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09. 最初の使節

夕刻。朝霞の臨時保護区。


 レオハルト率いる一団は、厳重な監視下で温かい食事を与えられていた。金属の配膳トレーを恐る恐る撫でる子供。パウチのスープを飲んで泣き出す老婆。負傷した青年の腕に固定具を巻く自衛隊医官。隅では通訳班候補の言語学者が、食器や衣服の名を指差しで確認している。


 黒田は少し離れた場所からその光景を見ていた。保護区といっても、実態は野戦宿営地を流用した柵つきスペースだ。難民キャンプに近い。だが完全に囲い込むと相手の名誉を傷つける。逆に自由に歩かせれば、不慣れな環境で事故が起きる。理想論ではなく、摩擦を最小にする配置が求められる。


「さっきの黒衣の連中は」


 副官が報告書を持ってくる。


「二名死亡、一名負傷拘束、残り逃走」


「死亡原因」


「崖上からの転落。こちらの弾そのものではない可能性が高いです」


「拘束者は」


「人種的には保護対象と同系統。装備は杖、短刀、骨製の装身具。自分たちを“狩人”と名乗っているらしい」


「狩人」


「断片ですが。どうも、カルド帝国の正規兵ではなく、辺境で人狩りや賞金稼ぎをしている類に見えます」


 黒田は眉をひそめた。


 正規軍より厄介なこともある。私兵、傭兵、私掠、山賊、宗教武装集団。国家が崩れる時に最初に増えるのは、そういう半分制度の外にいる暴力だ。


「レオハルトの身分は」


「まだ断定できません。ただ、子供も老人も従っているので、単なる隊長ではなさそうです」


「村長か領主か」


「あるいは敗残貴族」


「どれでもいい。腹が減れば人は同じ顔をする」


 黒田は保護区の柵の前まで歩いた。すると、レオハルトが立ち上がり、こちらへ近づいてくる。日本側の兵が警戒姿勢を取るが、彼は丸腰だ。


 レオハルトは少し迷ってから、自分の首元の革紐を解き、何かを差し出した。木の小片だった。白い枝の紋章が刻まれている。


「これを、どう解釈すべきだろうな」


 副官が囁く。


「従属ではないと思います。氏族印か、通行証か、あるいは庇護を求める証」


 黒田はしばらくその木片を見た後、受け取った。代わりに、自分の胸から部隊章の複製パッチを外し、相手へ渡す。


 レオハルトはそれを掌に乗せ、不可思議そうに撫でた。縫製、繊維、色の均一性。異世界の小さな部族指標と、工業製品として大量生産された徽章。その交換は、国際法でも軍律でも説明しきれない何かだった。


「明日から忙しくなるぞ」


 黒田は言った。


「ええ」


「人を助けるのは面倒だ。殺すよりずっと」


 副官は返事に困ったように黙ったが、その沈黙は同意だった。


     ◆


 夜。東京、臨時分析室。


 西條沙月は三つ目のモニターに走る音素分解ログを見つめながら、缶入りの栄養ゼリーをすすっていた。データセンターから官邸寄りの共同作業室へ半ば拉致同然に移されて、十時間。通信、辞書基盤、音声認識、アクセス権管理、全部を同時並行で走らせている。壁際には大学の言語学者、スタートアップの自然言語処理研究者、防衛装備庁の信号処理班、総務省の若手官僚が混在し、互いの専門用語をぶつけ合っていた。


「母音数が多すぎる」


「多いんじゃなくて長短と声調が絡んでる」


「いや、声調と言い切るにはエネルギー分布が」


「議論はいいからモデル回して」


 混乱しているようで、意外と前に進んでいる。人間は切迫した状況だと、信じられない速さで暫定合意を量産する。平時なら半年揉める権限分掌が、一晩で決まることもある。


 沙月の端末に東郷からメッセージが入る。


 明日、アルシアとの追加会談に辞書試作版を投入したい。海図・地名・敵対語彙を優先。


 彼女は短く返信した。


 了解。精度は保証しない。


 返ってきたのは、即座の一文だった。


 今は存在することのほうが大事です。


 その通りだ、と沙月は思う。完璧な翻訳機は要らない。誤解を減らせるなら、それだけで兵士が一人死なずに済むかもしれない。


 彼女は別画面を開いた。そこには、現地で回収された奇妙な鉱石のスペクトルデータが出ている。関東外縁の斜面から採取されたもので、肉眼では黒曜石に似ているが、微細な結晶配列が異常だった。さらに近くに置いた一部センサーが不安定化する。


