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08. 最初の使節

同日午後。永田町、経済安全保障対策本部。


 西條沙月は、民間有識者として呼び出され、官庁街特有の静かな会議室でプロジェクターの前に立っていた。徹夜明けの顔にパウダーだけはたいてきたが、目の下の色までは消えない。スーツではなく社内用の簡易ジャケットのままなのも、本来なら気にするところだろう。だが部屋の中の誰も、他人の服装を評価する余力を持っていなかった。


「国外接続の現状です」


 スクリーンにトポロジ図が映る。赤い線が断。黄色が不安定。緑が代替経路。


「海底ケーブル前提の回線は、ほぼ死にました」


 沙月は赤い線を指した。


「衛星経由の限定接続は残っています。でも、地球側の座標系と噛み合っていない。いつまで保つか読めません」


 そこで一拍置く。


「要するに日本は、外につながる国じゃなく、自前でネットを生かす国へ数時間で切り替わる必要があります」


 総務省の幹部が言う。


「優先順位は」


「まず政府、金融、医療、物流、電力、自治体、防衛です」


「教育と主要産業はその次。娯楽系は、悪いですが帯域を絞ります」


「企業の反発が来る」


「来ます。でも帯域は祈って増えません」


 少し間が空いた。沙月はあえて言葉を柔らかくしなかった。こういう場で曖昧にすると、誰かが都合よく解釈する。


「もう一つ、こっちのほうが実は厄介です」


 沙月は視線を上げた。


「計算資源。行政、医療、問い合わせ対応、翻訳支援。そのへん、かなり国外推論基盤に寄っています。ここが落ちると、人手不足が一気にむき出しになる」


「国内AI基盤を急いで束ねて、用途ごとに割り当てるしかありません」


 経産省が身を乗り出した。


「民間クラウドを強制徴用できるか」


「法的整理が要ります。でも、お願いベースで間に合う局面は過ぎてます」


 言った後、部屋の空気が固まるのを感じた。強い表現だった。だが本音だ。


 沙月は続ける。


「あと、これは通信の話に見えて、実は翻訳の話でもあります」


「翻訳」


「はい。異世界側と接触が始まったなら、言語処理はもう戦略資産です」


 沙月は少しだけ早口になった。


「会話記録、音声、地名、制度、命令語、交渉用語。全部ばらばらに持っていたら絶対に詰まる。共有できる辞書基盤が要ります。手作業では追いつきません」


 東郷が室内の後方から口を開いた。


「その役割を担えますか」


 沙月は振り向いた。官邸で直接顔を合わせるのは初めてだったが、テレビ会議では一度見ている。


「私個人は無理です」


 数人が眉を動かしたのを見て、沙月はすぐ続けた。


「でも、仕組みなら回せる。音声基盤、用語管理、アクセス権限、ログ、対話補助モデル。そこまで含めて設計します」


「時間は」


「まともにやるなら数週間。でも暫定版なら二十四時間」


「やってください」


 命令ではない。依頼の形をしていた。だが断る余地のない依頼だった。


 沙月は肩をすくめる。


「分かりました。寝かせてもらえるなら、ですけど」


 数人がかすかに笑った。会議室に人間の音が戻る。


 東郷はその隙に近づいてきた。


「西條さん、あとで別途、異世界物質の計測系にも入ってもらうかもしれません」


「私、物理屋じゃありませんけど」


「こちらも異世界屋じゃありません」


 それには笑うしかなかった。


     ◆


 アルシアが官邸へ入った時、東京は雨だった。


 エイルガルドの雨より細かく、音も軽い。彼女は車列の窓越しにそれを見ていた。街路樹の葉を撫で、舗装の上で薄い膜となり、巨大な建物の壁面を静かに流れていく雨。人々は布ではなく透明な膜を広げて歩き、車は泥を跳ね上げず、通りは混乱しているのに秩序を失っていない。


「人、多い」


 彼女がぽつりと言うと、同席した通訳官がうなずいた。


「多いです」


 アルシアはそのまま窓に視線を戻した。


 人が多い国は、たいてい強い。だが人が多いだけでは強くなれない。多すぎる人間を食わせ、眠らせ、病ませず、争わせすぎず、同じ方向へ少しずつ動かすには、目に見えない規律が要る。東京の道路を流れる車列、その脇を走る鉄の蛇のような列車、その上に重なる看板と信号と配線。それら全部が、目に見えない規律の表面だった。


 官邸の車寄せで扉が開き、湿った空気が入り込む。警備は厳重だが、あからさまな敵意はない。武装した兵士だけでなく、黒服の警護員、無線機を持つ事務官、医療班、給仕役までが一定の距離を守って動いている。アルシアには、それが一つの術式に見えた。人間の手続きを極限まで積み重ねて生まれる、国家という名の術式に。


 会議室は質素だった。黄金も大理石もない。だがテーブルの木目は整い、椅子の高さは均等で、照明は眩しすぎず、部屋の隅には水と茶と布巾と記録機材が当然のように配置されている。贅沢でなく、行き届いている。そういう空間は、かえって油断ならない。


