第二話 透明な壁
警視庁・特殊犯罪対策室。
夜十時を過ぎても蛍光灯は白く、空調の音だけが一定のリズムで響いている。
神谷は事件資料を机に広げ、被害者一覧の列を指でなぞった。
四月から六月までに全国で二十七件。
死因不明、外傷なし、時間は十五分ちょうど。
結衣が湯気の薄いコーヒーを机に置く。
「また十五分。偶然というには、きれいすぎますね。」
「“きれいすぎる”現象ほど、調べると泥だらけだ。」
神谷はタブレットを回転させ、グラフを見せた。
「科学班の報告。電磁ノイズは確かに出てるが、人体に影響を与えるレベルじゃない。」
「……直接は、です。」
結衣はカップを両手で包みながら言った。
「視覚情報の経路を刺激できれば、脳は“見ていないもの”を実際に見たと思い込む。
幻覚というより、上書きです。外から映像を送り込むのではなく、脳の中に“映写機”を作る。」
神谷は眉をひそめた。「オカルトの話に聞こえるぞ。」
「理論的には説明できます。
人間の視覚は、網膜で得た情報を一度“欠落させて”から再構成するんです。
だから、信号を一点ずらすだけで、現実が別物になる。
錯覚実験で証明されています。」
神谷は椅子に背を預け、目を閉じた。
「つまり、見せられたものを現実だと思い込んで、心臓が止まる……?」
「恐怖でも、驚愕でも、喜びでも。限界を超えた感情刺激が心拍を壊す。
そして——」
結衣は一枚の写真を取り出した。
「被害者全員の瞳孔。拡大の角度がほぼ同一。
まるで“同じ映像”を見て死んでいるように。」
神谷は写真を見つめ、低く言った。
「同じ映像? 一体何を見せられたんだ。」
「それを調べるために、ある名前が出てきました。」
結衣はファイルを差し出す。表紙には“霧崎蓮”と印字されている。
「元・神経科学研究所主任。視覚認知実験の責任者。
五年前、被験者が実験中にショック死。
彼の研究テーマは——“観測誘導による知覚操作”。」
神谷の目がわずかに細まる。
「観測誘導、ってなんだ。」
「見ることで世界を確定させる、という仮説です。
逆に言えば、“見せる側”に立てば、現実を作れる。
彼はそれを実証しようとして……失敗した。
論文も、データも封印。本人は行方不明。」
神谷は無言でファイルを閉じ、指先で軽く叩いた。
「霧崎蓮。捜索リストには上がってない。今どこにいる?」
「不明です。でも、彼の研究データの一部が、ネット上で再構築されてる。
AI研究者の匿名論文、“Project EYE”。」
結衣はスクリーンを操作し、数式の羅列を映した。
波形が時間軸の十五分間を中心に、微妙に歪んでいる。
「“人間の認識が世界の形を作る”——そう書いてあります。
つまり、この事件はただの殺人じゃない。
世界の“見え方”を乗っ取る犯罪。」
神谷は黙っていた。
資料の端を指で押さえたまま、ふと自分の手が震えていることに気づく。
冷房のせいではない。
昼間、駅前で見た“目”の感覚が、まだ瞼の裏に貼りついていた。
「神谷さん?」結衣の声が遠く聞こえる。
「顔色が……」
「……平気だ。少し、寝不足なだけだ。」
そう言いながら、脳裏にまたあのノイズが走った。
“サッ”という短い擦過音。
誰かが耳のすぐ近くで囁いたような。
見ている。
神谷は立ち上がり、乱暴に机の上の資料を束ねた。
「霧崎蓮の足取りを追う。研究所の残党、全部洗い出せ。」
「了解です。……でも、もし本当に“見せる”力があるなら、
追っている私たちが次の被害者になるかもしれません。」
「上等だ。」
神谷は薄く笑った。
「見せてくれるなら、見てやろう。現実がどうなってるのか。」
結衣はその笑みに何かを言いかけて、やめた。
ただ小さく、呟く。
「——見た瞬間、現実はあなたのものじゃなくなるのに。」
夜は静かだった。
警視庁の窓に映る街の灯りが、まるで“透明な壁”の向こうで瞬いていた。
その壁の向こうには、確かに“誰か”の目があった。
そして、時刻は再び——十七時十五分を迎えようとしていた。




