スレドニ・ヴァシュター
コンラディンはもう十歳になるが、医者の見立てではあと五年も生きられぬという話だった。ただし、口の巧い医者も頭の方はてんで耄碌しており、診断などほとんど当てにはならない。……にもかかわらず、デ・ロップ夫人はこの医者の言うことをすっかり信じきっている。このデ・ロップ夫人という女は屋敷のほぼ全てを取り仕切っている家主であって、コンラディンの従姉でもあり保護者でもあった。少年コンラディンの目に映る世界は、五分の三がデ・ロップ夫人に代表されるような「無くてはならないが不愉快で現実的なもの」で、残りの五分の二は、そんな現実とは永遠に解り合えない、「心の内で培われる少年の空想の世界」である。
きっと、病気や過保護な束縛、だらだらと続く単調な物事……そんな退屈な「無くてはならないもの」の強い圧力に屈する日がいつか来てしまうのだろう。コンラディンはそう考えていた。孤独に駆り立てられる中、縦横無尽に広がる空想の世界がなければ、とうの昔に心が折れていたことだろう。
デ・ロップ夫人はコンラディンのことを嫌っていた。だが、感情の機微を剥き出しにすることがあろうとも、一度としてその心の内を明かしたことはなかった。ただ「本人のため」と言いながら、コンラディンのやることなすことに異を唱えるうちに、段々とそれが自分の責務だと思うようになっていた。なので、コンラディンの躾を取り分け面倒だと感じることは無かったのである。コンラディンの方は、これより下は無いというほどにデ・ロップ夫人のことを心底嫌っていた。けれど、コンラディンもまたその気持ちを完璧に隠していたのである。
そんな環境で思い付くことのできる楽しいことなど、あまり多くはない。けれど、そういったことを企ててみるだけで、あの保護者面した夫人の顔を不愉快に歪めることが出来るのである。それを思えばこそ、猶更に楽しくなってきた。コンラディンは自分の思い描く空想の世界からデ・ロップ夫人を完全に締め出していた……不浄な存在が己の世界に足を踏み入れてしまうのは許されないことなのだ。
屋敷の庭……そこは陰気で退屈なところだった。それこそ顔を上げれば、庭を見下ろすたくさんの窓が今にも開いて「あれをしてはなりません」「これをしてはいけません」「もう薬の時間ですよ」という言葉が降ってくる気がして、ちっとも面白い気分にはなれなかった。ただ庭には僅かではあるものの、果物の木が植わっていた。けれど妬ましいことに、その実を摘むのは禁じられている。そもそも一年の収穫全てを十シリングで引き取ってくれる園芸農家を見つけることさえ難しいのに、まるで不毛の荒野に咲く花の如き貴重な標本であるかのような扱いをされていた。
けれど、背の低い鬱蒼とした木々にほとんど隠れるようにして、庭の片隅に今は使われていないが、きちんとした造りの道具小屋が、忘れ去られたように佇んでいる。コンラディンにとってそこは遊戯場であり、時には聖なる神殿としての一面も見せていた。その四方の壁で囲われた小屋の内側に楽園を見出していたのだった。そこには、慣れ親しんだ幻影達がたくさん住み着いていた。聞き齧った歴史物語から生まれたモノもあれば、コンラディンの頭の中で生まれ育ったモノもある。もちろん血と肉で形作られた生身の生き物も二匹ほど暮らしていた。小屋の隅の方にはボロボロの羽根のウーダン種の雌鶏が住んでいる。捌け口の無い少年の愛情はその雌鶏に惜し気もなく注がれていた。そのずっと後ろの方の暗がりには大きな飼育箱が置かれていた。箱の中は二つに仕切られていて、その一つは正面が鉄格子で塞がれている。その箱は大きな毛長鼬鼠の住処だった。少し前に、仲の良い肉屋の小僧に譲ってもらったものだ。ずっと隠してきた秘蔵の銀の粒と交換で、金網の諸々と一緒にこの木箱に入れてこっそり持ってきてもらったのだ。しなやかで鋭い牙を持ったその獣はひどく恐ろしかったが、同時に最も大事な宝物でもあった。鼬鼠が道具小屋にいるというだけで、大きな声では言えない楽しさがあって、恐ろしいほどに胸が踊る。このことは「あの女」には知られてはならないのだ(コンラディンは従姉のことを密かに「あの女」呼んでいた)。周到に隠さねばならなかった。
ある日、天啓でも受けたのか、コンラディンはこの獣の素晴らしい名前を思い付き、その瞬間から獣は神となり、そして宗教へと昇華した。
週に一度、あの女は近くの教会にコンラディンを連れて行き、信仰に心を捧げていた。だが教会での礼拝というのは、コンラディンにとって異邦の神の神殿で異教徒が呪いをするのと同じように感じていた。一方、毎週木曜は、道具小屋の黴臭くて静かな薄暗がりの中、コンラディンは鼬鼠の木箱の前で手の込んだ神聖なる儀式を執り行い、祈りを捧げるのだった。
