04. 海の縁が消えた朝
官邸危機管理センター。
「繰り返します。長崎西方で海自艦艇が未知飛翔生物搭乗戦力と交戦。相手五。撃墜五。味方軽傷三、通信設備一部損傷。接触中の帆船団側にも被害あり。ただし交戦は先方に対する攻撃者への限定対処。現地は接触継続可能と判断」
報告読み上げの声は平坦だったが、室内の空気は重く沈んだ。
首相は額の前で組んだ指をゆっくりほどいた。五十代半ば、元外相。疲れると右のこめかみを二本指で押さえる癖のある政治家だが、今はその指先すら揺れていない。危機時に声を荒げないことで知られる男の冷静さが、ほとんど異様に見えた。
「つまり」
首相が言う。
「こちらが最初に出会った相手は、少なくとも二種類いるわけですね。接触意思を示す船団と、それを襲撃する武装騎竜戦力」
「現時点では、その可能性が高いです」
防衛大臣が答える。隣の外務大臣は、メモに何かを何度も書いては消している。
東郷は発言を求められ、立ち上がった。
「現状分析です。第一に、日本列島は地球上の既知座標から切り離され、未知の環境へ移行した可能性が高い。第二に、国内インフラは深刻な打撃を受けつつも生存。国家機能維持は可能。第三に、外部には知的主体が存在し、少なくとも一部は組織化された軍事能力を持つ。第四に、その軍事能力は前近代的外観と、現代科学で直ちに説明しづらい現象を併せ持つ」
「言い換えると、魔法ですか」
誰かが半ば自嘲気味に言った。
東郷は一拍置いた。
「用語は慎重にすべきですが、未知現象の存在は否定できません」
「国民向け説明は」
「“異世界”と断言するのは時期尚早です。ただし、隠せる段階でもありません。映像は民間に出ています」
首相は頷いた。
「では、隠さない。隠しても負ける」
その一言で方針が定まった。
民主国家の危機管理は、情報統制の誘惑と常に隣り合わせだ。だが二〇三五年の日本で、列島規模の転移を隠しきることは不可能だった。ドローン、個人衛星通信、自治体ライブカメラ、民間気象センサー、海洋ブイ、漁船、SNS、分散保存。秘密はとっくに蒸発している。ならば必要なのは、隠蔽ではなく信頼だ。
「東郷さん」
首相がこちらを見る。
「今から一時間で、国民向けメッセージの骨子を作ってください。希望的観測は要りません。だが恐怖を煽るな。国家が動いていること、生活基盤を守ること、外部との接触が始まっていること、それだけ伝わればいい」
「承知しました」
「防衛大臣」
「はい」
「接触した船団の保護を継続。必要なら医療支援。最初の対外関係は、その現場から始まります。撃てば済む局面でも、できるだけ撃たないで済ませたい」
「了解です」
「外務大臣」
「はい」
「翻訳班と比較言語学者、宗教学者、文化人類学者、海法・国際法の専門家を集めてください。冗談ではありません。相手が王国だろうが帝国だろうが部族連合だろうが、言葉を持つ限り外交対象です」
「すぐに」
東郷は座りながら、胸の奥がかすかに熱くなるのを感じた。国家がまともに機能している。その事実だけで、人は驚くほど持ちこたえられる。
だが同時に、それは海の向こうから見れば、巨大で豊かで技術的に突出した島嶼国家がほとんど無傷のまま現れたという意味でもあった。日本が線を引けるなら、相手ももうこちらを測り始めている。
◆
正午前。全国一斉の特別放送が始まった。
テレビ、ラジオ、ネット配信、自治体スピーカー、駅構内ディスプレイ、車載OS。あらゆる経路で同じ顔が映る。首相は官邸の会見室ではなく、危機管理センター隣接の簡易スタジオに立っていた。背後に国旗。余計な演出なし。
「国民の皆さん。本日未明、わが国周辺の地理環境に前例のない大規模変化が発生しました」
簡潔で、曖昧な言葉だった。だが嘘ではない。
「政府は現在、わが国が既知の地理環境から隔絶された可能性を含め、あらゆる前提を置かずに事実確認を進めています。電力、通信、医療、水道、食料物流など、生活を支える基盤は維持に向けて全力を挙げています。国民の皆さんには、落ち着いて、正確な情報に基づいて行動していただきたい」
画面には、主要インフラ稼働率の数字、買い占め抑制の呼びかけ、病院・自治体窓口・避難情報サイトへの案内が並ぶ。さらに、政府が把握している映像として、未知海域、未知陸塊、そして海上自衛隊艦艇が保護している帆船の遠景が短く流れた。
全国で、息を呑む音が同時に生まれた気がした。
首相は続ける。
「政府は、わが国の安全と主権、そして国民一人ひとりの暮らしを守るため、必要な対応を直ちに進めています。外部との接触も始まっていますが、現時点で確認されている事実は限定的です。憶測や不確かな情報に振り回されず、日常を支える行動にご協力ください」
東郷はモニター越しにその言葉を聞きながら、良い演説だと思った。名演説ではない。だが今必要なのは、歴史教科書に残る文句ではなく、コンビニの店員が店を開け、病院の看護師が勤務に入り、配送ドライバーがハンドルを握れるだけの現実感だ。
会見終了後、危機管理センターに戻る途中で、東郷の端末が震えた。
発信元は、長崎西方接触チーム臨時言語班。
「東郷さん、仮説です」
「何です」
「相手側の固有名詞と反復語、数個だけですが、対応が見えます。たぶん彼ら、自分たちの世界全体を“エイルガルド”と呼んでいる」
「世界全体を」
