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苦手な方はご注意ください。

人斬り無迅シリーズ

人斬り無迅と呪いの姫君

作者: 田中一義

 人斬り無迅シリーズ

 『人斬り無迅と悪夢を見る少年』 https://ncode.syosetu.com/n3677ga/

 『人斬り無迅と妖刀シャガ』 https://ncode.syosetu.com/n8378gs/

 『人斬り無迅と三途の使徒』 https://ncode.syosetu.com/n3947hg/

 『人斬り無迅と神秘の赤花』 https://ncode.syosetu.com/n5066hp/

 『人斬り無迅と悪霊の影』

https://ncode.syosetu.com/n9374hv/

 上記の続きものなので先に読まないと分からないところも多いかと。













 不老不死の実現を野望とする悪役について少年は考える。

 大昔の中国の皇帝もそうなりたかったんだっけ、とも考える。

 しかし――不老はともかく不死ってどうなんだろうと彼らは考えなかったのか、と素朴に考える。

 例えば本当に何をしたって永遠に、それこそ限りなく生きられるのが不死というものだとして。もし、天変地異で地球がとても生きていられないような環境になってしまっても生き続けなければならないのなら、どうだろうか、と。その環境に適応して苦しまずに生きられるようになるのか、人なんて生きていけない環境に永遠に苦しみながら死ねないという末路になるのか、あるいはそれらを苦にしなかったとて、他に同じような不死のものなんていないのだから最後は1人ぼっちになってしまい、最期というものもなくて永遠の孤独になるのではないか。――不老はともかく不死ってどうなんだろう、と思ってしまう。

 死んでしまうことが怖いのは確かに分かる。

 けれど安易に不死というものになりたいとも思えない。

 どちらにしたって恐ろしいことに違いがないのだから。


 そんなことをリオ少年は、もしかして自分がそうなのではないかなんて不安からよく考えている――。


 ▽


 水平線を眺めながら、ずっと海沿いの道を歩いている。

 ここがどこかも分からないまま、反対方向かも知れないという疑念に怯えつつも歩き続けている。

 この異なる日の本へ飛ばされてどれくらい経つだろうと、静かにリオは考える。夏を迎えて、それが終わった感覚はある。暦は分からないが、もうすぐ冬になるのだろうという気配は感じている。この異なる日の本というところに来て半年か、それより少し長いほどかと考える。

 たったそれだけの時間なのに、随分と変わったものだなと海岸沿いに一本だけ生えていた立派な松を眺めて考える。

 最初は妖刀を一本だけだった。素っ裸だった。

 妖刀には悪霊の無迅が宿っていて、最初はどうにか無迅をお祓いとかで成仏させなければと思っていた。

 しかし、気がつけば無迅には心を開いてしまっていた。どうしようもない、人斬りの悪霊でしかなかったのだがリオの価値観を根本から変えて、その死生観に感化されてしまった。憎めない悪霊だった。デリカシーはないし、人の気にしていることをずけずけ口にするし、挙句に勝手に体を奪って好き勝手振る舞うどころか、他人の体で殺し合いを始める始末ではあったが――それでも無迅との出会いがなければ、と考えると恐ろしくなる。

 そしていきなり無迅は消えてしまったが、少年の中にまだ残滓のようなものが残っている。

 それは刀を振るう時に幻視することができる。命の取り合いをしている時に感じることができる。ふとした時に、無迅の言葉が脳裏に蘇る。

 二代目無迅の名前ももらった。

 積極的にはそれを名乗らないまでも、人斬りとして――自分の意志を通さなければならないと感じた時は、その名を口にして自分を鼓舞する。無迅という名を欲しがって、二代目として許してもらったのだからみっともないことはできないのだと。


 しかし思うこともある。

 果たして人斬りとは、剣客とは、どうやって稼ぐものなのかと。

 きっと腕っぷしを頼りに、用心棒みたいなことをするのだろうというほわほわした想像はあるのだが、そもそもどんな人間が用心棒なんて欲しがるのかと思ってしまうのだ。

 勝手なイメージでは極道とかの反社会的な人々に需要があるんだろうかと考えるが、そういった人は絶対に苦手だから関わり合いになりたくないと思ってしまう。


「ねえあんちゃん、おいら疲れた……」

「僕も疲れた……。休もっか」

「うんっ!」

 ほたるは旅の連れの自称・少女である――のだが、リオはまだ信じられないでいる。

 男の子と見間違う要素はいくつもある。特別に珍しくもない、うなじの辺りで伸び放題の髪を縛って、ちょこんと小動物の尻尾めいた髪の房を作っているところ。薄汚れている着衣は裾が短くて擦り切れており、平気で大股で座り込んだりするので褌も丸見えになることが多々あること。何より言葉遣い。そして数えで11歳と言い、まだ男女の違いが体にも現れていないということ。

 本当はやっぱり男の子じゃなかろうかとふとした拍子に思うが、仮にそうだったとしたら――女だと嘘をつく理由が何も分からない。恐らくだが、女の子が男の子と騙るより、男の子が女の子と騙る方が色々と憚られそうなものである。ましてほたるは不安になるほど単純で快活な性格なので、本当に男ならば女の子扱いどころか、女と自称することに大きな拒否反応を起こしそうでもある。

 だからやっぱり自称するように本当は女の子なのだろう――という理屈でしか、リオはほたるを女の子として認識していない。

「蛇の目の山城であんちゃんが持っていこうとした神器……だっけ? あれ、全部、置いてきちゃったな」

「ああ、そういえばそうだね……。でも澄水があれば、それだけでいいよ。元々は澄水を直すための引き換えに神器が欲しかっただけだし……。それにちゃんと、生きてる。僕もほたるもね」

「あんちゃん、あいつと……おっかあの仇のあの男と因縁があったの?」

「うん。……あれで三度目。四度目があれば、多分、その時こそどっちかが死んで、決着がつくだろうね」

 浜へ流れ着いていた流木へ腰を下ろして、リオは帯から抜いた澄水を流木へ立てかける。

 ほたるはその白鞘の刀を見て、おもむろに手を伸ばした。ほたるなら良いかと思ってリオは黙って触らせる。刀を抜こうとしてほたるが柄を握って引いたが刀身は姿を見せようとしない。糊づけでもされたかのように、あるいは最初から一本の棒であるかのように刀は抜かれようとしない。

「んんっ……んっ……! あんちゃん、これ、壊れちゃった?」

「澄水はね、抜ける人と抜けない人がいるんだよ。ほたるは抜けないみたい」

「じゃああんちゃん抜いてよ」

「……いいよ」

 ほたるが鞘を持ちながら差し出したので、リオは柄を軽く握って引き抜いた。

 水を打ったかのように濡れて見える美しい刀身が露わになってほたるが目を丸くする。

「あんちゃん、抜けちゃった……。あんなに固かったのに。……綺麗だね、あんちゃんの刀」

「うん。欲しがる人もいっぱいだよ。……だけどこれは僕のものだから、誰にも渡さない」

「澄水だっけ? これ、あんちゃんみたいだね」

「……どういうこと?」

「こんなに綺麗なのに、あんちゃんが使うとすっごく強い刀なんでしょ?

 あんちゃんと似てるよ。ほんとは強い! でしょ?」

「刀がなきゃ、僕なんてただのもやしだよ……」

 澄水を刀に納めて立てかけ直すと、ほたるはリオの横へ座ったままこてんと体を倒してリオの膝に頭を乗せた。手持ち無沙汰なので何となしにリオはほたるのごわごわしている髪を撫でる。

「お腹すいた……」

「それは言わないの……」

「あんちゃんって、13だっけ? それにしちゃ、まだ大人じゃないよな。おいらは好きだけど」

 膝の上に頭を乗せたまま仰向けになり、ほたるが手を伸ばしてリオの頬を軽くつまむ。

「はいはい、そうですね……。ほたるは女の子なら、ちょっとは女の子らしくしたらどうですか」

「だってこうやって旅歩きする時は、舐められないように男だって言った方がいいっておじちゃんが言ってたんだもん。1人だったら男のふりしろって」

「……一応、理由あったんだね」

「あんちゃん、おいらのこと何だと思った?」

「いやあ、ほら……うん、これでおしまいにしとこうよ」

 顔をしかめるほたるを見て、それ以上言わせぬ内にリオはお返しとばかりに彼女の頬を軽くつまんで引っ張っておいた。痛くはない程度に、しかし喋ろうとすればふがふがする程度に。ほたるが思わず笑って、身をよじる。よし流れた、と確信してリオは手を放す。

「ねえあんちゃん、あんちゃん。鶴柴に着いたら、おじちゃんとおばちゃんにおいらから言ってあげるから、ゆっくりしてって」

「ゆっくり?」

「うん、おじちゃんとおばちゃん、浜屋って宿やってんだ。だからあんちゃんのこと泊めさせてあげるからな」

「正直、助かるかも……? まあでも、うーん……迷惑じゃなさそうだったらね」

「そしたら鶴柴に着くまで、あんちゃん、おいらのあんちゃんね? ふりでいいから。ね、ねっ?」

「ふりって……」

「いいでしょ?」

「ま、まあ……別にいいんだけど、その場合は、ほたるは……妹? 弟?」

「……妹?」

「あ、そこは女の子でいいんだね……」

「だってあんちゃんがいたら、別に男のふりなんかしなくていいもん」

「……でもふりとかじゃなくて、ほたるって女の子っぽくはなくない?」

「うっさいやい」

 自覚はあったらしいと知り、リオは苦笑いをしておいた。

 よっ、と声を出しながらほたるが起き上がってリオの肩に頭を寄せるようにしてしなだれかかる。

「風が出るとちょっと寒い……」

「そうだね……。もうすぐ冬かな」

「その前に鶴柴に帰りたいけど遠い?」

「いや僕に尋ねられたって知らないから……。ここがどこかさえ、分かってないわけだし……。近いといいんだけど、どうなるやら」


 神社から妖刀を拝借した瞬間、神様に無礼だったらしくて別の日本っぽい、ついでに文明レベルも低い世界へ飛ばされた。

 それから紆余曲折を経て――ほたるの母の仇と、リオが殺していいならそうしたいと思うほどの男が同じだった。そして運が良いのか、悪いのか、出くわし、しかし決着はつかなかった。ほたるとは先に故郷まで送ると約束をしていたので、その鶴柴というほたるの故郷へ向かうのが現状の目的だが、蛇の目という敵のせいで見知らぬところへ強制的に飛ばされてしまって今に至る。

 これから鶴柴までの道は何も分からず、何なら食べるものもなく、飲み水さえも持っていないという状況でもある。

 どうにかのんびり構えられているものの、冷静に考えてしまうとかなりまずい状況でもある。本当はリオだけだったならそれなりに焦っていたのだろうが、ほたるがこの状況への危機感というものを持っていないため、引っ張られるように焦燥感が薄れてしまっている。

 とは言え、このまま何の考えもないままというのもまずい。

 早めにどうにかしたいと思いつつ、空腹のせいでどうも気力が起きない。

「ねえあんちゃん」

「はいはい、何ですか」

「腹減った……」

「漁師の娘なら、ちょっとそこの海で何か獲ってきてよ……」

「できるか」

「ま、そうだよね……。休憩おしまい、そろそろ行こっか。早く人に会いたいね」

 流木から立ち上がって澄水を腰に差す。そうして海を眺めてから、海沿いの道へ足を向けた。


 その日は結局、誰とも合わぬままにとぼとぼと歩いて夜を迎えた。

 翌朝にぽつりと佇む民家を見つけると、思わずリオとほたるは顔を見合わせた。

 小さな農村だった。しかし畑は収穫期のはずだというのに、ひょろひょろと枯れたような稲穂が何本か生えている程度でしかなかった。もしかしたらありつく食料そのものがないのではないかとリオは嫌な胸騒ぎを覚えたが、ほたるに引っ張られるまま村の中へと走った。

「どっかメシ、食わしてくれるとこない?」

 村の中心部と思しき、2本の道が交差する広場のようなところでほたるが足を止め、走らされて脇腹を押さえるリオを忘れたように離れて、道端で静かに鎌を研いでいた老人へ声をかける。しかし老人は目だけでほたるを見ると何も答えずに鎌を研ぐ作業に戻る。細すぎるほどの腕で、しゃり、しゃり、と泥と錆まみれの鎌を研ぐ姿にほたるもそれ以上何も言えず、別の村人へ同じように声をかける。

「ねえおばちゃん、どっか、メシ食わしてくれるとこない?」

「そんなもんないよ……」

 やはり痩せすぎているような、髪も薄い中年ほどの女に言われてほたるは目を見開く。

 ようやく息を整えたリオがほたるの肩を後ろから両手で掴み、それで自分の体を支えるようにしながら口を挟む。

「あの、ちょっとですけど銭はありますし……もう、3、4日はほとんど飲まず食わずみたいなもので……どうにか、何か恵んでもらえないですか……?」

「ないって言ってるだろう……。米の一粒も、芋の一欠片も、この村にゃ残ってないのさ……」

「み、水だけでも……」

「……井戸も枯れてるよ……」

 そんな、とリオは絶望を知った。ほたるも唖然とし、リオにかけられていた体重を支えられなくなって膝から崩れ落ち、揃って2人ともその場で座り込む。

「どう、して……そんなことに……?」

「今ごろ……こんなことになったバカ親子のとこへみんな向かってるよ。あっちだから、気になるなら行ってごらんよ……」

 女は終始、スレたような細い目をしていた。

 顎でしゃくられた方へリオは立ち上がることもままならず、四つん這いになりながら向かう。ほたるはどうにか立ち上がり、情けないリオの腕を引っ張って立ち上がらせた。

 道の端の方の家の前に十数人の村人が集まって何か叫んでいた。

 それは攻撃的な、他人を責め立てるような言葉ばかりで、リオにはとても苦手な空気感が醸成されていた。


「もう一刻も猶予ならねえんだ!」

「そうだよ、うちの子だってもう……!」

「みんなが自分の腹を切るような気で差し出してきたんだ! あんただけ許されるなんて思うんじゃないよ!」

「今日という今日こそは、力ずくだ!」

「あんたがいくら腕自慢だろうがね、そんだけ弱ってりゃあ、これだけの数がいればどうにもなるんだよ!」

 その小さな小さなあばら屋の前には人々が詰めかけて攻撃的に言葉を吐き出している。そして彼らの言葉を一心に受け続ける、大きな体の男が戸口の前でずっと土下座をして額を地面に擦りつけていた。閉められている戸の蓋をしているとばかりにその男は膝を畳んで居座り、しかし罵詈雑言を浴びせられても耐えるかのようにずっと額を地面につけている。

 そこで今日こそは、とばかりに村人の中から数人の男が土下座をし続けている男へ近づいた。4人だった。4人がかりで大男を持ち上げてどかそうとしたのだが、脇の下へ腕を回されて左右それぞれ2人ずつで持ち上げようとしても大男は必死に腕を上げられぬようにと耐えている。見兼ねてさらに3人ほどが加勢しようとしたがそれでもどかすには至らず、とうとう、その中の1人が大男の下げられている頭を草履で踏みつけた。何度も何度も踏みつけるが、太い首に支えられた頭はずっと地面とキスをするばかりで剥がれない。

「この……!」

「流れもののくせに!」

「あんたら親子があれを呼んだんじゃないのかい!?」

「もう大人しくなんてできないんだ!」

 それはもう、リンチの様相を呈していた。

 たった1人の男を大勢の男女が取り囲み、蹴ったり、踏んだり、手にしたもので叩きつける。

 それでも大男はずっと土下座をしたまま耐え続けている。どんな暴言を吐かれても山のように動かない。

 ほたるにぎゅっと手を掴まれ、リオは我に返った。ちらとほたるを見れば怖がるように神妙な顔でリオの手を握って身を寄せている。見ていて気持ちの良いものではない。しかしこれほどの彼らの怒りの理由が分からない。どっちが正しいかなんて今、この光景に立ち会っているリオには分かりようがない。

 それでも見ていられないという気持ちは強くなってくる。

 果たして無抵抗の人間を、どんな理由があれども大勢で嬲ることに正当性があるのだろうかと。しかしこれがもし罪人であったならば、それも1つの罰として許されるのかも知れない。――そんなことをぐるぐると頭の中で思考する。


『いいか、覚えておけ。俺はオイラァ、人斬りだが殺し屋じゃあねえ。刀は持つが侍じゃあねえ。

 斬るべきは斬りてえもんだけよ。てめえの斬りてえもんを、片っ端から斬っちまいな。

 その人斬りが頼られてよ、無力でバカで度胸もねえような連中の、溜飲を下げてやれるもんになりゃあ、それが立派な剣客ってえもんよ』


 悩んでいた頭の中へふっと、かつての悪霊の言葉が蘇る。

 そもそも悩むことはなかったはずだとリオはほたるの手を離し、腰の刀に手をかけた。ゆっくりと澄水を抜き放ち、そして大男に群がり、暴行を加える人々へ近づく。まだ、彼らは気がつかない。誰もが大男への暴行に必死だった。

 息を吸い、リオは脳裏に彼の姿を思い浮かべて。

 しかしやっぱり、自分はあんな人間にはなれないだろうとどこか冷静に思った。威勢よく、人を退かせるだけの言葉を並べ立てることなんてできないだろうと思えた。

「あの、すみません! すみませんが、今にも倒れそうなくらいお腹が空いてるので、何か食べもの持ってきてください! じゃないと、斬ります!」

 暴行の輪の中の外側にいた村人がそんな声に振り返り、リオを見てたじろぐ。

 しかしその程度でリオの声は誰もには届いていなかった。何か情けないとほたるは額を押さえる。しかし、その直後に血が舞って、悲鳴が上がった。本当にリオが容赦なく刃を振るっていた。

「うああっ!? な、何だ、小僧!?」

 切りつけられたのはリオの言葉に気がついた痩せぎすの男で、彼の悲鳴と困惑しきった言葉にようやく彼らはその存在に気づく。血を刀の先から滴らせる、元服前にしか見えない小さな少年の姿に。