「なんで私がこれまで」


 呟くと、隣の装備庁技官が肩をすくめた。


「データ処理できる人間が足りないからです」


「身も蓋もない」


「世界が蓋を吹き飛ばしたので」


 沙月は思わず笑った。こういうくだらない言い回しに救われるのは、たぶん皆同じだ。


 画面のノイズを見つめながら、彼女は唐突に実感した。


 これは一過性の障害対応ではない。システムが元に戻るまで耐える仕事ではなく、戻らない前提で組み直す仕事だ。


 ならば自分たちは今、復旧ではなく建国に近いことをしているのかもしれない。


     ◆


 深夜、官邸の宿泊区画。


 アルシアは与えられた部屋で眠れずにいた。寝台は柔らかすぎ、布は軽く、窓の外には光が消えない。都市全体が、夜を拒否しているようだった。


 卓上には、日本側から渡された簡易図表が置かれている。人、海、国、敵、友、話す、明日。稚拙な絵と音写。だがその稚拙さが、逆に誠実に見えた。強大な国が、自分たちの言葉を学ぼうとしている。


 彼女はふと、帝国の使者たちを思い出した。彼らはいつも、自分たちの語で話し、自分たちの法で書き、自分たちの神の名で脅した。理解できなければ、理解するまで従えという態度だった。


 日本は違う。


 違うからこそ危険でもある。


 強い国が、相手を理解しようとする時、その理解は支配を精密にするための準備にもなる。海盟が欲しているのは救済ではなく、生き残る余地だ。日本が帝国を砕けるとしても、その後に海盟の席が残るとは限らない。


 扉が控えめに叩かれた。


 入ってきたのは東郷だった。通訳官を伴っている。夜更けの非公式な訪問に、アルシアは少し驚いたが、表には出さなかった。


 東郷はテーブルの向かいに座ると、まず深く頭を下げた。通訳官が言葉を置く。


「短く。大事」


 東郷は一枚の地図を広げた。日本列島と、その周辺の暫定海図。西方に描かれた大陸と沿岸部。アルシアは目を細める。


 東郷は、地図上に三つの記号を置いた。日本。セレス。カルド。そして中央の海域に、航路を示す線を引く。


「ここ」


 通訳官が苦労しながら意味を繋ぐ。


「海。とても大事。ニホン、生きる。セレス、生きる。カルド、来る。だから、ここを守る、考える」


 アルシアは沈黙した。


 単なる善意ではない。生存の算盤だ。だが、それでいい。国家が国家を助ける時、純粋な善意だけを信じる者は長生きできない。


 彼女は自分の指で、海図の一角を叩いた。海盟の外洋中継港がある位置だ。次いで、別の位置。教会の巡礼船がよく通る航路。さらに帝国の徴税港。


「カルド、力」


 彼女は拳を握る。


「セレス、海」


 指を開く。


「ニホン……」


 言葉を探し、結局うまく見つからず、空中にまっすぐな線を描いた。


 東郷はその線を見て、苦笑とも感嘆ともつかない表情を浮かべた。


「そうですね」


 通訳官が迷いながら訳す。


「ニホンは、たぶん……まっすぐ、強い」


 アルシアは首を振った。


「まっすぐ、怖い」


 その返答に、東郷は一瞬だけ黙った。


 そして、通訳を介さず、日本語のまま低く言った。


「それは、こちらも同じです」


 通じないはずの言葉だった。けれどアルシアは、その声音の中に含まれたものを察したようだった。日本もまた、自分自身の強さを完全には制御しきれていない。国家が巨大すぎるとき、その真っ直ぐさは時に刃になる。


