03. 海の縁が消えた朝
東京都江東区、有明。日本未来通信機構第三データセンター。
民間人の多くにとって、世界の崩壊はサーバー室の温度アラートとして届く。
西條沙月は、深夜保守明けで仮眠室のソファに沈んでいたところを、スマートグラスの赤枠通知で叩き起こされた。三十一歳。クラウド基盤エンジニア。国内最大級の通信・クラウド事業者で、政府系システムも金融も動画配信も、だいたい何かしら世話になっている会社に勤めている。
「嘘でしょ」
寝ぼけ声のまま起き上がり、端末を見る。回線断が連続。海底ケーブル陸揚げ局との経路制御が次々落ち、国外向け中継は壊滅。国内の主要接続点だけが辛うじて生きている。衛星バックホール自動切替のキューが飽和寸前。
オペレーションルームに飛び込むと、すでに十数人がコンソール前で怒号にならない怒号を交わしていた。
「これどこの障害」
「どこでもねえよ全部だよ」
「海外全部死んだんですか」
「全部じゃない。全部じゃないときが一番面倒なの」
「どういう」
「完全断なら国内閉域モードに腹括れる。でも半端に衛星でつながると、依存関係が一番きついところだけ死ぬ」
沙月はログを流し見しながら、頭の一部を冷却していく。パニックはあとでいい。今は順位づけだ。
「最優先は政府、金融清算、医療、電力制御、物流。動画配信とゲームは帯域絞る」
「炎上しますよ」
「炎上で済むなら安い」
彼女の視界右端に、社内危機対策チャンネルの固定文が出た。
日本列島周辺の地理的状況に重大変化。国外接続は障害ではなく物理的分断の可能性。政府指示により国内通信基盤を最優先維持。デマ対策強化。
沙月は一回だけ目を閉じた。物理的分断。つまり本気で言っている。
「秋庭くん、国内キャッシュの寿命を延ばす。主要な公開ソフト資産の保管庫と、モバイルOS更新配信のミラー保持確認。パッケージ壊れると全国の運用が止まる」
「はい」
「あと生成AIの国外呼び出し、今どれだけある」
「企業向けはかなり」
「代替ルーティング。国内推論基盤を回せる事業者に融通依頼。性能は落ちてもいい、行政と医療の問い合わせ支援を止めるな」
誰かがテレビをつけた。緊急特番。キャスターがやけに落ち着いた声で、しかし手元の紙を握りしめながら話している。
「政府は先ほど、わが国周辺の地理環境に前例のない変化が生じたことを認めました。詳細は調査中ですが、国民の皆様には、食料や燃料の買い占めを避け、自治体と各事業者の案内に従って落ち着いて行動するよう呼びかけています」
テレビの隅に表示された街頭映像には、レインボーブリッジの向こう側に見たことのない巨大な島影が映っていた。東京湾の出口に、昨日までなかった陸地がある。
「ねえ、西條さん」
秋庭が画面から目を離さずに言う。
「異世界って、ほんとにあるんですか」
「あるかどうかじゃなく、今あるものに名前をつけてるだけ」
「でも、異世界ですよね」
沙月は少し考えて、肩をすくめた。
「そうかもね。少なくとも今朝の障害票には、そう書きたくなる」
笑いが起きた。ほんの一秒。それで十分だった。人は笑える限り壊れきらない。
◆
長崎県五島列島西方海域。
小舟は「のしろ」の右舷中ほどで停止した。停止した、というより、見えない力で海面に固定されたように静止した。波があるのに揺れが少なすぎる。
甲板上に、臨検用の安全線が張られた。武装した立入検査隊は待機したが、銃口は下げられている。防弾盾、翻訳端末、映像記録、医療班。どれも海賊対処や不審船対応の延長にある装備だが、相手が物理法則の別解を持っていた場合の有効性は不明だった。
小舟の中央に立つ人物は、近くで見ると女性だった。年齢は三十前後に見える。肌は白すぎず浅黒すぎず、髪は銅色、瞳は灰青色。衣服は長い外套だが布地が見たこともない織り方をしている。腰に短剣。首元に金属とも石ともつかない円盤飾り。
通訳員が拡声器越しに日本語、英語、中国語で呼びかける。反応はない。