偉大なる鼬鼠の神、スレドニ・ヴァシュターへの祈りを。
花の季節には赤い花を、冬の頃には深紅の木の実を御社に供える。御社に祀られるのは、あの女の宗教とは正反対の、獰猛さや憤怒を司る荒御神である。コンラディンの見立てでは、スレドニ・ヴァシュターは、あの女が信ずる神とは真逆のもので、遥かにかけ離れた存在だった。
大祭の時には、肉荳蔲の粉を木箱の前に振り撒く。供物を捧げる上で大事なのは、くすねてきた肉荳蔲を使うということだ。大祭をする日は特に決まってなかったが、今まさに起こっていることを祝福するのが主な慣例だった。たとえば、デ・ロップ夫人の歯が急に痛みだして三日も苦しんでいたときには、コンラディンは三日の間ずっと大祭を続けていた。そして遂には、歯の痛みがスレドニ・ヴァシュターによってもたらされたものだと信じ込むほどだった。夫人の病気がもう一日長引けば、肉荳蔲の備蓄が底を尽いてしまっただろう。
ただ、スレドニ・ヴァシュターの祭祀には、ウーダン種の雌鶏を引き入れようとは決してしなかった。コンラディンは以前から、その雌鶏のことを再洗礼派を信ずる異教の徒だと決めつけていたからだ。再洗礼派など自分には全く関係ないことなので、それについて知ったかぶりするつもりはさらさらないが、「あまり品行方正なモノじゃなく派手好きなモノだったらいいな」とコンラディンは思っていた。なにしろ、少年が想像し得る「品行方正」というのは、その全ての根幹にデ・ロップ夫人が存在していて、コンラディンはそういったものをひどく嫌っていたからだ。
時が経ち、保護者であるデ・ロップ夫人もコンラディンが道具小屋で何かに熱中していることに勘づきはじめた。
「天気が良くても悪くても、あんなところで無為に過ごすなんて、あの子のためになりません」と夫人は即断した。
そして、朝の食卓で、「あのウーダン種の雌鶏は昨夜のうちに売り払ってしまいましたからね」とコンラディンに告げるのである。そのまま夫人はその見通しの悪い近眼をコンラディンに向ける。我ながらよくできた訓戒と説教を並べ立てて叱りつける用意が出来たので、コンラディンが怒って泣き出すのを待っていた。けれどコンラディンは何も言わなかった。言うべきことが何も無かったのだ。
その日の午後のお茶の時には、普段は食卓に上がることのないトーストが出てきた。おそらくコンラディンの白い顔を見て、束の間ではあるものの何やら良心が咎めたのだろう。この家でトーストが出るのは珍しい、というのも「コンラディンの身体に良くない」という理由で夫人が禁じているからだ。また、トーストを焼くのは中流階級の婦人にとっては「面倒ごと」で、悲しくなるほどに腹の立つものだったからである。
しかし、コンラディンがトーストに手をつけないのを見ると、夫人は不満そうな顔で「トーストが好きだと思ってたのだけど」と声高に言い放った。
「そんな日もあるよ」とコンラディンは返す。
その日の夕方、小屋の中では、いつもとは全く違うやり方で、木箱に住まう神を崇拝していた。いつもはその神の御前で讃美歌を歌うだけなのだが、今宵、コンラディンは大願の成就を祈ったのである。
「スレドニ・ヴァシュター様、我が願いを叶えたまえ」
しかし、その願いの内容を言葉にはしなかった。スレドニ・ヴァシュターは神である。ならば何も言わずとも全て知っているはずだからだ。そして、空っぽになってしまった小屋の隅の方を見て、涙が流れそうになるのを堪えながら、コンラディンは心底嫌いになった世界へと戻って行く。
それから毎夜、寝室の全てを包み込む暗闇の中や、道具小屋の夕暮れ時の宵闇の中からは、コンラディンの苦々しい祈りが聞こえてきた。
「スレドニ・ヴァシュター様、我が願いを叶えたまえ」
コンラディンの小屋通いが終わっていないことは、デ・ロップ夫人も気づいていた。ある日、夫人は小屋まで足を運んで、再び粗探しをはじめたのだった。
「あの鍵の掛かった木箱で何を飼ってるのかしら?」と夫人は問い質した。
「どうせ天竺鼠か何かだろうと思うけど、みんな捨ててしまいますからね」
コンラディンが固く口を閉ざしていたにも関わらず、あの女はコンラディンの寝室を隈なく探して回り、ついに周到に隠していた鍵を見つけてしまった。探し出したものを白日の下に晒すべく、あの女はそのまま小屋へと侵攻をはじめた。 肌寒い昼下がりのことだった。コンラディンは命じられるがままに家の中に籠っていた。
