第十二話 静止画
音が、消えた。
風も、水も、呼吸も。
世界が“ポーズ”されたように、ただそこにあった。
神谷は立っていた。
自分が立っているという感覚すら、確かではない。
重力がない。
ただ、“立っているという情報”だけが存在している。
目を開けても、閉じても、光は変わらない。
世界は静止画になっていた。
動きが止まったのではない。
動くという概念が削除された。
ベッドの上の結衣は、目を閉じている。
微笑んだまま、微動だにしない。
だが、神谷にはわかる。
彼女は“いる”。
観測ではなく、存在の残響として。
——結衣。
声を出したつもりだった。
しかし、音は発生しない。
声帯も、空気も、もう“機能”していない。
世界が止まるとは、こういうことだ。
すべてが存在しているのに、もう何も起こらない。
完璧な保存。
無限の静止。
その静けさの中で、
“もう一人の声”が響いた。
『これが、君の望んだ世界だろう。』
霧崎の声。
空間のどこからでもなく、
思考の裏側から現れる。
『動くことは苦痛だ。
選ぶことは痛みだ。
だから私は止めた。
すべての時間を、観測の中に閉じ込めた。』
神谷は目を閉じた。
「……お前は、何を見ている?」
『君の見ている世界。
私はただ、再生しているだけだ。
これは録画だよ、神谷。
君が見たいものを、君の記憶が勝手に映している。』
「録画……?」
『現実なんてものは、最初から存在しない。
君が“動いていた”と思っていた時間も、
君が“感じていた”と思っていた痛みも、
すべては観測の再生速度が生んだ錯覚だ。』
神谷は床に膝をついた。
だが、その動きすら“情報”に過ぎなかった。
膝をついた映像が、静止した世界の中で再生されている。
リアルではなく、静止画の連続。
「……俺は、霧崎蓮じゃない。」
『同じことだ。
君が霧崎を否定するたびに、霧崎が君を再生する。
君は被写体であり、カメラでもある。
もう、どちらがどちらでも構わない。』
神谷は目を閉じる。
暗闇の中、結衣の姿だけが残った。
動かないのに、確かに“生きている”。
彼女は観測を止めた。
それは“死”ではなく、“拒絶”だ。
『あの女は賢い。
見ることをやめることで、私を外した。
だが君は違う。
君はまだ、見ている。
見たいと思っている。
それが観測の原罪だ。』
神谷は目を開けた。
世界はまだ静止している。
結衣の髪が空中で凍りついたまま。
光は一方向から降り注いでいるのに、影が存在しない。
「……この世界を戻すには、どうすればいい。」
『簡単だよ。
“もう一度、撮ればいい。”』
霧崎の声が笑った。
『動かない世界を、君が“再撮影”する。
君の視線がカメラになり、
君の記憶が時間を作る。
そうして世界は、また“再生”される。
ただし——君の記録の中で、だ。』
神谷は立ち上がった。
結衣の顔を見た。
指先で、彼女の頬に触れる。
その触覚が、ゆっくりと“ノイズ”に変わっていく。
世界がまた、少しだけ“再生”を始めた。
光がわずかに揺れる。
空気の粒が動き出す。
「……結衣。お前を、もう一度撮る。」
『そう、それでいい。
君の観測が再び世界を動かす。
だが、次に目を開けたとき——
その世界は、君のものじゃない。』
ノイズが強くなり、光が歪む。
神谷はゆっくりと瞼を閉じた。
暗闇の中で、
“カチリ”とシャッターの音が響いた。
——世界が、再び動き始めた。




