06. 最初の使節
首相官邸四階、小会議室。
東郷真尋は、テーブル上に並ぶ資料を視線だけで点検していた。アルシア到着まで残り二十二分。席次、導線、警備、通訳配置、録音、医療待機、供食、記録映像の保存階層。外交儀礼の専門家が見れば、急ごしらえで粗だらけだろう。だが今日の日本に、完璧な儀礼を演じる暇はない。
「もう一回、確認します」
彼は室内に集まった関係者へ向けて言った。
「アルシアは、国書を持っていません」
東郷は手元のメモへ目を落とした。
「向こうの議会承認を踏んでいない、緊急特使です。今日は国交樹立ではない。まずは臨時接触として扱います」
外務省の真田圭吾が頷く。四十二歳。髪はきちんと短く、声量は抑えられているが、その目には会議室を一つの地形として捉える癖がある。
「こちらからも、国家承認の言質はまだ出さない」
「はい。ただし相手に“拒絶された”と受け取らせるのは避けます」
「分かってる。境界線は曖昧にしつつ、敬意だけは明確にする」
「会談録の表題も“臨時接触”で固定します」
真田は手元の用紙へ目を落としたまま言った。
「ここで見出しを一段上げれば、後で戻せません。逆に下げれば、最初の侮辱として残る。順序はこちらで管理します」
防衛省、自衛隊、外務省、法務省、経産省、農水省、総務省、警察庁。役所の壁を越えて人が集まると、椅子の脚まで疑り深く見えるものだが、今はさすがに縄張り争いをしている余裕がなかった。問題はむしろ別にある。全員が有能で、全員が自分の担当分野の最悪ケースを知っていることだ。
最悪ケースは多すぎた。
食料自給率の現実。肥料原料と飼料輸入の断絶。LNG在庫。製油所能力。半導体製造装置の保守部材。医薬品原薬。ワクチン生産体制。金融市場の国外資産凍結。海上輸送路不在。通信の国外依存。希少資源。漁業。地方自治体の避難計画。外国人住民対応。在日米軍との法的位置づけ。憲法上の武力行使。集団的自衛権の前提消失。どれも一つで国政を揺るがす議題なのに、全部が同時に来ていた。
法務省の参事官が、薄い紙束を指先で揃えた。
「言葉を一つ、雑に選べません」
参事官の声は細いが、妙に硬かった。
「“賓客”に寄せれば、相手を政治主体として遇したことになる。逆に“避難民”へ落とせば、最初の一手で面子を折ります」
東郷は黙って聞いていた。呼び方一つで、通す扉が変わる。護衛の距離が変わる。記録の棚が変わる。最初の会談で選んだ名詞は、たいてい後で制度になる。
警察庁の担当者が続ける。
「長崎はもう揉めています」
担当者は短く息を吐いた。
「随員の武装解除、どこまで求めるかで現場が止まりかけた。歓迎に寄せれば警備が崩れる。警戒を前に出せば、会談そのものが敵対に見える」
防衛省の局長補佐が低い声で割って入った。
「だが、引きすぎるのも高い」
彼は資料の端を指で叩いた。
「ここで冷たく見えれば、向こうは帝国側に“日本は交渉を拒む国だ”と吹き込まれる。海で接触した以上、何もしないことも判断です」
誰も間違っていない。だから厄介だった。友好と警戒のあいだに、明確な白線は引けない。
東郷は短く言った。
「だから今日やるのは、友好演出じゃない。誤解の幅を狭める作業です」
東郷は真田に視線を向ける。
「向こうの政治構造、仮説は」
「海盟は、きれいな連邦ではありません」
真田は言いながら、指先で机上の港名一覧をずらした。
「複数の港湾都市が議会で利害を調整する、かなり緩い同盟です。アルシアはその中でも、セレス港代表に近い位置にいる」
「つまり、一人に全部の約束はできない」
「できないし、させるべきでもない」
真田は資料を閉じた。
「ただ、非常時の先行合意なら取れます」
彼の声は滑らかだったが、楽観は混じっていない。
「船団保護、負傷者治療、通訳交流、海図交換、捕虜の扱い。この辺りまでは射程です」
「向こうが求めるのは」
「順に言えば、まず保護です」
「次が帝国への抑止」
「最後に、こちらの正体でしょう。たぶん、そこがいちばん知りたい」
東郷は苦笑した。
「最後が一番高価ですね」
「そうとも限らない。相手は我々を誤解したまま同盟するか、誤解したまま敵対するかのどちらかだ。どっちも高い」
会議室の隅では、文化庁出身の比較宗教学者が、お茶の種類について真剣に議論していた。緑茶は苦味が強すぎるかもしれない。甘味のある麦茶にすべきか。砂糖を出すべきか。些細に見えるが、最初の接触ではそういう細部が意外と尾を引く。東郷はその議論を止めなかった。文明の間には、戦車や衛星より先に茶碗が置かれることもある。
「長崎の地上輸送ルートは」
防衛省の担当者が答える。
「空路主体。相手の護衛二名は別室待機。武装は封印保全済み。敵意兆候なし」
「返還手順は」
「記録番号を貼って保全しています。会談が終わるまで、本人の視界から消していません」
真田がそこで小さくうなずいた。
「それでいい。没収に見せないことが先です」
「分かった」
東郷は壁時計を見た。あと十九分。
その時、別回線の画面に赤い表示が点いた。朝霞方面統合連絡。
黒田宗一郎からの速報だった。
『関東北西外縁、地上接触の可能性。映像送る』
会議室の空気が一段階引き締まる。
東郷は映像を開いた。
森林の上空から捉えた低高度映像。新たに出現した山塊の裾野に、木々が不自然に倒れ、広い獣道のような帯が伸びている。その中を進む集団。歩兵。荷駄。長槍。大型の四足獣が牽く車列。さらに後方、簡易な陣幕。
「軍だな」
誰かが呟いた。
東郷は即座に答えなかった。軍と断定するにはまだ材料が足りない。だが、組織的であることは明らかだった。野盗や難民ではない。指揮系統があり、隊列があり、偵察前衛がいる。
そして彼らは、こちらの境界へ向かっている。
「黒田さんへ。観測優先、接触は統制下で。発砲基準の再確認を」
送信し、東郷は大きく息を吐いた。
海では使節。陸では不明勢力。国内では物流危機。
世界が一つ増えるというのは、単に地図が広がることではない。危機管理の窓口が無限に増えるということだった。
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