常識から逸脱して
ある大学のお昼時の事であった。
目の前に怪しい本を片手にカレーライスを食べる男がいた。
それも箸でだ――カレーを割り箸で……
「俺さ、別に人の食い方に文句言うつもりないんだけどさ――お前さすがにカレーはスプーンだろ」
「ああこれね、ちょっとやってみたかったんだ。サビエルがこんな食い方してたからね」
そう言うと、男は再び箸で掴んだ米をカレールーに絡めて口に運んだ。
男の名前は平山峻――同じ高校出身の同じ大学生だ。
初めて会う人は必ず"ひらやま"か"へいざん"と呼んでしまうだろう……
俺もその一人だ。
そのたびに平山は自分の名前を説明して――そのたびに人に必ず覚えられる。
名前を除けば別に大したことはない。
全国模試一位、数学オリンピック上位入賞――と記憶の限りだとこの程度、俺の知る限り平山に行けない大学はないだろう。
しかし、そんな平山は何をとち狂ったのか俺と同じ底辺大学に入学した。
『受けたい学科があったから』と言っていたが俺には到底理解できなかった。
ここまでいくとIQに差がありすぎて話が噛み合わないと思ったが、案外と平山とは仲良くやっている。
それどころか人付き合いが上手すぎて昔――俺を含んだ八十人で平山の誕生日会を祝ったことがある。
今ならきっと友達百人を優に超えてるだろう。
話が脱線したが、つまり平山は頭が良くて人付き合いも上手くて常識も礼儀も心得ていて――到底カレーを箸で食うようなやつではないということだ。
その行動はザビエル (真ん中が剥げた教授)の真似なんかで納得できるはずがなかった。
「そうだ平山、お前まえにマナーの悪い女は嫌いとか言ってなかったっけ?もうそれ言うのやめろよな、文句言っていいのは自分が出来てるやつだけだからな」
「うん、そうするよ」
平山は笑顔で頷いて、再びカレールーを絡めた米を口に運んだ。
「あとその本も――ってなんだ?教科書か」
「あーこれ?違うよ、授業の参考にと図書館で借りた本なんだ。題名は"悟り"――シンプルだよね」
「"悟り"?仏教か?」
「そう、今の単元は仏教だからね」
でた――こいつの好きな宗教学だ。
「聞いてほしいんだけど、実はこれね僕の学んだ仏教とはちょっと違うみたいなんだ」
「違うって……何が?」
「うん、まず仏教にはこの世の全ては繋がってるっていう考えがあるんだ。例えばこのカレーライス――これって米、ルー、野菜、肉、水――って色んな具材で出来ている訳だが、このどれかが外れればそれはカレーライスとは言わなくなるよね。つまりカレーライスとは独立した実体ではないんだ。同様に具材も環境や条件で変わって単独で成り立つ形はない。この関係は宇宙規模まで存在して、どこまでいっても全ては一つで成り立たず依存し合っているんだ。物理的な意味合いだけでなく善と悪、勝ちと負けみたいな二元論も環境や状況、ある視点が生んだだけの幻想でしかなく、どこまでいっても表裏一体なんだ。仏教が言いたいのは固定観念から抜け出せば煩悩に囚われず幸せになれるってこと」
「ふぅーん……分りやすいのか分りにくいのか」
「まあ、イメージするの難しいよね。僕も完全な概要を知ってるわけじゃないし」
平山は説明を終えると時々かき混ぜていた箸をそっと箸先はテーブルに付けないように置いた。
「そんで?その"悟り"って本はどう違うんだ」
「この本の違うところはさっき言った固定観念から抜け出すってところについてなんだけど………」
平山は数秒考えると難しそうに言った。
「行き方?まるで別に世界があるような書き方をしてるんだ……」
平山は自身の言葉さえ疑って頭を傾けた。
「なんだそれ、なんで読んでるお前が知らないんだよ」
「読んでもよく分からないんだよ。境地に辿り着く的なニュアンスだと思ったんだけど――どうやら別の世界があるみたいなんだ」
「あー分かった。それ、そっち系の本だよ。無視したほうがいいと思うぜ」
そういうの賢いやつでも騙されるらしいが……こいつ大丈夫だよな?
