15. 山の向こうの軍旗 (1)
第四章 山の向こうの軍旗
朝の谷は冷えていた。吐いた息が白く残り、靴裏には夜露を吸った土が重くつく。関東平野の北西外縁に突然現れた異世界の山塊は、地図の上では一本の乱れた線にすぎない。だが現地に立てば、岩肌の黒さ、谷へ溜まる霧、見慣れた広葉樹林の向こうに文法の違う森林が立ち上がる不気味さが先に来る。国境は線ではなく、まず空気の匂いで分かる。
陸将補・黒田宗一郎は、前進観測所に設けられた仮設指揮所の外へ一度出て、谷筋の冷気を肺へ入れた。それからモニターへ戻る。楽観も悲観も、現場では役に立たない。足場と視界と退路が残る配置だけが要る。
「前衛無人機、第三ルートからの映像です」
オペレーターが画面を切り替える。
谷筋の薄霧を割って、列が進んでいる。今度は難民ではない。前回より装備が揃い、歩き方に乱れが少ない。槍兵、弓兵、荷駄、簡素だが統一された盾、そして旗。黒ではなく濃紺の地に、銀の太陽を意匠化した紋。セレス海盟とも白枝領とも違う。さらに列の左右に、長杖を持つ者が一定間隔で配置されている。
「人数」
「先頭群で二百、後続を含めて四百から五百。荷駄比率高め」
「進軍速度は」
「慎重です。索敵を出しています」
黒田は双眼鏡を取り、実視界でも谷を見た。樹林越し、わずかな切れ目に光る槍先。前進しているが、攻撃一直線の勢いではない。こちらを探っている。
「前回の黒灰会とは別物だな」
副官がうなずく。
「統制されています。正規軍か、それに近い」
「帝国?」
「断定はできませんが、可能性は高い」
黒田は短く息を吐いた。地上での初期接触は、海のように距離を取りにくい。海なら数キロ離れてにらみ合えるが、山の裾野では相手が一歩進めば、もう地形が圧縮される。
「第一線を一段下げろ。谷口の見通しだけ確保。威圧しすぎるな」
「了解」
「ただし火器は眠らせるな。短SAM、対ドローンレーザー、迫撃支援、全部つなげ」
「はい」
前進観測所の外では、普通科隊員が静かに動いている。改良型の小銃、軽量ボディアーマー、光学支援システム、ヘッドアップ表示に連動した友軍位置表示。彼らの装備は二〇三五年の技術を反映していても、待ち伏せ前の兵士の姿勢は昔とほとんど変わらない。膝を少し曲げ、肩の力を抜き、周囲の音を拾う耳だけを開く。
黒田はそれを見て、自分の最初の実任務を思い出した。時代も装備も違うが、人間の緊張のしかたは案外変わらない。変わるのは、相手がドラゴンに乗っているかもしれないという一点だけだ。
指揮所脇の簡易遮蔽の下では、偵察班が最終確認をしていた。隊員たちの表情には、同じ緊張でも微妙な差がある。
「正規軍なら、逆に話は早いかもしれません」
若い一尉が言う。
「黒灰会みたいな半端者より、指揮系統がある」
「そうとも限らん」
隣の曹長が低く返した。
「正規のほうが、撃つと決めた時は迷わない」
別の隊員が装備端末をいじりながら口を挟む。
「でも魔法持ちが混じるなら、正規のほうが面倒ですよ。連中、こっちのドローン潰し方を覚えてきてる」
誰も間違っていないと、黒田は思った。現場では、経験した脅威の種類ごとに“怖さ”の形が違う。盗賊上がりは読めない怖さがある。正規軍には秩序立った怖さがある。術者には理解不能の怖さがある。そして一番厄介なのは、それらが混ざり始めた時だ。
「いいか」
黒田は短く言った。
「今日は正解を当てるな。間違っても死なない配置を選べ」
それが地上戦の第一原則だった。誰が相手か完全に分からない段階で必要なのは、勇気より生存性だ。
◆
東京ではその頃、抑制という単語が会議のたびに磨耗していた。
官邸の国家安全保障会議補助会合で、東郷真尋は複数の意見が同じテーブルに乗るのを見ていた。転移から一週間。まだ一週間しか経っていない、と考えるべきなのか、もう一週間も経った、と考えるべきなのか、誰にも分からない。
「関東外縁に軍規模の集団が出てきている以上、緩衝地帯を明確に設定すべきです」
防衛省の幹部が言う。
「最低でも砲兵射程を見越した排除線が必要だ」
対して外務省側が口を挟む。
「排除線を一方的に設定するのは、相手側の全勢力を敵に回す可能性があります」
「回さなければ食い込まれる」
「どの勢力が誰なのか、まだ整理もついていない段階で?」
内閣法制局の担当者が慎重に言葉を置く。
「現行法制の読みだと、主権が及ぶ範囲は転移後も旧来領域が前提です」
彼は言いにくそうに続けた。
「新たに接続した土地まで、自動で日本になるとはまだ言えません」
「法理の話をしている場合か」
「法理の話を捨てた瞬間、国家は後で自分の足を食います」
東郷はその応酬を聞きながら、両者が同時に正しいことに軽いめまいを覚えた。自衛隊にとって前線の曖昧さは死に直結する。外務省にとって未定義の土地へ武力で線を引くことは、後々の外交資産を焼く行為になる。法制の慎重さは煩雑だが、国家が国家であり続けるための骨組みだ。
結局、議論の中心は一つの問いに収束する。
日本は、異世界でどこまで「日本」なのか。
列島だけが日本なのか。その周辺海空域も含むのか。接続した山地は? 難民を保護した保護区は? 海盟船団を収容した港湾は? 主権と防護責任は、綺麗に重ならない。
「暫定的にでも、運用概念は必要です」
東郷が言う。
「言い方は工夫します」
「でも少なくとも自衛隊が、“この線より先は危険で、越境は接触管理下だ”と扱える範囲を決めないと、現場判断の負荷が高すぎる」
首相は腕を組んだまま考え込んだ。
「緩衝管理区域、ですか」
「それが近いと思います」
「主権ではなく、危機管理上の接触統制区域として扱う」
「はい」
言葉は重要だ。主権と言えば相手を刺激する。無防備と言えば現場が死ぬ。外交と軍事の間に、ぎりぎり通れる幅の言葉を探すのが官僚と政治の仕事だった。
だが言葉が整うより先に、現地の状況は動く。
補佐官が会議室へ入り、東郷へメモを差し出した。
関東外縁、相手先遣が停止。使者らしき一行前進。
東郷は目を細めた。最悪ではない。だが「使者」と「前進」は別々に悪化する可能性もある。
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