~?」


「怒ってない。もうこのことについて話しかけてこないでっ」


「わぁ、こわーいっ」


「…………」


未希はようやく私から離れると自身のデスクに座る。そしてパソコンをのぞき込んでいると再び、はっと私の方に顔を向けた。



「あ! 恋先輩~、社内メール見ました? 『四つ葉の王子様』が帰って来るとか?」


「何? 四つ葉の王子様?」


「知らないんですか~、うちの副社長の四葉修哉のあだ名ですよ」


「へぇ……そう、なんだ」


私は涙を喉の奥に引っ込めると、未希の言葉に昨日の修哉との契約のことが脳裏をかすめる。


「すっごいイケメンな上に~しごできだし。語学堪能、頭脳明晰。婚外子ってだけがマイナスポイントだけど~社長が次期後継に指名してるし~? 今日から一緒に働けるなんてドキドキしちゃう~」


そのことに関しては未希に同感だ。昨日あんな契約を交わした修哉と同じ職場だなんて、なんだか急にそわそわしてしまう。


その時だった──扉が大きく開いたと同時に事務所がざわっと騒がしくなった。


見れば部長と一緒に修哉が颯爽と扉から入って来る。


「わ……恋先輩~写真で見る以上のイケメンなんですけどぉ」


未希の言葉を聞きながら私も思わず修哉の凛々しい姿に目を奪われていた。修哉は仕立ての良い深い紺色のスーツに上品な緑色のチェックのネクタイをつけていて、昨日はノーセットだった黒髪は今日は綺麗にワックスで整えられていた。


修哉は部長からマイクを受け取ると、爽やかな笑顔を見せた。


「皆さんおはようございます。本日付けで副社長として就任しました、四葉修哉です。皆さんどうぞ宜しくお願いします」


盛大な拍手に迎えられながら修哉は生真面目にお辞儀をする。そして修哉のロス支社でのクローバーデザインでの役割や成果などを簡単に話すと事務所のあちこちから感嘆の声が聞こえた。


「……それでは最後に……別件で本日もう一人辞令がでております。有川恋さんを副社長付の秘書に任命させて頂きます」


「へ……?」


(あれ、今、修哉が私の名前を呼んだような……)


修哉の視線が私に向けられると同時に事務所にいる社員全員の視線も私に向けられる。


「ちなみに有川さんは今の仕事の引継ぎもあると思いますので、暫くは僕も出来る限りサポートしたいと思っています。詳しくはこのあと副社長室で」


「有川さん?」


修哉の隣の部長に促されて私は慌てて立ち上がった。


「え……っと、あの、よ、宜しくお願い致します」


私がぺこりとお辞儀をすれば盛大な拍手が私に送られる。修哉はマイクを部長に返すと、大きな目を私に優しく細めてから事務所をあとにした。


(こ、これは一体……)


あのあと内線で修哉に副社長室に呼ばれた私は驚きを隠せなかった。


「有川さん、ここにどうぞ」


「あ、はい……」


修哉が私を案内したのは副社長のデスクとパーティーションを挟んだだけの簡易デスクだ。


他の上役たちの秘書たちは皆、秘書室で勤務をしているため、私はまさか修哉の使っている副社長室にこうして私のデスクを用意してくれているとは思いもよらなかった。


「ごめんね。急遽だったからこんなデスクで」


「あ、いえ、ちょっと驚いただけです。秘書室での勤務だと思ってたので」


「ああ、これは俺のわがままだよ。恋をそばに置いておきたくて」


サラッと発せられた俊哉の言葉と名前呼びに私は一瞬呼吸が止まる。


「あと秘書のことも驚かせたよね?」


「あ、はい……正直驚きました……あの、どうして私を秘書に?」


「ああ、それは恋の優秀さは部長から聞いていたし、あとはさっきも言ったけど俺の個人的なわがまま」


修哉が私をのぞき込むと形のいい唇を持ち上げた。


「俺、元々秘書は置かないタイプなんだけどはっきり言ってスケジュール管理が大変でさ、公私ともに支えて欲しいと思って恋に頼むことにしたんだ、勝手にごめん」


「あの、その、営業事務しかしてない私に副社長の秘書が務まるとは思えませんし……昨日のことだってやっぱり……」


「俺のこと迷惑?」


「え……っ?!」


「もし恋が迷惑なら潔く身をひくつもりだ。でもそうじゃないなら、結論を出すのは契約書通り三か月後にしてもらえたらと思ってる」


修哉から向けられる真剣な目から視線が逸らせなくて、呼吸が自然と浅くなる。


(こんな目で見つめられたら……)


