出会いは病院
「別に、付き合ってるわけじゃない」
同期に関係性を聞かれて私が返答した言葉だ。
同期にとってはただの世間話だが、私にとっては胸に刺さる言葉だった。
何故、こんな気持ちになるのか。記憶を遡る。
出会いは病院。
この関係に至るきっかけになったときの関係性は患者と医者だ。
私が宿直中、コンビニで倒れて運ばれたのを処置をした。
私は整形外科が専門だ。
脳梗塞を起こした患者は最低限の処置を施して、脳外科に回して終わりだ。一晩限りの縁のはずだったがそうはならなかった。
何故か放っておけず、相手がマンションの隣の部屋に住んでいることに気付いたところでズルズルと今の形容しがたい関係になったと思う。
何故、放っておけなかったのか。今思えば私なりに恩義を感じていたからだと思う。
いつ、感じた恩義かと言えば私が中学のときまで遡る。
私は中学生の二年生の時に交通事故に合い、足を骨折した。もう少しで骨が突き出す程に酷く折れ、手術を要した。運が悪かったらしい。経過次第で足が壊死する可能性も説明された。
当時の私の世界は部活動でいっぱいだった。必死に勝ち取ったバスケ部のレギュラー、スタメンとして出場し、強豪校に勝ち全国大会出場まで決まっていたのに、出場できなくなった。
今まで当たり前に動いていた足がなくなるかもしれない恐怖と今まで努力に対して順当に与えられた結果が奪われることへの憤りを感じた。
父は単身赴任中、母は仕事と弟たち二人の世話もある。最低限、入院に対する世話をする以上の余裕がない。ほぼ毎日、事故にあった私を気遣ったチームメイト、クラスメイトが代わる代わるお見舞いに来てくれる。
その間、恐怖や憤りの感情を誰にも見せられない。笑っていなければいけない。
夜になれば日中帯と代わり、病室は静まりかえり、大部屋であるが強く独りを感じる。
他の病室から聞こえるうめき声、バタバタと人が忙しなく動く音もまた恐ろしくて、浅い眠りが続いた。
成長期の身体に睡眠は必要だ。どうしても日中帯に眠気が出てしまう。
けれど、友人達が顔を出してくれる午後は起きてないといけない。
午前中に寝て、そのせいでさらに夜に眠れなくなる。
入院から数日も経たずに夜の病棟、真っ白なカーテンで仕切った空間にいるのが耐え難く苦痛になった。
壊死するかもしれない足のこと。せっかく勝ち取った全国大会のこと。一人で考えても仕方ないことばかりに思考を割いて、不安と怒り。どうしようもない感情が混ぜこぜになる。
気付けば私は耐えきれず声を押し殺して泣いていた。
恐怖を人に表現できない分、頬を伝う涙は熱い。
泣き過ぎ、ひゅくっひゅくっと腹が痙攣する。県立病院のベッドはボロい。いくら声を押し殺したても、身体の動きに合わせてギシッギシッと鳴る。
それでも音自体は微かなものだ。病棟の子供はほぼほぼ寝ている。大丈夫だ。きっと気付かれない。
ゆっくりと病室のドアが開く音がした。見回りの時間ではないはずだが、看護師さんだろうか。
泣いているのに気づかれてはいけない。枕に顔を埋めた。
「どうしたの?」
見知らぬ子供の声に身体が跳ねた。ただ、知らない声だ。この病室の子供ではない。他の病室の子がトイレかナースセンターにいくときに廊下を通りかかり、ベッドがギシギシと鳴る音に気付いたのだろう。
大部屋だ。どのベッドかまでは特定されてないだろう。息を殺して……。我慢して、我慢して。そうすれば気付かれない。大丈夫。
「ゴメン」
気付かれていないと思っていたのは間違いだった。知らない子がカーテンの中に入ってくる。
寝たふりをしないといけない。
「大丈夫……? 具合悪いならナースコールを……」
「だ……っ、だい…じょっ…うぶ」
入って来たのは痩せた子だった。三つ下の弟より小さく細い。
先程まで泣いていたせいだ。上手く声がだせない。
「分かった」
その子は私の声を聞き、泣いていたのに気づいたのだ。頷いて返した。
弟より小さな子に泣いていたことを知られたのが恥ずかしい。
足がなくなるかもしれない恐怖と大会に出れないことへの憤りが、羞恥で紛れる。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
そう返すのが精いっぱいだった。
