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01. 海の縁が消えた朝

第一章 海の縁が消えた朝


 その朝、日本列島は地図から剥がれ落ちた。


 といっても、最初にそれを理解した者はいなかった。理解とは、現象がいったん知識の引き出しに収まってから初めて成立する。だが二〇三五年六月十七日午前五時四十六分、日本標準時。日本を包んだのは、分類不能の出来事だった。


 午前五時四十六分三秒。南鳥島近海の海底地震計が一斉に異常を検知した。けれどその波形は、地震の教科書に載っているどの初動にも似ていなかった。P波でもS波でもない。むしろ、無音のまま全センサーの基準点が一瞬でずれる、そんな種類の異常だった。


 午前五時四十六分四秒。宇宙航空研究開発機構と気象庁の共同運用に移っていた次世代静止観測衛星「ひまわり・レゾナンス」が、日本周辺海域に高密度の電離層乱流を検出する。北海道から沖縄まで、列島全域を覆う円形の擾乱。直径約三千四百キロ。巨大すぎて、最初はソフトウェアの故障が疑われた。


 午前五時四十六分五秒。東日本・西日本・九州・北海道の四系統を結ぶ周波数変換所群が、ありえない位相の跳躍を記録する。再生可能エネルギー由来の分散電源、小型原子炉由来の安定出力、液化天然ガス火力、揚水、水素混焼、その全てが一瞬だけ同じ方向に「押された」。系統保護は動作したが、停電は起きなかった。あとから振り返れば、それが最初の幸運だった。


 午前五時四十六分六秒。海上自衛隊の艦艇、航空自衛隊の早期警戒機、民間船舶、羽田と成田の管制レーダー、沖縄の那覇進入管制区、稚内の沿岸監視隊、鹿屋の無人哨戒機運用拠点。あらゆるセンサーから、同じ内容の報告が上がり始める。


「海岸線の外側が、消失」


 言葉としてはそうなるしかなかった。


 海岸線そのものが失われたわけではない。房総は房総のまま、能登は能登のまま、志摩は志摩のままそこにある。だが、その先に続くはずの海が、ない。いや、あるにはある。ただしそれは日本人が知っている太平洋でも日本海でも東シナ海でもなく、色が違い、うねりが違い、空気の匂いすら違う海だった。


 衛星が数分後に取得した最初の雲間画像は、専門家の目にも長く意味を結ばなかった。北海道の北には、氷海ではなく鈍い鉛色の大陸棚が広がっていた。九州の西には見たこともない島嶼帯。沖縄の南には、珊瑚海の青ではなく、深い緑に濁った内海。そして本州の東、太平洋があるはずの空間には、果ての見えない巨大な海と、水平線上にかすむ壁のような黒い雲塊があった。


 誰かが言った。


「CGみたいだな」


 言った本人は、直後に後悔した。あまりにも現実味がなさすぎて、逆に現実から逃げているように聞こえたからだ。


 首相官邸危機管理センター地下二階、中央危機管理室。大型スクリーンには全国の監視データ、衛星画像、SNS解析、通信網の稼働率、主要交通機関の運行状況、原子力施設の状態、自衛隊の即応状況が重ねて表示されていた。情報が多すぎて、かえって何も分からない。


 東郷真尋は、受話器を左肩と頬で挟み、右手でペンを走らせながら、無意識に爪先で床を叩いていた。内閣情報調査室から国家安全保障局へ出向して三年目。肩書は国家安全保障局統合分析官補佐。三十四歳。元は防衛省情報本部で、衛星と通信の解析を専門にしていた。


「もう一回。米側の早期警戒衛星も、衛星測位も、こっちから見て正常なんですね」


 受話器の向こうで、在日米軍横田の連絡官が早口で答える。英語の癖が強い日本語だが、内容は明快だった。米軍の宇宙監視資産は、日本列島周辺に極端な時空間擾乱を検知したが、衛星群自体は健全に稼働している。衛星測位も使える。ただし測地基準との整合がおかしい。位置は取れるが、その位置が指している「地球上のどこか」が、地球側の地図と一致しない。


