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02. 海の縁が消えた朝

海上自衛隊護衛艦「のしろ」艦橋。


 艦長の三等海佐、榊原遼は、双眼鏡を下ろすのに五秒かかった。目が認識したものを脳が拒否していた。


「もう一回、方位二九五。見えるか」


 当直士官が双眼鏡をのぞき込み、息を呑んだ。


「……帆船、です」


「何隻」


「七、いや九。大型三、中型多数」


「材質」


「木造に見えます。が、こんな沖に出るには船型がおかしい」


 榊原は艦橋前面ガラス越しに海を見た。水平線の上に、朝靄を切り裂いて複数の帆影が進んでいる。大航海時代の絵画から抜け出したような外観。だが単なるコスプレイベントの再現船なら、今いる海域に現れる説明がない。長崎西方海域。日本列島転移確認後の哨戒拡大中。周辺の海図は無効。海水の塩分、潮流、生物相、全てが未知。


 戦闘指揮所から報告が上がる。


「レーダー反応あり。断面積小。金属密度低。IR微弱。エンジン熱源なし。風力推進主体と推定」


「ドローン上げろ。可視と赤外の光学センサーを優先。電波照会は」


「VHF海上帯応答なし。国際遭難波も反応なし。自動識別装置も当然沈黙」


「当然って言うな。今は何も当然じゃない」


「失礼しました」


 榊原は怒鳴らなかった。怒鳴っても無駄な局面だ。自分の声量で世界は元に戻らない。


「識別信号は最大限出せ。こちらが国家主体であること、非交戦の意思、接近警告。日英中韓、あと図形信号も」


「図形信号」


「三角と円と水平線。知性があれば、何か返すかもしれん」


 艦橋の空気が一瞬だけ乾いた笑いを含んだが、誰も実際には笑わなかった。


 榊原は四十八歳、護衛艦隊勤務が長く、海賊対処も災害派遣も台湾海峡緊張時の警戒監視も経験していた。二〇三〇年代に入ってからの自衛隊は、継戦能力と分散運用を重視する方向へ大きく舵を切っていた。長射程スタンドオフ、統合防空ミサイル防衛、無人機群、衛星・サイバー・電磁波の統合運用。海自も例外ではない。だがまさか、「帆船への対処」が艦長としての仕事になるとは思っていなかった。


 ドローン映像がコンソールに映る。海上を滑るように進む船団。大きな船首像。奇妙に縦長の帆。甲板上に、鉄砲ではない長い槍のようなもの。鎧姿に見える人影。さらに、船首に立つ一人の人物が、こちらに向かって手を掲げている。


「拡大」


 映像が寄る。榊原の背筋が冷えた。


 その人物は、青い光をまとっていた。


 太陽の反射でもレンズフレアでもない。人間の輪郭に沿って、ごく薄い燐光が流れている。加工映像のような不自然さはなく、むしろ現実の映像だからこそ不気味だった。


「……IRに異常」


 オペレーターがつぶやく。


「人体周辺に局所高温域。いや違う、熱じゃない。センサーが値を拾えていない」


「センサーが壊れてる可能性は」


「単独ならともかく、三系統全部で同じです」


 榊原は決断した。


「距離を保て。近接防御火器、短距離艦対空ミサイル、垂直発射装置はスタンバイ。砲は照準追随のみ、撃つな。無人水上艇二隻を前進させる。私は艦橋に残る。通信長、拡声器で呼びかけ」


「内容は」


「こちらは日本国海上自衛隊。未知海域における安全確保のため、これ以上接近しないこと。こちらに敵意はない。繰り返す」


 拡声器が海風に言葉を押し出した。もちろん相手に通じる保証はない。


 だが、最初に返ってきたのは言葉ではなかった。


 帆船団の先頭艦、その船首の人物が両手を広げる。次の瞬間、海面が盛り上がった。


 巨大な壁ではない。津波でもない。船団の前方だけ、海面が半円状に持ち上がり、透明な弧になって艦隊を包み込む。朝日を受けて、それは水晶のドームのように輝いた。


 艦橋の誰かが息を呑む。


「何だ、あれは」


「自然現象ではありません」


「見れば分かる」


 榊原は唇の端を噛んだ。撃てば勝てる。おそらく。護衛艦と無人随伴機、ヘリ、対艦火力、近接防御。木造船団が相手なら、物理的には話にならない。だが撃った瞬間に外交は消える。そして目の前の現象が、もし相手にとって「挨拶」だった場合、日本は転移後初の対外接触を砲撃で始めることになる。