「だから、お腹減ってるんで何か持ってこないと斬り殺すって」

「そんなもんあるか……! この木偶のせいでこの村は畑も、水も全部枯れたんだぞ!」

「本当に何もないなんて信じられないので!」

 さらにリオは刀を閃かせ、人々を斬りつける。ほたるは飢餓でリオがおかしくなったのだと勝手に決めつけかけたが、切られた人々がいずれも血を流しはすれど、ほんの軽傷でしかないということに気づいた。リオの戦いを間近で見たほたるはそれが凄まじい違和感に見えて、脅す程度にしか傷つけてないのだと知った。男も女も関係なくリオは刀を振り、それでも何もないと彼らは叫び逃げ出していった。

 暴行は彼らの解散をもって終わり、リオは刀の血を振り払ってから鞘に納めると、本当に空腹のせいでお腹を押さえながらその場で倒れた。しかしその小さめの体を、大男が太い腕で支えた。

「あんちゃん! 何してんの?」

「いやだって……」

「おっちゃん、へーき? 何であいつらにいじめられてたの?」

 リオに駆け寄ったほたるは尋ねておいてまるで返事など聞かぬかのように、大男に尋ねる。

 ずんぐりとした贅肉と毛とに覆われた大男はほたるに心配されるように問われると、リオをゆっくりその場へ座らせる。

「助けてくれただか……?」

「できれば……お礼に何か……」

「……食べさして、おっちゃん」

「中、入るだよ……」

 ゆっくりと大男は立ち上がって、戸を開ける。何か食べられると、目を輝かせてリオとほたるは互いの顔を見た。

 小屋の中へ通される。土間の奥に板張りの小さな部屋。そこに敷かれたボロボロの布団にほたるよりも小さな子が臥せっていた。

「おらは猪八(いのはち)……。ありがとうな……。つまんねもんしかねども、()

 土間の竈から鍋を取って、それを持ちながら猪八と名乗った大男が部屋に上がる。リオとほたるもそれに続くようにして上がると、猪八は鍋を置いて蓋を取った。それから木の匙を2つ出して渡す。とろとろした具らしいものがない粥――めいたものに見えた。それでもリオもほたるも、鍋へ匙を突っ込んでただひたすら口へ運ぶ。

 数日ぶりのまともな――とは少し言い難い――食事は、ただその事実だけでおいしかった。味がないとか、何か臭みがあるような気がするとか、そんなことを気にする余裕もなかった。


 ▽


「リオとほたるか。鶴柴なんて聞いたことねえど」

「そっかぁ……」

 大して量のあったものではなかった粥もどきを汁の一滴まで逃さぬようにと完食するのに時間はかからなかった。

 それでも食べられたことで多少の余裕はでき、ほたるは鶴柴に帰ろうとしていることを猪八に喋ったのだが、現在地も鶴柴の場所についても分かることはなかった。

「おっちゃん、その子はおっちゃんの子?」

「……んだ。……だども、おらの本当の子じゃあねど」

「どーいうこと?」

「新八郎のほんとのおっとうは病でくたばっただ。おらはその後で新八郎のおっかあと夫婦になっただ……。だども、おいわも去年の暮れに死んだだ。おいわは……おらの全部だっただ。……おいわの大切だった新八郎は、今のおらの全部だ」

 複雑な家庭事情にリオはコメントができず、咥えていた匙からいい加減、何も味を感じられないと諦めてそっと置いた。

「だども新八郎も……長くねだ」

「病?」

「んだ……」

 苦しげな、ヒューヒューという呼吸をしながら新八郎はずっと眠り続けている。その血の繋がらない我が子の頭を大きな手でそっと猪八は撫でた。その顔には諦念による寂しげな色が浮かんでいる。

 こんな踏み込んだことを質問したってどうにもならないのだから、ほたるのこの質問攻めをやめさせた方がいいだろうかとリオは考えた。

「じゃあおっちゃん、さっきどうして、あんなにいじめられてたの? おっちゃん、悪いことしたの?」

「ほたる……そんなこと」

「この村は今……呪われちまってるだよ」

「のろ……?」

「畑も水も枯れただ。……今年はよく実ってたども、出ただ」

「で、出たって……」

 幽霊とかオバケだろうかとリオは怖くなる。そんなものいないと頭で否定していても、それでも怖くなってたまらないのがリオである。ほたるも神妙な顔をして猪八の話に耳を傾けている。

「鉢割れの狐の呪いだど……。そん狐、村にきて初めに乳飲み子食い殺しただ。数日ぶりにきて、だんだん大きなもん食うようになっただ。乳飲み子の次は2歳の子、そん次は6歳になったばかりの女の子だっただ。村のもんはその狐を捨ておけねども食われちゃたまらん言うて、おらに退治しろと言っただ。おらぁ、よそもんだったども、狐を負かせば村のもんに入れてもらえると思っただ。新八郎が食われねかも怖かっただよ……。まさかり担いであっちの山()って鉢割れの狐見つけただ。逃げられちゃたまんなかったども、おらに向かってまっすぐ噛みついてきただ。引き剥がしてまかさり落として首すっ飛ばしたども頭だけで浮かんだだ。そいでおらに言うた。――肉のやらかい子を捧げねど祟る」

「……狐の、呪い?」

「村のもんにおら言うたど。でんも気味悪がるだけだった。そいである朝に、畑さ見たら……青々としてた畑がぜぇんぶ、枯れちまってただ。……井戸はその次の日に枯れたど。与四郎って親のおらん子がちいちゃいおにぎり持たされて、そいで狐の体埋めた塚に送られただ。そうすっと井戸に少し水が戻っただ。だどもすぐまた枯れた。また親のおらん子から塚に行かされただが……おらんようになって、とうとう、熱出して死にかけの子、そっから、頭おかしな子と狐の塚に置き去りにされてったど。……そんで今度は、新八郎の番だど」

 聞きたくなかったとリオは後悔する。猪八が続ける言葉の内容に察しがついてしまった。そんな残酷なことがあるだろうかと思ってしまう。

「おらは新八郎を狐にやりたかねえ。……絶対だど。……長くねこと、分かってるだ。だども狐に食わせるなんてあんまりだ。おら、体の丈夫なことだけが取り柄だ。……のろまで、頭も良くねども、おらをおいわは拾ってくれただ。そいで夫婦になってくれただ。……新八郎はおいわの残してくれた、おらの子だ。おらのほんとの子でなくとも、おらの子だ。守るど、何があっても」

「おっちゃん……」

「前の子が狐に食われて……もう20日になるど……。こっそり隠し持ってるもんもみんな尽きてるころだど。……おらも、さっきのでもう、のうなったど」

「えっ……」

 最後に残っていたものをもらってしまったという事実にリオはゾッとする。

「だども……新八郎連れてかれなかっただ。ありがとう、リオ、ほたる」

「ううん、おっちゃん、オイラもおっちゃんが正しいと思う。おっちゃんも最後のメシだったのに分けてくれてありがとう」

 力ない笑みを浮かべて礼を述べた猪八にほたるは純粋に言葉を返す。

 そして――余計なことを口にする。

「性悪狐なんかあんちゃんなら叩っ斬れるよね?」

「は?」

「だってあんちゃんには神器があるでしょ?」

「え、いや……」

 きょとんとしながら猪八はリオを見つめる。それから、その目が何か希望でも見出したかのようにゆっくり見開かれた。

「いやいや、いやいやいやいや……。だ、だってほら、首吹っ飛ばして、それでも祟ってるわけでしょ……? そんな、もう、生きてない幽霊みたいなものまで斬れるはずがないっていうか、そもそも斬れるはずもないっていうか……ね?」

「だ、だどももう……これ以上、村のもんはもう待てねだ。おら、案内するだよ」

「いや、でも……」

「あんちゃん、狐やっつければちゃんとしたメシありつけるかも!」

「んだ、んだ。頼むど、リオ。おらご馳走するだよ」

「ええええ……?」

 最後の食事を恵んでもらってしまったということが、リオの律儀なところを致命的に締めつけてしまっていた。


 ▽


 つくづく運が悪い。今度こそダメかも知れないと、げっそりしながらリオは山道を歩く。ほたるは猪八の家へ残されている。

 猪八が歩く後へ続いて、狐の祟りなんてものを果たして斬れるのだろうか、いやムリだろうと何度も何度も頭の中で結論を出している。なまなりという、人と鬼の間のようなものは確かに斬ることはできた。しかしそれは実体があったためであり、すでに首を吹っ飛ばされた狐が祟っているというのに、そんな悪霊そのものみたいな狐をまた斬れるかなんてムリに決まっている。仮にそれができるなら、また猪八がまさかりで首を刎ね飛ばしているだろうと。

 そうだ、とそこでようやくリオは気がつく。

 猪八は喋り方の癖のせいか、本人もチラと口にしていたが、頭は良くないという印象が強い。

 だからこのことを指摘すればこの意味がなさそうな無謀な行動をやめられるかも知れないと思った。

「あ、あの、猪八さん……」

「……何だ」

「そもそも……として、猪八さんは、その、狐が祟るようになってから、また、まさかりで……やっつけようとはしたんですか……? できなかった、とか? だったら、きっと僕もできないというか……。それより、こう……お、お祓いとかできる人とか、そういう人を探した方がきっといいって思うんですけど……」

 そう提案をしてみたが猪八は歩みを止めなかった。

 理解に時間がかかっていたりするんだろうかと思い、リオはまた口を開きかけたら猪八が止まった。リオを振り返る。猪八の隣に立つと、山の只中に盛り上がった土があった。上に石が置かれている。

「塚だど」

「ここ、が……?」

「んだ……。おら、リオとほたるに言ってなかったことがあるど」

「言ってなかったこと……?」

 猪八はまさかりを持ってきていた。それを近くの木へ叩きつけ、刃が食い込んだところで手を離す。

「……おらも、狐をまたやっつけようとしただ」

「で、できたんですか……?」

「狐は姿見せたがまさかりは当たらなかっただ。おらを嘲笑って、おらの子が差し出されるまで、やめねど脅されただ」

「……じゃあ、村が枯れたのは猪八さんへの復讐……?」

「……んだ。……昔、おらがリオくらいのころに、腹減ってただ。偶然、見つけた小狐をくびり殺して食っただ。その小狐の親狐が、鉢割れの狐だったど。おらが悪いど。だけんど……食うか、食われるかがこの世だ」

 食べるために他の生きものを殺すのは、確かにこの世の常でしかない。

 野生の動物だろうが、家畜だろうが、人は平気で殺して、平気で食べて食い繋ぐ。しかし動物とて、自分より小さな生きものを食べて食い繋ぐ。そして子孫を残していく。弱肉強食と食物連鎖で世の中は成り立っている。

 それでも――食われた側が恨みを残すなとは言い切れないだろうとリオは思った。

 恨みを抱くなとは言えない。それでもそれが世の中のシステムなのだ、と。どうしようもない1つの仕組みに従わされている。いつだって不条理な世の中に、感情は揺らがされて生きていくのだ。それは人も獣も変わらないのだろうと思った。

「おらは……おらには、新八郎しかいないだ。

 もう何十日、新八郎が生きてるかも分からねども……食い殺されるなんておらは許せねど」

「……猪八さん」

「……リオ」

「はい……?」

「すまねども――」

 いきなり猪八は、リオの首を太い腕で掴んで地面へ打ちつけた。

 呼吸が詰まり、目の前がぐるぐると回る。リオの理解は何も追いつかない。


「新八郎が死ぬ時まで……リオとほたるで、村を食い繋がせるど」


 ああ、そうか、とリオは腑に落ちた。

 猪八の見た目や言葉から、賢くないのだろうと思っていた。しかし自分に迫ってきた猪八の腕――袖に隠れていた、肘の少し上のところに刺青を見てしまった。円の中に縦長の楕円というシンプルなその刺青は、蛇の目の衆が体に刻むものだ。

 よそ者だったと言っていたことをリオは思い出す。

 体が大きいからという理由だけで、鉢割れの狐退治を村人に託されたのではなかったのだろうとリオは察する。

 現役か、元という言葉がつくかは分からないが、猪八も蛇の目の衆の一員だったのだろうとようやくリオは悟った。

 ほたるが神器という言葉を持ち出したから、猪八はこの考えを起こしたのかも知れないと思った。ほたるは神器としか言わなかった。庶民にはあまり知られていないものなのに、それが何かと尋ねるまでもなく猪八はリオならできるだろうという態度を取って、ここまで案内をした。ほたるは猪八の家に残されている。武器を持っているリオを先に狐に捧げれば、もうほたるなんて力ずくででも狐への次の捧げものにできるだろうという順序づけができる。

 先にリオを食わせて、その後でほたるを食わせる。

 その間に、新八郎を看取る。――それを唯一の大切な息子を守る手段として猪八は選んだ。


 やっぱりこの世は、弱肉強食なのだろうとリオは感じた。

 ほとんど反射的に澄水に手をかけようとしたが、猪八がリオの細腕を両手で掴むと肘の関節から腕をもぎ取らんとばかりにメチャクチャな方へ力を加えた。ヒョロいリオの腕がその力に適うはずもなく肘の関節が砕けて腕が本来曲がってはいけない方へと折られる。たまらずにリオは声を漏らした。痛みにもんどり打って地面を転がる。

「新八郎が死んだら……おら、おらも、死ぬだ。

 おらは地獄に行くだが……新八郎に、リオとほたるに詫びるよう言うだよ……。

 だども恨んでいいだ。恨め。おらは……恨まれねばならね」

 木へ突っかけていたまさかりを猪八は振りかぶった。

 そしてリオの太腿に撃ち落とす。刃は大腿骨を折り砕く。そして血が溢れ、リオは喉を枯らすほどに叫び散らした。手も足も使いものにならない。

「すまね……すまねど……。狐は……生きた子しか食わね……。きっとすぐ、食われるだ……。

 辛抱だど……。リオ……すまねど……すまねど……」


 詫び続けながら、猪八は血に塗れて苦痛に叫ぶリオを置き去りにして山を降りた。


 ▽


「ハアッ、ハアッ……ふぅ、ふぅぅ……っ……」

 激しい痛みに汗が引かない。

 激しい痛みに呼吸が整わない。

 激しい痛みには、どれほど晒されても慣れやしない。

 必死に痛みをこらえるようにしながらリオは浅く性急な呼吸を繰り返す。


 猪八が知るよしもない、1つの誤算。

 それはリオが本来死ぬほどの傷を受けても治り、死なぬという特異な体質である。

 関節を砕き折られた右腕は時間の経過とともに筋肉が元の位置へ戻すように骨が動き、砕かれて肉の中で欠けていた骨が元のようにくっついていく。そして大腿骨を叩き折られた骨も同様に治り、半ば切断されかけていたような足は血とともに(あぶく)が立ち始めてそれが切り裂かれていた肉をくっつけていく。

 しかし傷の回復とは裏腹に、その痛みは長くリオに残り続ける。

 そして当初受けた痛みのままでそこへ居座り続ける。それは耐え難い苦痛だった。まともに起き上がることもできず、痛い、痛い、痛いと頭の中はそれだけで塗り潰されて、それ以外には何も感じられないし、何かを考えるなんてこともできないほどに脳内をかき乱される。

 いっそ死ねた方が楽だと思うほどに、その痛みはリオを苦しめ続ける。

 すでに猪八が立ち去って数刻が経とうとしているにも関わらず、リオは未だ、地面で芋虫のようにうずくまって痛みのまま身悶えを繰り返すばかりだった。


 そして、それを眺める眼が2つ。

 狐の塚の上に半透明の頭が現れて、ずっとリオを観察していた。

 鼻筋を中心にして左右が分かれたような柄の顔を持つ、大きな狐の頭が浮かび上がっている。リオは痛みに必死で、目を瞑って歯を食いしばるばかりでその鉢割れ狐の頭には気がついていない。


 やがて日が暮れ、空に月が浮かび――長引いた痛みはまだ残るが、ズキズキとする()()にまで落ち着いたリオは汗でぐしょ濡れになり、指一本さえ動けないほどに疲れきりながら仰向けにごろんと転がって目をゆっくり開いた。

 月の明かりの下で、ずっと滲んでいた涙も相まって霞んでいる視界でようやくリオは狐の頭に気がついた。

 しかしもう、抵抗しようなんてことを考えるだけの体力さえ失っていた。ただ、もうどうにもならないなとか、死なない体で食べられたらどれほど苦しい目に遭うのだろうなんてことを自嘲気味に考え、弱々しく口元を引き攣らせることしかできなかった。

「……食べ、られちゃう……かなあ……?」

「食わぬが」

「え……」

 弱々しく、かろうじて言葉を絞り出してみたリオは即答されて耳を疑った。

 あんまり痛すぎて幻聴でも聞いたのだろうかとまず思った。それから、そもそもこの頭だけの狐が幻覚かと思った。

「おぞましい血の香をぷんぷんとさせておいて、食われるか、だと。思い上がりも甚だしい小僧め」

「……ご、ごめんなさい……? おぞましいって言われた……?」

 狐の化け物――あるいは悪霊を相手におぞましい呼ばわりとはどういうことなのかとリオは困惑する。しかし助かったとも思った。まだどこか頭の動きは鈍いが、それでも落ち着いている心地のままリオは狐の頭を観察する。

 ただそこに浮かび、リオをじろっと見つめている。

 普通の動物でもこういう風に何かをじいっと見つめることはありそうだな、なんてリオは思った。

「は、鉢割れ……って……何ですか?」

「……この顔を見よ。額から左右へ分かれて見えるだろう。これを人は忌避するのだ」

「ああ、猫とかでもたまにいるような……。普通にかわいいと思うのに、どうしてだろう……」

「縁起が悪いとか言うらしい」

「縁起って、そんなに大事なんだ……」

 縁起が良い悪いとか、験を担ぐなんてことをあんまり意識したことのないリオは首を捻りたくなるが、そんなことをさえする余裕はなく目だけ動かした。

 それからふと、どうしてこの首だけ狐は姿を見せてじっとこっちを見ているんだろうと思う。食べないなら放置していればいいのに、と。それともおぞましいなんて口走っていたほどだから、何か警戒でもされているのかと考えた。