女性は「のしろ」を見上げ、右手を胸に当て、ゆっくりと頭を下げた。礼のようにも見えた。
そして口を開く。
最初の音は、言語として認識されなかった。歌のような、詩の朗誦のような音列。だが艦上の誰もが、それをただの雑音とは感じなかった。音の高低、切れ目、視線。意味がある。
通訳員が困ったように榊原を見る。
「もちろん分からん。続けろ」
今度は榊原が前に出た。胸に手を当てる。頭を軽く下げる。
「日本国海上自衛隊護衛艦のしろ、艦長、榊原遼」
女性はその動作を注意深く見て、自分も同じようにした。
「……アルシア」
今度は聞き取れた。固有名詞だ。
彼女は胸に手を当てる。
「アルシア・ヴェル・セレス」
そして背後の船団を示し、海の向こうを示し、最後に両手を広げてこちらを示した。外交儀礼の原型は文化を超えて似るのかもしれない。少なくとも榊原には、彼女が「自分の属する側」を紹介し、「あなたがたは何者か」と問うているように見えた。
「こちらは日本だ」
言葉は通じない。だが榊原は自分の足元、甲板、艦番号、胸の国旗パッチを順に示した。
「にほん」
女性は小さく首を傾げたあと、繰り返した。
「ニホン」
艦橋の空気が変わる。誰も言葉にしなかったが、全員が同じことを思った。通じる。少しでも、何かが。
その瞬間だった。
レーダー警報が鳴る。戦闘指揮所から切迫した声。
「高速接近物。上空、南西。数三、いや五。高度低い。生体反応らしきもの」
全員が空を見上げた。
雲を裂いて飛び込んできたのは、鳥ではなかった。翼膜を持つ巨大な飛翔生物。その背に甲冑を着た騎手が乗っている。五騎。一直線に船団へ向かって降下してくる。
アルシアの顔色が変わった。初めて露骨な恐怖が浮かぶ。彼女は何か叫び、小舟の両側にいた兵が盾を構える。
「総員対空。照準追随」
榊原が命じた刹那、最前の飛翔体の背から赤い閃光が放たれた。
熱線ではない。火球でもない。だが結果としては同じだった。船団後方の中型帆船の帆が一瞬で燃え上がる。悲鳴が海を渡る。
「くそっ」
榊原は〇・二秒だけ逡巡した。その〇・二秒で、日本の転移後最初の交戦は不可避になった。
「撃て。目標、攻撃個体に限定。小舟と船団を避けろ」
近接防御用機関砲が火を噴く前に、無人随伴ヘリから発進していた小型迎撃ドローンが先に噛みついた。AI支援照準が、急降下中の一騎を機械の冷たさで捉える。空中で閃光。飛翔生物の片翼が裂け、騎手ごと海へ落ちた。
続いて二騎目。三騎目。残る二騎が回避機動に入るが、現代の対空射撃は、相手が竜であれヘリであれ、運動性能と熱源と未来位置予測で処理する。二十ミリ弾が空を縫い、鱗と骨と血が朝日に散る。
だが最後の一騎だけは違った。
そいつは甲板上空まで突っ込み、騎手が槍を掲げた。槍先に白い光が集まる。嫌な予感が、艦上の全員を同時に貫いた。
「伏せろ」
白光が爆ぜる。
艦橋右舷側の通信アンテナ群が吹き飛び、金属片が雨のように降った。榊原は衝撃で膝をつき、耳鳴りの中で立ち上がる。焦げた匂い。叫び声。負傷報告。
だが反撃は一瞬で来た。後部甲板の対ドローン高出力レーザーが自動追尾を確立。不可視の線が空を走り、最後の飛翔体の眼窩付近を焼いた。怪物が絶叫し、海へ墜ちる。
静寂。
いや、静寂ではない。燃える帆、負傷者のうめき、アラーム、風、波。だが交戦の瞬間だけ、時間が一段落ちたように感じられた。
榊原は呼吸を整え、アルシアの小舟を見下ろした。
彼女もこちらを見上げていた。恐怖と驚愕の向こうに、明確な認識が宿っている。
この鋼鉄の船は、自分たちの知らない雷を持つ。
そして榊原の側にも、同じ認識が生まれていた。
この世界には、空飛ぶ獣に乗って人を焼く連中がいる。
外交は、銃後の余裕の上にしか成り立たない。だが敵を知る最初の一歩は、多くの場合、会談ではなく交戦から始まる。
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