第十話 観測者
ガラスの割れる音で、すべてが終わったと思った。
だが——世界は、何も変わらなかった。
割れた鏡も、倒れたベッドも、すぐに“元に戻った”。
まるで時間が巻き戻されたように。
神谷はしばらくその場に立ち尽くしていた。
目の前のベッドには、眠ったままの結衣がいる。
心拍モニターは正常。
しかし、瞳の奥には微細な動きがある。
夢を見ているのではない。何かを見続けている。
「……まだ、向こうにいるんだな。」
神谷は小さく呟いた。
机の上にノートパソコンを開く。
そこには霧崎蓮が残した研究データ。
Project EYE——観測理論の最終章。
『観測とは存在の確定であり、同時に消失である。
見る者がいなければ、世界は存在しない。
だが、見続ければ世界は壊れる。』
神谷はページをスクロールした。
そこに、自分の名前が記されていた。
「実験被験者 No.04:神谷遼」
指先が止まる。
その下に、霧崎の署名。
そして小さく書き加えられた一文。
『観測者は、観測を止めることができない。』
神谷はノートを閉じた。
深呼吸をして、結衣の顔を見つめる。
「……止めるしかないんだ。」
彼は部屋の照明を落とし、
机上に並んだモニターを一つずつ消していく。
心拍計、脳波計、記録装置。
ひとつ消すたびに、部屋の音が減っていく。
世界の“観測の数”を減らすように。
残ったのは自分の目だけ。
「見るな」と言いながら、
自分が最も彼女を“見てしまっている”。
その矛盾が、彼を壊していく。
神谷は手を伸ばし、
自分の眼球に指を押し当てた。
瞬間、視界が白く弾け、ノイズが走る。
だが痛みはなかった。
代わりに、音が消えた。
静寂の中で、結衣の声が聞こえた。
——『見て。』
「……結衣?」
——『あなたが見なければ、私は消える。』
神谷は震えた。
「お前は今、どこにいる?」
——『あなたの視線の先。
でも、“見る”という行為が、私を固定している。』
神谷は頭を抱えた。
見ることが存在を保ち、
同時に存在を壊す。
霧崎の理論そのままだ。
(俺は、何を見ている? 結衣か、それとも——霧崎か?)
鏡の破片が床に落ちていた。
そこに、自分の顔が映る。
だが、その表情は自分のものではない。
口角が上がり、笑っている。
『観測者は二人いらない。』
霧崎の声。
そして鏡の中の自分が、ゆっくりと動いた。
破片の中で、もう一人の神谷が立ち上がる。
神谷は反射的に銃を構えた。
「出てくるな。お前は、俺じゃない。」
『違う。
私が見ている“お前”が、観測されている側だ。』
銃口が震える。
世界がわずかに歪む。
部屋の奥の時計が一瞬だけ、音を止めた。
その刹那、ベッドの結衣が微かに動いた。
まぶたが震え、唇が開く。
「……神谷、さん……?」
彼は銃を下ろした。
「結衣、戻ったのか?」
結衣はゆっくりと首を振った。
「戻ってません。……あなたが、来たんです。」
神谷の喉が詰まった。
結衣の目が、鏡のように反射していた。
そこに映るのは——“霧崎蓮”の顔。
『ようこそ、観測者の側へ。』
そして世界が、また一段、静かになった。