「我は猪八を決して許しはせぬ」

「それなら、せめて……村の人まで巻き込まないで、猪八さんだけとか……なんて……」

 口走ってから、それでは猪八を見捨てるようで何か悪いかも知れないなんてリオは考えてしまった。

「あの男は己が傷つくことでは傷つかぬ。

 ならばあの男の周りを傷つけねば、あの男は傷つかぬ」

「……でも卑怯な気もしますけど」

 その人には脅しも暴力も通じないからと周りの人間を傷つけるなんて言うのは悪党の手口だとリオは安直に考える。しかし効果的だと言うのは分かる。だからこそ悪辣だと思ってしまう。

「許しはせぬとはこういうことだ」

「……そう、ですか」

「次はお前の連れの弟がここへ引きずられてくるだろう。あれは口やかましい。口が利けぬようにされてここへ連れられてくるに違いがない」

「……ほたるのこと?」

 この妖怪狐でもやっぱり女の子とは見ていないのだなとリオは妙なところを少し気にした。

 しかし、ほたるは傷つけられてからここへ連れて来られるのだろうと確かに思えた。むしろ今、ほたるはどうしているだろうと考えた。猪八は自分だけ戻ったことについて何とほたるに言ったのか。力及ばずに殺されたとでも言うのか。ほたるはそれを信じるだろうか。ほたるは親を亡くして傷ついた子だと知っている。そしてとても自分に懐いているとも分かっている。今度、自分がまた死んだなんてことをほたるが思ったら、どれほど悲しんだり、傷ついてしまうだろうかと怖くなった。

 まだまだ痛む体でリオは起き上がる。手をついて、腕の関節を中心にズキンと痛んで歯を食いしばり、足を立てて太股に迸った痛みでガクッと膝をついて。それでも澄水を杖のように立てて体重をかけながらよろよろと立ち上がる。

「行くのか」

「うん……」

「あの男をどうするつもりだ。生かして村を出すつもりはないだろう」

「……逃げるだけ、です」

 きっと発端は猪八にある。

 しかし息子を想う猪八をリオは否定できない。

 リオは実の両親にはのけものにされ続けてきたから家族の情愛というものを理解はできないが、きっとそういうものはあるはずだと信じたい気持ちがあった。だから猪八の息子への想いを肯定したいと思うし、力になってあげたいとも思う。かと言って他人の命を奪う理由にして良いとは言い難いものはあるが。

「逃がさぬだろう。今度は手足をもぎ取るやも知れぬ。弟を盾にもしかねぬ。

 人間というものはそういうものだ。己のことだけを何より大切にするものなのだ」

「……うん」

「殺し合うことになろう」

「……うん」

「それでも戻るのか。……お前は、あんな仕打ちを受けたにも関わらず、あの男に肩入れをするのか?」

「……ううん」

 その問いにはリオは首を振った。

 肩入れというのは違うとどこかで感じた。

「僕は……ほたるを鶴柴にちゃんと、送り届けるって約束をしてるから、ほたるを守ってあげるし、僕が死んじゃうのもお断りだよ。それでも猪八さんが僕らを殺そうとしてくるなら……その時は、しょうがない、と思う」

「しょうがない?」

「だって、他にどうにもならないじゃない。しょうがないことだよ。

 きっと……猪八さんと、あなたのことだって、しょうがないことだったんだと思う。

 どっちが正しいとかじゃなくて、そうとしかならないことだったんだと……思うから、僕は、そのことをどっちが間違ったとか、言えることじゃない。だってみんな、産みの親がいるのは当たり前だから。……ううん、親からそれだけ、ちゃんと大事にされるって、すごいだろうし。あなたは自分の子を食われて恨んだ。それが正しいと思う。同じで、猪八さんは自分の子を守りたい。それも正しいことのはず、だから……。これは、しょうがないことなんだ。2人の親が、自分の子どものためを想ってやってることなんだから……」

 ああいや、2人ではなくて1人と1匹が正しいだろうかなんて律儀な表現についてリオは少しモヤついた。

 狐はしばらく無言でいたが、リオが木に手をつきながら立ち去ろうとするとそれを呼び止めた。

「猪八へ伝えよ。

 明け方までにここへ来て、再び我を殺せれば息子の病を除いてやると」

「……え?」

「もし来ねば……全ての村人を我が食い尽くせども、永劫、祟り続けるとな。

 我はお前の姿を見て、思いついたのだ。死なず、ただ、苦痛のみにまみれるというのも良い罰になるものとな」

 狐の口元が歪むように広がった。

 残酷なことをこの狐は考えついたのだとリオは悟った。

「……そもそも明け方までに、僕が戻れるかが怪しいんですけど……」

「……では明晩までで良い。月が天辺へ至るまでだ」

 いいんだ、と口に出しかけたがかろうじて黙っていられたリオだった。


 ▽


『狐が出で、おら、リオに言われただよ。

 邪魔んならねよう、先戻れて』

 猪八のその言葉をほたるは信じて、ずっと待ち続けている。

 猪八の家の片隅で膝を腕で抱くようにしながら座り込み、ちらちらと何度も窓に目を向けて空の色を窺って過ごした。一夜明けても戻らないでいる。きっと道に迷っているだけだと自分に言い聞かせ、きっとすぐ、次の瞬間にでも戸を開けて入ってくるものと思うようにしながら過ごしている。

 今朝方にやってきた村の者達に猪八が弁明しているのをほたるは聞いていた。

 昨夜、旅の子が狐の塚へ向かった。それを食えばすぐまた、少しの間だけでも水も畑も戻るはずだ、と。

 そう言った猪八の声はかすかに震えていた。

 リオが狐に食われたのだと猪八が言っていた。あくまでそれは村の人間へ言い聞かせるためのものとほたるは思ったが、猪八のその震えた声がまるで真実とばかりに聞こえてしまって怖くなった。

 しかし、まだ水も畑も潤いを取り戻したと騒ぎ立てるような声は聞こえてこない。

 きっと食われていないとほたるは信じている。

 それにリオはどれほど傷つこうともすぐにその傷が癒えるとほたるは知っている。

 全身が酷い火傷で爛れて血をだらだらと滲ませていたって、その数刻後には治っていたのだ。だから狐の化けもの程度に食い殺されるはずがない。そう言い聞かせながら、しかし心細くて視線をずっと窓と戸板とでさまよわせている。

 猪八は今日も表に出て、戸口の前でずっと座り込んでいる。

 いつ、何が切欠で――あるいは、何の脈絡もなく突発的に、また村人が新八郎を捧げようとやってくるかが分からない。

 だから猪八は息子を守るためにずっと戸口の外へ座り続けている。


「ほたる……そこにいる?」

「っ――あんちゃんっ?」

「しっ、静かに……」

 コツコツと壁を叩く音とともに呼ばれてほたるは背にしていた壁を振り返り、それから窓に目を向けた。高いところにある窓のため覗き込むことはできなかった。しかしすぐ、ひょっこりと向こうからリオがそこに顔を出す。

「無事? 何もされてない?」

「うん。あんちゃん、狐はやっつけた? 何でこそこそするの?」

「声、声、小さくして……。あのね、ほたる……。猪八さんは、僕とほたるを狐に食わせるつもりだったんだ」

「おっちゃんが? どうして?」

「新八郎が死ぬまでの繋ぎだよ……」

 一瞬、ほたるはリオの言葉がよく分からなかった。

 それほど意外で、すぐそんなことないと言い返そうとしたが、猪八とリオとを比べればほたるにはリオの方が信頼に値した。だからどっちも信じがたいが、リオを否定することができないという理由で飲み込む。

「力ずくで来られたら……正直、まずいから、ほたるは何も知らないふりをしてて。分かった?」

「……うん。どうするの?」

「どう……っていうのは、成り行きで……」

「あんちゃぁん……」

「と、とにかく、今喋ったことは知らないふりしててよ」

 いいね、と念押しをしてから外で小さな物音がした。何かに乗っていたんだなとほたるは気がつく。

 そして慌てて、今朝からそうしていたように隅で座り直した。ほたるは安堵していた。リオはやっぱり、ちゃんと生きていた。しかし猪八に謀られたというのは腑に落ちなかった。

 すぐに表で猪八の驚いたような声が聞こえた。

 何と言っているのかまでは分からなかったが、戸が開いて猪八と、そしてリオが入ってくる。

「な、なして、リオ……ここに……」

「狐が、猪八さんに伝えるようにって……。今夜、月が天辺に至るまでに来て、また殺せたら新八郎の病を取り除くって」

「新八郎の、病を……? あ、あの狐が、だか?」

「うん……」

「またあの狐、殺せば……新八郎は、もっと……生きれるだか?」

「そういうこと、だと思います……」

 リオが答える。猪八は困惑するようにリオを見つめていた。

 リオは奥にいたほたるに目を向ける。ほたるは視線を受け、大きく頷いて見せていたが、リオは反応することなく猪八に目を戻す。

「……狐は、僕は気に入らなかったみたい、ですよ」

 小さい声でリオが告げると猪八はまるで判決を待つ罪人かのような硬い緊張を顔に迸らせた。

 きっと猪八には動けぬようにして捨て置き、狐に食わせようとしたことの罪の意識があるのだとリオは感じ取る。簡単に許せるとはとても言えない苦痛にもがき苦しんだだけにリオも複雑な気分だったが、やはり攻撃的に責めようという気は起きなかった。結果として死なない体だったから、こうして生き延びている。だがもし、順番が違って先にリオ自身が何も知らぬまま、ほたるを食わされていたら――もしそうなっていたら、きっと許しはしなかっただろうと思った。

「月が昇りきるまでに行かないと、ずっと祟り続けるって。……僕も、見届けます」

「……わ、分かっだ。おら、行くだよ。……すまね、リオ……」

「……ほたるも、今度は一緒に行こ」

 そう呼びかけながらリオは猪八から視線を外さなかった。呼びかける言葉ながら、リオからの警告を猪八は受け取って俯きかける。布団で寝かせられている新八郎のところで猪八は膝をついて、額をそっと撫でる。

「おらが、必ず……お()のこと守るだよ……」

 そう声をかけると新八郎が、うっすらと目を開いた。

 すぐに猪八はまさかりを持って、山へ向かった。そのまさかりの刃は綺麗に拭かれていて、リオの血を滴らせた覚えはないと主張をしているように見えた。のそのそと、しかし確かな足取りで山道へ分け入っていく猪八に遅れないようにリオも疲れているし、腹も減っている体でついていく。ずっとほたるはリオの着物の袖を掴んでついてきた。


「ねえ、あんちゃん……。おっちゃんと、何があったの?」

 狐の塚へ向かいながらほたるは小さい声で、猪八に聞こえぬようにという配慮をしながらそっと尋ねた。全て話してしまっても良いだろうかと少し悩んだが、リオは猪八に襲われたことと、鉢割れ狐の霊とのことを話した。聞き終えてからほたるは怖がるような顔で猪八の背へ一度、視線を投げかけた。

「あんちゃん、おっちゃんのこと……許せるの?」

「……どっちかなら、許せることじゃないけど」

「けど……?」

「死ななかったから……そこまで目くじら立てることもないかなって。それにさ、ほら……それだけ子どものことを大事にしてるってことだから、その気持ちは、僕はちょっと……いけないものだって言えないし……」

「あんちゃん、それ……甘いって言うんだい」

 少し咎めるような口調でほたるに言われてしまい、リオも否定できなくて苦笑した。


 ▽


「恐れをなさずに来たか、猪八……」

「おらがお()を殺したら新八郎の病を治すのは本当(ほんど)か」

 塚に来るとすぐに狐の頭が姿を見せた。リオと会話をした時とは違い、大きな頭だけでなくてその周囲に青白い炎が浮かんでいる。本来なら炎に照らされたところは明るくなるのだろうが、その妖しい青白い光は逆に影を投げかけて、その暗くなったところに何か別のものがちらちらと見えた。

「我は人と違い嘘などつかん。我の頭でも真っ二つに割れば、この身の神通力でお前の子の病を消してやる」

「言うだど。確かにお()は言っだ。……おらが死ねども、お()は殺すど」

 言質を取ったことを確かめるなり、猪八はまさかりを振り上げて狐の頭に迫った。

 大きな体とは裏腹にその動きは早かった。そして猛然と迫っていた。まさかりが落ちる。しかし狐は口を大きく開けて向かってきたまさかりを噛み挟んで受け止めた。そこで猪八へ青白い狐火がぶつかる。苦しげな声を猪八は発したがまさかりを噛み止められているまま、振り上げて木へ叩きつけた。狐の口の端が切れてまさかりが抜ける。頭を振るようにしながら狐はまた浮かび上がる。しかし猪八は全身を焼いてくる狐火のせいで目の前も見えず、めちゃくちゃにまさかりを振り回している。

 そこに狐が噛みついた。

 猪八の左肩に牙が突き立てられる。まさかりを持ち替えて猪八は左肩へそれを向けて叩きつけたが、その前に狐は離れて背後へ回り込み、まさかりはそのまま肩へ刃を突き立てた。さらに狐は今度は猪八の腰へ噛みつく。まさかりを放り出して、猪八は片手で狐の耳を掴んで力ずくで引き剥がし、その表紙に腰回りが牙に引き裂かれた。だが猪八は止まらない。鬼のような形相をしながら狐を地面へ叩きつけると、負傷している左腕でまさかりを掴み上げてまた振り落とす。一度、二度、三度と猛烈にまさかりを何度も何度も叩きつけた。たまりかねたようにまた狐火が浮かび上がって猪八へぶつかって体を燃やす。それでも、猪八のまさかりは止まらない。

 それは凄まじいまでの殺し合いである。

 互いの体を傷つけるばかりで、まるで自分の命が損耗されていくことを気にも留めぬという様相。

 貪り合う飢えた獣同士の食い合いにも見えた。

 先に動きが鈍ったのは、猪八だった。ずっとまさかりを上下させていた腕がもげるようにしていきなり飛んで、そこで動きが止まった。何が起きたのか、リオは見ていたのにすぐにはわからなかった。しかし猪八の左肩だけが集中的に青白い火が盛っているのを見て、焼かれすぎて千切れたのだと思った。そんなことがあるのかと目を疑った。

 狐の頭が猪八へ頭突きをする。その勢いに猪八は仰向けに倒された。左肩の方から、胸元までに牙を突き立てられて、そのまま噛み千切らんばかりに咥えられる形となった。必死に猪八は残っている右拳で狐を殴るが、じわじわと牙は食い込んでいく。それでも猪八は諦めない。

 肘から曲げた右腕を狐の口の間へ潜り込ませ、腕を開いていく。

 咬合に猪八は低く唸り声を発しながら抵抗していき、とうとう腕を開いて狐を弾き飛ばした。

 先ほどこぼれ落ちたまさかりを掴みながら、猪八は迫った。狐火が迫ったがそれをまさかりで散らし、また浮かび上がりかけた狐の脳天へまさかりを叩き落とした。そのまま地面へ狐の頭は叩き込まれた。その衝撃が地面を波打たせるかのようだった。

「ググ、ギィ――」

 狐が苦しげに低く唸る。

 不吉の相と言われる鉢割れの柄に沿うようにして、まさかりの入った箇所から亀裂が走っていった。

 そして狐の頭が血走った眼で猪八を見据えて、そしてぐるりと目玉が回って白目になった。

 狐の頭が塵のように細かくなって消えていく。

 それまでずっと猪八の体で燃え続けていた狐火もまた消える。

 膝をついて猪八は残っている右腕で自分の体を支えた。激しい息をしながら、その場で動けなくなったようだった。


「おっちゃん、強え……」

 ほたるが呆然としながら呟く。

 満身創痍ながらも猪八は確かに狐を討ってしまった。

 これが子を想う親の力なんだろうかと、どこか客観的に、冷めたような心地でリオはじっと見つめ続ける。

 荒い呼吸で揺れる大きな体。全身からだらだらと血を流し続け、そこで動けずにいる姿には勝利の歓喜はなかった。息子を守れたと安堵をする様子もない。ただ一匹の野獣が害敵を噛み殺したというように見えた。

 やがて猪八が起き上がった。

「帰るど……。新八郎が、元気になっただ……。これできっと、治っただ……」

「それに水も出て、畑も戻った? あんちゃん、メシ食える!」

「……たくさん、ご馳走するだよ。……リオ、本当(ほんど)にすまねことしたど」

 どうしてこんなに冷めた気持ちなんだろうとリオは不思議に思った。

 きっと世の中には親子の情愛という素晴らしいものがあるはずで、リオはそれを知らないが、あるものと信じたかった。そして今、猪八はそれを体現した。腕がもげて、体中を焼かれて、腹と背に大きな牙による風穴を空けて、それでも折れることなく息子のために狐を叩き殺した。愛の力だろうと、思う。それなのに、この結果がどうしてか酷く、胸をざわつかせてしまった。むしろ不快なものに見えた。一度、猪八に騙されたせいかと考えた。狐と言葉を交わして存外に悪いやつと思わなかったせいかと考えた。しかし違うと思えた。でも何のせいかは分からない。

 確かなことは、期待が外れたかのように悔しいというような気持ちだった。

「あんちゃん、帰ろう?」

 ほたるに手を取られて言われて、リオは頷く。

 どうしてこんな気分にさせられたのかとリオは困惑しながら、ボロボロの体なのに先導するように勇ましく歩いていく猪八の後に続いた。


 ぜいぜいと猪八は荒い呼吸をしながら、山道を降りていく。

 その呼吸も、垂れ流している血の量も異常だということに気づいていても、手当てなどできなかった。そんな薬も道具も、知識というものもなかった。このままではきっと、猪八はこの傷のせいで死ぬ。しかし何も今はできないのだから、一刻も早く帰るというのが最善策のはずだと思って、リオはせめて自分が遅れないようにと歩き続けた。

