07. 最初の使節
関東北西外縁、旧群馬県西部。
黒田宗一郎は、前線指揮所に転用した機動装甲車の車内で、泥の付着した地図を膝に広げていた。目の前の地形は、どの国土地理院地図にも載っていない。昨日まで存在しなかった山並みが、地平を丸ごと押し上げている。岩肌は黒く、谷筋には濃い霧が溜まり、斜面には針葉樹に似ているが葉の色が微妙に銀を帯びた樹木が密生していた。
電波は飛ぶ。だが綺麗には飛ばない。可視光ドローンは使える。LIDARも条件つきで生きる。だが一部高度で謎の散乱が起こり、慣性航法が時おり飛ぶ。電子戦部隊はまだ「敵に妨害されている」のか、「地形そのものがこちらの機械に相性が悪い」のか判断できていない。
「前衛、停止しました」
オペレーターが告げる。
画面には、樹林の切れ目に現れた集団が映っていた。先頭に馬より一回り大きい獣。鹿に似ているが角はなく、肩が高い。荷鞍に穀物らしい袋。続いて革鎧の歩兵、荷車、さらに色違いの旗。旗には黒ではなく濃緑の地に白い枝の紋。
「帝国の紋章ではないな」
副官が言った。
「比較対象が少ない」
「海上で見た襲撃騎兵とは系統が違います」
「だから安心だとは言ってない」
黒田はモニターに顔を寄せた。隊列の乱れ方が妙だ。正規軍の歩き方にしては疲弊が強い。荷車の周囲には武装していない者も多い。さらに後列に、小柄な子供らしき影までいる。
「避難民混成か」
「その可能性があります」
「前衛班は」
「三百メートルで停止。拡声器と図形シート準備済み」
「撃たせるなよ」
「了解」
車外へ出ると、山風が冷たかった。六月の関東とは思えない。異世界の斜面から流れてくる空気は、同じ酸素を含んでいても、日本の夏の匂いとは違う。土の湿りと樹脂と、嗅いだことのない花粉の匂いが混ざっている。
黒田は双眼鏡を上げる。前衛の普通科隊員たちは樹木を遮蔽にしつつ半円陣をとり、盾ではなく光学センサー付き防弾板と多言語表示装置を展開している。その後方には一六式機動戦闘車が二両、砲身をわずかに逸らして待機。さらに上空には無人観測機。威嚇しすぎず、しかし一瞬で火力に移れる距離感だ。
相手側も止まった。
隊列前方から、白毛皮を肩に掛けた男が進み出る。年齢は四十代半ばほど。髭。左頬に古い裂傷。胸甲は金属ではなく硬化革に金属片を縫い付けたもの。腰には長剣。背に短弓。彼は日本側を見てしばらく静止し、それからゆっくり両手を上げた。
敵意はない、と言っているようにも見える。
前衛班長が事前手順どおり、地面へ布を広げた。太陽、川、家、人、食糧、水。次いで自分の胸を指し、「日本」と記したカードを示す。
男は目を細める。読めてはいない。だが、相手が文字を使うことは分かったようだった。彼もまた地面へ膝をつき、短剣の鞘先で土に何かを描く。山。木。波線。さらに二本の矢印。そして自分たちの後方を示した。
「移動してきた、か」
黒田が呟く。
避難民だ。たぶん。だが避難民でも武装している。武装した避難民は、十分危険だ。
その時だった。
上空観測ドローンの一機が急に姿勢を崩した。映像が激しく揺れ、ノイズが走る。オペレーターの声が裏返った。
「右斜面上、発光反応」
黒田は視線を斜面へ走らせた。樹林の上、岩棚の影に数人の人影がある。黒い外套。長杖。さきほどの避難民集団とは装備が違う。
「狙撃か」
「不明、熱源小」
次の瞬間、白い閃光が斜面から走った。一直線ではない。空中で一度曲がり、前衛班の左側の木立へ突っ込む。爆発。土と枝が吹き飛ぶ。隊員二名が伏せる。
「接敵」
副官が叫ぶ。
避難民集団が一斉に悲鳴を上げて散り、白毛皮の男がこちらではなく斜面に向かって怒鳴った。つまり襲撃者は彼らの味方ではない。
黒田の判断は速かった。
「前衛班、避難民と自隊の間に煙幕。狙撃班は発光位置制圧。ただし低致死を優先。車両、斜面上に威嚇射撃準備」
命令が飛ぶ。発煙筒が弧を描き、灰白色の煙が林縁を覆う。八九式の後継小銃群が短く鳴る。狙うのは人そのものではなく、岩棚周辺の退避阻止。対して斜面から再度、青白い光球が落ちてくる。だが今度は途中で軌道が揺れた。電子戦車両が発した高出力パルスと、現地の何らかの媒質が干渉したのか、光球は狙いを外れ、手前の斜面で炸裂する。
土煙の中、一六式の三十五ミリ機関砲が岩棚のわずか上をなぞるように撃った。岩が砕け、破片が跳ねる。殺傷ではなく、「そこにいるな」という明瞭すぎる言語だった。
黒衣の影が散る。
「ドローン、追尾」
「一部追えます。二、三名後退」
「深追いするな。主目的は接触維持だ」
黒田は白煙の先を睨んだ。避難民集団は完全に崩れたが、白毛皮の男は逃げず、むしろ散った者たちを押し留めている。統制力がある。村長や戦士長の類ではない。部隊長だ。
ほどなく煙の切れ目から、その男が再び姿を見せた。今度は武器を地面に置いている。片膝をつき、頭を垂れた。
「……助けを求めてるのか」
副官が言う。
「あるいは降伏だ」
「どちらでも、まず撃つ理由は減る」
黒田は前へ出た。ボディアーマーの上から簡易白布を掲げる。後方の隊員が慌てて止めようとしたが、彼は手で制した。
「ここから先は、顔が見えないと駄目だ」
十歩、二十歩。
相手との距離が縮まる。
男の瞳は淡い琥珀色だった。人間だ。少なくとも、日本人が人間に見出すものの範囲にある。耳も角もない。肌の色も大きく違わない。だが目の奥にある警戒は、こちらを同種だと認識しきれない者のそれだった。
黒田は胸を指した。
「クロダ」
男もまた自分の胸を叩いた。
「レオハルト」
そして震える声で、いくつかの単語を吐き出す。意味は分からないが、繰り返された音がある。
「カルド……狩る。森……死。子ら……飢え」
通じる単語は断片だけだ。けれど断片で足りる場面がある。
黒田は後方を振り返り、短く言った。
「医療班、前へ。食糧は最小限。武装解除は丁寧に。住民扱いで囲うな、だが監視は外すな」
副官が目を見開く。
「保護しますか」
「する。まず人数、武器、負傷、子供の数を記録しろ。医療を先に入れて、代表者は分けて聞く。保護は出すが、身分の確定までは言うな」
「暫定保護ですね」
「そうだ。狩人どもへ引き渡さないことだけ、先に決める。今ここで追い返したら、明日には別の旗の下でこっちに来るかもしれん」
国家は、人を救うためだけに保護を決めるわけではない。敵を増やさないために保護することもある。黒田はその程度には冷静で、その冷静さを恥じない男だった。
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