食堂の、離れたところにある窓から、植込みの向こうの小屋の扉がちょうど見える。コンラディンがその窓の傍に立ってみると、あの女が小屋に入っていくのが見えた。きっと、神聖なる木箱の扉を開け、我が神の潜む堅牢なる藁の寝床を、あの見えない近視でじっと覗き込むことだろう。たぶん、癇癪を起こしたみたいに不器用な手で藁束の中を突き回していることだろう。
最期の時を思い、コンラディンは一心に祈りの言葉を唱えた。けれど、祈りを捧げながらも、その願いが聞き届けられることがないのは、コンラディンにも分かっていた。きっとしばらくすると、口をすぼめて、あのひどく嫌な笑みを浮かべながら、あの女が小屋から出てくるだろう。一、二時間もすれば、庭師がコンラディンの神様を運び出すだろうが、神はもはや木箱の中でただの茶色の鼬鼠になっているはずだろつ。
あの女は、きっと今、小屋の中でしているのと同じように、勝ち誇った顔を今後もし続けることだろう。そして、あの煩わしくて傲慢で尊大に賢ぶった女の下で、コンラディンは今よりもずっと病人らしく育てられることだろう。そして、何もかもどうでもよくなり、医者の言っていたことが正しいと証明される日が来るに違いない。
しかし、敗北に胸を痛め惨めな気分に浸っていたものの、コンラディンは大きな声で反抗するように、あの恐ろしき偶像を讃える聖歌を歌いはじめた。
進みたまえ スレドニ・ヴァシュター
御心は血で赤く染まり
鋭牙は白く光り輝く
御座の敵は和平を請うて
御座は敵に死をもたらす
美麗なるスレドニ・ヴァシュター
すると突然、コンラディンは歌うのを止めて、窓ガラスの方へ近寄った。小屋の戸はさっきからずっと半開きのままで、そのまま数分が過ぎていった。長い数分に思えたが、それでもやはり時間は過ぎている。
椋鳥の小さな群が芝生を走り抜けて飛んでいった。コンラディンは飛び交うその鳥の数を数えていたが、片方の目だけは揺れている扉の方をを絶えず見つめていた。
お茶の時間になったので、仏頂面の女中が茶卓の支度をしにやってきた。ただ、コンラディンはまだ立ち続け、待ち続け、見守り続けていた。コンラディンの心の内に少しずつ希望が忍び寄ってくる。さして、敗北に耐える哀しさしか知らなかったその瞳に今、勝利の姿がパッと燃え上がった。人知れず喜びながら、コンラディンは小声で再び勝利と破滅の讃歌を歌いはじめた。
ずっと見つめ続けていた甲斐があった。今まさに、戸口から細長くて小さな黄褐色の獣が出てきたのだ。沈み行く陽の光にその瞳を瞬かせ、その獣の喉元と口回りの毛には湿り気のある黒い染みがベットリとついてた。コンラディンは膝から崩れ落ちる。
偉大なる毛長鼬鼠は庭の裾の方にある小川へ降りて行き、しばらく水を飲んでいた。それから小さな木板の橋を通り抜けて、木陰の中に消えていった。かくしてスレドニ・ヴァシュターはお隠れになったのである。
「お茶の支度ができました。奥様はどこです?」と仏頂面の女中が告げる。
「しばらく前に小屋の方へ行ったよ」とコンラディン。
お茶の支度ができたと女中が奥様を呼びに行っている間、コンラディンは食器棚の引き出しからトースト用のフォークを探し出して、自分でパンを一枚焼きはじめた。パンをトーストし、バターをたっぷり塗って、ゆっくりじっくりと味わう。その間もずっと、食堂の扉の向こうから聞こえてくる発作的な騒めきと静寂とに耳を傾けていた。.
女中の馬鹿らしくて大きな悲鳴が上がる。それに答えるように台所の方から、何があったのか尋ねる大声が聞こえてくる。散り散りに駆け行く足音。屋敷の外に助けを求めに行った使い達の慌てた声。しばらくして小康状態になると、聞こえてくるのは怯えて咽び泣く声。そして何か重い物を屋敷の中に引きずって運ぶ音。
「誰が坊っちゃんにあの事をお伝えするっていうんだい? 可哀想に……あたしゃどうしたって出来ないよ!」と金切り声が上がる。
使用人たちがこの度の面倒ごとについて言い合っている中、コンラディンはもう一枚トーストを焼きはじめていた。
原著:「The Chronicles of Clovis」(1911) 所収「Sredni Vashtar」
原著者:Saki (Hector Hugh Munro, 1870-1916)
(Sakiの著作権保護期間が満了していることをここに書き添えておきます。)
翻訳者:着地した鶏
底本:「The Chronicles of Clovis」(Project Gutenberg) 所収「Sredni Vashtar」
初訳公開:2020年1月4日
【訳註もといメモ】
1. 『異邦の神の神殿』(the House of Rimmon)
旧約聖書の列王記・下5:18で触れられる、アラム(現在のシリア)で信仰されていた神。