始まりの予感
これは私がまだ幼かった頃の話だ。
父の仕事場に遠方からの客たちが訪れた。
その客たちは見たこともないような形の衣をまとい、聞いたことのない言葉で話していた。だが、その中に父とどこか似た顔立ちの見慣れない男を見つけ、私は息を呑んだ。そういえば、父には海を越えた双子の兄がいると聞いたことがあった。もしかしたらあれが伯父なのかもしれないーそう思った瞬間、父が声を上げた。
「兄上!」
駆け寄った相手は、父の兄一やはり私の伯父だった。
そして私は、伯父が若い頃に日本へ渡り、仏教を学んでいたことを改めて知った。
「この方々は...?」
「ああ。私が日本で世話になった者たちだ」
父が頭を深く下げて挨拶を交わすと、感慨深げに語り始めた。
「私は、公の交易よりも私的な商いの方が、よほど儲けが大きいと思っておりました。しかしこの乱れた世でまさか、こうして日本の方々と再びお目にかかれるとは。これもすべて、兄上とあなた様方のおかげにございます。」
───
伯父は、唐での滞在期間も日本から来た使節たちと行動を共にし、彼らの言葉を自在に操りながら、通訳をこなしつつ、楽しそうに歓談していた。
「唐と日本をつなぐお役目をいただいたのだ」
そう笑う伯父の顔は、誰よりも幸せに満ちていた。
その日を境に、私たちの家には日本の人々がよく出入りするようになった。
父は彼らと談笑し、母は食卓で彼らに唐の食べ物を振る舞った。
大人たちの会話に混ざれない私や兄妹たちはといえば、彼らの持ち込んだ日本の珍しい品々に目を輝かせていた。
───
「これば"あと読むんだよ。声に出してごらん」
伯父が筆を走らせ、紙に曲線を描く。
「...あ」
私が真似ると、伯父は嬉しそうに笑った。
「そう、その調子だ」
日本語の音や文字の形は、私にとって新しい遊びのようだった。けれどそれは遊びだけでは終わらなかった。伯父が時折、静かに日本について語ってくれたからだ。
「日本は海に囲まれ、春には桜が国を染める。秋には紅葉が燃えるように美しい」
「唐のように大きな都はないが、人々は素朴で情け深い」
「ここからはうんと離れているけれど、不思議と心がやすらぐ国だよ」
伯父の話を聞きながら、私はまだ見ぬ国を想像し、思いを馳せた。
海の向こうにあるという「日本」。そこでは春に桜が咲き、秋に山々が紅に染まる一。
その話に私だけでなく兄妹たちも耳を傾けていた。兄は「刀や馬はあるのか」と目を輝かせ、妹は「日本の桜を見てみたい」と笑った。伯父はそんな私たちを見て目を細めた。
「いつか、自分の目で見に行けばいい。言葉を知っていれば、きっと困らないはずさ」
その一言が、私を突き動かした。兄も妹も一生懸命日本語を学んでいたが、彼らは次第に興味を失っていった。故に、誰よりも日本の文化に夢中になっていたのは、他でもない私だったのだ。
今にして思えば、あの日々は偶然ではなかったのかもしれない。
伯父が遣唐使らと海を越えて帰ってきたことも、日本の文化と出会えたことも。
それらすべてが、私を海の向こうへ導く"運命の始まり”への手引きとなったのだから。