「少なくともそう聞こえます。あと、襲ってきた騎竜戦力について、アルシアが繰り返していた語がある。“カルド帝国”か、その近縁」
東郷は立ち止まった。
名前がついた。未知はまだ未知のままだが、ラベルのない恐怖から一歩進んだ。
同時に、それは最初の書類が作れるという意味でもあった。書類が作れれば、担当が生まれ、分類が生まれ、対処が生まれる。名づけは理解の入り口であり、支配の入り口でもある。
「分かった。記録を全部上げて。分析班を増やす」
通話を切ると、彼はしばらく無言で通路の壁を見た。白い、無機質な壁。数時間前まで、この国は地球の一部としてその壁の内側で政治をしていた。今は、異なる文明圏の境界線が海上だけでなく、ここ官邸の廊下にまで迫っている。
後ろから足音がした。振り向くと、官房副長官補がいた。
「東郷さん、休んでくださいと言いたいところですが、無理ですね」
「ええ」
「長崎の接触相手、こちらへの使者派遣を求めています」
「もうですか」
「もうです。相手も急いでる。襲撃された以上、保護を求めるのは当然でしょう」
「受けるしかない」
「でしょうね」
副長官補は小さく息をついた。
「日本は今日、初めて異世界と出会ったわけじゃないのかもしれません」
「どういう意味です」
「異世界という言葉は雑ですが、要するに“理解不能な他者”です。外交も安全保障も、本質は昔から同じだ。相手を見誤れば死ぬ。相手を侮ればもっと死ぬ。違うのは、今度の相手が本当にドラゴンに乗っているってだけですよ」
東郷は少しだけ笑った。
「十分すぎる違いです」
だが、その軽口にすら救われた。人は比喩で未知を飼い慣らす。
◆
夕方。東京湾岸には、まだ見慣れない夕焼けがかかっていた。大気組成が微妙に違うのか、赤に混じる紫の帯が濃い。西條沙月はデータセンター屋上の非常用喫煙所跡に立ち、紙コップのぬるいコーヒーを飲んでいた。禁煙化されて久しいので、今は誰も煙草を吸わない。ただ、人が疲れた顔で空を見る場所として残っているだけだ。
国内通信の骨格は持ちこたえた。国外依存サービスは一部縮退。金融清算も大混乱の中で動いた。物流の優先制御も始まった。だが、それは勝利ではなく、初日の延命にすぎない。
端末にメッセージが来る。母親からだった。
大丈夫。スーパーは少し混んでる。お米はある。あんた寝てる?
沙月は笑ってしまった。列島が異世界へ飛んでも、母親の文面は変わらない。
大丈夫。まだ働いてる。水と米あれば当面平気。そっちは戸締まりと充電だけしといて。
送信してから、彼女は湾の向こうを見た。見知らぬ陸影。ひょっとするとあの向こうにも、今ごろこちらを見ている誰かがいるのかもしれない。剣を持った誰か。魔法を使う誰か。あるいは彼女と同じように、サーバー室の温度と回線の生死を心配している誰か。
「世界って、思ったより壊れないんだな」
独り言が風に流れる。
下のフロアから、同僚の声が響いた。
「西條さん、官公庁系の増設来ます」
「今行く」
紙コップをゴミ箱に捨て、彼女は階段へ向かった。戦争でも異世界でも、ネットワークは落としてはいけない。少なくとも、この国では。
◆
同じ時刻。長崎西方海域。
「のしろ」の会議室を急ごしらえで使った接触室で、アルシアは日本の緑茶を恐る恐る飲み、複雑な顔をした。苦いのか、熱いのか、それとも単に初めての味なのか。隣には臨時言語班、医官、情報将校。卓上には絵カード、音声波形、指差し単語集、地図、数字の一覧。
榊原は室内の隅から彼女を観察していた。彼女の両肩は細い。戦士には見えない。だが海面を曲げるような力を使った。使者であり、術者であり、おそらくそれなりの地位にある人物なのだろう。
言語班の若い准教授が、額に汗を浮かべながら一語ずつ確認する。
「これ。あなた。アルシア」
「アルシア」
「これ。日本。ニホン」
「ニホン」
「これ。敵。カルド帝国?」
「……カルド。帝国。敵」
榊原は心の中で、ようやく言葉が橋になる感覚を味わった。完全な理解ではない。木の板を数枚渡しただけの頼りない橋だ。だが、橋がなければ人は対岸へ行けない。
アルシアはやがて、震える指で紙の地図に円を描いた。日本列島の位置ではない。海の西方、大陸らしき形の東端。さらに別の紙に、縦長の塔をいくつも描き、その上に黒い太陽のような紋を描いた。そして、こちらを見て、低い声で言った。
「カルド……来る」
それだけで十分だった。
榊原は直ちに司令部回線を取った。
「こちら、のしろ。接触相手より重要情報。敵対勢力カルド帝国、対日接近の可能性高し。繰り返す、高し」
夕日が海を赤く染めていた。地球の海ではない海。だが赤は同じ色だと、彼はふと思った。人が血を恐れ、火を恐れ、夜明けに希望を見いだすことも、おそらく世界が違っても大して変わらない。
そして赤く染まる海の向こうで、見えない敵はすでに動き始めている。
日本が異世界へ転移したその日、国家は崩壊しなかった。電気は通り、水は出て、会議は続き、戦闘機は飛び、艦は海を進み、サーバーは唸り続けた。
それは平穏の証ではない。日本という巨大なシステムが、未知の戦場へほとんどそのまま到着したというだけのことだ。
そして戦場では、到着した者は必ず見られている。
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