10. 境界線の兵站
第三章 境界線の兵站
戦争を始めるのは政治だが、戦争を続けるか止めるかを決めるのは、たいてい倉庫である。
日本列島がエイルガルドへ転移して四日目の朝、霞が関ではすでに「初動」という言葉が通用しなくなっていた。初動とは、予備の計画と体力で押し切れる時間帯のことだ。四日目はもう違う。制度と物流と心身の限界が、現実として姿を見せ始める。
経済産業省地下講堂を改装した総合供給対策本部は、会議室というより巨大な配車センターに近かった。壁一面のスクリーンに、電力需要、燃料在庫、製油所稼働率、ガス火力の残余日数、港湾ごとの荷役能力、鉄道貨物の運行見通し、食品卸の地域別偏在、農協系統倉庫の在庫、病院向け優先配送ルートが重ねて表示されている。国土がそのまま生き物の断面図になったようだった。
東郷真尋は、中央の長机に置かれた紙資料を一瞥してから、すぐに目をスクリーンへ戻した。紙に落ちた数字は数分で古くなる。今必要なのは、静的な正しさではなく、動的な誤差の管理だった。
「LNGは」
首席補佐官級の経産官僚が答える。
「平時の顔で使えば、六週間もたないです」
「延ばして何日」
「二か月半。……かなり痛みます」
「痛みとは」
「まず高炉が唸ります。次に化学の一部。データセンターと半導体工場は負荷移転。民生は空調制限、物流は優先車列化です」
別の席から農水省が割り込む。
「その“一部化学”に肥料が入るなら、来年の畑から死にます」
「落とさないなら、今度は電気が死ぬ」
「飼料も巻き込みますよ」
「分かってる。だから今、ここで胃を痛くしてる」
怒鳴り合いにはならない。誰もが正しく、誰もが間違える余地がある。国家の危機会議というのは、往々にしてその種の悲しい正しさで満ちる。
東郷は資料の端に簡単な三角形を書いた。食料。エネルギー。安全保障。
その三点を結ぶ線が、日本という国家の輪郭になる。
転移前、日本は食料を輸入に依存し、エネルギーも化石燃料の外部調達に大きく頼っていた。技術大国であることと、自足できることは別だ。精密機器と高度製造業に強い国ほど、逆に平時の世界物流へ深く組み込まれている。外部との接続が利点だったものは、外部が消えた瞬間、弱点へ反転する。
「肥料原料の見通しは」
農水省の局長が目元を押さえながら言う。
「窒素系は、電気を食わせればまだ延命できます」
そこで局長は一度言葉を切った。
「ただ、リン酸と加里がきつい。備蓄も回収も全部掻き集めて、ようやく今季を誤魔化せる程度です」
「来季は」
「響きます。かなり」
「家畜飼料」
「輸入前提の配合は崩れます。米、麦、食品残渣、未利用資源へ逃がすしかない」
「国民への説明」
「“足りない”までは言えます」
広報調整の担当者が、慎重に言葉を選ぶ。
「でも“飢える”と言った瞬間、棚より先に心が空になります」
誰かが低く言った。
「すでに起きかけてる」
事実だった。都市部ではトイレットペーパーや保存食の一時的な品薄が起き、地方ではガソリンスタンドに列ができ始めている。いずれも絶対量が尽きたわけではなく、「尽きるかもしれない」という予感が人を動かしていた。危機における不足は、現物不足より先に心理の不足として始まる。
東郷は会議卓の片隅に置かれたタブレットをタップした。表示されたのは、昨夜更新された対異世界接触レポート。セレス海盟からは沿岸都市群の交易品目として、穀物、乾魚、塩、獣脂、木材、鉱石、薬草、染料、羊毛、魔導触媒らしき物資が挙がっている。量も質も、日本の国家経済を丸ごと支えられる規模ではない。だが局所的には意味を持つ。
「異世界側との交易を前提にした補完は」
彼が言うと、経産官僚が即答した。
「国家ごと救う量ではありません」
彼はタブレット上の品目一覧を指で弾いた。
「でも、局所には刺さる。医療用植物、特殊鉱物、沿岸塩、木材、漁獲、家畜種。足りない場所へ薄く効かせるなら意味はあります」
「輸送の安全は」
「海路次第」
つまり榊原たちの仕事次第ということだった。
会議はそこで一旦止まり、次の議題へ移る。半導体。製造装置の保守部品。フォトレジスト原料。超純水。ガス供給。国内サプライチェーンの再編。軍事と民生の境目が、じわじわと消えていく。
東郷はふと思う。人は戦車や戦闘機を見ると戦争を直感するが、実際の戦争を支えるのは、もっと退屈な単語だ。尿素。苛性ソーダ。バックアップ電源。冷媒。紙おむつ。電子部品の一つひとつ。国家が生き延びるということは、それらを順番に切らさないということに尽きる。
そして日本はいま、世界の端ではなく、世界そのものの境界線にいる。境界線では、兵站がそのまま国境になる。
◆
同じ朝、埼玉県北部の地方配送拠点では、別の意味で境界線が引かれていた。
大型倉庫の中で、仕分けラインがいつもより早い時間から回っている。飲料、缶詰、紙おむつ、灯油用ポリタンク、乾電池、レトルト食品。どれも戦略物資という顔はしていない。だが、生活が崩れる時に真っ先に争われるのは、たいていそういう品だ。
「東北便、一本減らします」
配車主任が叫ぶ。
「燃料割当が足りない。代わりに病院向けを優先」
現場監督の男が端末をにらみながら舌打ちをこらえる。一本減らせば、棚は空きやすくなる。棚が空けば、写真が出回る。写真が出回れば、次の日には本当に物が消える。
「ドラッグ系は」
「介護用品を先に積む。乳児食もだ」
「ホームセンターが怒ります」
「怒る相手が電話できるうちは、まだ回ってる」
誰かがそう返し、数人が短く笑った。笑わないと持たない種類の朝だった。
休憩室のテレビでは、異世界の船が長崎へ入ったという速報と、首相会見の切り抜きが交互に流れている。だが現場の人間にとって切実なのは、異世界より、午後の配送枠と軽油残量と人手不足だった。
若い派遣スタッフが、不安そうに訊く。
「本当に足りなくなるんですか」
監督は返事の前に、仕分け端末の画面を見た。紙おむつ八箱を高齢者施設向けへ回し、代わりに別ルートの飲料水を後ろへずらす。午後便へ載せるはずだった灯油用ポリタンクには、停電の長引く地区向けの赤札が新しく貼られた。誰の暮らしを先に今日へ通すか、その順番だけが次々に決まっていく。
監督は少し考えてから答えた。
「足りなくなる前に、足りるように配るのが仕事だ」
立派な答えではない。だが現場では、その程度に地味な言葉のほうが信じられる。国家の兵站は、こういう名もない倉庫で、今日どの荷札を先に貼るかという判断の積み重ねで形になる。
毎日21:00更新です。合いそうでしたらブックマークで追ってください。