「恋? 今回だけでいい。俺のわがままを聞いてくれないか?」


そう言うと修哉が私のデスクに手を突いた。


そしてもう片方の修哉の手のひらが私のマウスを握る手に重ねられて、修哉の端正な顔が私の返事を待ちきれないかのように、ぐっと近づけられる。


ワイシャツから香る修哉の甘い匂いに心臓がぎゅっと痛くなって窒息しちゃいそうだ。私は一呼吸おいてから小さく口を開いた。


「わかりました……私に務まるかわかりませんが……公私ともに、お役に立てるよう頑張ります」


「そんなに気負わなくていい。恋は会社のために十分よくやってくれている。恋の作った過去の見積り書をいくつか見せてもらったが、先方の希望を踏まえた上で新しい提案がきちんとできていて大変評価すべき内容だった。あとは秘書としての仕事に少しずつ慣れてもらいながら俺という人間を知ってくれたらそれでいいから」


「でも……」


「でもはナシ。それとこうやって二人で顔を近づけて仕事以外のことを話すときは気軽に話して欲しい。恋に敬語を使われると……こう、立場上もあるが何だか気を遣わせているようで申し訳ない気持ちになってしまって。上司と部下の関係の前に俺たち婚約者同志なんだから」


私は修哉の口から出た、婚約者という言葉に胃の奥がそわそわしながらも嬉しいと思ってしまう。自分は本当にどうしてしまったのだろうか。


昨日出会ったばかりで修哉のことは何も知らない。それにこの契約だって修哉の気まぐれということだって十分に考えられるし、そもそもこんな何でも持っている『四つ葉の王子様』と呼ばれている修哉が、私に一目ぼれすることなんてあるのだろうか。


「あの……」


「ん?」


私は修哉と出会ってからずっと心に引っかかっている疑問を口にする


「どうして私なんですか?」


「言っただろ? 一目ぼれだよ」


「そんな一目ぼれしてもらえるような何かがあるとは私には……」


「あるんだよ」


「え……?」


修哉が私の頬に触れると優しく目を細める。


「時期にわかると思うし、俺がわからせてみせるから恋は気にしなくていい」


「いや……でも……っ」


「まぁ、今日の夕飯でお互いのこともっと話そう。あと恋、敬語はなしだよ」


修哉は私から手のひらを離すと人差し指で私の唇にそっと触れた。


「きゃ……っ」


「はは、可愛い反応だな」


「びっくりするじゃないですか……っ」


「怒った恋も可愛いな」


「や、あの……」


(もう昨日より全然距離が近くて……どうしたらいいかわかんないよっ……)


「恋? どうかしたか? 顔が真っ赤だけど」


「な、なんでもない……」


私はそう答えてから、自然と敬語を使わずに修哉に返事したことに気づく。


私がそっと視線を上げて修哉を見れば、修哉が満足そうに微笑んだ。


「よくできたね。その調子」


そして修哉の大きな手のひらが伸びてきたかと思うと、ふわりと私の頭に触れた。それだけで身体がびくんっと震えてどうしようもない程に胸がどきどきしてくる。


(何これ……まるでこんなの……)


自分でも信じられないが、一昨日博樹に振られてからまだ一日しかたってない。それなのに、こうやって修哉と話すだけでドキドキして自分が自分じゃないみたいで怖くなるのに、この感覚が嫌じゃない。


「宜しくね、《《僕の秘書》》と《《俺の婚約者》》」


私は真っ赤になった顔を見られないように修哉から顔を逸らすと、黙ったまま二回小さく頷いた。


※※※


副社長室はクローバーインテリアの十階にあるため、私が今までいた三階の営業課のフロアよりも景色がいい。窓の外を見れば月が浮かび、星が無数に瞬いている。


(もう九時か……)


修哉は昼前に挨拶まわりに出てからからまだ戻ってきていない。出かける前に修哉から渡された、得意先の上役とその秘書たちの顔写真のついた名簿を見ながら私は、ため息を吐きだした。


「これ今まで全部一人でやってたなんて……」


修哉が外出してから、副社長室にはひっきりなしに電話がかかってきて秘書である私が電話応対をしたのだが、今日だけでもかなりの数の打ち合わせ依頼があり修哉の予定は再来週までほぼ埋まってしまった。