「距離維持。全記録保存。司令部に上申。相手に超常技術または未知物理現象確認。交戦回避を継続」


 そのとき、先頭艦から一艘の小舟が切り離された。櫂ではなく、水の上を滑るようにこちらへ来る。乗っているのは三人。中央に、さきほど光をまとっていた人物。左右に鎧姿の兵。


 榊原は深く息を吸った。


「歓迎するしかないか」


     ◆


 埼玉県さいたま市。陸上自衛隊朝霞駐屯地。


 陸将補・黒田宗一郎は、屋外訓練場に集結した即応部隊を見渡しながら、自分の胸の奥が妙に静かなことに気づいていた。六十代手前、現場たたき上げ。災害派遣、島嶼防衛、統合作戦司令部発足準備。だが本当の意味で未知の作戦は初めてだ。


 目の前には一六式機動戦闘車、改良型一〇式戦車、装輪装甲車群、短SAM、対無人機レーザーシステム、電子戦車両、補給ドローンのコンテナ。将来装備実証隊から借り受けた小型UGVまで並んでいる。二〇三五年の自衛隊は、二〇二〇年代の延長ではない。少子高齢化と人員不足に押される形で無人化・省人化が一気に進み、隊員一人あたりの火力と情報量は増えた。その代わり、動かすには高度な統合が要る。


「状況は」


 副官がタブレットを掲げる。


「首都圏周辺の地形変化は限定的。ただし関東平野北西端に、地図未記載の山塊が出現。前縁から不明飛行生物を複数確認。民間からの映像多数。警察・消防と空域分離を調整中」


「飛行生物ね」


「翼長四メートルから十メートル。鳥類とも爬虫類とも判別困難」


「ドラゴンって言ったら怒るか」


「若い隊員はもう普通に言ってます」


 黒田は苦く笑った。


「士気が崩れてなければ名前は何でもいい。避難計画は」


「自治体と連携中。住民はパニックというより、撮影に出ています」


「日本人らしいな」


 事態が大きすぎると、人は案外すぐには逃げない。東日本大震災でもそれはあった。理解が追いつかない間、人は日常の動作をなぞる。スマホを持つ。家族に連絡する。コンビニへ行く。車を出す。写真を撮る。


「総監部からの指示は」


「首都圏防護が最優先。未知勢力の地上侵入に備え、街区戦ではなく交通結節点・電力・浄水・データセンター・病院を重点防護。必要なら警察予備力を統合。武器使用基準は厳格」


「妥当だ」


「ただ、現地の偵察班から奇妙な報告が」


「何だ」


「山塊前縁の森林で、機械が一部不安定化。ドローンの姿勢制御乱れ。衛星測位は生きているが、慣性計測装置が飛ぶ個体がある。さらに隊員の一名が、発光現象を目撃」


「目撃は今の段階じゃ信頼度が低い」


「同感です。ただ、複数班一致です」


 黒田は双眼鏡を上げた。都心の空は明るみ始めている。その向こう、遠くに、本来ないはずの稜線がある。関東平野の果てに、何か巨大なものが増えている。


「偵察中隊を前に。戦闘工兵を随伴。化学・生物・放射線対処班もつけろ」


「放射線ですか」


「未知現象だ。放射線でも毒でも魔法でも、測れるものは全部測る」


 副官が一瞬だけ表情をゆるめた。将軍が冗談を言うと、部下は少しだけ落ち着く。


 その時、滑走路代用道路から低いジェット音が響いた。空自のF-3先行量産型が二機、上空通過する。無尾翼に近い平面形、レーダー反射を抑えた面構成、その後方に小型無人随伴機が四機。朝の光を受けて、一瞬だけ金属ではなく刃物のように見えた。


 黒田は空を見上げたまま言った。


「国家ってのは、つくづく便利な化け物だな」


「は」


「世界が丸ごとおかしくなっても、五十分で戦車も戦闘機も病院も気象台もテレビ局も動く。誰かが平時に面倒なことをやっていたからだ」


「……はい」


「つまり今から俺たちがやる面倒は、十年後の誰かを救う。忘れるな」


 彼はそういう種類の指揮官だった。熱血ではない。無口で、理屈っぽく、だが隊員が死ぬ計画を嫌う。現代日本の制服組の中では珍しくもないが、危機では貴重だ。


 その直後、関東北西方面のスクリーンに新しい映像が送られてきた。偵察ドローンから。森林上空を低速で飛ぶ巨大生物。鱗に覆われ、長い尾を引き、背に人影を乗せている。


 会議室が静まり返る。


 副官がかすれ声で言った。


「……騎竜、ですかね」


 黒田は双眼鏡を下ろした。


「用語統一しろ。正式報告では“不明飛翔生物搭乗型”だ」


「しかし」


「だが現場では好きに呼べ。死人が出ないならな」


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