 会話はそこで終わった。


 別れ際、東郷はためらった末に一つだけ問うた。通訳官が丁寧に意味を運ぶ。


「あなたは、なぜ自分で来たのですか」


 アルシアは少し笑った。初めて見る、人間らしい疲れを帯びた笑いだった。


「議会は遅い。帝国は速い。海は待たない」


 それだけ言って、彼女は窓の外を見た。眠らない東京。遠くの光の川。


「だから、来た」


     ◆


 同じ夜、カルド帝国東征軍前進司令地。


 ソフィア・レンヴァルトは、机上に置かれた三枚の報告書を順番に読み終え、蝋燭の火を細くした。天幕の外では雨が降っている。日本の雨とは違い、こちらの雨は重く、天幕布を叩く音に不安が混じる。


 三枚の報告書の内容は、どれも常識を侮辱していた。


 一枚目。東方海域に出現した巨大島嶼国家。沿岸から黒煙を上げず、夜間に無数の灯りを放ち、鋼鉄の艦と、翼なく飛ぶ鳥を保有。


 二枚目。竜騎前衛五騎、接触船団への攻撃直後に全滅。攻撃は雷光ではなく、見えぬ速度の鉄と熱によるもの。


 三枚目。辺境狩人部隊、東方山地で“鉄の兵”と遭遇。術の一部が撹乱され、遠距離より正確な反撃を受ける。難民集団を奪還できず。


 帳面をつける官僚の頭で考えれば、全部偽報で片づけたい内容だった。だが報告が別系統から一致している以上、そうもいかない。


「閣下は、何と」


 側近が問う。


「軍務卿は半分信じ、半分怒っている」


 ソフィアは淡々と答えた。


「竜騎五騎が一瞬で落ちるなど、信じれば軍の威信が揺らぐ。信じなければ、次はもっと大きく負ける」


「では」


「まず定義する。正体不明では駄目」


 彼女は報告書の余白に新しい語を書いた。


 東海新興鋼鉄国家。


 幼稚な呼称に見えるが、呼び名は重要だ。名前を与えれば、会議で扱える。会議で扱えれば、予算と兵站と責任の所在を割り振れる。


「宗務院は」


「“神敵の兆候”と“新たな試練”で割れている」


「便利ですね、宗教は」


「便利ですよ。敗北の説明に使える」


 ソフィアは報告書を閉じた。彼女は熱狂的な帝国人ではない。帝国の秩序と行政能力を評価し、その中で出世してきた実務家だ。だからこそ、目の前の事態を神話で処理する気はなかった。


「使者を出しますか」


 側近が訊く。


「出す。だが同時に飢えも数える」


「飢え」


「どんな国も食う。鉄を作る国ほど食う。海から現れたなら、補給路はまだ脆い。真正面からぶつかる必要はない」


 彼女は地図の東端を指でなぞった。


「相手が神でも悪魔でもないなら、国家です。国家なら弱点がある」


 ソフィア・レンヴァルトはその夜、日本を征服対象ではなく分析対象として定義した。後に多くの死者を出すことになる戦争は、こうしてまず机の上で始まる。


     ◆


 翌朝、日本では通勤列車が本数を減らしながらも動き、コンビニでは一部棚が空き、学校は臨時休校とオンライン授業を併用し、テレビでは慎重な言葉で「未知文明との接触」が解説されていた。官邸ではアルシアとの第二回会談準備が進み、朝霞ではレオハルト一団の聞き取りが始まり、長崎ではセレス船団の修理が行われ、西條たちは対異世界辞書基盤の試作版を立ち上げていた。


 東郷真尋は会議室へ向かう廊下で足を止め、雨上がりの空を見た。最初の使節が来た。最初の難民も、最初の敵対者も現れた。相手に名前がついた以上、次に来るのは説明ではなく要求だ。通商か、同盟か、服従か、あるいは戦争か。そのどれも、もう会議室の外では始まっている。


毎日21:00更新です。合いそうでしたらブックマークで追ってください。

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