第七話 霧崎蓮
研究所の跡地は、都心から電車で一時間ほどの丘の上にあった。
廃墟というより、まだ息をしている死体のようだった。
入口には「立入禁止」のテープが風に揺れ、壁面にはかすれたロゴ——
KIRISAKI NEURO-COGNITION LAB。
結衣は懐中電灯を手に、静かに扉を押した。
錆びついた蝶番が小さく鳴る。
中はほこりと薬品の匂いが混ざっていた。
実験室の壁には、未だ電極のコードが残り、
床には白衣が一枚、置き去りにされている。
「……ここで、みんな死んだ。」
誰に向けてでもなく、そう呟いた。
懐中電灯の光が、壁の一角に貼られた紙を照らす。
黄ばんだメモ——
『観測者は、被験者を通して再生する。』
その下には、赤いマーカーで一文。
『※時間単位:十五分サイクル。』
結衣は息をのんだ。
霧崎の研究は、本当に“今”も動いている。
部屋の隅、古びたサーバーラックが目に入った。
電源ランプが微かに点滅している。
「……まだ、生きてるの?」
結衣は恐る恐る近づき、電源を入れる。
ハードディスクが回転し、低い唸りが部屋を満たした。
モニターが光る。
画面には一行のコマンドが表示された。
RUN_LOG: EYE_REC_5YR_AGO
自動的に、音声ファイルが再生された。
——ノイズ。
微かな息。
そして、男の声。
『……観測は完了した。記録個体No.04、覚醒。』
『これで、私は“見る”側になる。』
その声を聞いた瞬間、結衣の全身が凍った。
喉が動かない。
耳の奥で血の音が鳴る。
「……神谷、さん?」
呟いた声は震えていた。
録音の声は、間違いなく神谷遼の声だった。
抑揚、呼吸、低い響き。すべて同じ。
再生は続く。
『霧崎蓮という名前は、もう不要だ。
これからは、“神谷遼”として観測を続ける。
世界がどこまで耐えられるかを、十五分ごとに。』
ノイズ。
何かが割れる音。
短い笑い声。
それで音声は途切れた。
結衣は震える手で端末を掴み、録音データを保存しようとする。
だが、画面が勝手に切り替わる。
再生リストの一番下に、新しいファイルが生成されていた。
『REC_2025_07_08_17_15』
今日の日付。
そして、現在時刻。
モニターが勝手に再生を始める。
ノイズのあとに、低い声が流れた。
『——君が、ここに来ると思ってた。』
結衣の背筋が凍る。
懐中電灯の光が震える。
『君はまだ“観測側”には立てていない。
だが、すぐだよ。十五分後、世界は反転する。』
ノイズが走り、画面が暗転した。
同時に、室内の照明が一斉に点灯する。
誰もいないはずの実験室に、足音が響いた。
「神谷さん……?」
返事はない。
だが、背後のガラスに映る影が、
まるで彼の輪郭のように揺れていた。
結衣は恐る恐る振り返る。
そこには、誰もいない。
ただ、黒い“穴”だけが浮かんでいる。
光を飲み込み、形を持たない“目”。
そして、声が再び響く。
『——ようやく、視えたね。』
結衣の視界が一瞬で白く反転した。
時間が止まる。
十七時十五分。
雨音だけが、ゆっくりと世界に戻ってきた。
ガラスに映る影はもうなかった。
ただ、結衣の背中を這うように、誰かの視線があった。




