第九話 反転
目を開けると、そこは“同じ病室”だった。
同じ天井、同じ匂い、同じ光。
だが——静かすぎた。
電子音が鳴らない。
点滴の滴下が止まっている。
窓の外には、風景が裏返ったような都市が広がっていた。
建物の文字が左右反転している。
人影が歩いているが、足音がしない。
結衣はベッドの上で身を起こした。
心拍モニターはついていない。
代わりに、壁の鏡がひとつ、部屋の中央に掛けられている。
鏡の中——そこに“神谷”がいた。
白衣ではなく、黒いスーツを着ている。
髪も、短く整えられている。
だが、その目だけは確かに彼のものだった。
「……神谷さん?」
鏡の中の男が、微笑む。
だが、口の動きが遅れている。
『ここが、もう一方の世界だ。』
声が、直接頭に響く。
耳からではない。
まるで脳の中で再生されるような声。
「もう一方……?」
『君が“見た”瞬間に、世界は折り返した。
ここは、観測された側——つまり“視られている現実”だ。』
「じゃあ、私のいた世界は……?」
『まだ君が眠っている。
眠っている君を、誰かが見ている。
見続ける限り、そちらは存在し続ける。』
結衣は鏡に近づく。
指先がガラスに触れると、冷たくも熱くもない。
ただ、**“深さ”**があった。
触れた瞬間、ガラスの向こうに引かれるような感覚。
「あなたは、霧崎蓮ですね。」
『その呼び名を使うのは、久しぶりだ。
君の世界では“神谷”と呼ばれていた。
でも、どちらも間違いではない。
私は“観測そのもの”だから。』
「……観測?」
『見られたものが世界を確定させる。
だが見続けられれば、世界は崩壊する。
君たちは見られる側でい続けた。
だから今、反転が起きた。』
結衣は息を呑んだ。
「見られる側が、見る側になった……?」
『そう。君はいま、私を見ている。
だから私は、形を持たざるを得ない。』
鏡の中の霧崎が、ゆっくりと手を伸ばす。
指先がガラスを突き抜け、空気の中へ。
冷たい風が結衣の頬を撫でた。
「どうして、そんなことを……?」
『知りたいと思ったからだ。
“見る”ことが命を与えるなら、
“見すぎる”ことで命を奪えるはずだ。』
その言葉と同時に、鏡の縁から黒い液体のようなものが滲み出した。
それは床を這い、壁を登り、部屋全体を包み込む。
まるで現実の表皮が剥がれていくようだった。
「やめて……!」
『君には資格がある。
君だけは、私を“見返す”ことができる。
だから、君をこちらに呼んだ。』
黒が天井を覆う。
光が消え、世界が無音になる。
鏡の中の霧崎が、もう一度口を動かした。
『——見つめ返せ。そうすれば、世界は君になる。』
結衣の視界が一気に反転する。
床と天井が入れ替わり、
左右が反対になり、
全ての音が後ろ向きに流れた。
——気づく。
自分が“鏡の中”にいる。
向こう側、現実の病室では神谷が立っていた。
その目が、こちらを真っ直ぐに見つめている。
微動だにせず、口だけが動いた。
「結衣、もう一度戻ってこい。」
彼の声が届いた瞬間、
ガラスがひび割れた。
世界の境界が、崩れはじめた。
結衣は息を吸い込む。
“見る”か、“見ない”か。
選ばなければならない。
次の瞬間、
彼女は鏡の奥へ、静かに手を伸ばした。
——世界が、入れ替わった。




