12. 境界線の兵站
長崎県佐世保、臨時海上連絡調整所。
榊原遼は、修理ドック脇の埠頭を歩きながら、工場の匂いを久しぶりに肺へ入れた。油、鉄、潮、塗料、溶接、濡れた木材。護衛艦の上ではなく港に立つと、自分が海軍軍人である前に、巨大な産業システムの利用者にすぎないことを思い知らされる。
セレス海盟の船団は、現在、佐世保の一角を閉鎖して受け入れられていた。木造船の修理そのものは日本の大規模ドックには簡単すぎるほどだが、問題は構造が分からないことだった。船体木材の樹種、接着材、帆布、導潮術とやらに関わる装置、そして船底に刻まれた複雑な紋。相手にとって命に等しいものを、むやみに分解するわけにはいかない。
埠頭では日本側の技師が、アルシアの副官格らしい男と、絵と身振りで意思疎通を図っていた。壊れた舵板、裂けた帆、焦げた索具。工具を渡し合う動作だけでも、奇妙な連帯感が生まれる。
「艦長」
情報士官が駆け寄る。
「西方海域、また接触反応です」
「帝国か」
「不明。ただ、今度は小規模。単独船の可能性」
「監視をつけろ。近づきすぎるな」
榊原は足を止めた。彼の役割は、もはや一艦長に収まらない。転移後最初の接触を経験したことで、現場知見を求められ、会議に呼ばれ、海路の話をし、相手の船の癖まで説明するようになっていた。階級より、たまたま最初に見たという経験が価値になる。
港の先、仮設の面談室からアルシアが出てきた。彼女の表情はここ数日で明らかに変わっている。恐怖が消えたわけではない。だが観察の比重が増した。日本を見て怯えるより、日本を理解しようとしている顔だ。
「サカキバラ」
彼女が呼ぶ。
「アルシア」
お互い、まだぎこちない。
簡易辞書端末を介しながら、彼女は短く問うた。
「海、いつ、開く?」
つまり、自国船団が安全に動ける範囲はいつ広がるのか、ということだ。日本側にとっても同じ問題だった。
「すぐには難しい」
榊原は端末へ入力し、機械音声に喋らせる。
「海図がない。敵も見えない。だが少しずつ広げる」
アルシアは不満そうに眉を寄せたが、反論はしなかった。国家に守られる者の顔ではない。時間を金に換算している交渉者の顔だった。
「セレス、時間、ない」
「日本もだ」
榊原は海を見る。
「だが急げば沈む」
アルシアも海を見た。短い沈黙の後、彼女は言う。
「沈む前、進む」
榊原は少しだけ笑った。
「海の人間だな」
彼女は意味が分からなかったらしく首を傾げたが、その仕草が以前より柔らかいことに榊原は気づいた。
その時、埠頭の奥で騒ぎが起きた。セレス側船員の一人が、積み下ろし中のフォークリフトへ驚いて転倒し、近くの木箱が崩れたのだ。中身は塩漬け魚の試験輸送品だった。日本側作業員が反射的に駆け寄り、相手も同じ速度で身を起こし、つかの間だけ互いが相手の腕を取り合う。
言葉がなくても分かる類の慌て方だった。
榊原はふと思う。人類かどうかを定義するのに、遺伝子や宗教や歴史は大きな意味を持つ。だが現場では、重い箱が落ちた時に同じように手を出すかどうかが、案外いちばん早い答えになる。
◆
朝霞保護区では、難民への聞き取りが進むにつれ、レオハルト一団の輪郭もはっきりしてきた。
彼らは「白枝領」と呼ばれる辺境領から逃れてきた一団だった。領といっても、国家地図に大きく描かれる種類の政治体ではない。山裾の小集落と木柵城と狩場と鉱床、その寄り合いに近い。名目上は大陸東方の小侯の支配下、実際には年ごとに税を納める相手が変わるような、不安定な辺境だ。
カルド帝国が東征を強めるにつれ、まず税が増え、次に兵が通り、最後に狩人と私兵が流れ込み、村々を空にした。レオハルトは元々その領の軍務代行だったらしい。代行といっても職業軍人ではない。村の壮年たちを束ね、獣害と盗賊と徴税人の間で人を守る、半ば自治の戦士長だ。
黒田は報告書を読みながら、組織図にならない共同体の強さと脆さを考えた。現代国家のような徴税・教育・登記・警察・通信がない社会でも、人は秩序を作る。だがその秩序は、強い外圧に対してあまりに局地的だ。カルド帝国のような大規模国家が乗り出せば、押し流される。
「レオハルトは協力的です」
言語班の責任者が言う。
「ただ、日本を完全には信じていません」
「当たり前だ」
「ええ。むしろ正常です」
黒田は保護区の映像に目を向ける。日本側が設営した簡易シャワー設備に、最初は誰も近づかなかったのに、子供が一人使ってからは列ができ始めている。石鹸の匂い。湯気。清潔な水というものが、どれほど強い説得力を持つかを、現代日本人は忘れがちだ。
「拘束した狩人は」
「やっと口を割りました。“黒灰会”と名乗っています」
言語班の責任者は、手元のメモを一度見てから顔を上げた。
「帝国軍の制服は着ない。けれど帝国の軍が通った後を嗅ぎつけて、人と物だけさらっていく連中です」
「民兵より悪いな」
「ええ。国家の外にいるくせに、国家の圧力だけは食って太る」
黒田はうなった。
「一番面倒なやつだ」
この世界は、帝国と海盟と教会だけでは構成されていない。制度の外にいる連中が、制度の変動を最も早く嗅ぎつける。日本が現れた以上、そういう者たちも必ず寄ってくる。略奪、密貿易、捕虜売買、情報売却。戦争の前には、必ず市場が立つ。
午後、黒田はレオハルトと直接向き合った。間には簡易辞書端末と、紙に描かれた図。
「カルド」
黒田が言うと、レオハルトの表情が硬くなる。
「多い。長い手。金、食、子、取る」
端末がぎこちなくそう訳す。
「教会は」
「祈る。見る。遅い」
「北は」
「売る」
簡潔で、よくできた世界地図だった。
黒田は思わず鼻で笑った。国家観が違っても、辺境の実感はいつも鋭い。帝国は奪う。宗教は見ている。北方の自由勢力は売る。分かりやすすぎる。
「日本は」
黒田が自分の胸を指す。
「ニホン、何」
レオハルトは少し考え込んだ。やがて、掌を上に向けて、ゆっくりと言う。
「壁」
端末がそう出した。
「壁?」
「大きい壁。まだ、開くか、閉じるか、分からぬ」
黒田はその言葉をしばらく咀嚼した。敵でもなく、友でもなく、まず壁。
悪くない評価だと思った。
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