16. 山の向こうの軍旗 (2)
谷口の草地へ、両軍の前線からそれぞれ少数が進み出た。
日本側は黒田、通訳要員、警備員二名。後方に抑制された火力。相手側は青灰色の外套を羽織った男と、旗持ち、杖持ち、槍兵二名。距離は五十メートル。地面には、前回と同じく白布と図形カードが置かれる。
男は三十代後半に見えた。背は高く、痩せすぎず、肩に力が入っていない。軍人というより、軍と官僚の中間のような顔だ。鎧は実戦仕様だが装飾もある。つまり地位がある。
彼はまず旗持ちを下がらせ、自分だけ一歩進んだ。それから片手を胸、片手を額へ当て、ゆっくりと傾ける。挨拶だ。
黒田も胸に手を当てる。
「クロダ」
男は小さくうなずいた。
「セルゲイ……」
いや、違う。通訳要員が小声で言う。
「セルディン、かもしれません」
男は自分の胸を叩き、さらに後方の軍勢を示した。
「セルディン・オル・グラード」
黒田の視線がわずかに鋭くなる。
グラード。帝国名の語幹と一致している。つまり相手は自ら正体を隠していない。あるいは、隠す必要がないと思っている。
セルディンは、昨夜から急造されている対話端末の助けを借りずに、ゆっくりとした発音でいくつかの単語を並べた。どうやら日本側がすでに持つ語彙を意識しているらしい。
「カルド帝国。道、通る。敵、探す。黒灰会、盗賊」
聞き取りづらいが、意味は通る。黒灰会を盗賊とし、自分たちはその掃討に来たという理屈だ。
黒田は内心で鼻を鳴らした。国家が辺境へ軍を出すとき、理由が盗賊討伐になるのは、だいたい税と支配の前触れである。
「ここは、日本の管理区域だ」
通訳端末を介して伝える。訳は怪しいが、少なくともこちらに管理意思があることは伝わるはずだ。
セルディンは端末の声を聞き、興味深そうに目を細めた。そのあと、穏やかな表情のまま、こう返す。
「管理? 山、森、川、古きまま。ニホン、昨日。帝国、長い」
言葉の刃としては十分だった。
つまり彼は、歴史と継続性を根拠に、この地の優越権を主張している。征服者の論理ではなく、文明の年長者としての態度。厄介だ、と黒田は思う。こういう相手はただ高圧なだけではない。自分が秩序側だと本気で信じている。
「難民は保護している」
黒田が言うと、セルディンの表情がわずかに揺れた。
「白枝の者か」
「そうだ」
「彼らは帝国法上、反税の民」
「こちらにはこちらの基準がある」
端末がそのまま伝えられたかは怪しい。だが、黒田が譲らないことは伝わった。
しばらく沈黙が続く。風が草を倒し、後方の兵たちの槍先がわずかに揺れる。
その時、後方の樹林から小さな音がした。
乾いた枝を踏む音。
日本側の感覚では微細だが、戦場では十分大きい。前衛の一人が肩越しに後方を見る。ほぼ同時に、相手側の杖持ちが杖を持ち上げた。
黒田の脳裏を、一つの可能性がよぎる。第三者だ。
「伏せろ」
彼は反射的に叫んでいた。
次の瞬間、樹林の両側から矢と光弾が同時に飛び出した。
狙われたのは、黒田たちでもセルディンたちでもない。その中間地点だ。会談そのものを壊し、双方に相手が撃ったと思わせるための最悪の位置取り。
地面が爆ぜ、土と草が舞う。警備員が黒田を引き倒し、口の中へ湿った土が入る。相手側でも槍兵がセルディンを庇い、耳の奥で銃声と悲鳴と怒号が一度に潰れた。
「第三勢力、両翼樹林」
後方からオペレーターの声が飛ぶ。
「数不明。熱源散開」
黒田は転がるように岩陰へ身を寄せ、状況図を頭の中で組み直した。黒灰会か、あるいは帝国内の別派閥か。いずれにせよ狙いは明白だ。接触を破綻させる。
「煙幕、展開。会談班と相手使者の分離保護」
「相手も?」
「今は相手もだ。ここで死なせるな」
白煙が上がる。日本側の発煙弾と、相手側の杖持ちが放った薄青い霧が混じり合い、草地全体が奇妙な濃灰に沈む。視界は悪い。だが完全には切れない。熱源探知とLIDAR、音響センサー、上空無人機、それぞれが断片的な絵を返してくる。
そして、その断片のつなぎ目で、異常が起きた。
「センサー飛びます」
「何が」
「LIDARが虚像を拾ってる。人影が増えたり消えたり」
黒田は舌打ちした。術式干渉だ。
樹林の右側から、黒い外套を羽織った十数名が飛び出す。顔の下半分を布で隠し、短弓と短刀、そして軽い杖。黒灰会だろう。だが前回より動きが洗練されている。背後に誰か教えた者がいる。
「非致死優先は取り消し。自衛優先」
黒田は命じた。