修哉からスケジュールは詰めれるだけ詰めておくよう言われていたが、共有のエクセルファイルを見ながら私はため息をつかざるを得ない。


「すごいな……」


経営手腕にも長け、誰もが認めるクローバーデザインの次期後継者に相応しい人材とは聞いていたが、こんなスケジュールをこなしながら副社長としての仕事も完璧にするなんて並大抵のことではない。


──コンコンコンッ


(あ、誰か来た……)


「はい」


私は返事をして立ち上がると、すぐに副社長室の扉を開けた。


「恋先輩〜お疲れ様です~ぅ」


「え、未希ちゃん?」


「ちょっと見積引継ぎで聞きたいことあってきました~、あ、副社長いないんだぁ」


そう言うと未希は副社長室をしげしげを眺めながら、私のパソコンをのぞき込む。


「ちょっと……」


私はすぐに名簿を片付けると、パソコンの画面を未希に見られないようにロックを掛けた。


「へぇ~早速、副社長から秘書業務任されてるんですね~」


「そんなことより、見積の話って?」


「あぁ、恋先輩から急遽メイン担当で引き継ぐことになったレストランの改修ですけど~お色味ってチョコレートブラウンでいいかなって」


「あ、それなんだけど個人的には両方の見積書とカラーサンプル、プレゼンシート用意して

お相手に選んで頂いたらって思うんだけど」


「え~、どっちが選ばれるかもわかんないし、そもそも〜どっちも選ばれないかもしれないのに提案レベルでそこまでする意味あります~?」


私はいら立ちをぐっと抑えると未希と視線を合わせた。


「何度も言ってるけど、インテリアってただ目で見て楽しむだけのものじゃなくて暮らしや心も豊かにするものだと思ってるの。自分の手間を惜しまずにお客様の立場にたって、お客様が心から納得して気に入って使って頂けるように誠実なご提案することが私たちの仕事でしょ?」


「あー……そのいい人ぶった、カッコつけたお説教大っ嫌いです~。そんなんだから博樹にも愛想尽かされちゃうんですよ。息詰まっちゃう」


未希は長いブラウンベージュの髪をかき上げるとデスクの上に手を突いた。


「ねぇ。そんなに営業事務の仕事好きなら代わってくださいよ、その席」


「何言ってるの?」


「私こう見えて社長令嬢だし~それなりの教養身についてるしパパの接待とかにもついてったりするんで〜恋先輩なんかより秘書業務向いてると思うんです」


「なにそれ……私に言うなら副社長に直訴すればいいじゃない」


「こういうのって誰かに推薦してもらう方がなんかよくないですか~? 恋先輩から自分よりもっと秘書に適任な人材がいるからって秘書降りて欲しいんですけど」


「なんで私があなたの言うこと聞かなきゃ聞けないわけ」


「はぁあ、ほんと融通きかないですよね。てゆうか、恋先輩って副社長と知り合いですか?」


「え……なんで?」


「じゃないとおかしいでしょ、恋先輩レベルなら他に適任いっぱいいるのに」


(どうしよう……修哉との契約のこと未希ちゃんには言えないし……)


確かに未希だけでなく他の社員も感じているだろう。ずっと営業事務をやってきて、特別目立った成績を上げているわけでもない私がロスから帰国した修哉の秘書に抜擢されるなんて。


「…………」


未希はすぐに答えられない私に向かって顔を歪めた。


「その顔、やっぱ知り合いなんだ。で? そうやったんですか? その年とその顔で色仕掛けっていうのもなさそうだし。博樹から聞いたけど、恋先輩って身寄りもいないらしいし〜教養大丈夫ですか〜」


私は唇を噛み締めてから両の手のひらをぎゅっと握った。


「あなたに関係ないでしょ! それに育った環境や身寄りがいないこと、私は何も恥ずかしくないし、仕事にも誇りをもってる! 用がないなら出て行って!」


「何よそれっ! 黙って聞いてれば……」


未希が手のひらを高くあげるのが見えて私は咄嗟に目を瞑った。



──パシッ



「──俺の秘書に暴力は感心しないな」



その声にそっと目を開ければ未希の手首を掴み上げた修哉が立っていた。


(あ……いつの間に……)