「ありがとうございます。録音了承」


 受話器を置くと、隣席の官房副長官補が低い声で言った。


「アメリカ本土との回線は」


「海底ケーブル系は大半が断。衛星経由の高遅延回線は生きています。帯域は絞られていますが、ゼロではありません」


「中国、韓国、ロシア」


「直接の海底・陸揚げ経路は沈黙。衛星経由の中継のみ断続的。各国とも、こちらの説明をまだ陰謀論かシステム障害だと思っています」


「当然か」


 当然ではある。たった数分前まで、日本は東アジアの列島国家だった。それが今、未知の海と未知の空に囲まれていると言われて、ただちに飲み込める国家などない。


 東郷は大型スクリーンの右端に目を移した。全国の主要インフラステータスは、奇妙なほど安定している。送電は九六パーセント稼働。通信網は九三パーセント稼働。新幹線は安全確認のため全面停止。民航は全便ホールド。高速道路は一部規制。港湾は閉鎖。株式市場はまだ開いていない。


 そしてもっと奇妙なのは、人々の反応だった。SNSでは「異世界転移」がすでに最大トレンドになっていた。動画付きの投稿が無数に流れ、窓の外に見える知らない海を映し、山の向こうに今まで存在しなかった塔のような影を撮り、空を飛ぶ巨大な鳥の群れを捉えたものまである。AI生成動画ではない証拠に、位置情報と複数視点の照合が取れていた。


「東郷さん」


 声をかけたのは、危機管理センター詰めの自衛隊連絡幕僚、統合幕僚監部出向の一等空佐だった。まだ四十前半だが、両目の周囲にほとんど寝ていない人間特有の陰がある。


「F-35の実働部隊と、次期戦闘機F-3の試験部隊、それから無人随伴機群を上げます。早期警戒機も。対外説明用に、何が見えるか先に取る」


「交戦規定は」


「自己保存のみ。未知生物も国家主体も、こちらからは撃たない。首相指示が出るまで」


「賢明ですね」


「賢明で済めばいいがな」


 それだけ言って、一等空佐は離れた。


 東郷は自分のメモに太字で書いた。


 最優先。

 一、国家機能維持。

 二、事実認識の統一。

 三、外部脅威評価。

 四、食料・燃料・医療供給。

 五、国民心理の安定。


 そして一拍置いて、六つ目に小さく書き足した。


 魔法の有無。


 自分でも馬鹿げていると思った。国家の初動メモに書く語ではない。だが東郷の仕事は、ありうべきことを書くことではなく、起きていることを取りこぼさないことだった。笑われる可能性より、記録から漏れた一行のほうが人を殺す。


 五分前、関東北部の山間部から「空に光の円が現れ、その中心から火球が落ちてきた」という複数報告が入っている。さらに九州西方の海上自衛隊哨戒ヘリから、「海面上空を飛行する木造船らしき物体を目視」という、誤入力としか思えない通報もあった。


 官邸の地上では、まだ朝の光が薄い。東京は晴れている。いつもなら通勤客がホームに押し寄せ、配送トラックが都心に入り、犬の散歩と出勤前のジョギングが交錯する時間だ。だが今、永田町の空気は静かすぎた。静かなまま、全てが決定的に変わっている。


 その静けさの外では、理解不能に対するそれぞれの朝が始まっていた。千葉のコンビニでは、夜勤明けの店員が海苔巻きの棚を詰めながら、ガラス越しに見える知らない水平線を三度見した。大阪の湾岸倉庫では、始業前のフォークリフト運転手が入港予定一覧から国外航路がごっそり消えているのを見て、故障ではなく世界の側が消えたのだと遅れて悟った。仙台の市立病院では、当直明けの看護師が母親から届いた“テレビ見た?”の一文に返信できないまま、いつも通り点滴の残量を確認していた。羽田の進入管制卓では、若い管制官が窓の外の海の色と画面上の海岸線が一致しないことに吐き気を覚えながら、それでも待機機の優先順位を読み上げていた。


 国家の異常は、まず個人の手元に小さく届く。棚の隙間、物流画面の空欄、返信できない短いメッセージ。列島規模の断絶は、そういう細部の集合として朝の生活に染み込み始めていた。


毎日21:00更新です。合いそうでしたらブックマークで追ってください。

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