普通科の射手が短く撃つ。樹木の間を縫う精密射。相手が木盾と術式で散らそうとしても、現代火器の密度はそれを上回る。だが同時に、敵の光弾が友軍用小型ドローンの一機を焼き落とした。電子と魔法の干渉は一方通行ではない。こちらも相手を乱せるが、相手もこちらの優位を削る方法を学びつつある。
煙の向こうから、低い咆哮が響いた。
大型獣だ。
樹林を押し倒して現れたのは、前回レオハルト一団が使っていた荷獣よりはるかに大きい四足獣だった。灰色の毛皮に骨質の角板を持ち、背には二人乗りの弩兵。黒灰会にしては贅沢な装備。やはり単独犯ではない。
「対物ライフル、脚を取れ」
銃声。獣の前脚が弾け、巨体が横倒しになる。弩兵が投げ出される。その一人は起き上がりざまに何かを叫び、地面へ黒い粉を撒いた。粉が光る。
「後退」
副官が叫ぶより先に、地表が膨らんだ。小規模な爆裂。対人地雷のようだが、破片ではなく熱と衝撃が中心。魔導式の罠とでも呼ぶべきものだった。
日本側二名が吹き飛ばされる。ボディアーマーが直撃を防いだが、転倒と熱傷は避けられない。黒田の胃が冷える。
「医療班」
「動いてます」
「セルディンの位置は」
「煙幕内、相手側に保護されています……いや、待ってください」
モニターに、奇妙な映像が映る。煙の切れ目で、セルディンが自分の兵ではなく、日本側が倒した黒灰会の負傷者を見下ろしている。そして一瞬だけ、その男の肩章のようなものを踏みつけ、何かを確かめたように後退した。
「見たか」
黒田が言う。
「はい」
「正規でも一枚岩じゃない」
その確信は、戦場で生まれるには上等すぎる情報だった。
会談は崩れた。だが完全な相互誤認には陥っていない。日本側は両翼からの第三者攻撃を確認し、相手もまた、自分たち以外が場を荒らしたと理解しているようだった。
「全体前進はするな」
黒田は命じる。
「谷口死守。敵は樹林から出るやつだけ落とせ。セルディン隊には退路を残す」
「逃がしますか」
「逃がす。今殺して得るものより、生きて帰して帝国内部へ疑心を持ち帰らせる利益の方が大きい」
副官は一瞬黙り、それから頷いた。
「了解」
その時、上空を切り裂くような音がした。航空自衛隊の観測支援無人機だ。低空は危険なので、かなり高い位置から光学ズームで戦場を拾っている。映像リンクが車内へ落ちてくる。樹林の奥へ散る黒灰会。谷の向こうで整然と後退するセルディン隊。こちら側では負傷者搬送。全体像が少しだけ見える。
戦闘は二十分で終わった。
だが終わった時に残ったものは、単純な勝敗ではなかった。第三勢力の工作。帝国正規らしき部隊との不完全な接触。魔法と電子の相互干渉。日本側負傷者三名、軽重傷多数。黒灰会側多数死傷。相手正規側にも数名の負傷を確認。
そして何より、「誰がどこまで敵なのか」が、少しだけ複雑になった。
煙が薄くなった後、谷口の片隅で黒灰会の負傷者が一人だけ生きて見つかった。若い男だった。太腿を撃ち抜かれ、熱傷で半ば意識が飛び、唇の端に血泡を溜めている。普通ならただの賊に見える。だが近くで見ると、布の下の肩口に粗末な入れ墨があり、その上から無理に剥がした古い紋章痕が残っていた。
「元はどこの兵だ」
黒田が呟く。
通訳要員と保護区側言語班が呼ばれ、簡易尋問が始まる。男は最初、意味をなさない罵声しか返さない。だが水を飲ませ、出血を押さえ、肩章片を目の前へ置くと、反応が変わった。
「……税犬」
端末が粗くそう訳した。
「誰のだ」
「帝国の、犬もいる。いない犬もいる」
支離滅裂に見える。だが黒田は、その混乱の中に輪郭を見た。帝国の名で動く者、帝国に雇われる者、帝国を騙って略奪する者。その境界が、最初から曖昧なのだ。
さらに男は、熱に浮かされたような声で短い地名を三つ吐いた。レオハルトが後で一つに反応した。白枝領へ税兵が入る前、必ず補給商人と徴発人が集まる峠町の名だという。
たったそれだけで十分だった。
今日の戦闘は偶発ではない。山向こうには、軍だけでなく、徴税と私兵と略奪市場が一緒に動く通路がある。
「生かして保護区へ回せ」
若い隊員が思わず言う。
「こいつを?」
「こいつだからだ」
黒田は即答した。
「死体より、曖昧な生き証人のほうが後で効く」
それは気分の良い判断ではなかった。だがこの世界で必要なのは、気分の良さではなく、複雑さをそのまま持ち帰ることだ。
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