 そうしてようやく村が見えてきた。

 その村の外れの方――猪八の家が視界に入る。と、そこでリオ達は嫌なものを見た。見たくないものを見た心地で背筋が冷たくなった。猪八の家の前に村人が集まっていて、大勢で何かを引きずるようにしている。猪八は思わず駆け出し、ほたるも慌てて追いかけようとしたがそれをリオは止めた。

「あんちゃんっ?」

「僕らは……見てるだけの方が、いいよ……」

 これは他人事でしかないだろうとリオはずっと冷えている胸で答えを持っていた。


 村人が新八郎を猪八の家から連れ出していた。抵抗したせいか、あるいは業を煮やした村人が手を出したか、新八郎の着物は乱れて、細く小さな体にはあざや血の跡もついていた。泣き叫びながら必死に腕を掴む大人から逃れようとしているのに、大人の、しかも大勢の力には抗えずに引きずられている。

 そこへ猪八がまさかりを振り上げ、雄叫びを上げながら迫った。

 首が刎ね飛ばされる。

 胸骨を砕かれ、心臓へまさかりが刺さって女が倒れる。

 腰を抜かした老人の頭が猪八に踏み潰されて首が折れた。

 それは人々を瞬時に吹き飛ばす暴力の渦となった。しかし村人達も一方的に蹂躙されるだけではなかった。農具なんかを武器のように構えて迫りくる猪八へぶつける。それでも猪八は止まらなかった。

 農村の人々をぶちのめしながら新八郎へ迫ろうとしたが、泣き叫びながら猪八へ手を伸ばす新八郎が捕まえられたまま首に鎌を当てられた。それでやっと猪八の動きは止まった。

 猪八は傷つけたら殺すと野獣のように叫んだが、その言葉が終わらない内に先端だけが鉄製のくわで背後から頭を打ちつけられた。そこから一方的に猪八はリンチを受ける。新八郎はずっと叫びながらやめてと訴えたが止まらない。

 ほたるがリオを振り返り、行かないとと目で訴えた。

 しかしリオはほたるが痛がることさえ気づかないで、しかし強い力で彼女の手首を捕まえたまま動かずに見続けるだけだった。

 そのリンチをしている中へ、別のところから女の子が駆けてきて畑が戻ったと叫んだ。誰もが手を止めて、しかし息絶え絶えの猪八への暴行をやめようとは至らなかった。彼らの中では猪八こそが全ての元凶であり、この大男を殺してしまえば元の平和な村に戻るのだということになった。それが自分達の正義であると彼らは思い込み、信じ 込み、猪八を手にした道具で叩きまくった。

 熱狂していた。あるいは狂乱していたと言えた。

 そして猪八がぐったりとして動けなくなったところで、雄叫びを上げながら1人の男が草を刈り取るための鎌を高く掲げて見せた。

 これから何が起きるのか、誰の目にも明らかだった。

 それをやめてくれと願ったのは、新八郎とほたるだけだった。

 鎌が猪八の首へ当てられて、そして肉へ食い込むように引いて刃が滑らされた。

 血が噴く。赤く、赤く、彼らと同じ色の血がぶしゅと音を立てるように噴いていって猪八は動かなくなった。興奮と歓喜に満ちた声が重なり響く。新八郎が猪八の体へしがみついて必死に父を呼んだ。起きて、と叫んでいた。死なないで、と叫んでいた。嫌だ、と何度も繰り返し叫んだ。

 新八郎が引き剥がされて、殴り倒された。


 ほたるがまた、我慢ができなくなって駆け出す。今度はリオは止めなかった。リオも走っていた。

 しかし2人がそこへ辿り着く前にまた状況は変わった。


 いきなりその狂乱の輪の上に、猪八が殺したはずの狐の頭が出てきたのだ。

 しかもその大きさは猪八が叩き殺した時よりも、二回り以上は大きかった。

「愚か、愚か、愚か――。猪八は我を二度も殺し、お前らは望んだ通り、作物の実りを得られるようになるはずだったというのに、愚かが極まる。我が子を食い祟った猪八は、猪八の子への想いによってこれを退けた。親の情愛ゆえ、と我もおとなしく眠りにつくつもりだったというのに、我が情念に(まさ)った猪八の想う子を手にかけるか。

 ああ、愚か。愚か。愚かなり。

 最早、人など滅んでしまうがよい――」

 狐の出現に村人は腰を抜かして、中には拝み出す者までいた。

 しかし愚かだと突きつけるなり狐火が村中を焼き始めた。猪八を暴行していた村人は漏れなく、1人ずつが青白い妖しい火に包まれて悲鳴を上げる。

 その地獄絵図にリオもほたるも足を止めてしまっていた。村中が焼けていく。妖しい青白い火に照らされたものは、影のような暗いものを投影する。猪八が塚でやり合っていた時、その中に何があるかは見て取れなかった。しかし村中が焼けているほどの規模だと、遠目に見ていたリオには分かった。

 骨。無数の骨ばかりの、まるで地獄のような光景がそこに広がっている。

 人の頭蓋骨、獣の頭骨、肋だと分かる骨、手の骨、腕の2本の腕――ありとあらゆる、骨ばかりで埋め尽くされたおぞましい世界が狐火の発する影の中には広がっている。

 これはきっと、この世ではない場所から呼び出されている火なんだと直感でリオは理解した。

 そしてそこは怖い場所だろう、とも。憎しみや、悲しみや、怒りで満ち溢れて、それが全て悪かったばかりにそうなってしまった地獄のようなところ。

 その怒りを買って今、1つの村が滅んでいこうとしている。

 最早、言葉など出てきようがなく、呆然とリオもほたるも立ち尽くしていた。


「おい小僧」

「っ……」

 焼けていく村を眺めていたリオは狐に呼びかけられてハッとする。

 いつの間にか目の前へ、先ほどと同じ大きで現れていてほたるが驚きながらリオに身を寄せる。澄水に手をかけながらリオも身構えたが、狐の呼びかける声には敵意がなかったのですぐ手を下ろした。

「我は今度こそ眠ろう。……生き残りに伝えておけ。

 次にまた愚かなことをすれば、その時にこそ根絶やしにすると」

 一方的にそう言うと狐はふっと消えてしまう。

 呆然としていたらほたるがリオの手を掴んだ。

「火、消えた! それに生き残りって……まだ、生きてる人いるよ、あんちゃん!」

「……うん。でも、大勢じゃないから、ほたるが伝えてきて。僕はちょっと、畑から食べもの拝借してくるから。……食い扶持も少なくなっただろうし、ちょっとくらい、いいよね」


 これは悲劇なのか。因果応報なのか。

 きっと後者だろうとリオは畑に姿を現した大根を引っこ抜きながら考える。

 始まりは誰が悪いというものではなかったはず。しかしそこから波及した悪い感情が全てをダメにしてしまった。

 猪八はきっとそれまでの悪行の報いを受けた。そこまでは狐も容認をしていたが、新八郎まで殺そうとしたことを愚かだと言い切って、まるで天罰でも下すかのように加担した村人を焼き殺してしまった。リオも新八郎まで手にかけることは違うと感じ、止めようとしたからそこは理解ができた。

 なすをもぎながら、どれくらいの人が生き延びたんだろうとも思った。だが、もうこの村には関わりたくないと思っていた。

 嫌だなとばかり思い続けている自分に気がついた。

 人の残酷なところが嫌だと思った。

 本当は尊いはずの人の気持ちが残酷になるところが嫌だと思った。

 知りたくなくて、見たくなくて、関わらないでいられたら良かったと心底から思った。

 やりきれないし、仕方がないと思ったところで自分の胸が抉られたかのように不快に感じられた。愚かだと言い切った狐の気分が今になってじわじわと分かって同調してきているのを感じた。

 この嫌な気持ちを育ててしまうのは絶対に良くないと思う。

 そしてここに留まり続ければ、あるいは忘れられないままでいたら、いつかあの狐火が映し出した世界の住人になるのではないかと怖くなった。

「あんちゃん、言ってきた。……新八郎、本当にもう病はないみたいだったけど……おっちゃんにしがみついて、ずっと、泣いてた」

「……うん。ほたる、これ持って」

「食いもんどころじゃない」

「食べなきゃ、お腹空いてるんだから……」

「あんちゃん……!」

「猪八さんがお腹空いて、あの狐の子どもを食べたのが始まりだったんだから。野菜でも食べて、そんなことにならないようにしておこうよ。……もらうだけもらって、早く行こう。ここは、もう、嫌だ。水ももらってこよう。そうしたらすぐ、行くよ」

 リオの顔がいつにも増して白くなっているのを見て取ってほたるは押しつけられた野菜を抱えて文句を飲み込んだ。そして後ろ髪を引かれる思いでほたるはリオとともにその村を後にした。


 誰も幸せになれない、その村の事件の顛末にほたるは納得がいかなかった。

 だから何かしてあげて、めでたし、めでたしと閉められるようにしてあげたかった。

 無言で歩いていくリオの背を恨めしそうに見つめてついていきながら、しかし、ほたるはもうどうやったってめでたしでは終われないことになってしまっていることを少しずつ認めていった。


 ▽


 ほたるは村を後にしてからずっと、もやもやし続けている。

 リオは早く忘れてしまおうと努めて何もそのことについて考えないようにしていたので、ほたるが少しでも話を持ち出そうものなら、嫌だと告げて口をつぐんだ。それでもほたるが喋り続けると、努めて聞き流した。何も反応しなければほたるも黙るだろうと思って、頭の中で別のことを無理やりに考えてやり過ごした。

 そんな態度を取られるものだから、ほたるはますます、もやつく。

 悪循環であるが、2人とも頑固に同じことを繰り返し続けた。


 そうこうしながら山を超えた。

 またしばらく人里はないだろうとリオは勝手にもらってきた野菜をケチりながら、少しずつをほたると分け合っていた。

 しかし山を超えてその前に立ちはだかったのは湖だった。大きな湖畔に沿って歩けばいずれ人が暮らしているところに出るだろうと思って歩き続けた。

 そんな道中で、いよいよ、ほたるの我慢も限界に達した。ずっと無視されてしまうことに堪忍袋の尾が切れた。湖畔で木を拾い集めて、火打石で焚き火を用意したそのタイミングで、ほたるは仕掛けた。

「ねえあんちゃん!」

「どうしたの、いきなり大きな声で……」

「……もう言わないから、今だけちゃんと喋って!」

「何を……」

「化け狐のこと! 猪八のおっちゃんの村の!」

「だからそれは嫌だって――」

「もう二度と言わないから今だけ!」

 真剣な、そして憤りに満ちているほたるの顔を見て、リオは露骨に顔をしかめる。そうしながら小さな鍋に水筒から水を入れて、残り少ない大根を小刀で切りながら突っ込む。

「分かったよ。……明日からは、絶対にその話はなしだからね」

「うん。……もう終わっちゃったことだけどおいら、あんなのないって思った。だって猪八のおっちゃんは、ちゃんと化け狐をやっつけたんだ。それで新八郎も病がなくなって、2人とも村でずっと元気に暮らすはずだったんだ。そうでしょ?」

 同意を求められて、リオはどうだろうかと思った。大根の一番下だけを焚き火の中へ放り込んでから、鍋を火にかける。

「違うと思う……」

「何で?」

「猪八さんはきっと、悪いことをしてたんだよ。昔にね。蛇の目の紋が腕にあったっていうこともそうだし……僕は狐に捧げられたんだよ、実際に」

「でもおっちゃんは新八郎のこと――」

「じゃあ、僕がもし狐に食べられちゃってて、ほたるも食べられちゃって、それから狐を猪八さんがやっつけて、新八郎の病もなくなって、幸せに暮らしましたってことになったら……それで良かったねって言えるの?」

「そんなこと、なかった……から、違うことでい!」

 一瞬怯みかけてから、勢いに頼ってそう言い切る。しかし焚き火越しにリオに見つめられて、だんだんと気勢を削がれるようにしゅんとしていった。

「ほんの一例として、もしもそうだったら……って言っただけだよ。

 でもそんなようなことを、多分、猪八さんはずっと、やってきたんだ。

 きっとどこかで、いつか、そういう悪事から足は洗ったんだと思うけど……昔やってしまったことは、なかったことにはならない。

 そうしなくちゃいけないわけもあったかもね。……仕方がなくて、悪事を働いたかも知れないけど。

 だったら、チャラにしようなんて、なるはずがないから……猪八さんは受け入れるしかなかったんだよ」

「それじゃあ、あんちゃんもそうなっていいの?」

「……なるしか、ないよ」

 自分だけを棚にあげてものを考えられるほどリオは図太くはなかった。

 大勢を斬り殺した。誰彼構わず――といったことはしていないが、それでも自分の意思で、殺すつもりで人をたくさん斬り殺していることを自覚して、悪党相手であろうが殺しちゃいけないものだとはちゃんと理解をしている。

「僕だっていつか、報いを受けるんだと思う……」

「だからあんちゃんは……あんなことがあっても、いいって言うの?」

「いいとか悪いじゃないよ」

「おいら、やだ」

「嫌とかって話でも、ないじゃない」

「だって、あんちゃんがいなくなったら、おいら、やだもん」

 感情論しか出てこないのだな、とリオはどこか冷たく受け止めた。

 だが自分の意見も結局は感情論でしかないのかも知れないと思った。悪いことをしたなら、いずれ報いを受けてほしいと考えているだけじゃないかと。それはずっと虐げられてきて、反撃することなんて絶対にできないでいた弱い自分がいたからだと。

 自分で反撃して、嫌な相手に痛い目に合わせる。それができない弱者だったから、法律でも、神様でも仏様でも、何でもいいから裁きを与えてくれと願うしかできなかった。そんな卑屈な考えで、悪いことをしたならいつか罰を受けるものなのだと思い込もうとしていた。それが真理であると言いたくなって。でもそんな因果関係は誰にも証明ができないことで、ただ都合良く、目に見えた罰らしいことに対して、因果応報だと勝手にこじつけて溜飲を下げようとしているに過ぎない。

「……猪八さんがね、狐を負かしたでしょ。その時、何だか……がっかりしたような気がした」

「どうして?」

「分からないけど……心のどこかで、本当は猪八さんが死んじゃえばいいって、思ってたのかもね。人じゃなくて、あんな化け狐の味方してたなんておかしな話なんだけど、でもやっぱり理由は分からない……」

「だからおっちゃんがみんなに虐められてた時も、おいらのこと放さなかったの?」

「……どうだろう、分からないけど……ほたるがあそこに飛び込んだら、ほたるまで殴られたりしてたよね。そうなったら、僕はほたるを傷つけた人を、今度は本気で斬り捨ててたと思うよ。そうしたらきっと、あの人達は猪八さんの味方をしたって僕らにまで危害を加えようとしただろうし、殺されちゃたまらないから僕は全員、斬り殺したと思う。……ほたるは、どっちが良かった?」

「そ、そんなの、どっちもやだ!」

「僕はほたるを止めてて正解だと思ったよ。自分の手で殺すことがなくて済んだから。直接、手を下したかどうかで関係あるのかって話だけど……」

 どこにも熱はなく、淡々と喋るリオにほたるは違和感をずっと抱いている。

 それでもリオの考え方にはどうにも納得も賛成もできなくて、しかしこれだという答えも見出せずにほたるは頭を掻きむしった。

「どうしてあんちゃん……猪八のおっちゃんの味方、してなかったんだろう……」

「さあね……。自分でも分からないよ」

「おいら、新八郎が可哀想だって思ってたけど、おっちゃんみたいなおっとうがいたから、ちょっと良かったなって思った。本当のおっとうじゃなくても、おっちゃんみたいなおっとうだったら、嬉しいだろうなって。だからおいら、おっちゃんのこと応援した。あんちゃんにしたことは、おっかなかったし、ちょっぴり信じられないけど……でもそんだけ、おっちゃんは新八郎のこと、守ろう、守ろうって一所懸命だったんだって。そんなにかっこいいおっとう、きっと少ないから」

「……うん」

「うん、じゃなくて!」

「だって知らないもん、僕は……。親の愛情なんてさ、知らないんだよ」

 鍋を軽く揺すりながらリオは言い、焚き火の炎を見つめる。

 そこでほたるはリオの虚空を見るような眼差しから、何かを感じ取った。しかし言葉にするのがほたるには難しくて、もどかしいまま、口を動かしても声を発せなくなる。

「……どうかした?」

「うう、ううーん……あの、あんちゃんに、言いたいんだけど……言葉が分かんない……」

「別にムリして言う必要はないと思うけど……」

「でも言いたい。あの、あのね、あんちゃん。あんちゃんは……おっちゃんのことが嫌だって思ったんじゃないと思う。でもおっちゃんのその……違う、おっちゃんじゃなくって……おっちゃんみたいなおっとう、のこと? それがね、何か……あんちゃんは知らないって言ったから、それでおいら、これだって思ったんだけど……」

 まとまらない言葉を思いつくまま吐き出しながらほたるは頭を悩ませるが、リオには何もピンとはこない。

「あんちゃんは、あんちゃんは、ううんと……あんちゃんが知らなかった、おっとうのことが、嫌だったの」

「僕が知らなかった……ええと……父親のことが、嫌だ?」

「知らなかったことじゃなくて……」

 ああ、こういうことかな、とリオは拙いが必死なほたるの言葉から、ぼんやりと察する。

 が、それを言語化してしまうことを頭のどこかで拒んだ。惨めだ、と思ったために。

「おしまいね、この話は」

「あーうー! ちゃんと言いたい……!」

「……風が吹くと寒いね。ほたる、おいで」

「んん……」

 ぽんぽんと隣を手で叩き示されてほたるはリオの横へ移った。するといつになく、リオの方からほたるの肩を抱いて自分の方へ寄せる。

「あんちゃん……?」

「ありがと……。ほたるは、いい子だよね……」

「な、何いきなり言ってらァ!?」

「照れちゃって、またまた……。ほたるはさ、ずっとそのままでいてほしいな。まっすぐで、やさしくて、気を張ると威勢のいい言葉を使っちゃう感じ?」

「あんちゃん、おいらのことバカにしてるだろ!」

「してない、してない」

 小さく笑いながら答えたリオは、やっぱりバカにしているとほたるに憤慨された。

 それが何となく楽しくて、かわいらしくて、ついついリオはからかうようなことをまた言ってしまって、へそを曲げられた。


 ▽


 湖畔にだんだんと木が増えてきた。湖のへりもへりまで木が生えて、半ば水中から生えているようになってきてしまい、湖畔沿いにぐるっと歩くのを諦めて森の中へと入っていく。と、すぐに緩やかな傾斜が地面につき始めてしまい、また登り降りをするのかと少しリオは辟易とした。

