解決編
「あくまで、今回与えられた情報のみで考えるよ。実際に警察が捜査すると別の事実が見つかるかもしれない。誰かが毒物を購入した形跡があったとか、大山力也が特殊なアレルギー持ちだったとか、そういう新事実は一切考慮しない」
「はい……でも、それだけで本当にわかるんですか?」
「実際に犯人かは置いておいて、今ある情報だけだと、一人に絞り込める」
先生はコーヒーをすすった。
「簡単に考えれば、大山力也が口にしたものの中に毒物があったと思うのが自然だ。実際私もそう睨んでいる」
「じゃあ、あの日の夕食を作った香月幸次郎が犯人ですか?」
私はあの男の顔を思い浮かべた。不快感が憎悪に変わるのは容易だった。
「残念ながらそれは安直だ。第一この事件には密室的な不可能性がある。大山力也を殺すこと自体ができないということだ。すなわち
毒をも感知できる、味覚の超感覚保持者である大山力也をどうやって毒殺したのか。
この事件はそれを問うている」
――そうだ!
考えて見ればそうだ。彼は毒殺されない。口に含んだ瞬間、成分を感知する能力者。それがゆえに口を閉ざしていた大男。
「……先生」
「なんだ?」
「だったらやっぱり、香月幸次郎が犯人だと思います」
「それはなんで?」
「彼が最後に出した麻婆豆腐です。香月幸次郎は麻婆豆腐を私と大山さんの分、それぞれ皿に盛って、大山さんのだけに毒を加えました。毒が入っていたけれど、麻婆豆腐の尋常でない辛さに大山さんの舌の感覚が麻痺したんです。だから彼は毒に気付くことなく、辛さだけを感じながら毒を租借したんです」
「なるほどね」
香月幸次郎への疑いは強くなった。大山さんの死と花さんの傷が、音を立てて繋がった気がした。一刻も早く裁きを受けるべきだ。あの男は――。
「それはおかしい」と先生は顔を上げた。
「いい線いっているけどね。さすが雅ちゃんだ。ただそれは違うというのは、雅ちゃんもわかっているはずよ。なぜなら、麻婆豆腐は後から辛みが増してくるものなんでしょう? であるならば、大山さんは最初の一口で味はわかったはずなのよ。辛さを感じるその前に」
「……」
確かに、最初の一口目は味がわかった。
だったら……誰にも犯行ができなくなるではないか。
「香月幸次郎が麻婆豆腐で殺したのではなかったら? 大山さんの味覚が麻痺している間に彼は何かを口にした? 彼はなにを食べた? あるいは……飲んだ?」
「あ」
「気づいたかな?」
「大山さんは味覚が完全に麻痺した状態で、花さんの水筒を飲んでいます……」
「そう、犯人は香月花だ」
先生は、打ちかけた釘を最後の一打で仕留めるように、私の両目に「彼女が大山力也を殺した」と言った。
大山力也を殺したのは花さん。……本当に?
「それはおかしいと思います」私はきっぱりと言った。
「彼女の水筒の中身が毒ならば、彼女も死んでいます。花粉症の薬を花さんは、水筒の水で飲んでいます」
「本当に香月花はそうしたの? 花粉症の薬を水筒で飲んだのかい?」
「? どういう意味ですか?」
「いかなる薬も飲んでみなくては、どんな薬かわからない。そういう意味さ」
先生は棚から製薬学と整形外科学、二冊の専門書をとり、ぱらぱら捲った。
「ところで、雅ちゃんは香月花と庭で話したらしいね」
「はい」
「その時、何を見た?」
「花さんの頬にあった大きな傷です」
「それは違うよ。全然違う」
――傷は確かにあったはずだ。なにが違うのだろうか……。
「雅ちゃんが見たのは、花粉症と言いつつ、自らマスクを外してスギ林のある庭に出向くような、意味の分からない女性だ」
「それって……どういう」
「簡単に言うと、香月花は花粉症じゃなかったということだ。だから、あの薬は花粉症の薬である必要はない」
「じゃあ、何を飲んだんですか?」
「彼女の水筒には毒が入っていたとする。飲んだのは二人、香月花と大山力也。二人の違いは何か。どうして大山力也だけが死んだ? 香月花は何をした?」
「薬を飲んだ……」
それではまるで――。私は頭に浮かんだ言葉をそのまま声に出した。
「それではまるで、花さんが飲んだ薬は、水筒の中の毒に対する解毒剤のようではないですか」
「そう、それが答え。大山力也との違いは単純明快で、大山力也は解毒剤を飲まなかったから死んだんだ。花粉症というのは彼女のミスリード。蒸れて気持ち悪かったのかは知らないが、庭に出てマスクを外してしまったのが、彼女の大きなミスだ」
「ちょっと待ってくださいよ」
「なあに?」
「確かに大山さんはそれで毒殺できます。けど、彼女はマスクを外して庭にいたとき、建物から見た私がわからなかったんですか? 彼女は視覚の超感覚保持者ですよ?」
「……ここから根拠のない妄想だから、信用しないで聞いてね」
「はい」
「彼女は視覚の超感覚保持者、香月花ではない」
「はあ?」
「香月花を名乗った偽者だと思う。当然視覚の超感覚はない」
「な、なんでそういう結論になるんですか! いくらなんでも」
「超感覚保持者を荒唐無稽だと思っただろう?」
「はい」
「彼らはまだ一部の学問でのみ認知されただけの、「まだいないもの」とされている存在だ。それはアフリカ中部、コンゴとザイール国境付近で発症が発見された。ウィルス性の遺伝子変異によって生まれてしまった超感覚を持つ人類。それが彼らだ」
先生は一息置いて続けた。
「そこで、世界各地で実験施設を設けて、『超感覚保持者が人間社会に害を与えない』という証明をしてから、明るみに出すという方針で、世界中が同意した。その施設の一つが生活支援研究所だ」
「……そうなんですか」
確かに彼らは、普通の人間だった。危害を与えるようなことはしなかった。
「しかし、これからより多く見つかる超感覚保持者を軍事転用する国が現れる、そう警告した団体があってね。彼らは超感覚者を処分するべきだと常に言い続けてきた。ここまでが事実」
「その団体に殺されたんですか? 大山さんは」
私は寒気に襲われた。
かつて菅野さんは、車が爆発して神経系を痛めたと言った。車は簡単に爆発するものだろうか。超感覚保持者を狙ったものでない限り、爆発など……。
「そう、私は妄想している」
「花さんが偽者っていうのは……」
「すでに香月花は殺されていて、香月花に成りすました別の暗殺者が大山力也を殺しに来た。私の妄想はそこまでだ」
「それこそ……荒唐無稽ですよ」と言い終わった直後に、思い出してしまった。脳天に稲妻が走ったようだった。
香月花は、兄に傷を付けられたと言った。
香月幸次郎は、当時の同級生が付けたと言った。
辻褄が合わない。この食い違いは……。
「この一件で実験は遅れ、超感覚保持者の社会進出は、遅れてしまうだろうね」
私はあの日、出会った人たちの顏を思い出しながら、言った。
「政治とか、軍事とか……そういうのはホントどうでもいいので、早くまたあの人たちと一緒に食事がしたいです」
超感覚は毒になる・了