「僕もそうは思ったさ、けれど何故か読んでると不思議と妙な説得力があるんだ」
「お前やっぱり典型的なやつだよそれ」
「心配してくれるんだね、でも大丈夫だよ。読む限り変なものはなかったよ」
平山の言葉を疑ってるわけじゃない、俺より賢いし俺より理解が早い。けれども、どうしてもその本が憎くて怪しく感じられたので俺はその本を取り上げた。
――"悟り"作者名不詳――
始めに――この本の行為を決して行うべからず。
これは知らずに行わないための対策の本である。
釈迦でさえ此処へは踏み入れず涅槃で留まったのだから……
始めに開いたページには注意書きのようなものが書かれてあった。その文の意味は分らない。
けれど、文章からはまるでこれから呪の儀式でも書かれるのではないかと思うほどの必死の忠告が感じられた。
改めて言おう――この本の行為を決して行うべからず。
心の中では既にこの本が詐欺であるという不信は無くなっていた。代わりに何か不思議と謎の恐怖心が生まれた。
「おい、これっ……ちと気持ち悪い始まり方だな……お前まさかこの行為ってのを……」
「うん、やってるよ」
平山は笑って平然としていた。それが禁忌と分かっていてやってると考えるとその顔は以前と違って殺人さえいともたやすく行うサイコパスの顔にも見えた。
「本当にそんなことして……」
「うん別に大丈夫だよ、そんなことより君――怪しんでた割にもう信じちゃってるじゃん」
「あっ、確かに――」
「すごいでしょ、何か本物を感じるっていうか本当にあると思わせる文だよね」
「けど、その今やってるって……」
「うんやってるよ、箸でカレーライスを食べてる」
「えっ?それがやってはいけない行為……」
やってはいけない行為……確かにカレーライスを箸で食べるなど言語道断である。しかしこの文章から出るにはあまりにも不格好な行為のため、俺は目を見開いて失望した。
「はぁ――……なんじゃそりゃ」
「まあ、これだけだとそう思うのも仕方ないよね。だから今僕のやってることを説明するよ―――この本は固定観念からの脱却を意識ごとやろうと考えているんだ。仏教は固定観念に囚われない捉え方を目指してるけど、この本は見るもの全てに囚われない常識から逸脱した捉え方を目指しているんだ。今までの常識を無視したり、否定したり―――この本はとにかく常識を捨てることを目指しているんだ。
今やってるのだと本来スプーンで食べるカレーライスを箸で食べるとか、向きの決まったズボンを反対に履いたりとか――たまにその本を上下逆さにして読んだりもしてるよ。とにかく常識から逸脱することが重要なんだ。
そしてあるとき根本の無意識が突然いつもの常識を疑ったり戸惑ったりする瞬間が来る。
その時、常識から逸脱した悟りの世界――【涅槃寂静】に辿り着くみたいだ」
「ねはん……じゃく……じょう?」
「うん、その先には完全な自由があるらしいけど詳しくその本にも乗ってないんだ」
「それはどれくらい掛かるものなんだ」
「うーんとね、それもよく分ってないんだ。でも恐らく僕より長年やってるザビエルが行けてない時点で数十年は掛かるんじゃないかな」
「じゃあ、お前は何十年って行けるまでやるのか?」
「やらないよそんなに……でも、自己啓発に三ヶ月くらいやってみようと思ってるよ。効果があったら教えるよ」
「……なんかさぁ、おかしくないかな」
「ん?何が」
「その考えだと何十年って変なことをしないと行けない世界なんだろ?」
「そうだね……」
「ならなんでこの本はそこまで大げさな注意書きを書くんだ?」
「そういえばそうだね……」
ふとした疑問は平山を考えさせた。冗談みたいな話だからそこまで本気にすることはないと思うが平山は真剣に考え出して悩んだ。
「うーん……分からないな。あとでよく読み返してみるよ……」
平山はコップの水を飲み干して本をバックの中に丁寧に入れた。
「君は良い視点を持ってるね、やっぱり僕の親友だ」
「なんのやっぱりだよ、賢いとかそういうので人を見んのか」
「波長が合うというか――箸で食べてる僕を見て絶句しないだろ」
「するよ」
「君は本当に話しやすいよ、他の人の前じゃ本の紹介どころか箸でカレーライスも食べれないからね」
……キーンコーンカーンコーン―――……。
大学のチャイムが食堂に響いた。それは昼休みの終わりを伝えるチャイムだった。
「今日、一緒に帰らないかい?」
「わりぃ、俺もう今日は授業ないし、このまま帰るわ」
「そう……分かった、じゃあまたね」
「おう……」
それから一週間――平山は大学に来なくなった。