「なんかじめじめしてる……」

「ほんとにね、嫌になっちゃうね……」

 しばらく雨に降られていないが、森の中へ入ると足元は湿っていた。落ち葉がたくさん積もっていて、その下が湿っているので足元がいちいち少し沈む。そのせいで草履履きの足は容赦なく汚れていく。変なバイ菌が入ったりしないだろうかと少し気になって嫌になる。

 果たしてこの死なずの体が病気にも対応しているのかは分からない。

 それだけにやはり、衛生というものには気をつけたくなるのだが、なかなかそんなことを言ってはいられないのが実情でもある。

 清潔なところで寝泊まりをしたいと願う。 

 なんて思いながら道なき藪の中を掻き分けるようにして歩いていると、木々が開けた。

 そこに小さめながらも立派な御殿が現れて、目を疑った。

「何これ」

「お屋敷……?」

 立派な門を構え、そこから向こうの庭だけが綺麗に土も慣らされて踏み石も埋め込まれている。

 柱も壁も屋根も白く塗られ、ところどころの装飾は黒く塗られている。それが建物の印象を引き締める。奥行きは随分あるようで、しかし場違いすぎて勝手にリオは怯む。

「何これ」

「ごめんよー、誰かいるー?」

「ちょ、ほたる……!?」

 臆せず門から入って声を張ったほたるをリオが掴み止める。

 辺鄙な場所――と何となく思うが、こんなところにこんな立派な建物を持つなんてきっと偉い人間か、悪いことでもして肥えた金持ちかだとリオは決めてかかっている。そんな場所へ何の許可もなく踏み入ってしまい、打首獄門などと言いつけられてはたまらない話である。

「何だよぅ、あんちゃん!」

「勝手に入って怒られたらどうするの、ダメだってば」

「だってもうおいら、野宿なんてやだもん!」

「やだもんじゃなくって!」

「誰もいないなら軒下借りるだけ! 誰かいたら話せばいいもん!」

「いやいやいや、そうじゃなくって――」

「どなた?」

 門に入って数歩のところでほたるを引き留めていたところへ女の声がし、リオとほたるが彼女を見る。薄鼠色の着物を纏った女が2人を伺うようにして屋敷の前へ出てきていた。

「おいらほたる! こっちは、あんちゃん! おばちゃん、泊めて? あとメシも食いたい!」

「あ、だからほたる、そんないきなり言ったって……! あの、ご、ごめんなさい、あの、えと――」

「ええ、では姫にお取次ぎいたします。こちらへどうぞ」

「えっ」

「やりっ! ほらね、あんちゃん、こうなんだよ」

「え、えっ?」

 そんなにすんなりいくのかとリオはただ困惑した。

 出てきた女はすみと名乗った。年頃は60に近いほどで髪にはうっすらと白いものが混じっており、まるで予定していた客人をもてなすかのように彼女はリオとほたるの足をたらいに張った水で丁寧に洗い、姫へのお目通りをするなら身なりを綺麗にと言って一室に通して替えの着物を用意した。着替えるだけかと思ったら、彼女は丁寧ながら有無を言わせずに着物を剥ぐなり全身を濡らした手拭いで拭いてきた上で着替えさせられた。軽く恥ずかしかったが、褌まで取られることはなかったのでされるがままになった。


「姫。旅の子らが、こちらへ泊めてほしいと参られました。失礼いたしますね」

 屋敷の奥の間に通された。降ろされた御簾の向こうに人の姿がぼんやりと見える。

 ほたるは広い部屋をぽかんと眺め回し、リオはもしかしてとんでもないことになっているのではないだろうかと怖くなる。

 その部屋は壁の一面が縁側になって、全ての戸を外されていたので明るく、しかもちゃんと手入れをしていそうな立派な庭が一望できてしまう。掃除も綺麗に行き届いている。この部屋へ人を通すなら、確かに体を綺麗にしなければならないと思うだけはあった。

「旅の子とは? 子ども? いくつなのかしら」

「おいら11! あんちゃんは?」

「13……です」

 御簾の向こうからした声は思ったよりもずっと若く、リオはまた緊張感を高めた。やさしげで、しかし凛とした声は御簾の向こうの人物が綺麗な人じゃないかと少年に期待感を抱かせてしまった。

「どうしてそんなに小さな年で旅を?」

「ええと……この、ほたるの故郷に送り届けるために」

「鶴柴って知ってる?」

「鶴柴? おすみ、知っているかしら?」

「ええ……。翠雀様のご領地の海に面した風光明媚な土地です。馬を替えながら昼夜走らせても、ここからですと一月はかかるかと」

 一月、しかも休みなしの馬の足――。

 それがとんでもない距離だということだけ分かってリオは思わず顔を引き攣らせた。

「そう、翠雀様の……。きっと素敵なところなのでしょうね」

「うん! 海がね、キラキラしてて、それで魚もうまいよ!」

「どんなお魚をいただけるの?」

「春は貝とか、あと、今くらいだと鰹とか、秋刀魚とか!」

「どうやって召し上がるの?」

「酒蒸しもおいしいし……鰹はおろしてから、串売って藁の火で炙って刺身!」

 藁焼きもちゃんとあるんだなあとリオはちらほらとやっぱり共通をしている食文化に感心する。しかし鰹の藁焼きは聞いたことはあるし、見たこともあるが、食べたことはない。どうして鰹だけあんなことをして食べるのかと少し不思議に思う。

「おすみ。御簾を上げてちょうだい。お客人にお顔も見せないなんて失礼ですわ」

「はい、姫様。ただいま」

 呼びかけられてすみがゆっくりと、しかし丁寧に、テキパキと御簾を巻き上げた。

 そうして御簾が上がり、姫の姿が見える。年頃は10台終盤ほどかといったほどだった。何枚もの着物を重ねて着用しているのが胸元の合わせから見て取れた。長い黒い艶やかな髪。手には閉じた扇子を持っていた。あまり日に当たっていないと思える白い肌は透き通っているようにも見えた。目が大きくて、花がそっと咲くような可憐な笑みを浮かべている。

 姫。お姫様。

 当然、そんな相手を見るのはリオには初めてのことである。

 そして彼女の姫という立場も込みで、リオはとてつもない美人だと思った。

「……あんちゃん?」

 見惚れたリオの顔を見て、ほたるは眉根を寄せた。


「はぁー、極楽、極楽……」

 ほたるが浴槽の湯の中で軽く浮かんでいる。浴槽のふちに頭を置いて、そこを基点に湯の中で体がたゆたっている。

 本当にほたるは女の子だったんだと思わずチラ見して確かめてしまった事実があって、リオは同じ浴槽で風呂に浸かりつつ見ないようにしている。

 すみがこの屋敷は温泉があると言って、2人を浴室まで連れてきてくれたまでは良かった。が、そこで兄弟でゆっくりどうぞなんて言って、彼女は丁寧に去ってしまった。いやでも男と女だしとか、でもほたるは羞恥心なんて知らないような子だけどとか、案の定すぐ脱ぎ散らかして入っちゃったよとか、そうなるとここで妙に遠慮したり嫌がるとそれこそ変態みたいなんじゃないかとか、ぐるぐるとリオは考えていたが、ほたるに早くと急かされて、結局、股間を両手で隠しつつ浴槽へ入ったという経緯がある。

 まあでもほたるの裸なんて見ようが、見まいがどうとも思わないだろうとリオは開き直ろうとする。

 実際、ちゃんと女の子なのか、なんて感想が先行していた。それにほたるの体は小さいし、いつもしがみついてきたり、寝る時に抱きつかれたりしているが、一切、女の子だと感じたり思ったりしたことはなかった。ので、やっぱり裸なんてどうということはないのだと言い聞かせる。――が、リオはろくに女の体なんて知らない純情で年頃の少年である。男女だとかそういう意識はなくとも、やっぱり妙な好奇心めいたものが芽生えかけ、ダメだダメだと半露天風呂から覗ける外の景色に視点を固定する。

「あんちゃん、あんちゃん」

「はいはい、何ですか」

「美代姫さま、綺麗だったね」

「そうだね……」

 この人の世から距離を置きたいかのように聳える屋敷の主人――美代姫は綺麗な人だった。

 それにやさしそうな人柄にも触れてしまった。ほたるが思いつくまま喋り、美代姫はやさしく聞いて、何なら話を広げる。ずっとにこやかにして、微笑を浮かべてほたるの話に付き合っている姿をリオはずっと見ていられると感じた。

「あんちゃん、鼻の下伸びてる……」

「うわっ、ぷっ……!?」

 ずい、と目の前にほたるの顔が出てきてリオはのけぞって軽く湯の中へ沈む。

「あはははっ! あんちゃんおかしいの!」

「ったくもう……」

「おいらお姫さまなんて初めて見た。あんちゃんは見たことある?」

「僕も初めてだよ……。でもお姫様ってことは……偉い人の、娘? 八天将の誰かの……ってこと、なのかな……?」

「あんちゃん知らないの? お姫さまはお城に住んでる女だよ」

「……お城、ねえ」

 しかしお城なんてものは、この日の本では見たことがない。八天将ならお城の1つや2つ持ってるんだろうかと首を捻る。それから八天将以外にもお城に住むような別の権力者がいたりするんだろうかとも考えた。さすがに八天将より偉いなんてことはないんだろうかとか、別系統の権力者だったりするんだろうかと思う。

「はぁー、暑いや……」

 ほたるがざばっと浴槽から立って、浴槽のへりに座る。やっぱりない――と見てしまい、それからまた慌ててリオは視線を外の景色に移す。

 屋根だけがせり出た半露天のこの風呂は、壁がコの字型にしかない。その開いている部分が整えられた庭に面している。よく手入れされた綺麗な庭で、池や松の木が絶妙に配置をされているのだが――そんな日本庭園の仕掛けなどは知らず、ただ、立派で綺麗なお庭だとしかリオには分からない。

「のぼせない内に上がっちゃえば?」

「あんちゃんはまだ入ってるの?」

「んー、まあ、ね……」

「じゃあおいらも」

「……のぼせないでね」

 しかしリオは、本当は風呂を早く出たかった。

 が、ほたると同じタイミングでは上がりたくなかった。ほたるのことだから、コンプレックスである股間を見られたらプププーとバカにするような反応をされたりするのではないかと思って、見せたくなかったという羞恥心からくる理由である。そんなことを考えてずっと浴槽に浸かっていた結果、のぼせてほたるにすみを呼ばれ、あられもない姿で風呂から引き上げられてしまうこととなった。

「あんちゃんさあ……。おいらにのぼせるなって言って、あんちゃんがのぼせてるのっていいの?」

 ほたるに呆れられながら布団へ転がされて、リオは色々と恥ずかしい思いをした。

 すみとほたるに体を拭かれ、浴衣を着せられ、肩を貸されて客間に左右から肩を貸されて移動した後のトドメの一言としては十分すぎる威力だった。


 ▽


「お腹が、減った……」

 風呂でのぼせて布団へ寝かされ、そのままリオは眠ってしまっていた。

 そして目が覚めると空はまだかすかに白んできたというばかりの早朝で、また布団で眠り直そうとしたが空腹が気になって二度寝できなかった。隣の布団で掛け布団を蹴飛ばしながら寝ているほたるを見て、それをかけ直してやってから尿意を催して仕方なしに寝床を出る。

 用を足して部屋に戻ろうとしたら、外で何か物音がするのを聞いた。

 美代姫とすみの女2人で暮らしているところで、もし物騒な人間がやって来たら一大事ではないだろうかとリオは妙な危機感を抱く。きっとすみが朝早くから何か働いているのだろうと思うことにして、しかし一応ということで表を見るために草履を履いて出てみる。

 物音がした方へ向かうと、そこに侍がいた。

 厳密には侍にしかリオには見えないまだ若めの男がいた。

 首に鮮やかな薄い青の布を巻き、腰に大小の刀。長い髪を後頭部の高いところで束ねて巻いた、やや背の高い美丈夫。美代姫とそう年頃が変わらないようにリオには見えたが、それよりもとんでもないイケメンだという印象が先行する。

 その若き侍がリオに気がついて顔を向けた。

「客人という子だな。挨拶が遅れた。……美代姫様の番方を務めている。光十郎(こうじゅうろう)と申す」

「あ、は、はい……。よろしくお願いします……」

 2人だけじゃなかったのかと初めてリオは知る。

 光十郎は手に竹箒を持って庭を掃いていた。どうして昨日はずっと姿を見なかったのかとリオが疑問を感じていると、光十郎は箒を動かす手を止めずにまた口を開く。

「姫様より聞いている。鶴柴へ向かう道中であると。拙者は昨夜、そなたが眠った後に戻ったゆえ、夕餉(ゆうげ)の席にて話は聞いた。ほたると2人、小さき身で鶴柴まで参るとは途方のない困難であろう」

「い、いえ、そんな……」

「せめてここへいる間は身と心を休ませると良いだろう」

「あ、ありがとうございます……。あの……」

「何か」

「……ば、番方、って、何ですか?」

「平たく言うならば……姫様をお守りする役のことだ。ここには姫様とおすみ殿しかおらぬゆえ、拙者がお守りしている。もっとも滅多に人が寄りつかぬ地ゆえ、拙者は来る日も来る日も、掃除や使い走りばかりであるが」

 要するに護衛かとリオは理解する。身分のある女性がいるのだから、1人や2人いても確かにおかしくないだろうと思えた。それに光十郎はそこに立って、ただ箒で地面を掃いているだけなのに妙に雰囲気を感じさせた。腕が立つんだろうかと思ってしまう。お姫様の護衛をしているんだから本物の侍みたいなものかと思った。

 と――そこでリオの腹がぐうと間抜けな音を立てた。

 光十郎に見つめられ、リオは口元を引きつらせる。

「夕餉を食い損ねていたのであろう。……いささか朝餉には早いが、おすみ殿に何かこしらえてもらうとするか。ついて参れ」

「え、い、いいんですか?」

「客人の腹を減らせたままではいられぬ。姫様の恥となろう。遠慮は無用だ」

「ありがとうございます……」

 何だかとてもいい人だと感じつつ、リオは光十郎とともに庭をぐるりと回って裏口から入った。

 すでにすみは起き出し、朝の食事の支度をしていた。光十郎がリオを連れてきて、何か食べさせてやってくれと頼むと嫌な顔ひとつせず、すみは簡単なものだが食事を用意してくれた。本当は客人に食べさせられるようなものではないと言って、昨夜に炊いた白米の残りで梅干入りのおにぎりを握った。それをリオに食べさせながら、沸いていたお湯に味噌をさっと溶かし、きのこ汁も作って椀に注いで差し出す。

 おにぎりと汁物だけながら、それはリオには大層なご馳走となった。

 ずっとまともに食べていなかったことが大きかった。それに何も混ぜていない白飯がこんなにおいしいものだったのかと身に沁みる心地だった。梅干しはとんでもなく塩辛くて酸っぱかったものの、それがまた白米を呼び込んで、夢中で食べて、喉が詰まりかけるときのこ汁をすすって飲み込んだ。そんなリオの食べっぷりをすみは満足そうに見つめ、光十郎も壁へ寄りかかりながらずっと見守っていた。

「ありがとうございました。ご馳走さまです」

「お口に合いましたか?」

「とってもおいしかったです……」

「おすみ殿の手料理はうまいだろう」

「光十郎殿は何をお出してもそう言いますからね」

「何を食おうとうまいのだ。おすみ殿のメシは素朴ながら、天下一のものだろうよ」

「まあ、まあ……ふふふ、いつもありがとうございます」

 とっても仲良しだとリオは2人のやり取りに思わず口元を綻ばせる。

 ここはとてもやさしい雰囲気に満ちていて、居心地が良い。美代姫も含めて3人で仲睦まじく暮らしているのだろうというのが想像できた。


 日が昇り、ほたるが目をこすりながら厠から戻ってきて大きな欠伸をする。

 それでもまだ軽く寝ぼけつつ、澄水を眺めていたリオのところへ来る。ほたるがいきなり変なことをしても大丈夫なように澄水を納めると、まるでそこが定位置とばかりにほたるはリオの胡座をかいている足の上へ座った。そうして体重を預けてくる。

「眠い……」

「じゃあお布団で二度寝しなよ……」

「あんちゃんの方があったかい……」

 むしろほたるの体の方がぽかぽかしているようにリオには思えた。

 そしてどうしてここへ座るのかとも思ってしまう。最近、ほたるからはさらに懐かれているような気がしている。距離感がやたらに近いのだ。しかし子どもならこんなものだろうとも思っている。元々、距離感が近いタイプで、それがさらに時間の経過とともに密着してくるようになっただけだと考えている。

「ねえあんちゃん……いつ、行く? もうちょっとここにいたい」

「うーん……」

「いいでしょ? 昨日、美代姫もゆっくりしてって言ってた」

「じゃあ……ちょっとだけ、お言葉に甘えようか……」

「ほんとうっ? やったぁ」

 嬉しそうにほたるは投げ出している足を上下に動かす。

 リオとて、この至れり尽くせりの屋敷は居心地がいい。

 それに美代姫は綺麗だし、すみや光十郎もとても良い人でもある。きっと内心で迷惑がっているが、客人だからという理由でゆっくりするようになんて言ったわけではないだろうと素直に信じられるくらいにリオは彼らのやさしさを信じている。

