17. 山の向こうの軍旗 (3)
会見室のテレビ画面では、政府報道官が抑制された口調で事実を読み上げていた。
「本日午前、関東北西部の接触管理区域周辺において、複数の外部武装集団による交錯事案が発生しました。自衛隊はわが国部隊および保護対象の安全確保のため必要な措置を実施し、現在、現地の安定化に当たっています」
ドラゴンという言葉は使われない。帝国という言葉も、まだ出ない。だがネット空間は会見の数分後には別の名前で満ちた。異世界軍。帝国斥候。黒い魔術師。関東戦線。曖昧な公式説明は、かえって民間の物語を加速させる。
NHK編集フロアで、小早川澪は送られてきた映像を止めた。煙の中、地面を這う隊員。遠くで爆ぜる白い閃光。逃げ惑う異世界人。転倒する獣。現実の映像は、想像よりずっと汚く、英雄性に乏しい。だがだからこそ怖い。
「このカットは使わない」
彼女は言う。
「どれです」
「負傷者の顔が近い。家族が見る」
別の映像を開く。煙幕の向こうから難民らしき人影を搬送する自衛隊員。その横で、青灰の外套を着た相手兵が一瞬だけ日本側に背を向けて後退していく。
「これも使わない」
「なぜです」
「この一瞬だけ切り取ると、“実はもう協力してる”って陰謀論に使われる」
デスクが腕を組む。
「じゃあ何を出す」
「会見と、地上接触の事実、それから保護区の安定化。戦闘そのものは説明だけにする」
「ぬるいと言われるぞ」
「ぬるくていいです。今、熱い編集は危ない」
デスクは数秒黙り、それから頷いた。小早川は胸の奥で少しだけ安堵した。報道は戦場そのものではない。だが時に戦場の延長になる。熱した方が数字は取れる。しかし数字のために社会の心拍数を上げれば、あとで冷ますのはもっと難しい。
それでも、抑えた映像の向こう側で、世論はもう割れ始めていた。
異世界勢力は全て潜在的敵だから徹底排除すべきだ、という声。
逆に、日本は圧倒的強者なのだから保護責任を果たすべきだ、という声。
帝国と戦うなら海盟や難民勢力を積極的に支援せよ、という現実論。
知らない世界に関わるな、列島防衛へ専念せよ、という隔離論。
国家が巨大な判断を迫られる時、社会は必ず鏡のように割れる。その割れ目に誰が何を差し込むかで、次の一週間が決まる。
◆
その夜、東郷はアルシアと真田を交えた小規模会合に入った。
長机の上には、関東外縁の戦闘記録から抽出された静止画と、更新された海図、そして新たに作られた簡易の政治地図が並んでいる。カルド帝国。セレス海盟。白枝領周辺。教会圏の曖昧な境界。北方自由諸領。
アルシアは、関東で起きたことの概要を聞くと、長い沈黙の後で一つの名を口にした。
「セルディン」
彼女の顔が険しくなる。
「知っているのか」
東郷が問う。
辞書端末の助けを借りながら、アルシアは慎重に説明した。
セルディン・オル・グラード。帝国東征軍に属する若手の政戦官。武将ではなく、交渉と編入を担う者。港と辺境領に対し、最初は言葉で膝を折らせ、それが無理なら飢えと内紛を広げるタイプ。海盟でも何度か名が出ていた。
「危険か」
真田が訊く。
アルシアは即答した。
「剣の人より、危険」
東郷は戦場映像の一場面を思い出した。セルディンが、倒れた黒灰会の肩章を踏み、何かを確かめていた動き。つまり彼は、第三勢力の正体に見覚えがあった可能性がある。
「帝国正規と黒灰会は、つながっている」
東郷が言う。
アルシアは少し首を振った。
「つながる。だが、同じではない」
それもまた厄介だった。国家の外側にいる暴力は、国家にとって便利な時だけつながる。命令関係が曖昧なら、後で切り捨てやすい。
真田が静かに言う。
「日本としては、セルディンに再接触する余地を残したい」
アルシアが目を上げる。
「敵と、話す?」
「敵だからこそ、です」
東郷は補足した。
「全部と戦う国は、だいたい先に疲弊する」
アルシアは不機嫌そうに眉を寄せたが、反論まではしなかった。海盟が帝国に受けてきた圧迫を思えば当然だ。対話という単語が、強者に有利な猶予を与えることを、彼女はよく知っている。
「だが」
東郷は言葉を続ける。
「話すことと、信じることは違う」
アルシアは彼をじっと見た。その視線の奥で、ようやく少しだけ納得が生まれたように見えた。
「ニホン、複雑」
彼女が言う。
「単に、慎重なんです」
真田が苦笑する。
「慎重すぎるほどに」
東郷はその言葉に心の中で同意しつつ、別の不安も抱いていた。慎重さは平時には美徳だ。だが戦場が近づくほど、慎重さは遅さと紙一重になる。日本はまだ、その境目を踏み外していない。だが余裕は減っている。
◆
深夜、朝霞の前線仮設病棟。
黒田は包帯の匂いがする通路を歩き、負傷した隊員の病床を一つずつ見て回った。熱傷、打撲、骨折、鼓膜損傷。死者は出ていない。それだけで、今日は十分だと自分に言い聞かせる。
一人の若い陸曹が、ベッドから起き上がろうとして看護官に叱られていた。黒田に気づくと、慌てて敬礼しかける。
「寝てろ」
黒田が言う。
「すみません」
「何が起きた」
陸曹は悔しそうに唇を噛んだ。
「光弾が来ると思って上を見て、足元の罠に気づきませんでした」
「次は」
「上も下も見ます」
黒田はうなずいた。
「生きていれば、次がある」
それは慰めではなく、事実だった。戦場で学べるのは、生き残った者だけだ。
病棟を出ると、保護区側の照明がまだ点いていた。レオハルトが柵越しにこちらを見ている。黒田が近づくと、彼はぎこちなく尋ねた。
「今日、帝国?」
辞書端末が粗い日本語へ変換する。
「ああ。おそらくな」
レオハルトは拳を握った。
「奴ら、いつも最初は言葉で来る」
「知っている相手か」
「税を数え、人を数え、残るものを数える。数え終わった後で、火が来る」
黒田はしばらく黙った。言い回しは詩的だが、要するにセルディン型の支配だ。話し合いに見せかけて相手の資源を算定し、抵抗余地を削っていく。
「日本は違う、と言いたいところだが」
黒田は自嘲気味に言う。
「こっちも色々数える国でな」
レオハルトは意味が分からなかったらしいが、黒田の表情から何かを汲んだのか、少しだけ笑った。
「数える国、強い」
「数える国は、怖いでもある」
「うむ」
短い会話だった。だが黒田は、レオハルトがただの保護対象ではなく、この世界を読む一つの目になりつつあるのを感じていた。難民は弱者だが、弱者はしばしば最も正確に強者を観察している。
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