足がなくなるかもしれない恐怖も大会に出れないことに対する憤りはあったが、あの夜、年下の子に泣いているのを気づかれたのが酷く恥ずかしかった。
もしも、弟たちに私が泣いている姿を見られたらと置き換えてみるが、絶対に嫌だ。
たとえ、足がなくなったとしてもそのせいで落ち込んでいる姿、その他、弱々しい姿は見せたくない。
足がなくなるかもしれない恐怖はあるものの、私はその日を境に担当医の問いかけに対して、以前より真剣に向かいあうようになった。
足がなくなっても自分で納得して決めたことなら前向きにいられるだろうと思ったからだ。
真剣に聞いて自分なりに考えて納得すれば恐怖も少しは紛れ、日が立つにつれて壊死の可能性も減っていった。
看護師さんや母親、友人が来たとき、誰かが車椅子を押してくれる状態でしか病室の外には出られなかった。
あの日、私の病室をのぞいた子供とはまだ会えていない。病院の中を自力で歩けていたのだから、病状が軽く入院期間が短い子だったのかもしれない。
そうして数日後だ。入院が長引くからと、病院内学級に入ることになった。
看護師さんに連れられて小学生中学生とごちゃまぜの部屋に入った。車いすに座ったまま、自己紹介をする。
「初めまして――――です。よろしくお願いします」
一人の子供が不思議そうに首を傾げた。あの夜の子だと分かった。
おそらく相手も気づいていただろうが、何も言われなかった。
相手に対して特別、たくさん話しかけるわけでもなく。避けるわけでもない。それでも、一度、泣いているところを見られたからか。酷く気になった。なにかにつけて、その子を横目で確認するようになった。
その子は切れ長の目に泣きぼくろがある。表情が乏しい子供だった。口数も少ない。
私はどちらかといえば活発でよく話す方だが、その子には弱い自分を見せてしまっているせいで、苦手意識が働いたのか。上手く話しかけられなかった。
それでも少ない学級だ。互いに何故入院しているかくらいは分かる。
その子は生まれた時から身体が弱く、いつ倒れてもおかしくない状態であり、身体が手術に耐えられるようになるまでの間、入院していないといけないらしい。
私とは違い、入院には慣れているようで、病院での生活に慣れている。
私に比べて親が病室に来ることも少なく、学校にも通えていないから友人がくるわけでもない。病棟にある少ない本を繰り返し読み、静かに過ごしているらしい。
特にその子と仲良くなるわけではなく仲の良い子は他にでき、入院生活にも慣れていった。
私は担当医と母親と一緒に話し合い、手術を受けた。松葉杖こそついているものの、春には退院した。
私はリハビリを続け、ゴールデンウィーク前には無事、歩けるようになった。バスケ部に所属はしているものの、ボルトが入ったままの足では満足に走れない。練習に参加できず、スタメンに戻れるわけでもない。
チームメイトは今年も二度目の全国出場に向けて頑張っている。去年、私が出れなかった舞台を目標に皆が頑張っている。私も一緒に頑張りたい。努力したい。けれど、私の足ではどう頑張っても間に合わない。
頑張りたい気持ちはあるのに、この熱量をぶつけられない。
私は中学三年生だ。その熱量のぶつけ先を受験勉強に向けることにした。
大体が身近な人に影響を受けて自分の進路を決めるものだ。
私も例外ではない。再び歩けるようになれて良かった。私もそういう人のためになる仕事につきたい。
今思えば、医者でなくても良かったのだが、一番印象に残っていたのが医者だったのだ。私は医者になることに決めた。
私の親は平均的な年収の平凡なサラリーマンだし、私の頭のつくりも平凡だった。そんな私でも医者になれるか。医者になるためにはどうするべきか。先生に相談した。
先生は私に県でも有数の公立の進学校に進むこと、大学へは奨学金制度を使って進む方法があることを教えてくれた。
なるほど、うちは下に弟二人いる。現実的だ。
私はバスケ部に所属こそしていたが、歩く以上の運動は制限されている。練習には参加できない。その時間を勉強にあてた。図書館で参考書を借りた。お小遣いでノートを買い、何冊も細かい文字で埋めた。
地頭が良くない分。塾に行けない分、バスケで培った粘り強さで努力した。