 こんなに居心地のいい場所がこの日の本にもあったのだなと安らぎさえ感じるほどである。どこも清潔で掃除が行き届いているし、ご飯もおいしい。しかも露天の温泉つき。庭は綺麗で、ここに住む人達は心があったかい。いっそ永住したいな、なんて冗談めいて思ってしまえた。


 そこでの時間は心が休まり、穏やかで、何の不安もないものだった。

 ほたるが遊びたいと言えば、美代姫が自らあやとりをしようと言い、ほたるに教え、リオに今度はほたるが教えるという形で時間はすぐに去った。

 別の遊びをしたいとまたほたるが言えば、光十郎が蹴鞠でもするかと言い、少し埃の被っていた鞠を持ってきた。美代姫のいる部屋から眺められる庭で光十郎がぽんぽんぽんと鮮やかに蹴鞠をリフティングして見せて、ほたるがやりたがって見事に鞠をあっちこっちへ蹴り散らかす。リオもせがまれてやってみるがほたるより酷いもので皆から笑われてしまったが、悪意なくおかしそうに美代姫が笑っていると羞恥心よりも、高まるものを感じて楽しかった。

 遊び疲れて休んでいればすみがお茶を持ってきて、ほたると美代姫がずっとお喋りをする。とっ散らかったほたるの話をやはり美代姫は楽しげに聞いていた。

 そして食事もおいしい。

 ここは極楽か、とリオは三度目の晩ではとても久しぶりに熟睡してしまった。

 知らずの内に溜め込み、張り詰めさせていた緊張が解消されていた。


 そんな日々を過ごしていたある、雨の朝だった。

 朝餉の席に美代姫が現れなかった。いつもは美代姫がいる部屋に膳が運ばれて、そこで食事という流れだったのに寝泊まりしている客間にすみが食事を運んできたのである。

「美代姫さまは?」

「姫様は少しお体の具合が良くなくってねえ……。ごめんなさいね、ほたるちゃん」

「そうなの? 姫様、へーき? おいら、顔見に行ってもいい?」

「おひとりでゆっくり休まれたいようだから、良くなってからにしておくれ。ね?」

「……はーい」

 ほたるはつまらなそうに返事をした。

 昨日もいつも通りの美代姫と思っていただけにリオも少し心配になった。しかし、こんな辺鄙なところへ隠れ住むかのように暮らしているのだから、例えば療養だとかの目的でいるのではないかという想像も働いた。ならばいきなり具合が悪くなるというのも頷ける。

 しかしそれはそれとして、ほたると同じように心配なので偶然を装って彼女の部屋に面した中庭へ行ってみようかとリオは考えてみた。

 食後にこっそり表へ出て、館を回り込むように美代姫の部屋を目指してみる。――と、その途中の小屋の前に光十郎がいて見つかった。

「リオ殿、いかがなされた?」

「え、あ、あー……えと……ほ、ほたる、来てないですか……?」

「いや、こちらには。お探しならば拙者も――」

「あ、ああいえ、あの、いえ……! べ、別に急いだりとかじゃないので、だ、大丈夫ですから……。えーと、あー……こ、光十郎さんは、こんなところで、何を……?」

 光十郎はその小屋の戸口の小さな屋根の下で佇んでいた。戸に背を向けるような形で、雨宿りをするにはどうも不自然極まるような場所で。

「……大したことでは」

「そ、そう……ですか……。あ、じゃ、じゅあ、ほたる探してるからこれで……。ダメって言われたのに、み、美代姫様のお部屋とかに行ってたりはしないなかなあ? ほたるは困るなァー……」

 かなり苦しめな、聞かれてもいない言い訳を口にしながらリオはそこを通過して美代姫の部屋を目指した。

 雨降りでも縁側の雨戸は開かれていて、一目でそこに美代姫がいないということを知る。具合が悪いなら眠っているんじゃないのかとリオは首をひねる。別に寝室でもあるのだろうかと思って、そのままぐるりと屋敷を一周してみたが庭から眺められるところに美代姫の姿は見つけられなかった。


 客間へ戻るとほたるが退屈そうに足を投げ出して柱に寄りかかって座りながらあやとりをしていた。

「あんちゃん、おいら、退屈……」

「そうだね……。雨だもんね……。美代姫様も寝てるっていうし……」

「おいら、やっぱり美代姫様のお見舞いしたい」

「……気持ちは分かるけど、おすみさんが今日はよしてって言ってたんだからやめとこう? 泊めてもらって、ご飯までご馳走してもらえてるのに、これ以上迷惑かけるのは良くないよ。ほたるだってそう思うでしょ? 元気になるまで待ってようよ」

「うーん……」

 あんまり納得できていない様子でほたるはあやとりを放り出した。座布団に座ったリオのところへ四つん這いで来て、そのままぱたんとリオの膝へ顔を乗せるように伏せる。そうして顔をリオの足へ擦りつけるような動きをしてから顔を上げる。顎先が地味に足へ刺さって少し痛いので、手を置いて顔を横向きにさせてやると大人しくほたるはそうした。

「どうしたの、急に甘えるみたいな……」

「退屈〜……」

「そう……。光十郎さんにでも遊んでもらえば?」

「それもいいけど……あんちゃんが遊んでよ」

「何をして?」

「……あんちゃんが考えて」

 無茶振りがすぎるので、リオはため息だけ漏らして何も答えなかった。ほたるはごろんと体の向きを首に合わせるように寝返りを打つ。猫でも撫でるように何となくほたるの頭を撫でて、リオも退屈を持て余して過ごす。

 いつの間にかほたるは眠ってしまっていた。

 リオもやることがなくて暇なので座布団を折ってほたるの枕にしてやってから昼寝にいそしむことにした。


 昼前ごろにおすみに起こされてリオとほたるはお昼をもらう。

 雨はまだまだ降り続いていた。

「……もう寝られねえや……」

「そりゃ、あんだけ寝ればね」

「ねえ、このお屋敷の探検しよ、あんちゃん」

「探検って……迷惑だよ……」

「でも美代姫様は好きにしてって」

「そういうのは社交辞令って言って、そう言っておくのが礼儀だから言っただけで本当にその通りの意味じゃないんだよ」

「でも言った! 行こ、あんちゃん!」

 聞く耳を持たれずほたるに引っ張られてリオは渋々、それにつきあうことにした。

 しかしもう数日滞在をしていて、広い屋敷だが使われている部屋というのはそう多くなく、ほとんどが襖で区切られたただの座敷だろうとリオはあたりをつけていた。今さら探検も何もあるまいと思ってほたるに引っ張られるままついていくと、想定外なことにほたるは母屋を出た。

「この蔵、中に入れるかな?」

「いやいやいや、ダメでしょ……」

 いくつかある通用口を出てすぐにほたるはでんと姿を見せた白壁の蔵を見上げる。

 そこでふと、今朝、光十郎が何故か立っていた建物の前だと気がついた。ほたるは無遠慮に蔵の引き戸に手をかける。どうせ鍵か何か掛かってるだろうと勝手に思っていたリオだったが、ほたるはそれをあっさり開いてしまった。

「開いた」

「えっ。ちょ、ほたる、ダメだよ、空いてるからって……」

「でも開けてるんなら盗られるようなものないんじゃない?」

「そういう理屈じゃない――あ、こら」

 ささっとほたるは中へ入ってしまってリオは連れ戻すために中へ踏み入る。

 蔵の中は暗かった。高いところにある採光窓から少しだけ光が差すだけで、雨降りとはいえ昼間の明るいところから中へ入ると暗すぎてしまってよく見えない。目を凝らしてリオはほたるがちょろちょろと動き回るのをようやく確かめた。色々なものが蔵の中へしまいこまれていて、その間を縫うようにしてほたるは見て回っていた。

「ほたるっ、ダメだって言ったでしょ」

「見て、あんちゃん、あすこ……光が漏れてる」

「えっ?」

 ようやくほたるの肩を捕まえて声をかけると、ほたるが隅っこを指差す。確かに光が漏れていた。しかも床から。何だろうと目を凝らしていたらほたるはリオの手を逃れてそちらへさっと行ってしまう。どうしてこう人のいうことを聞かないんだろうかと思いつつ、しかし興味もあってリオはそっとほたるがしゃがむところへ行って同じように腰を屈める。

「床下だよ、あんちゃん。誰かいる……。泥棒?」

「光十郎さんじゃないかな……? 今朝、ここの表に立ってたし」

「……何で知ってんの?」

「さ、散歩だよ、散歩……」

 苦しい言い逃れをしておいてリオは耳を傾ける。

 何か物音もしていた。床下には梯子がかけられていて、その下の空間から蝋燭か何かのほのかな明かりが漏れていた。

「光十郎のあんちゃん……独り言でもしてんのかな?」

「そんな人じゃないように見えたけど……」

 声をひそめてそんなことを言い合った直後、何かが崩れるような物音がしてリオとほたるは飛び上がりかけた。何か叫んでいるような光十郎の声が聞こえる。何か起きているとリオが勘づくと同時、ほたるがさっと梯子に手をかけて降り始めていた。

「あ、ほたるっ」

「だって気になるもん!」

「もん、じゃないの! こらっ、ああもう……!」

 捕まえようとしたがほたるはその前に降りてしまってリオも仕方なしに梯子を降りる。

 すぐに床へ足がつく。そこはただ扉があるだけの空間で、壁の燭台に火が灯されていた。ほたるがその奥の戸を開く。


「気を強く持て、美代……! 怪性に堕ちるな!」

 ほたるが腰を抜かし、後から来たリオがそれを支えてからその地下室を見て言葉を失う。

 光十郎が怪物に襲われていた。気味の悪い、何か液体でコーティングされたような艶があるおぞましい白色の怪物で、大きな頭の上部から何本もの職種みたいなものがうねうねと動いている。頭も胴もその気味が悪い白色をしており、体の中心の腹側では怪しい桃色の斑点があってそれもかすかな光を発していた。蜥蜴のような長い胴に足は蜈蚣(むかで)のように何本も生えている。

 それがドタドタと石の床を踏み鳴らすようにして室内を駆け回り、そうして光十郎を巻き込んだり、頭から生えている先端が薄気味悪い桃色に光る触手で捕まえて壁へ投げつけたりするのだ。

 光十郎は必死に呼びかけるばかりで、刀を握っているのにそれを構えるばかりで振ろうとはせずただ凌ごうとするばかり。

「光十郎のあんちゃん!」

「っ――ほたる、リオ殿!? いけない、ここは……!」

 ほたるに呼びかけられて光十郎がその怪物から目を離した。

 それと同時に触手が光十郎の体を激しく打ちつけて壁へ叩きつける。当たりどころが悪かったのか、光十郎は腕をついても起き上がれない。そこへ怪物が迫って触手で光十郎を持ち上げると、大きく口を開いた。口内には歯のような鋭い突起が大小びっしりと生えている。

 嫌な嫌な、最早、事実にも等しいが信じたくない予感を抱きながらも、リオは澄水を抜いて怪物へ駆け出す。

「リオ殿、おやめに――ぐっ!?」

 ごりごりと光十郎の体が触手に強く締めつけられる。

 全身の骨を砕いて柔らかくしてから一飲みにするつもりだというのは誰の目にも明らかだった。

 しかしそうなる前にリオが澄水を閃かせる。触手を一太刀で断ち切って光十郎が落とされる。触手を斬られても怪物はたたらを踏んで少し後退しただけで、大きな二対の目と、その斜め上、外側へぽつぽつとついている小さな三対の目――8つの瞳でリオを見据えると、即座に触手を再生させた。

「ほたる、光十郎さんを連れて下がって! 気を惹くから!」

「いけません、やめてください――やめろっ! 美代を傷つけるな!」

 そうだろうと分かっていたが、それでもここで大人しくは引きがされなかった。

 リオが動けばそれを追って怪物は動く。動けない光十郎から距離を取るように対角の隅へ走る。触手が足元を掬おうと伸びてきたが、それを切り払う。ほたるが意を決して地下室へ飛び込んで光十郎を引っ張るのを見る。このまま気を惹こうと澄水の先を怪物の鼻先でちょろちょろと動かすようにして襲ってきた触手をどうにかこうにか躱す。

 光十郎がやめろと叫ぶが、聞かないようにしてリオは必死に触手を捌く。すると怪物が突進をしてきた。慌てて壁沿いに横っ飛びになってリオはそれを避けて首を巡らせる。上半身を反らせるようにしてその無数の足で張りつき、下半身で体を支えるようにしていた。そのまま怪物が触手を伸ばしてきてリオはあっさりと絡みつかれたが、どうにか澄水を握った腕は出せて、それで触手を切りつける。だが切断には至らない。

 このままでは先ほどの光十郎のように全身を締め上げられる。きっと死にはしないのだろうが、どれほどの苦しみか分からないから容認はできない。ただ必死になって職種の中から左腕も出し、両手で握った澄水を何も考えずただ振り下ろした。

 その瞬間、澄水の見るもの全てを魅了するようなその乱れ波紋から清浄な水が流れ出すようにして溢れた。

 それとともに振り切られた刃が届いていないはずなのに怪物を切り裂いて、しかもこれまでと違って痛みを感じさせたようで怪物がおぞましい鳴き声を上げながらリオを放り出す。

「あんちゃん!」

 呼ばれてリオが地下室の入り口を見ればすでにほたるが光十郎とともにそこへ戻っていた。

 痛がるようにして壁や天井を這い駆けずる怪物に巻き込まれないようにリオは走って、思い切り扉を閉めた。


 ▽


「見てしまわれたのね……姫様の呪われてしまったお姿を」

 母屋に光十郎を背負って戻ってくるとおすみは驚いて、すぐに彼の手当てをした。

 うわごとを呟き続けていた光十郎に傷の手当てをして布団へ寝かせると、おすみは2人のところへお茶を持ってきて話し始めた。

「新月の日になると姫様はあんな姿になられてしまうのです。……あの呪われた姿の時のことを、美代姫様は覚えておられるようですが、自分ではどうにもならないからと蔵の地下へお篭りになられます。光十郎殿は姫様をお慕いしておられるから、呪われた怪性の姿となられていても番方として……なんて言い訳をして、おそばでいつも見守っておられるのですよ。いつもは美代姫様に襲われてしまうことはないはずなのだけれど……最近は怪性となっている時間も長くなられているということだったから、だんだんと悪くなっているのかも知れませんね……。2人にはあんな姿をお見せになりたくはないから、具合が悪いということにして1日過ぎるのをお待ちするというのが姫様のお考えだったのですが、きちんと申し上げるべきでした……。光十郎殿をお助けいただいて感謝いたします。姫様も……光十郎殿を傷つけてしまわれたことには心を痛められるでしょうが、もっと危ういことになっていたかも知れませぬ。そう考えればきっとこれで良かったのでしょう。有り難う存じます」

 深々と座ったまま頭を下げられてしまい、リオは聞いた話と合わせて動けなかった。

 ほたるも目をぱちくりとさせながら何も反応ができないでいる。

「どうして美代姫様……あんなのになっちゃったの? ……鉢割れの狐狸畜生でも食っちゃった……?」

「いいえ、姫様は何も悪いことなどはしておられません。ただ……美代姫様のご先祖様の業によるものだそうです。その昔、ご先祖様がそれはそれは珍しい白い山椒魚を見つけられたのだそうです。その山椒魚は桃色に光る真珠を体から出したとかで、見世物としながら幸運を招くお守りとして、その真珠を売り捌いて大きな財を成したそうです。ですが……伝わっている話ではその桃色の真珠は山椒魚を酷く痛がらせる方法でしか取れなかったと。そのご先祖様がお亡くなりになられる前の晩、夢でお告げがあったというのです。子孫の内、最も美しい娘が産まれた時、その娘の美しい盛りに醜悪な怪性となる呪いをかけた……と。長らくただの言い伝え、財をなされたそのご先祖様のお話として受け継がれておりましたが、美代姫様は16歳となった新月の頃より、その呪いによってあのようなお姿になられてしまわれたのです」

「また呪い……」

 この辺りはそういう怪異に事欠かない不吉な場所なのだろうかとリオは表情を暗くする。

 しかも今度も動物絡み。動物の祟りというものがこの日の本では実在しているのだと実感してしまって怖くなる。

「美代姫様かわいそう……。助けてあげらんないの?」

「姫様のお父君が方々を巡って、どうにかこの呪いを退かせられないかと大変、奔走をされましたが……。しかも姫様は一人娘でございますから、姫様が子を産まねば家も断絶されてしまうという憂き目。……ですがお父君はその心労で倒れられ、一昨年の秋にお亡くなりになられてしまわれました。あとを追うようにお母上も……」

「ひとりぼっち、なんだ……」

「ええ。……わたしは姫様がお生まれになられる前からお仕えしておりました。光十郎殿もお父君が、姫様のお父君にお支えされていたご縁がありました。ご両親を亡くされ、呪いにおかされた姫様だけではもうお家は断絶そのもの。家臣はわたしと光十郎殿を残して全て去り、今は3人でここで静かに暮らしておりました」

 だからこんなに歓迎してくれて、親切にもてなしてくれたのだなとリオは腑に落ちた。

 未来というものがなく、だんだんと悪くなっていく呪いを前にただ静かに暮らすばかりの生活。きっと呪いを恐れて誰もこんなところへ顔を出すこともない。だからいきなりやって来たのにこれほど親切に滞在させてくれていたのだろうと。一時とはいえ旅人の訪問という変化は喜ばしいものだったんだろうと想像ができた。