「君が常務の知り合いとかでうちに入社したという近藤未希さんかな?」


「ふ、副社長っ! えっと、あのそうです……えっと」


修哉は掴んでいた未希の手首を雑に離すと温度のない目で睨みつけた。


「確認だが、今君は有川さんに暴力を振るおうとしたよな?」


「いえ、違います! 恋先輩の髪に……ほ、埃がついてたので取ってあげようとしただけです」


「本当に?」


「も、勿論です」


「……そうか。二人で何を話してた?」


「あ、私ずっと四葉副社長に憧れてて~その秘書としてお力に慣れること沢山あるんじゃないかなっと思って~有川先輩に相談してたんですけど~」


「その必要はない。俺の秘書は有川さんしかいないと思っている」


修哉のその言葉に未希の顔がすぐに歪む。


「副社長! なんで有川先輩なんですか!! みんな言ってますよ、こんな人事おかしいって」


「有川さんについては部長から詳しくその有能ぶりを聞いている。顧客目線に立った誠実で的確な提案力や正確で真摯に仕事に取り組む姿勢は大いに評価されてしかるべきだ」



「でも……私の方が教養も……っ」


「しつこいな。そもそも君は入社二年目にもなってもFAXひとつ、まともに送れないこともあるとか? ケアレスミスも多いと部長も嘆いていた。有川さんが粘り強く君に仕事を教えていたようだが、有川さんじゃなかったらとうに見放されててもおかしくないと思っているが君はどう思ってるんだ?」


「っ……」


(修哉……)


「こんなこと言いたくはないが……あまりにも仕事の覚えが悪いようなら俺から常務、そして君のお父様にお伝えしてもらうが?」


「そ、それは……パパ、父には言わないでください……」


「約束はできない。まずは今後の君の仕事に対する姿勢次第だな」


「そんな……」


「あと──恋は俺の婚約者だ」


(!!)


