第十九話 原初の目
——光ではなかった。
闇でもなかった。
そこに“始まり”と呼べるものは存在しなかった。
ただ、見ているものがあった。
神谷は浮かんでいた。
空間も時間もない。
けれど、自分が“存在している”という自覚だけが残っていた。
(俺は……どこに?)
声に出しても、波が立たない。
音という概念すら、ここにはない。
それでも、何かがこちらを見ている。
最初に生まれたのは、まなざしだった。
形を持たない、視ることだけの存在。
“原初の目”。
『また来たのね。』
声が響いた。
懐かしい。
けれど、その声はもう結衣のものではなかった。
それは、人間が言葉を持つ前からそこにあった声。
見るという行為が最初に生まれた瞬間の、残響。
「……あなたは誰だ。」
『私は“見る”という行為そのもの。
世界が生まれるより前に、世界を見ていたもの。
あなたたちは、それを“神”と呼んだこともある。』
神谷は息を呑んだ。
「じゃあ……俺たちは、あなたの模倣か?」
『そう。あなたたちは“見る者”の断片。
それぞれが小さな目を持ち、互いを確かめるために世界を作った。
それが文明であり、記録であり、愛であり、罪。』
「愛と罪……?」
『同じものよ。
見たいという衝動が、他者を作り、
他者を見ることで、あなたは自分を知った。
でも、やがてそれは“支配”に変わった。』
神谷は黙った。
心の奥で、無数の“視線”が瞬く。
記録、監視、SNS、アルゴリズム。
すべてが“見ること”の拡張だった。
「……EYE-netも、そうだったんだな。
世界を管理するための“愛”であり、支配。」
『あなたは観測を完成させた。
だが、完成とは停止。
見る者が全てを見た瞬間、世界は終わる。』
神谷は苦笑した。
「だから俺は……終わらせようとした。」
『けれど、あなたはまだ見ている。
終わらせることさえ、“観測”の一部なの。』
光が広がる。
その中心に、無数の目が咲いた。
太陽のように輝く“観測の樹”。
一本の幹から枝分かれし、
その先端に、それぞれの世界が瞬いていた。
『見なさい。
これが“観測の系譜”。
あなたの記録も、そのひとつ。』
神谷は手を伸ばした。
一本の枝に触れる。
瞬間、映像が流れ込んだ。
——原始の火を囲む人類。
——天体を見上げる哲学者。
——顕微鏡を覗く科学者。
——レンズを向けるカメラマン。
——監視カメラの赤い点。
——そして、EYE-netの光。
どれも同じ構図だった。
誰かが、何かを、見ている。
『見ることは、生きること。
けれど、見過ぎれば、世界は壊れる。
あなたたちは、その境界を忘れてしまった。』
神谷は目を閉じた。
「……それでも、俺は見たいと思ってしまう。」
『だからこそ、人間は愛しいのよ。』
柔らかな光が降り注ぐ。
その中に、結衣の姿が見えた。
輪郭が曖昧で、声も混ざっている。
「結衣……?」
『私はもう、原初に還る。
あなたも、ここに残る?』
神谷は首を振った。
「俺は……帰る。」
『観測の中へ?』
「いや、“まだ見ぬ世界”へ。」
原初の目が静かに微笑んだ。
『それがあなたたちの特権。
未知を望むこと。
不明であること。』
世界が光に包まれる。
神谷の体が粒子となり、流れの中へ溶けていく。
『行きなさい、観測者。
次の不明へ。』
神谷の視界が反転した。
白が黒に変わり、黒が色を取り戻す。
音が、風が、再び戻ってきた。
——都市のざわめき。
——人の声。
——呼吸。
彼は立っていた。
EYE-netのない、古びた街の一角。
空を見上げる。
そこには、空白の太陽があった。
神谷は笑った。
「……いい。これくらいの曖昧さが、ちょうどいい。」
遠くで、誰かのシャッター音が響いた。
——記録、開始。