「美代姫様は……」

 声がして客間の入り口に3人が目を向けると、襖へ手をかけて寄りかかるようにしながら光十郎がそこに立っていた。

「美代姫様に、お怪我は……」

「光十郎殿、いけません、寝ていなくては……!」

 慌てておすみが光十郎を支えようとしたが、それを振り払うようにして光十郎はリオの方へ来ると胸倉を掴んで顔を寄せる。

「美代姫様に、お怪我はないのだろうな……!」

「っ……それは、分からな――」

 恐ろしい剣幕で言われてリオは曖昧にそんな答えをしかけ、途中でいきなり殴り倒される。

「あんちゃん!? 何すんでい!?」

「俺は、美代の番方、姫を傷つけるものを置いておける――か……」

 ふらりと力を失って光十郎が倒れる。気絶したようでリオは殴られた頬を押さえたまま、覆い被さるように倒れてきた光十郎を慌てて支える。

「光十郎殿……こんな体で……。申し訳ございません、リオ殿。お怪我は?」

「だ、大丈夫……。放っておけば大丈夫ですから……」

 そう答えつつ、光十郎の形相が目に焼きついて離れずにリオは心臓をただただ跳ねさせる。

 人の怒気に触れるのは大の苦手だった。自分が悪かろうと、そうでなかろうと、途端に萎縮して怯えてしまう。だから光十郎の言葉が、顔が脳に焼きついてしまった。

「光十郎殿は姫様とは幼馴染みでございます。……姫様の呪いに誰よりも打ちひしがれたのは光十郎殿でしょう。呪いにおかされたとて、姫様へのお気持ちには翳りがなく、何より大切にされておられるのです。……本当に、何とお詫びを申し上げれば良いものか。リオ殿へ八つ当たりをするなど……」

「い、いえ……あの、大丈夫です……。それに、ずっと光十郎さんも、やめてくれって叫んでたのに……勝手にしたこと、なので……」

「でもあんちゃんが止めなきゃ、光十郎のあんちゃん、今頃食い殺されてた。なのにぶん殴るなんておかしいやい」

「……おかしくないよ」

 いきり立つほたるを落ち着かせるように頭を撫でてやり、リオは思う。

 どれだけ醜悪な怪物の姿にされたとしても、あの美代姫。人の姿は美しく、思いやりに溢れて、素敵な美人で。ほんの数日でリオがそう思えるような人物で、光十郎からしたら幼馴染みで、他の家臣がおすみ以外全て去っても彼女の番方と名乗って近くに居続けるほど好きなのだ。怪物の姿であっても傷つくところを見たくはない。自分が襲われていても反撃ができないほどに彼女を光十郎は愛しているのだろうと分かる。

 だから怒った。

 やるせなくて手を出した。

 理解できないことではない。

「……あ、あのね、あんちゃん、おばちゃん」

「どうしたの?」

「最後に……あんちゃんが、刀から水出して切ったでしょ? あの時……美代姫の姿がね、ちょっと変だった」

「変とは……?」

「確かに異常に痛がってはいたみたいだけど……」

「そうじゃなくって、あの水で濡れたとこ……うねうねのとこがね、黒く見えたの。美代姫様の髪みたいに見えた。……暗かったから、ちゃんと見えたわけじゃないけど、おいら、その時に美代姫様だって見て思った。もしかしてあんちゃんの刀なら、美代姫様、戻るんじゃない……?」

「……え?」

「……それは、真のことですか?」


 澄水は変化した。

 それをリオははっきりとは理解していなかった。

 だが無迅という悪霊が宿っていて、その無迅が澄水を通じて体を操ってくるというのがかつての澄水の神器としての力だったように思える。

 それが一颯というなまなりとの戦いで砕け散って、しかし新たにもらった刀がかつての澄水そのもののように変化し、大事に持っていた澄水の欠片が消えていて、きっと新しい澄水として生まれ変わったのだとは思っていた。

 もう無迅はいないからかつての澄水の力というものも失われている。

 だがその代わり、生まれ変わった澄水に別の力が宿ったのではないかとほたるの発言からリオは考えた。

 聞く話によれば――リオにその記憶はないのだが、先の蛇の目の火途の巳影との戦いで、火を発する巳影の刀と打ち合ってもそれを澄水が封じていたらしい。これもほたるの言葉なのでどこまで信用していいかリオには分からない。

 ほたるの発言を信じるならば確かに澄水にはこれまでにない新しい力がある。

 それは水に関連をするもののようだと連想もできた。

 火を鎮める水――というのは理解ができる。

 そして呪いを受けた美代姫を清める水――でもあるのだろうかとリオは悩んだ。

 神器というものについて知ることはそう多くない。そもそも千差万別すぎる。だからどこまでできるのかというのは試さないことには分かりようがなかった。それにどうしてあの時にだけ、澄水から水が溢れ出たのかも分からない。ただ必死すぎた。巳影との戦いの時など覚えてもいないので実感の欠片さえもない。

 しかし、もし。もしも、ほたるが言うようなことが真実であれば――美代姫の呪いを解けるのかも知れない。

 何も悪いことなどはしておらず、善良で、しかも美人のお姫様ときたら、そうできるならしてあげたいとリオは思ってしまうのだが、もし、ただの仮説でしかなくて、ほたるの発言も何かの見間違いであったら、美代姫を手にかけて、きっと光十郎にも恨まれて殺されるかも知れないと思った。光十郎に殺されなかったとしても、仕掛けてきたら応戦せざるを得ずにリオが彼を手にかけることも考えられる。

 半信半疑で、安易にやるべきことではないとしかリオには結論を出せなかった。


 ▽


 夜を迎え、食事をして、入浴し、いつもと同じように客間へ貸された浴衣で戻ってきて、布団の上に座ってから何となく蔵の方へ顔を向けた。起きている間は大体騒がしいほたるは、今日はおすみと一緒に入浴するということで静かな時間を満喫できる。――はず、だったのに、その貴重な静けさが今は何だか余計なことを考えてしまいそうで気が滅入ってくる。

「御免。リオ殿、失礼する」

 しばらくそうして気にしていたら、襖の向こうから光十郎の声がした。

 少し驚いたが光十郎の声は落ち着いたものだったので、リオは慌てて体をそちらへ向けるだけで怯えはしなかった。ずっと、光十郎が目を覚ましたらどうなるだろうと気を揉んでいたが、声の調子からもういきなり殴られることはないだろうと思えた。

 襖を開けて入ってきた光十郎は畳の上で正座をしてリオと向かい合う。

「か、体は大丈夫ですか……?」

「お気遣い心入る。……昼はすまぬことをした。リオ殿は拙者の身を案じたというのに、拙者は己のことばかりで何も気が回らず、ただ激情のまま手を上げて。どうかお許しいただきたい。すまなかった」

「い、いえ、そんな……あの、大丈夫ですから、本当に……。そんなに深々謝られても困っちゃうので……」

 律儀に謝罪に来てくれたんだろうかと、まだ痛そうな体なのに義理堅いものだと困惑しながらリオは頭を下げた光十郎に返す。礼儀というものが大事だろうとは分かるがこんなにきっちりかっちりされたって、そうされる側がどう振る舞えばいいのかまったくもって分からないというのが本音だった。

「……リオ殿にお救いされた際、不思議なものを見た」

「不思議なもの……?」

「リオ殿が刀から水を出し、美代姫様を……斬られた時に。美代姫様のお顔があの怪性の中に見えたのです」

「え……?」

 それはほたるが目撃したものと似たようなものを光十郎も見たのかとリオは顔を引き攣らせる。

「リオ殿……その刀、よもやと思ったのですが、神器なる代物では?」

「……そう、らしい……とは知っていますけど」

「神器には人智を超えた、秘めたる力があると聞き及んでいる。……その刀ならば美代姫様をお救いできるのではないかと思っているのだが」

「い、いや、でも……そんなこと言われたって、そうしようと思ってやったことじゃないし、どうすればいいかなんて分からないし。……ただ単に美代姫様が傷ついて、それで、そう見えたかも……とか」

「……美代姫様はもう、長くはない」

「長くない……?」

「おすみ殿から事情をお伺いしていたと思うが、聞いてはおらぬのか? 美代姫様は呪いにおかされた頃より、少しずつお体が衰弱なされている。屋敷の中で静かに過ごすしかできぬほどに。……夏の盛りは涼やかな竹林を散歩されて、秋には紅葉のえもいえぬ名所を求めて山を歩かれて、冬に雪が積もれば雪玉を投げ合ったものだ。活発なことをされるのが好きだった。……だが今は屋敷の中で静かに暮らすしかできず、外へ出ることにも億劫で、ただ静かに家の中で過ごすだけで眠るころには酷くお疲れになる。それを口には出されていないが少しずつだが確実にお体は蝕まれておられる。怪性の姿に変じられてしまってから元のお姿になるまでも随分と長くなってしまった。当初はほんの半刻ほどでしかなかったはずであるのに、もう一昼夜はあの姿から戻れずにいる。……拙者は最近、考えるのです。今に怪性の姿から元のお姿に戻ることができなくなり、人としての心も消え失せ、美代姫様は美代姫様で亡くなるのではないかと。荒療治になってしまうとしても……どうにかして、美代姫様をお救いしたい。だからリオ殿、どうか、その神器の力を振るっていただけないものか。この通り、どうか、お頼み申す」

 また光十郎が頭を下げる。

 もう元の姿に戻れないかもしれないという光十郎の見立てについて思うところはあった。

 本当にそうなのだろうかと、思い詰めすぎているだけなのではないか。それに推測だけの情報でしかない。

「もし澄水にそんな力があって自在に引き出せるなら、もちろん……力になりたいと思いますけど、僕は今日初めてそんな可能性を他人から知らされただけで、何も自覚とかないんです……。ただ斬るだけ斬って、もしかしたら……美代姫様をそのまま斬り殺してしまうかも知れないって考えると……分かりましたって、簡単に言えません」

「構いません。リオ殿が斬り殺したことになったとて、それを懇願したのは拙者。誰にもリオ殿を責めさせはしません。リオ殿のお心が苛まれると仰るならば、その苦しみの捌け口として拙者がいくらでも斬られましょう。死にましょう」

「そんなこと意味ないじゃないですか」

「それでも、拙者はリオ殿へこう頼むしかない。……どうか、どうか、いかなる結果になろうとて、何かをせねば拙者が収まらぬのです」

 頭を下げたままに顔だけ上げて、じっと光十郎はリオを見つめた。

 自分勝手だとリオは言いたくなった。危なかったから助けてあげて、かと思えばキレて殴ってきて、今度は斬ってくれという。失敗して嫌な思いになったなら自分を斬り殺してくれなんていう。あまりに身勝手だと思った。

 しかしそれだけ必死で、それだけ美代姫を想っているのだとも思った。


「……山の向こうに、小さな農村があったんです。

 鉢割れの狐の呪いで村は作物が枯れてて、子供を生贄にすることでどうにか食いつなごうとしている人達がいて、猪八さんという人の病弱な子が次の番っていう時に、僕らは飲まず食わずでどうにか辿り着いて……」

 リオは猪八の村でのことを拙いながらに話した。光十郎は怪訝な顔で黙って一部始終を聞いた。

「結局、親が子を思う気持ちなんて……当然のものなのに、そのせいで、とんでもないことになっちゃったんです。人だろうが、動物だろうが、感情はあるし、大事なものを大事だと思う気持ちに変わりはないんだなって……。多分何かがあったら、光十郎さんのその美代姫様への気持ちも呪いになるんじゃないかって……。誰をどう呪うかは知らないし、本当にそうなるとは言い切れない……ううん、きっとそうはならないかも知れないけど、強すぎる、大きすぎる感情なんて、何がどうなるか分からないから怖いものだって……思いました。光十郎さんは、どんな結果になっても……今のその気持ちが、絶対に悪いものにならないって、言い切れますか……?」

 リオから発せられた問いかけに光十郎は神妙な顔をして考えた。

 もしもこれが高名な、立派な学問を修めた御仁からの問いかけだったなら、光十郎はポーズとして絶対にそうはならないと即座に答えた。迷いのないこと、確固たる芯を持ち合わせていること、そういう自負があるからこそ大丈夫であると示すために。克己心があり、いかなることになろうと己の招いたことであると責任を持つと表明をするために。

 だがリオの弱々しい、今にも泣き出してしまいそうな迷子のごとく痛切な顔で問いかけられてしまうと、そんな無責任な答えを出すわけにはいかないと思った。心底、こんなことを頼まれていることそのものが嫌なのだろうと見て取れた。それでもどうにかしてあげたい気持ちがないわけではなく、しかし恐ろしいから、そして誰かが言ったことをしただけだからと無責任に放り出すこともできないから――きちんとその責を負おうと思うから、こうして自分の気持ちを確かめるために尋ねているのだろうと理解した。

 長い沈黙が訪れた。

 じっと光十郎は自分の中に答えを探す。

 やがてそっと、光十郎は体を起こして背筋を伸ばした。

「ご案じ召されるな」

 柔らかい声で光十郎が言う。

 まっすぐにリオを見つめ、柔らかな、温かみさえ感じさせるような、しかし微笑みはなく、引き締まったという顔でもなく、自然体に、堂々と。

「人の一生が無常迅速であるがゆえ、ただ拙者は明日をも知れぬ美代姫様の一助とならんがためにお頼み申していること。ゆえにこそ、美代姫様の身に良からぬことが起きたとて、それはただ息をするのみの日々から逃れるというだけ。……何ら、リオ殿のお気に留めることではない」

 いまいち、光十郎の使った言葉の意味を正しく理解することはリオにはできなかった。

 ただ分かったのは光十郎が全てを受け止める心の整理がついたのだろうということと、二代目無迅として――無常迅速などという言葉を引き合いに出されてしまったら、斬るしかないだろうという因果だった。


『いいか、覚えておけ。俺はオイラァ、人斬りだが殺し屋じゃあねえ。刀は持つが侍じゃあねえ。

 斬るべきは斬りてえもんだけよ。てめえの斬りてえもんを、片っ端から斬っちまいな。

 その人斬りが頼られてよ、無力でバカで度胸もねえような連中の、溜飲を下げてやれるもんになりゃあ、それが立派な剣客ってえもんよ』


 美代姫と光十郎は想い合っている仲で、もう立場というものはないも同然で――この呪いさえ断ち切られれば2人は結ばれるのだろうとリオは思う。

 それは何だかちょっと――とても、悔しいような、がっかりするような、自分が情けないような、そんな気持ちが湧き立つものだったものの、斬りたいものを見定めた心地にはなった。

 先祖の業でかけられた呪いなど、理不尽というべきものでしかないのだ。

 ならばそんな悪因は叩き斬ってやろうと決めた。


 ▽


 地下室の戸を光十郎が開ける。

 すでにリオは澄水を抜いて片手にぶら下げるように握っていた。

 中にいた怪物がすぐに物音に気づいてリオと光十郎へ顔を向けて、顔についている触手が鎌首をもたげるように持ち上げられた。

「リオ殿、拙者にできることがあれば何なりと」

「……邪魔だけしないで、そこに立っててください」

 何の悪意もなくただ自然にリオはそう答えて、自分の言葉がどれほど辛辣だったかも気づかないままリオは中へ踏み入る。どたどたと無数の足を動かしながら怪物がリオを向く。

 合図もなく、静かにリオは駆け出し、怪物に迫る。

 触手が小さなリオの体を捕まえようと伸びたがそれを切り払って肉薄すると、後ろの方の足で上体を持ち上げて怪物はリオを押し潰そうとした。ぺしゃんこにされずリオは右側の足を切り飛ばして、そこから転がり出るなり、すぐに澄水を叩きつける。深々と不気味な白い皮膚に赤い傷が刻みつけられるが怪物は怯まない。触手と同じようにその腹も、切り飛ばした足もすぐに生えてくる。

 痛がることさえないことから、有効なダメージというのはやはり澄水の力を引き出さないといけないのだろうとリオは確信を得る。

 どすどすと地団駄を踏むかのように怪物が足をバタつかせてリオを踏み潰そうと暴れ回る。たまらずに距離を取るようにリオは逃げたが、そうした瞬間に触手で手足や首を捕まえられて持ち上げられた。触手はよく分からない体液のようなものに濡れていた。少しぬるりとするが触手は筋肉のようなこぶが皮膚の下にたくさんあり、そのせいでしっかりと締めて持ち上げてくる。思うように抜け出せず、刀を振ろうにも触手に拘束されて逃れられない。

 怪物が大きな口を開け、触手でリオをその真上へと持ってくる。

 放り出された時に口を切り裂いてやると考えた直後、触手ごとリオは怪物の口内へ突っ込まれた。そのまま口は閉ざされる。口内の無数の鋭い歯が全身を切り刻み、しかもとんでもない圧を加えてくる。生暖かくて痛くて、身動きも取れない状態で咀嚼をされる。それでも必死に澄水だけは手放さないように握り続ける。

 先ほどから刀を振るう度、自覚のない澄水の力を引き出そうと力んだりしてみてはいたが、水など出てくる気配もなかった。

 やっぱり無理だった。

 殺すどころか、自分が食い殺されるだけだったのかと後悔がよぎったが、どうせ死にはしない体だと思い出してしまう。

 でも痛い思いをしながら体が治っていく、あの時間はとんでもない苦行でしかない。いっそ死にたいとまで思わされる苦痛が待っている。それは嫌だと歯を食いしばった。

 どうして澄水は力を発揮してくれないのかと、咀嚼される痛みに耐えながら考える。ごくりと飲み込まれる前に脱出をしたい。

 ほたるが言った、以前の2回と今とで違う点が分からない。そもそも記憶もない状態だったのと、必死すぎて何をしたかも覚えていない点。それじゃあ何をどうしたって共通項を見出せないだろうとリオは嫌になる。やっぱり無茶だった。やっぱり引き受けるんじゃなかった。後悔ばかりが押し寄せてくる。

 だがふと、思い出してしまう。

 屋敷にいきなり来て泊めてほしい、食事を恵んでほしいなんてお願いを快く聞いてくれるばかりが、ゆっくり寛げるようにともてなしてくれた。これほど丁寧にもてなしてくれたやさしい人々に、このこと以外に恩返しなんてできるのだろうかと。むしろここで自分が呪いを断ち切らない限り、恩を返す相手さえもいなくなってしまう。恩義に報いるためだなんて大層な立派な心持ちではなくて、ただ、迷惑をかけてしまって悪いなというだけで立ち去ることへのささやかな申し訳なさから、リオは再度、奮起する。

