第二十話 観測なき街
風が吹いていた。
灰色の街。
看板の光は落ち、スクリーンは黒いまま。
人々はスマホを持たない。
カメラも、モニターも、EYE-netもない。
——観測なき時代。
神谷は通りを歩いていた。
瓦礫と新しい草の混ざる道。
店の窓には、鏡の代わりに紙が貼られている。
「視線に怯えない暮らしを」
それがこの街のスローガンだった。
彼は肩に小さなカメラを提げていた。
古いフィルム式。
もう誰も使わない。
それでも、シャッターを切る音が好きだった。
——記録、ではない。
——確認のための“見る”だ。
「おい、兄さん。」
声がした。
屋台の男が、片目を細めて笑っていた。
「そのカメラ、珍しいな。撮るのか?」
神谷は頷く。
「……ああ。人を、少し。」
「変わり者だな。みんなもう撮られたくねぇって言うのに。」
男は煙草に火をつけた。
火の先の赤が、夜に揺れる。
「昔のことを、知ってるんだろ?」
「少しな。」
「おれは知らねぇ。けど、たまに夢で見る。
目が何千もあって、みんなこっちを見てる夢。
……あれ、本当にあったのか?」
神谷は黙った。
風の音だけが答えた。
「たぶん、あったよ。」
男は苦笑いした。
「だよな。あんな悪夢、誰かが作んなきゃ出てこねぇ。」
神谷は空を見上げた。
そこには、空白の太陽が浮かんでいた。
光はあるのに、眩しさがない。
観測のない太陽。
誰の目にも焼き付かない光。
彼はポケットからノートを取り出した。
表紙には、手書きでこう書かれている。
《観測日誌 001》
1ページ目。
ペンを走らせる。
「見ることは、まだ罪ではない。」
「けれど、それが誰かに届く保証もない。」
「だから、僕はこの目で確かめる。」
シャッターを切る。
カシャン。
乾いた音が夜に溶ける。
レンズの向こうに、少女が立っていた。
白いワンピース。
黒髪が風に揺れる。
その瞳が、まっすぐこちらを見ていた。
神谷は一瞬、息を止めた。
(……結衣?)
少女が首を傾げた。
「あなた、撮ってるの?」
「……ああ、つい癖で。」
少女は笑った。
「そんな古いカメラ、初めて見た。」
「最近のは、全部なくなったからね。」
少女は神谷の隣に立ち、
夜の街を見つめた。
「ねえ、あなたは何を見てるの?」
神谷は少し考え、
「“見ること”を、もう一度見ようとしてる。」
少女は小さく笑い、指をさした。
「だったら、あれを見て。」
遠くのビルの屋上。
そこに、微かに赤い光が点っていた。
まるで、監視カメラのLEDのように。
神谷の心臓が跳ねた。
「……まだ、残ってるのか。」
少女は囁く。
「この街には、まだ“観測の亡霊”がいる。
夜になると、あの光が人を見つめるの。」
風が吹いた。
ネオンの欠片が転がり、遠くで電線が鳴った。
神谷はカメラを握った。
「見に行こう。」
少女が頷く。
「怖くないの?」
「怖いさ。けど、知らないままの方がもっと怖い。」
彼は歩き出した。
背後で、少女が小さく呟いた。
「また、見るのね。」
——その声は、結衣のものだった。
神谷は振り返らなかった。
カメラを構え、
赤い光の方へと、歩き続けた。
夜が深まる。
闇の中で、誰かが小さく囁いた。
『記録、再開。』




