第10話「面白そうだしな」
朝四時、まだ街の人々が眠りについている頃。俺たちはケリーの先導のもと街を覆う城壁をくぐり、だだっ広い草原を歩いていた。手にフルーツバスケット、腰に水の入った革袋をぶら下げながら。
「その、見せたい物ってなんですか?」
七時頃。既に足が棒になりつつある俺の問いに、ケリーは「へへっ」と笑みを浮かべながら言う。
「この近くの森の中にな、ちょっとした洞窟があるんだよ」
「洞窟?」
「ああ、魔族の侵略でも見つからなかった洞窟がな」
「それって、あとどれくらいのところに……?」
「まあ……あと三時間ってとこだな」
――三時間!?
既に足がクタクタなのに、ここからさらに三時間!?
俺はその数字に絶望にも近い感情を抱いた。見せたい物の前に、俺自身が屍と化してしまいそうだ。
そんな様子を見たのか、隣にいるドッジが豪快に笑った。
「ハハハ、これぐらいは体力ないとこの世界では生きていけないぞ?」
「よ……余裕そうだな」
確かに、いかにもな風貌のドッジはともかく、女性のケリーすら体力はあり余っているように見えた。
――インドアが祟ったか……。
元の世界では、俺はインドアのゲームオタクだった。RPGではあんなに簡単に草原や山岳地帯を越えていたのに。現実?は非情だ。
さらに歩いていくと、草の丈が高くなり木が増えてきた。次第に草原は森林へと移行し、数多の木々が視界を遮る。
「……あの」
「なんだ?」
「ここって、魔物とか出ないですよね……?」
ケリーは振り返り若干呆れた様子で、
「あんた、本当に男か?」
と疑いの目を向けた。
「こんぐらいの森で魔物に怯える男とか見たことないぞ」
「でも私、ここらへんは初めてで……」
「魔物が出る森は、もっと邪気みたいなのが漂ってる。ここは普通の森だ」
「それならよかった……」
――いや、本当にいいのか?
元の世界みたいにいきなり熊とかが出てきたら?俺たちは料理人どころか格好の餌じゃないか?
そう思った時だった。
「お!あったあった」
ケリーがとある物を指さした。そこにあった物は。
「目的地の洞窟だ」
灰色の岩壁と漆黒の洞穴だった。
―――――
「イルミナ!」
ケリーが落ちていた木の枝を拾い上げ、呪文を唱える。すると、枝の先端がロウソクの火のように光り輝き、暗い洞窟を微かに照らした。
「す、すげぇ……」
「あんた、こんな魔法も知らないのか……。料理人の前に目指す物があったんじゃないのか?」
ケリーは再び呆れながら、洞窟の中を警戒しながら進んだ。あちらこちらに巣のようなものがある。
「動物には気をつけなよ、噛まれたりしたら大変だからね」
ケリーはそう言いつつも、足を止めようとしない。着実にある場所に向かって突き進んでいる。
洞窟の奥へ進むにつれ、空気がひんやりとしてきた。外の草原とは打って変わって、湿った岩の匂いが鼻を刺す。もうかれこれ三十分は洞窟の中にいるだろうか。
「あの……そろそろ教えてくれませんか?私たちに何を見せたいんですか?」
「そんな焦るなよ、そろそろ……あった」
ケリーの歩が止まる。
「壁を見てみろ、驚くぞ」
――壁?
疑問に思いつつ、俺は壁に視線を送った。
「これは……!」
俺は言葉を失った。洞窟の壁には、いくつもの料理のレシピが掘り込まれていたのだ。
岩肌に刻まれているそれは、落書きというにはあまりにも精巧だった。
食材の絵、調理の順序、火の入れ方、盛り付け方に至るまで。まるで図鑑のように細かく彫り込まれている。
「す、すげぇ……」
思わず声が漏れた。指でなぞると、彫り跡がざらりとした感触を返してくる。長い年月をかけて刻まれたものだと、一目で分かった。
「これ、全部……」
「ああ、魔族の侵攻に備えて食文化を後世に残そうとした、先人たちの知恵の結晶だ」
「先人たちの……知恵……」
「紙だと燃えてなくなるだろ?でも、岩に刻めばそう簡単にはなくならない。しかも、ここなら魔族にも見つからない。昔の人の知恵にはいつも驚かされるね」
ドッジが腕を組んで感心したように言う。
「へぇ……料理人の遺跡みたいなもんか」
「遺跡、か……まあそんなところだな」
ケリーは少しだけ寂しそうに笑った。
俺は刻まれたレシピの一つひとつに目を通した。野菜料理、肉料理、小麦料理……。コムスの店でも出されている料理が事細かに描かれている。
その中に、明らかに異質な絵があった。水、巨大な瞳、各所に散りばめられたエラのような物……。
「これは……魚?」
「そう、魚だ。これこそがあんたらに見せたかった物だ」
魚。その言葉に、俺の心臓が跳ねた。
この世界にも確かに魚料理が存在した痕跡が、今まさに目の前にある。
俺はその魚料理の絵に興味をひたすらに注いだ。
「これはソテー……。あっちは照り焼き……。味噌煮みたいな物もある!」
「おっ、詳しいな」
「元の世界では魚料理が好きだったので」
照れ臭く答える俺を、ケリーは微笑ましそうに見つめた。我が子を見るような目だ。
――こんなケリーさんは初めて見た……。
「でも、これを見たらもっと驚くよ」
ケリーは壁のある部分を指さした。俺の目がその指先を捉えた時、俺は息が止まりそうになった。
「さ……刺身!!」
包丁で生魚を切り分ける絵が、確かにそこにはあった。それはまるで、いや、間違いなく刺身の絵だった。
しかし、その絵は途中で終わっていた。完成までが描かれていない。
「その絵は何故か途中で終わってる。しかも、その絵だけやたら新しいんだ。理由は誰にも分かってない」
ケリーは絵をそっと手で撫でた。
「あんたが来るまでは、手の込んだ悪戯だと思ってたんだ。でも、あんたの話を聞いて考えが変わった。これは、確かに存在した料理だったんだってね」
「ケリーさん……」
「まあ要するにだ。あたしはあんたに賭けてみたくなった。魚の生食。面白そうだしな」
ケリーは吐き出すように言った。その顔には、満面の笑みが浮かんでいた。




