第十四話 欠落
神谷は、目を開けた。
白い部屋。
それだけしかない。
壁も床も天井も、同じ白。
境界線がない。
方向も、距離も、奥行きも、存在しない。
「……ここは、どこだ。」
声は出た。
けれど、それが“音”として耳に届くまで、
少し間があった。
まるで再生機の遅延。
(……再生機?)
その言葉を思い浮かべた瞬間、
頭の中にノイズが走った。
——ザーッ。
痛みはない。
けれど、何かが“削られた”。
思考の一部が、抜け落ちる感覚。
(俺は……何をしていた?)
思い出そうとすると、
その“思い出そうとする行為”ごと消える。
考えるたびに記憶が白く上書きされていく。
壁に影が映った。
神谷は顔を上げた。
そこに、結衣が立っていた。
白衣でも、私服でもない。
何も纏っていない存在。
輪郭だけが光でできている。
「また、目を覚ましたんですね。」
その声は、柔らかく、冷たい。
「……ここはどこだ。」
「あなたの記録領域です。」
「記録……?」
結衣は頷いた。
「あなたは再生されている。
今のあなたは、私の記憶が再生している“映像”の一部です。」
神谷は後ずさった。
「そんなはずはない。俺は——」
言葉が途切れた。
“俺は”のあとが思い出せない。
職業、年齢、家族。
どれも出てこない。
結衣が歩み寄るたび、
世界の白が揺れる。
まるで彼女の輪郭が、世界の枠線を描いているようだった。
「あなたは、もう観測者じゃありません。」
「……じゃあ、俺は何だ。」
「観測された記録。
私が見ていた“あなた”の残像。」
「嘘だ……」
「ほんとう。あなたはもう、“見ること”をしていない。
今のあなたの目は、すでに私の記憶で描かれたもの。」
神谷は頭を抱えた。
指が額に触れる。
だが、その感触が“ズレて”いる。
触れているのに、少し遅れて触覚が届く。
結衣が手を伸ばした。
「触れましょうか?」
「やめろ……」
「大丈夫。痛くしません。」
彼女の指先が、神谷のこめかみに触れた。
瞬間、視界がノイズで満たされた。
頭の中で、何千もの映像が走る。
——取調室、
——大学の研究室、
——白い光、
——鏡の前の自分。
それらが同じ角度から撮られている。
“カメラ”は常に結衣の目線だった。
「見ていたのは、私。
あなたは最初から“被写体”だったの。」
神谷は床に崩れた。
言葉が出ない。
代わりに、記憶が後ろ向きに再生されていく。
——彼女と出会った日。
——最初の事件。
——“霧崎蓮”という名前。
——そして、“神谷遼”という人物登録。
すべての始まりが、
“誰かの手”によって入力されていた。
「……全部、記録だったのか。」
結衣が膝をつき、
静かに彼の顔を覗き込んだ。
「記録は、存在の最も純粋な形です。
あなたが残るのは、悪いことじゃない。」
神谷の唇が震えた。
「残る……?
違う。俺は“生きたい”んだ。」
結衣は目を細めた。
「生きることと、再生することの違いを、
あなたはまだ理解していない。」
その言葉と同時に、
世界の白がひとつ、消えた。
ノイズが走る。
神谷の手が透明になる。
「……結衣。俺は消えるのか。」
「いいえ。
あなたは、“保存”される。」
そして彼女の声が消えた。
世界の色が一枚、剥がれ落ちる。
音も光も、情報に戻っていく。
神谷の最後の意識が、
ゆっくりと“データベース”の奥へ沈んでいった。
——記録完了。
システム音のような声が、静かに響いた。




