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第二十九話 最後の記録

朝が来た。

静かな光が丘を照らす。

観測草は夜の光を閉じ、

今はただ、普通の草のように揺れていた。


ルイはノートを開いた。

表紙には、震える手で書かれた新しい題名。


「観測者の日記」


彼はペンを持ち、少し考えてから書き始めた。


「この世界には、もう“監視”も“観測”もない。

人は自由に笑い、泣き、忘れ、また思い出す。

けれどそれは、何も見られていないわけじゃない。

世界そのものが、静かに人を見守っている。」


ルイはペンを止めて、丘の下を見た。

村が見える。

朝の煙が上がり、子どもたちの声が聞こえる。

その何気ない光景が、かつては“記録”として保存されていたことを思い出す。


けれど今は違う。

誰も、データを取らない。

ただ生きて、ただ感じる。

そのこと自体が尊い。


「……これで、いい。」


ルイは呟いた。

神谷のように世界をすべて見る必要はない。

結衣のように記録を管理する必要もない。

今は、世界を“信じる”だけでいい。


風が吹く。

ノートの端がめくれた。

そこに、かつて神谷が書き残したメモが挟まっていた。


『観測とは、愛の別名だ。』


ルイは静かに笑った。

「ほんとに、あなたらしい。」


丘の上に立ち、空を見上げる。

雲の隙間から、光が降りてくる。

その光は、まるでレンズを通したようにやわらかく広がっていた。


——見られている。


けれど、今は怖くなかった。

その視線に、悪意も支配もない。

ただ、“存在を確かめる”ための眼差し。


ルイはポケットから古びたレンズの欠片を取り出した。

あのとき、子どもの自分が土に埋めた“観測の種”の残骸だ。

太陽の光を受けて、虹色にきらめいた。


「……これが、僕の始まりであり、終わりだ。」


彼はそのレンズを、ノートの上に置いた。

そして、最後の一文を書く。


「見ることをやめた世界に、

それでも光が差していた。

それが、僕の見た最後の記録だ。」


ペン先が止まる。

風がノートを閉じた。

まるで「これで十分だ」と言うように。


ルイは目を閉じ、深呼吸をした。

光の粒が頬を撫でる。

その中に、微かに神谷と結衣の声が混じっていた。


『ありがとう。』

『記録、完了。』


ルイは笑った。

「こちらこそ。」


そして——彼の姿は、光に溶けていった。

草の揺れる音だけが、丘に残った。


ノートは開き、レンズの欠片が太陽を反射した。

その反射光は、まるでカメラのフラッシュのように空へ向かって放たれ、

一瞬、世界のすべてを照らした。


[FINAL RECORD: COMPLETE]

[OBSERVER: TERMINATED]

[OBSERVATION MODE: PEACEFUL]


その光はやがて薄れ、

ただの青空だけが残った。


——観測は終わった。

——けれど、世界はまだ、ここにある。

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