 頼むよ、お願いだよ、と握り締める澄水に胸の内で頼む。

 機嫌を伺うようにして、小指から順に指一本ずつでぎゅっと握り直して。

「もう他の神器とか使わないし、浮気しないから――」

 そんな約束を勝手にしてみて、だが、うんともすんともいうこともなく。

 ゴリ、と左足首の方が噛み砕かれたのを感じて、その痛みでリオは反射的に澄水を握る腕を振るう。


 リオが飲み込まれたのを見た光十郎は息を飲み、その様子をただ眺めていた。

 触手ごと口の中へリオは突っ込まれて、怪物はもぐもぐと咀嚼を続けている。まだ嚥下されていないが、もう数分にもなろうとしている。今ごろ、リオのあの細くて薄い体はぐちゃぐちゃの肉片になっているのではないかと光十郎は戦慄している。だが、普段のあの怪物は食おうとする前に触手で締め上げようとするが、それを今はしなかった。咀嚼する力が弱いからあらかじめ触手で全身を砕こうとするものの、リオが痛いものとみなしてそれをすっ飛ばして早々に口へ入れてしまったのならまだ無事なのだろうかとも考えられる。

 今すぐにでも飛び出したい気持ちを抑えながら、光十郎は見守る。リオに託したのだから、邪魔はしまいという一心で耐えていた。

 するといきなり、怪物の口の中が膨らんだ。頬を膨らませたかのように一箇所が内側から膨れ上がったかと思うと、大量の水を吐き出すようにして口からリオも吐き出されてくる。光十郎はリオが飛び出たのは見たがそれを目で追いかけはせず怪物に注視する。また怪物が美代姫の姿に戻らないかと確認をするために。しかし今度はそういった兆しはなかった。

「ぷはっ――うぅわっ!?」

 吐き出されたリオは息を吐き出し、それからすぐまた触手に襲われて床を転がる。

 どうにか身を持ち直して駆け出そうとしたが左足が激しく痛んで前のめりに転倒し、そこへ怪物の上体が覆い被さってプレスする。また光十郎は目を見張ったが、怪物が押し上げられて天井へぶつかって跳ねた。リオが潰される寸前に澄水を立てていた。そこへ怪物は覆い被さり、澄水から放たれた水の圧で突き上げられていたのだ。

「何となく分かってきた――」

 もう一度立ち上がり、左足を庇ってリオは右足に重心を置きながら澄水を構える。

 怪物が触手を放つも、リオが触手を巻き上げるように刀を振り上げると白い波を伴った水が壁のように立ちはだかってそれを防ぐ。今度は怪物が突進をする。刀を振り上げた状態でリオはそれを待ち受ける。接触の寸前、リオが刀を撃ち落とすと今度は滝のように水が刃から溢れ出て怪物がそこを通過していった。

 おぞましい悲鳴を怪物が上げて、奥の壁へぶつかってのたうち回る。

「美代! 戻ってこい、戻ってこい、怪性に堕ちるな!」

 怪物の姿が変わっていた。白い気味の悪い体が一回りは縮んで、しかもその気色悪い白い皮膚がまだら模様のようになっていた。表面の白い皮膚が禿げたかのようで、その下に人間らしい皮膚が見え隠れしている。触手も一部が艶のある黒髪のような毛束に見えなくもない。戻りかけているとリオもようやくその変化を目の当たりにした。

 だが昼にもそうなったらしいのに、先ほどはすっかり戻っていた。

 時間を置けばこの変化も元の怪物に戻されてしまうのだろうと予想し、ここで元から断ち切る必要性を感じる。

 左足を前へ出し、右足を引いてそこへ重心を戻して。そうして足を庇いながら、擦りながら、リオは怪物に近づく。と、すぐに怪物は追い詰められた狂騒の様相で再び触手を放った。これをリオは片手で澄水を振るって捌き、痛む左足に無理をさせながら踏み込む。

 斬るべきは美代姫ではなく、その身の中の呪い。

 彼女を怪物たらしめる、大昔の先祖の呪いの悪因――白い山椒魚の怨念こそを断とうとリオは目を凝らした。

 その怪物の腹側にある怪しく灯る桃色の光を見て、おすみの言葉を思い出す。美代姫の先祖は山椒魚から取れる桃色の光る真珠を売って財を成した。きっとそれが触手の先や、腹部で灯るあの光なんだろうと直感する。美代姫の身を蝕む呪いと関係がある気がした。

 しかし体表に出ているそれらではない。

 きっともっと体内の奥深くだと理由もなくリオは思い込んだ。

 例えばそれは人を斬る時に、肉を斬るのではなく骨まで一太刀で断つ感覚こそが快感だと認識してしまった時のように。

 心の臓へ刃を突き立てて命そのものを手応えとして感じながら斬り捨てたいという欲求と同じように、表層ではなくその奥にある呪いの禍根を目掛けてリオは澄水を思い切り突き出した。怪物の首らしい微かなくびれの少し下から刃を柄まで深々と突き刺して、鋒にその何かの確かな手応えを感じてからズバンと断ち切る。刃が描いた放物線は赤い血ではなく、白波を伴った清浄な水だった。傷口はなく、その体から刃がすり抜けたかのようにして澄水は振り切られていた。

 しかし澄水の先端には手の平大の桃色の光る玉が刺さっていた。ひび割れていて、その亀裂からは怪しい光が漏れている。血を払うように刀を振るうとその玉も遠心力のまま弾き出されて床へぶつかり、亀裂が広がって、真っ二つに割れ転がり――それとともに怪物から光が溢れた。

 その光のせいで、暗い地下ということもあってリオも光十郎も軽く目が眩んだ。

 瞬きを繰り返しながらどうにか再び双眸に光を取り戻すと、怪物のいたところに美代姫が倒れていた。リオに先んじて目を戻した光十郎が慌てて自分の羽織を取って彼女へ駆け寄り、裸で倒れていた彼女にそれを被せて抱き起こす。

「美代。……美代、美代、無事かっ?」

 遅れてどうにか目が見えるようになったリオは美代姫を抱き起こしながら声をかけている光十郎を見つめる。それから、彼女が裸の上に羽織を被せられているだけと分かって赤面した。

「お、おすみさん、呼んできま――痛って、足が……」

 リオは逃げ出した。


 ▽


 美代姫は翌朝になって目を覚ました。

 夜も明けきらぬ時間におすみに呼び起こされ、リオとほたるは彼女の寝室へ駆け込むと、そこで光十郎と抱擁しているところをおすみとともに目撃し、そっと襖を閉めようとしたのだがその前に2人に気づかれた。慌てて離れてから何もなかったと苦しいことを言いながらも3人を部屋に入れた。美代姫とおすみが抱擁し、ほたるも嬉しさに感極まって美代姫に飛びついた。

 いいなあ、きっと美代姫のことだからいい匂いとかするんだろうなあ、と思いながらもリオがそれを黙って眺めていたら、光十郎に手を固く握られて何度も何度もお礼の言葉を繰り返されて、それから美代姫もほたるにしがみつかれたままリオに熱い眼差しを向けながらお礼を言った。

 お祝いをしなくては、とおすみが発案して、光十郎もうっすら滲んでいた涙を袖で拭ってからすぐに麓の町へ食材の調達へ行くと言って出かけた。ほたるはご馳走の予感にはしゃいでさらに美代姫に戯れつく。

 が――リオは何だか虚しさを抱いていた。

 皆、感謝してくれた。とても喜んでくれている。

 だがそれはそれとして、美代姫はこのまま光十郎とゴールインするんだろう。

 あんな美人の、しかもお姫様で、幼馴染みで、普段は姫様呼ばわりしているのに素では美代呼びをするほど、そして目が覚めるなり熱い抱擁を交わすほど、その2人は想い合っていて、身分が云々というものを抜きにしてみればこれほどの美男美女のカップルなどそうそういないだろうとまで思える。それがどうにもリオには悔しさを感じさせる。

 胸が痛む。ハートブレイクの痛みがあった。

 左足は未だにズキズキと痛んでいる。傷は治っているのに。

 身を削って怪物と戦って、できるかどうかも分からなかった澄水の力を必死に引き出して美代姫を救って、しかし自分は2人の関係を取り持っただけというのがいささか面白くはない。下心がまったくなかったかと言えば嘘になる程度には、リオは美代姫に惚れていた。ほとんど一目惚れめいた、一方的な、ちょっと強めな好意でしかなかったが、しかしそれが事実である。面白いはずがない。

 素直に喜んだり、祝福できない自分を自覚するからこそ、空虚な気持ちにもなってしまうのだった。


 客間に1人でこっそり戻ってくるなり、リオは数分ほど考えてから荷物をまとめ始めた。お祝いのご馳走が夜には出揃うのだろうが、その場にいたらもっと惨めな気持ちになりかねないと思ってしまって、ならばもう立ち去ろうという考えだった。ほたるはきっと嫌がるだろうなと思うが、どうしてもというなら2人の新婚旅行代わりに鶴柴まで送ってもらえばいいとでも言って、1人ででも行ってしまおうとまで考えていた。

 そこへリオがいないことに気づいたほたるが、美代姫と手を繋ぎながら戻ってくる。

「あんちゃん、何してんの」

「もう行こうと思って……」

「ええっ!? どうして!」

「もう行かれるのですか? もっとゆっくりしてください。あなたは恩人なのですから、このご恩を返さないことにはこちらが困ります」

 案の定、引き留めるようなことを美代姫に言われてしまってリオは困る。ほたるだけなら突き放すような態度でも取って、1人ででもさっさと行こうとしたところだが美代姫にはちょっとそんな態度も取れそうにない。

「あの……すっかりお世話になったので、恩返しができたというのは僕の方ですし……。今日だけはって残って、明日になったら明日だけはって残って……みたいにキリがなくなっちゃうかなあとか思ったりして……」

「そう仰らずに、もっとごゆっくり。おすみが今夜は腕によりをかけて夕食の支度をします。光十郎もあの張り切りようなら、牡丹を自分で持ってきそうなものです。ですからせめて、今夜だけでも」

「ぼたん……猪肉っ!? あんちゃん、食べてこうよ、ね、ねっ? おいら肉食いたいよ、しかもぼたんだよ、あんちゃん?」

 ほたるに縋りつかれたがリオはまとめた荷物を持ち上げ、壁へ立てかけていた澄水を腰の帯へ差す。

「もう十分、ゆっくりさせてもらって……旅の疲れも癒えたし、居心地が良すぎちゃって……このままだと、ずっとお世話になってほたるを故郷に連れて行ってあげられなくなりそうだから。ほたるも、帰りたいでしょ?」

「帰りたいけどぼたん……」

 美代姫を見ないようにしてリオはほたるを体の前へ抱き寄せる。ほたるはリオに背を預ける形で寄りかかり、頬を膨らませながら美代姫に目でどうにか引き留めてと訴えかける。

「お引き留めしても、お心変わりはされないのでしょうね……」

「……はい」

「ではせめてものお礼をさせてください。……少しだけ、お待ちになっていてください。勝手に発たないでくださいね?」

 美代姫が入念に釘を刺してから客間を出る。

「ほたるも支度して」

「……どうしてもうちょっとゆっくりできないの?」

「……いいから、ほら。置いてっちゃうよ?」

「あんちゃんのバカちん……」

 拗ねるように頬を膨らませてほたるものろのろと荷造りを始める。

 それを待っていたら美代姫がおすみとともに客間へ戻ってきた。

「もう行かれてしまうなんて……今夜だけでも」

「おすみ、もう何度もそうお頼みしたのですよ」

 おすみまで引き留めることを言い、美代姫がそれをたしなめる。

 ほたるは無言で抗議の眼差しをリオに向けた。

「お引き留めしても、どうしても行かれるということですから……ほんのささやかなお礼となってしまいますが、どうか、お持ちになっていってください」

 美代姫がそう言うとおすみもほたると同じような顔をしつつ、手にしていた包みをリオの前へ差し出した。その包みは美代姫が開く。葛篭が包まれていて、その蓋を開けると中にいくつかの品が入っていた。

「こちらは橘高(きたか)染めといって、この一帯の有名な染物です。染めたばかりのものも鮮やかで良い風合いの青みですが、長く使うと趣深い色合いに少しずつ変わるのです。生地そのものも丈夫で長持ちをするので、この青が移りゆく色味を楽しむのがとても風流な品なのですよ。光十郎も首へ巻いていたでしょう? これから冷え込む季節となりますから、お首に巻いて風邪など召さぬようになさってください」

 最初に美代姫が取り出したのは鮮やかな青の布だった。確かに光十郎も首へ巻いていたとリオは思い出す。しかし随分とこちらは鮮やかな青に思えた。光十郎のものは色が褪せていて水色に近かったと思い出す。それから、これがあんな色味にまで変わってしまうのかと少し驚いた。ジーパンみたいなものだろうかとも思った。

「次にこちらですが……つまらぬものとなってしまいますが、腹下しや、解熱の薬です。この印籠ごとどうぞ。どこかで何かのお役に立つこともあるかもしれません。備えあれば憂いなしと昔から申しますし、もし路銀にお困りになられたら何の遠慮も無用です。どうぞお売りになられてください」

 漆塗りに金で家紋めいたものが描かれている印籠を取り出されてリオは眉根を寄せる。あからさまな高級品だと一目で分かってしまう。遠慮なしに売れと言われてもとても生半可に売れやしないだろうと思う。

「お着替えもご用意いたしました。光十郎の古いものをおすみが繕い直したものですが、もう丈が合いませんから。リオ殿はわたしどもをお救いなされた立派な方なのですから、旅歩きの身とはいえお着物にも気をつけた方がよろしいかと。きっと今に、リオ殿のおやさしい心根に触れた乙女が熱を上げるようになりますからね」

 そうすると今はそうでもないんだろうかと妙な勘繰りを起こしかけたがリオは考えないようにした。

「ほたるちゃんの分も一緒に入れてますからね」

「うん、ありがと、美代姫様」

 取り出したものをまた葛篭へ戻してから、最後に美代姫は最初に見せた橘高染めだけはしまわず蓋をした。

 橘高染めを手に彼女は立ち上がってリオの前へ出ると、首へそれをふわりと柔らかく巻く。マフラーのようだとリオはその少しごわつく手触りを確かめながら思う。ほたるにも同じように巻いてから、よく似合ってますねと彼女は微笑を浮かべる。

「お揃いだ、あんちゃんと。これ色が綺麗」

 防寒にしてはそこまで保温性能はなさそうだなとリオは触りながら思う。これくらいだったら年中ずっとつけていても邪魔にならなさそうだった。

「お荷物を増やしてしまいましたね」

「あ、い、いえ……ありがとうございます」

「お礼をするのはわたしどもです。旅の無事を祈っています。鶴柴まで長い道のりとなるでしょうが、どうぞお達者で」


 光十郎とは行き合わぬまま屋敷を出て、おすみに教わった通りにまずは麓の町を目指した。

 そこまで出れば街道があって、道沿いには宿もあって、鶴柴までは繋がっていなくともある程度は道なりでいいと聞いた。そうして光十郎が行き来をするばかりでろくに整備などされていない山道を2人で降り始める。

「あんちゃん、どうして今日くらい待てなかったの?」

 まだほたるは文句を言う。はいはいと受け流してもずっとこの文句はやまないのだろうなとリオは面倒になってきたが、軽く惚れちゃった美代姫が光十郎と仲睦まじくなりますという様子を見ていられないからだなんて口が裂けても言えない。


「もしかしてあんちゃん、美代姫様のこと好きだったの?」

「っ――な、なな、何、何をいきなり言ってるのかナ!?」

「うわあ、図星」

「何だよ、うわあって……!」

 いきなりほたるに見透かされてキョドったリオにほたるは妙なものを見る目をしていたが、あんまり分かりやすすぎてぷっと吹くように笑う。

「ほたるっ?」

「美代姫様、美人だもんね。でも光十郎のあんちゃんの方がお似合いでい」

「だからさあ……」

「なーんだ、あんちゃん、美代姫様に惚れてたから嫌んなっちゃったのか」

 何もかもを言われてしまってリオはヘソを曲げて、ぷいとほたるから顔を逸らして山道をずんずんと歩いていく。それを面白がってほたるはわざわざリオの前へ出て、その顔をニヤニヤしながら眺める。リオに睨まれても面白がるばかりで、大変に不愉快な心地のリオは道を逸れてやろうかとも思った。

「あんちゃんには、あんちゃんのこと好きな女が出てくるからさ」

「慰めのつもりなら的外れだからやめてくれる?」

「あっ、おいら、鶴柴についたらあんちゃんに女の子紹介したげよっか?」

「いいから」

「いいの?」

「そっちのいいじゃなくてさ」

「えー? でもあんちゃん、落ち込んじゃったんでしょ?」

「落ち込んでるんじゃなくて、ほたるがまったくの的外れな茶々入れるから面白くないだけでしょ」

「まあまあ、あんちゃん、あんちゃん」

「何さ」

「おいらがあんちゃんの手ぇ握ってあげるか、らぁ――わああっ!?」

 ほたるがリオの手を取ったのとほぼ同時、足を滑らせてほたるが転びかけ、引きずられるようにしてリオは足を滑らせて尻餅をつく。尻を押さえてリオがその痛みを堪えていると、ふと、ほたるは転ばずにいたことに気づく。しかも指差して笑っている。

「ほたるっ! こら!」

「わ、あんちゃん怒った! へへ、こっちだよー!」

「走らないの、また転ぶよ!」

「あんちゃんがね!」

「うるさい! 待て!」

 ひょいひょいと猿のように身軽にほたるは駆けるが、リオはそれを追いかけられずにまた足を滑らせて転ぶのだった。


 それは傍目には仲睦まじい兄弟そのもので、ほたるからしたら本当の兄のようで。

 しかしリオからしたら言っても聞かない不良少女で。


 そんな道連れが、今はささやかな胸の傷を癒してもいた。


 <人斬り無迅と呪いの姫君・了>

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