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05. 最初の使節

第二章 最初の使節


 外交というものは、たいてい、余裕のある側が儀礼を整える。


 だが日本がエイルガルドへ転移した翌朝、その常識は最初から壊れていた。余裕のない国家どうしが、互いに相手の正体を測りかねたまま、しかし待てば不利になると知っている者の顔で向き合わねばならなかった。


 長崎から東京へ向かう政府専用機の機内で、アルシア・ヴェル・セレスは窓の外を見続けていた。


 最初の一時間は、恐怖が彼女の全身を支配していた。船の甲板では毅然としていられたが、海上に浮かぶ鋼鉄の城から、さらに空を裂いて飛ぶ金属の鳥の腹へ移された途端、心臓が喉までせり上がった。空を飛ぶものはエイルガルドにもある。竜も、飛甲獣も、浮揚術を施した小型舟もある。だがそれらはすべて、風や筋力や術の媒介で空へ抗っている。ここで彼女の身体を運んでいるものは、そうした努力の痕跡を見せない。ただ滑るように雲を突き抜け、山脈と海峡を一つの絵のように押し流していく。


 隣に座る防衛省の女性通訳官――いや、通訳官という肩書はまだ正確ではない。彼女は英語と日本語を話し、比較言語学を学び、昨夜の徹夜でアルシアの言葉の音素表を仮置きしただけの、即席の橋にすぎない――が、表情をできるだけ柔らかくしながらカードを示した。


「トーキョー」


 カードには上空から撮影された夜の都市が映っている。無数の光。水路。高層建築。道路の筋。


 アルシアは小さくうなずいた。


「トー……キョ」


「そうです。日本の中心」


 言葉そのものはまだ通じない。だがこの二十四時間で、日本側は音と物と仕草をつなぐ原始的な辞書を急造していた。数詞、一人称、敵味方、食物、水、医者、町、海、空、火、休息、王、会う、危険。文明の差がどれほど大きくても、最初に必要なのはたいてい同じ単語になる。


 アルシアはもう一度窓の外を見た。下には広い平野が広がり、川が幾筋も走り、都市がその間を埋めている。農地の区画が規則正しく、村落と街道と河港が気まぐれではなく計画の結果として並んでいる。その規模に、彼女は改めて寒気を覚えた。


 セレス海盟の最も繁栄した港湾都市ですら、上空から見ればこの国の郊外にしか見えないだろう。人口、街路、倉庫、煙、塔、そして夜を押し返すほどの灯り。海上で最初に見た護衛艦は、強大ではあっても一隻の兵器にすぎないと理解できた。だがこの国は違う。国そのものが巨大な器械のようだった。


 彼女は胸元の円盤飾りを無意識に握った。導潮術師としての証であり、セレス海盟から託された臨時全権の封印でもある。


 この旅は、本来ならありえない。


 三日前、セレス港の議場には、帝国の使者が残していった黒蝋の匂いがまだこびりついていた。海盟の議会は、戦端が開いた後ですら単独で異国へ特使を送るほど迅速ではない。出資者の利害、港湾税、船団護衛の割り振り、教会との関係、加盟諸都市の面子。どれか一つを誤れば、議論は冬を越す。


 だが今回は、議論に使う冬そのものが残されていなかった。


 黒い封蝋の押された文面には、従えば高位を与える、断れば港は焼く、とだけあった。表向きは海上交易の安定化と海賊討伐。だがアルシアには分かっていた。カルド帝国は、海盟を帝国の税関へ組み込むつもりでいる。大陸西方の穀倉と鉱山と人口を後ろ盾に、長い時間をかけて海へ出てきた国家だ。陸の帝国が海を欲しがる時の理屈はいつも似ている。秩序を守るため。交易路を浄化するため。文明の恩恵を広げるため。そして最後に、神意のため。


 神意ほど都合の良い言葉を、アルシアは知らない。


 彼女の故郷セレス港は、潮流と外洋風の読みで名を成した都市だ。航海術師、船主、仲買人、造船工、傭兵、神官、そして税吏が、同じ石畳を踏んで生きている。アルシアの家は代々、導潮術と交易護衛を担ってきたが、名門というほどではない。彼女は家名でなく能力で議会顧問にまで上がった珍しい例だった。だからこそ、帝国の使節団が最初に彼女の名を挙げていた。


 そう言われたとき、彼女は笑って茶を飲み干した。いずれ焼かれるなら、少しでも面倒な相手になってやると決めていた。


 その最中に、海そのものが割れ、日本という国が現れた。


 偶然なのか、神罰なのか、あるいはこの国こそが新しい災厄なのか。まだ判別はつかない。ただ一つ明らかなのは、日本が現れたことで、海盟と帝国と教会、そして大陸中の勢力均衡が、全て最初から書き換えられたということだった。


「トーキョー、もうすぐ」


 通訳官が窓の先を示した。


 雲の切れ目の下から、都市が立ち上がる。


 アルシアは息を止めた。塔ではない。山でもない。地平線そのものが細かい石とガラスの棘になっている。その間を光が走り、河川の上を何本もの橋が束ね、海際には巨大な壁のような施設が並んでいる。船ではなく、建物が波止場の主役になっている都市だった。


 この国は、海を越えるためではなく、海を従えるために造られている。


 そう思った。


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