「えっ……副社長……っ、どういうことですか?! 有川先輩一昨日まで博樹……恋人いたんですよ!?」



未希の言葉に修哉がククッと笑った。


「君と同じだよ。恋人がいると知りながら好きになったから口説いて奪ったまでだ」


「なっ……」


「わかったら二度と恋に構うな! さっさと出て行け!」


怒気を孕んだ修哉の声に未希の体が小さく跳ねた。


「くっ……、失礼します……っ」


未希は副社長に一礼すると、私を睨んでから副社長室をあとにした。


未希が出ていくと副社長室は急にしんとなる。



「あの……修哉……」


「すまない、出しゃばって……。迷惑だったかな?」


修哉は少し眉を下げると私の顔をのぞき込んだ。


「いえ……その、私のために近藤さんに言ってくださってありがとうございます。でも良かったんですか? 婚約者のこと……」


「社長も了承済みだし俺は全然かまわない」


「でも……」


「そんな顔しないでくれ。俺には恋しかいないと思ってる」


「……なんて言ったらいいのか」


「はは、飯でも食いながらもっと口説かせてくれるか?」


「なっ……!?」


「恋、行こう」


修哉はいたずらっ子のような顔をすると、私のパソコンをあっという間にシャットダウンする。そしてご機嫌で私の手を引いた。


※※※


「乾杯」


「お疲れ様です」


「恋」


「あ……えっと、お疲れ様」


タクシーで移動中も修哉と会話するたびに、私は修哉から敬語を注意されていた。


当たり前だが会社では敬語を使うことに慣れている私は、婚約者以前に副社長であり直属の上司をなった修哉への敬語がプライベートでもなかなか直らない。


修哉が優しく微笑むのを見ながら私たちは、駅前の立ち飲み屋でグラスを合わせた。


修哉がネクタイを緩めてビールを喉を鳴らしながら飲む姿は何だか色っぽい。


「本当にここで良かったのか?」


「あ、うん。イタリアンとかよりはこういうお店の方が気楽っていうか……あのごめんね……修哉からしたら嫌だったかもって今ふと思って……」


「全然嫌じゃない。むしろ幼い頃はラーメンを食べに行くのがごちそうだったしな」


「え、そうなの?」


「ああ、だからロスでも月に一度はラーメンを食べに行ったりしてたよ。なんか堅苦しいところよりは、ほっとするしね」


「それなら良かった……」


「恋の好きな食べ物はなんだ?」


「え?」


私は運ばれてきた焼き鳥盛り合わせのモモに噛り付きながら目を丸くした。


「他にも知りたいことが沢山ある。学生の時は何の部活をしていたとか、趣味や好きなテレビ番組、なんでもだ」


「えっと、そんな修哉に話すほど大したことは……」


「いいから聞かせて」


修哉はだし巻き卵を口に頬りこむと追加でビールを注文する。


「……好きな食べ物は……チョコレート」


「なるほど、今度ゴディパのチョコを全種類十個ずつ取り寄せておく」


「えっ!! やめてよ、困るよ……」


「なぜ困るんだ? 婚約者の好きなものをプレゼントして何が悪いんだ?」


修哉はビールと共に運ばれてきた豆腐サラダを取り分けると私の目の前にコトンと置く。


「えっと、ありがとう」


「恋はそうやって俺の気持ちをただ受け取ってくれたらそれでいいから」


私は豆腐サラダを食べながら隣の修哉をそっと見つめる。すぐに修哉の熱い視線と視線がかちあってお酒の力も相まり私の心臓は跳ね上がる。


「それで続きは?」


「……うん。中学、高校は美術部だったの……絵を描くのが好きで、インテリアも本当はデザインの方に進みたかったんだけど留学費用が難しくて……趣味は映画鑑賞と……漫画かな」


「なるほど……恋の好きな映画と漫画のジャンルは?」


「えぇっと……映画はミステリーで、漫画は少年漫画と少女漫画両方……最近は少女漫画多めで……王子様みたいな人といきなり結婚前提に交際始まるのとか読んでて……えっと」


気恥ずかしくて口ごもった私を見ながら修哉がすぐにククっと笑った。


「修哉?」


「まるで俺たちみたいだなと思ってさ。いきなり結婚前提の婚約者だなんて」


「そ……そう言われてみれば確かに」


私も修哉につられて思わずクスっと笑う。


「恋は笑ってるのがやっぱり可愛いな」


「っ……!!」


涼しい顔を平然とそんな甘いセリフを言ってのけてしまう修哉は、本当に漫画から出てきた王子様そのものだ。


「どうした?」


「修哉って……その誰にでもそのそうなのかなって……」


「そんな風に見えたなら心外だな」


修哉の大きな手のひらが伸びてくると私のグラスを握る手のひらに重ねられる。


「何度でも言うよ。俺は恋に一目ぼれした。それも生まれて初めて。俺は恋の生涯のパートナーになりたいと思ってるし恋を生涯支えたいと思ってる。この気持ちに嘘偽りはないよ」


修哉の真剣な瞳をみていれば修哉の用意した恋の沼にあっという間にはまって抜け出せなくなりそうだ。いや、すでにもう私はその沼に踝くらいまでは嵌まってしまっているのかもしれない。


「ねぇ、修哉どうしてかやっぱり聞いていい?」


「何のことだ?」


「……一目ぼれしてもらうほど……魅力ないかなって……わっ!」


修哉が私の額を痛くない程度に小突くとふっと笑った。


「そんなことないよ。恋は魅力的だよ。俺からしたら早く自分のものにしないと誰かにとられやしないかこれでも内心ヒヤヒヤしてるからね」


「そう、なの……?」


「ああ。はやく俺に落ちてくれると助かるよ」


(~~~~っ、なんて言ったらいいかわかんない……)


私はそっと、つくねの串をクシ入れに入れると修哉が頼んでくれたお茶漬けを食べ始める。


隣の修哉は二杯目のビールを飲み干すと私の分と一緒に温かいお茶を注文した。


「そうだ、二週間後、先日オープンしたホテルオオヤマのオープニングパーティーがあるんだ。恋には俺の秘書として同行して欲しい。いいかな?」


「えっ、二週間後?! そんな華やかなとこ私……」


思わず私はお茶漬けをむせそうになった。修哉はすぐに私の背中に手を添える。添えられた背中の熱がお酒の力を混ざって全身を熱くしていく。


「大丈夫か?」


「う、うん。大丈夫」


修哉は私から手のひらを離すと今度は端正な顔で私をのぞき込む。修哉の肩が私の肩にトンと触れて修哉に聞こえそうなくらいに心臓が音を立てる。


「恋は俺の隣に居てくれたらそれでいいから。同伴の件、頼む」


「わ、かった」


「よし、いい子だな」


そう言って修哉が満足げにふわりと笑ったその瞬間だった。


(あれ──?)


私は一瞬、誰かの顔がよぎったような気がしたが思い出せない。


(気のせいだよね……修哉とは会ったばっかりだし)


そう思いつつもいつだって修哉の笑顔をは何だかすごくほっとしてあったかくて、優しい気持ちになる。

そして不思議なことにずっとずっと前から知っているようなそんなどこか懐かしい不思議な気持ちになる。


「……恋?」


「ううん……なんでもないの」


私は火傷しないように湯飲みに口づけながら、やっぱり赤くなった顔をお茶の湯気で誤魔化した。




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