全てがギリギリではあったものの、今ではしがない勤務医になれている。安い給与を奨学金の返済に充て、派閥やらなにやら面倒なものに揉まれ続けて数年が経った。
気付けば目の下の隈を化粧で誤魔化すのも慣れていたし、そういうものだと思っていた。
仕事は体力勝負のところも大きいが、奨学金を返済し終えて生活に少しの余裕もできてきた。専門外、難しいとされる脳外科の範囲も宿直医として、一次対応するくらいはできるようになった。
そういえば、数日前に処置した患者はどうなったのか。今度、担当になったという同期に聞こう。
そう思いながら、宿直明け。眠気に耐えきれず仮眠室に向けて病棟を歩いていたときだ。
医者になるきっかけになった入院生活を思い出し、一人の子供の記憶が蘇った。
何故、今なのか。首を傾げつつ、病室の中で、患者と看護師が言い争っているのに気づいた。
「仕事……、しないと」
「駄目です。あなたは今やっと意識が戻ったばかりで……」
たしか、一週間前、私が宿直で受けた患者がいる部屋だ。
軽い脳梗塞を起こして倒れて、手術を終えた頃のはずだ。同期が担当していたから、後のこともある程度聞いている。
若いのに倒れたのはブラックな職場で十年近く耐えた結果だ。身体はボロボロで、肉体の疲労が精神にもきている。子供の頃からの病気のせいで使える薬が限られる。薬が合うかも確認したいからと暫らく入院することになっているはずだ。
「納期が三日後で……」
「いえ……。ですから……、先生っ」
看護師から助けを求められては無視できない。さようなら私の仮眠。悲しみと眠気を胸の底にしまう。
医者として訓練された身体は、呼ばれたからと病室に入り、患者と向き合った。
看護師の主訴を聞いた後、患者の仕事に行きたいと言う社畜根性を適当な相槌を交えて聞いた。
「はい。貴方、無理して倒れたんですから……安静に……」
患者の前髪は長い。髪に隠れて、目元が見辛いが、切れ長の目に泣きぼくろ。ワーカーホリック特有の目の死に方もしている。
ん? なにかが引っかかる。内心、首を傾げるが今は仕事優先だ。
相手はワーカーホリックだが、自分もワーカーホリックだ。負けないぞ。
「三日後に……」
「あなたは仕事のし過ぎで倒れたのですから、まずは休んで下さい」
半ばノイローゼになっていたり、一つの考えに固執して病院から出て行こうとする人の相手だって慣れている。さっさと片づけて睡眠が欲しい。
「ですから……っ 私は仕事がっ」
「あなたの仕事は休むことです」
コイツは仕事しか頭にないようだ。私もそういうときがあるので分かるが、受け入れられない。
今はこの患者には入院し、身体を治す必要がある。
こういうときはごり押しだ。刷り込みを兼ねて繰り返し伝える。
「なら……。ここで仕事を……」
仕事に向かえないなら仕事を持ち込もうとするとは、どれだけ仕事が好きなんだ。病院では身体を休めることが患者の仕事だ。と声を荒げそうになるのを堪える。
夜勤明け、仮眠室行きを阻止されたのも相まり、イラっとする。
アグリーコントロールはできているはずなのに。言葉にして説得するより先に患者の手をひき、ベッドへ戻した。
「仕事……」
壊れたロボットのように訴えるが、知ったことではない。この患者はまともな精神状態でない。担当医か。説得の上手い看護師にバトンタッチすれば良いのは分かっているし、いつもならそうする。
けれど、なぜか。その時は弟たちにするように説教モードに入ってしまった。
この三日後あの夜、会った子供との記憶が繋がって自分の頭の粗末さを嘆くのだが、その時はまずは説得することに頭がいっぱいだった。
懇々と相手に向けて正論をぶつけるが、相手は「仕事」「納期が」「しないと」と壊れたロボットのように繰り返すだけだ。
私は何度目かの会話のループに目を吊り上げた。
「聞いてたの?」
小さな弟たちにしていたように叱ってしまったのは仕方ないことだと思う。
無事、退院した後も、退院直後に始発出発、終電帰宅、または帰宅なしの状態でいるのを見つけ、病院外のことだが、何故か放ってもおけずだ。
私は目の前、脳外科の同期が興味津々といった様子で、私たちの関係性について問いてくるのになんとも言えない気持ちになっていた。