 向かいに座ったのは、首相ではなかった。まず現れたのは真田圭吾と東郷真尋、そして複数の通訳と記録官だった。アルシアの年長の随員書記は隣室待機となり、潮路と貨物名を結び目で記した紐束と、蝋板だけが検査を経て卓上へ戻されている。最高責任者が最初から出てこないことに、アルシアは内心で安堵した。巨大国家は誰にでも最高位を見せはしない。その慎重さは、信頼に足る。


 挨拶は不器用だったが、礼は通った。


 真田が胸に手を当てる。


「歓迎します」


 通訳官がいくつものカードと昨夜作成した対訳表を使い、意味をつないでいく。


「ニホン。あなた、客。安全。話す」


 その“客”という語で、アルシアの視線が一瞬だけ鋭くなった。海盟で客とは、歓待される交易相手でもあり、同時に港の規則に従う者でもある。保護と拘束は、しばしば同じ言葉の影に入る。


 東郷にも、その硬さが分かった。日本側がいま差し出しているのは歓迎だけではない。どの枠へ相手を収めるかという、最初の線引きでもある。


 彼女はすぐにはうなずかず、まず室内を見渡した。扉の位置、警備の立ち位置、記録官の手元、茶器の数。逃げ道を測る視線ではない。ここで自分がどの程度、自分の意思を保てるかを量る視線だった。


 アルシアも同じ動作を返した。


「セレス。感謝。話す」


 そこから先は、会談というより石を積む作業だった。水を示す。食料を示す。敵を示す。船団。帝国。港。怪我人。保護。会う。後で。今日。明日。紙の上の絵、指先の向き、卓上へ戻された紐の結び目までが、言葉の代わりになった。


 だが石を積んでいくうち、少しずつ輪郭が見え始める。


 アルシアは、自らがセレス海盟の導潮術師であり、海盟東方船団の臨時指揮を委ねられていたことを伝えた。船団は元々、帝国の封鎖を避けて北東航路の安全確認に出ていた。そこで日本の出現に遭遇した。カルド帝国は既に海盟の複数港を威圧下に置き、従属条約への署名を迫っている。襲撃してきた竜騎兵は、おそらく帝国東征軍の前衛か私掠部隊のいずれか。


 東郷はその断片を受け取りながら、相手の言葉よりも沈黙の置き方を観察していた。アルシアは誇張しない。脅しも誇りも、必要なだけしか見せない。助けを求めてはいるが、属国願望ではない。対等でありたいのだ。


 日本にとって、それは好都合でもあり、厄介でもあった。


「こちらからの提案」


 真田が言う。通訳がたどたどしく意味を渡す。


「まず、怪我人を診る」


 真田は指を一本立てた。


「船団は、海が落ち着くまで一時的に保護する」


「それから、言葉を交換する。海の地図と、敵の情報も」


「その先の正式な会談は、今日ではなく、準備してから開く」


 だが「一時保護」の箇所で、空気がわずかに止まった。


 通訳官は、守るという意味を示すため、両手で小さな船を囲う仕草をした。アルシアの肩が目に見えて固くなる。海盟で強い港が船団を「守る」と言うとき、それはしばしば護衛税、寄港義務、旗の変更まで含んだ。守るのか、囲うのか。助けるのか、従わせるのか。言葉の境目は文明ごとに違う。


「守る……下?」


 アルシアは自分の胸元を指し、次いで両手を組んで下へ下ろす仕草をした。従属か、と問うているのだと東郷はすぐ察したが、正確な説明は一拍で言えない。


 真田が素早くメモ用紙を引き寄せ、二隻の船を描いた。片方に日本、もう片方にセレスと書く。次に二本の航路を並べて引き、片方の船に鎖をつける図を描いて、そこへ大きく×印を重ねた。そのあと、外側から矢印で海上の脅威を示す。


「セレス、旗、そのまま。危険な海を越えるまで、いっしょに守る」


 通訳官が必死に意味をつなぎ、アルシアはようやく息を吐いた。完全に納得したわけではない。ただ少なくとも、日本が最初の取引として忠誠を要求していないことだけは伝わった。


 アルシアは深く考えた後、一つひとつ指を折って確認した。


「治す。守る。言葉。地図。次、話す」


 そして少し間を置き、喉の奥から絞るように言った。


「ニホン。カルド、知る……前に。セレス、知る。必要」


 東郷はその言葉の重みを理解した。


 帝国が日本を先に定義すれば、この世界に流通する最初の物語は「海から現れた悪魔の国」になる。逆に日本がセレスをただの従属候補として扱えば、海盟側の協力は長く続かない。誰が誰を先に物語化するか。それが外交の初手だ。


「分かっています」


 東郷は、日本語のまま静かに答えた。もちろん言葉は通じない。だが声の調子は伝わる。


「私たちも、あなたがたを先に知りたい」


 アルシアはしばらく彼を見ていた。やがて、ゆっくりとうなずく。


 この時点で二人はまだ互いの職名すら正確に共有していなかった。けれど、重要なことは伝わっていた。


 どちらも、自分の国を売る気はない。


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