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プロローグ
雨は降っていない。
けれど、街の匂いは濡れていた。
六月の終わり。
午後五時十五分。
その時間にだけ、世界が少しだけ止まる。
男は、駅前のベンチに座ったまま動かない。
通行人の誰もが気づかない。
彼の胸は、もう動いていない。
外傷はない。
苦しんだ跡もない。
ただ、目だけが大きく見開かれていた。
——何かを「視た」まま、死んでいた。
周囲の音が、遠くに霞んでいく。
スピーカーの呼び出し、踏切の音、車のクラクション。
それらが、まるで誰かの手によって一瞬だけ“消された”ように感じる。
通報者は言った。
「笑ってるみたいだったんです」
「いや、怖がってたのかも」
「……でも、誰もいなかった」
警察が現場を囲む。
テープが張られ、カメラが向けられ、人々が集まる。
誰もが小さく息を呑み、同じ言葉を呟いた。
「また、十五分だ。」
被害者のスマホには、未送信のメッセージが残っていた。
『目がある。透明な壁の中——』
午後五時十五分。
またひとつ、世界が止まる。
そして、どこかで誰かが——笑う。




