表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/2

問題編

謎解きです。犯人当ての形式ですので、当ててみてください。


 目の前の盃に注がれた液体。


 それは飲むと超人になれるという。


 世界の感じ方が変わるほどの劇物だ。


 しかし、欲する者も、避ける者も──薬か毒か、飲んでみなくてはわからない。


        ◆


 事務所の玄関近くにあった大がかりな雪像は、どろどろ融けて現代アートのような形になっていたし、出る時はつけていたマフラーはすでに鞄の中にあるし、春のささやかな主張が目立ってきた。


 風邪気味の鼻をすすりながら、公園にあるバス停を目指した。

 

これからアルバイトに行くことになっているが、詳細は正直わからない。ただ先生の代理で行くということしかわからない。


『雅ちゃん。お遣い頼んでもいい? そこでちょっと働いてきて』先生はそう言った。


――家事の手伝いをするだけ、と。


 いい加減な指示ではあったが、これによる臨時の給料が規格外にいい。一泊二日働いて八万円というから驚きだ。今月はピンチだったから、二つ返事で了解してしまったのが仇となるかもしれない。

 

 バスが来た。


 気体の抜けるような音でドアが開いた。バス内は暖房が少し効いていて、コートも邪魔になってきた。奥の席について一息つく。


 時間には余裕があった。


『生活支援研究所経由中央センター行き。ただ今発車します』


 アナウンスとともにバスは動き出した。読みかけの文庫本を鞄から取り出した。

 

 車内は快適で、鼻水も止まっていた。


        ◆


 バス停二つ分ほど走ると、一人の女性が乗車してきた。マスクをしているが、そのシルエットからも整った顔立ちということが分かった。細かい柄の膝まであるワンピースで、大人しい色調のカーディガンを羽織っていた。見惚れてしまった。

 

 彼女が私の横を通り過ぎる。無意識に目で追ってしまった。彼女は一番後ろの席に座った。真っ黒で大きな瞳がさりげなくこちらを向いた。

 失礼だったかもしれない。私は目を伏せて、本の続きを読むことにした。


        ◆


『生活支援研究所。生活支援研究所。お忘れ物にご注意ください』


 その声を聞いた瞬間、はっとした。本に集中していた。急いで降りなくちゃ。私は小声で「すいません」を連呼しながら、小走りでバスを降りようとした。


 鞄に本を仕舞って、地面に立った。


 間に合った。


 ところが、バスはまだ扉を閉じて発車しようとしない。


 もう一人降りてきた。

 

 先ほどのマスクの女性だった。


「ちょっと、ごめんなさい。これ、これあなたのよね」


 女性は小さな声ではあったが主張は強く、右手に私のコートを持っていた。


「あ! ありがとうございます」

 

 私はコートを受け取った後気が付いた。


「バス行っちゃいましたけど、わざわざこのために降りてもらうなんて……ほんとにごめんなさい!」


「いいのよ。私もここで降りるつもりだったから」


「そうなんですか……」


 辺りを見回した。まだ茶色い草原に舗装された道が一本続いているだけの田舎道。景色の中には大仰な風力発電機が点在していた。快晴の下、呑気に回っていた。


「こんな何もない所で用事でもあるんですか?」


 失礼すぎる質問に、この時は自覚していなかった。


「生活支援研究所」


 と、短く女性は言った。


 ――あ。と私も自分の用事を思い出した。


「私もそこに行きますよ!」図々しく声を上げてしまった。正直に言うと、先生の命令ということもあって道中ですら不安だったから、仕方のないことだ。


 じゃあ一緒に行きましょう、と女性はマスクの下で笑った。


 しばらく道を歩くと風車の向こう側に林が見えてきた。この時期にも緑を残しているということはその種の針葉樹林だろうか。地面付近は割かし見通しがよさそうだ。


「あそこね。ここまで来たらあなたにも見えるでしょう」


 女性は林の方向を指した。傾斜を上がった先に建物があることに気が付く。


 そこには面積を多くとった作りのレンガタイルの建物があった。こんな感じの宿泊施設がありそうだな、と思った。研究所というには民生的な雰囲気があった。


「あなたもあそこに用事があるんでしょう? ということはもう少し一緒に行動するかもしれないわね。名前はなんていうの?」


「東条雅です」


「私は香月花。花でいいわ」


        ◆


 研究所のインターホンを押すと、エプロン姿の年配の女性が玄関に現れた。香月さんは何やら磁気カードをドアにかざして中に入っていったが、私は当然エプロンの彼女に怪しまれたので、渡された手紙を差し出して、先生の名前を会話にいちいち織り交ぜながら、ここに来た理由を話した。

 

 その後、無事に建物に入ることができ、応接間に案内された。応接間というよりダイニングルームに近い。フローリングの床がまぶしい。


 なぜだかこの建物に近づいてから、鼻風邪が悪化して蛇口をひねったような鼻水が出てきた。


「ずびばぜん。ティッシュぐだざい」


「はい。どうぞ」とエプロンの女性は無表情のまま応じた。


 ティッシュを箱で受け取って、思いっきり鼻をかんだ。


「ありがとうございます」


「いえ。そろそろ所長が来ます。お待ちください」


 そういって彼女は私を置いて、部屋を出た。


 四分ほど待つ間、部屋に取り残されたのでたくさんティッシュを使ってしまった。


 きい、と。


 エプロンの女性と人物が入ってきた。その音はドアの蝶番の音ではない。車輪の音。その人物は首にカラーを巻いて車いすに乗っていた。さらに私を驚かせたのは全身を包帯で巻いていたためだ。


「やあ、君が篠崎博士の助手さんか。随分かわいいお手伝いさんが来た。なあ、巴」


「そうですね、所長」


 エプロンの女性は巴と呼ばれているらしい。車いすの人物は声のかすれ具合から老人ということくらいしかうかがえない。何しろ顔も包帯で覆われているのだから。


「こんにちは、篠崎ウミ先生の指示で来ました。東条雅です」


「礼儀正しい御嬢さんだ。感心だね。なあ、巴」


「そうですね、所長」巴さんは相変わらずだ。


 さりげなく鼻をすすってから、私は質問をした。


「私は、なにを手伝えばいいのでしょうか……? えっと」


「僕の名前は菅野貴だ。菅野でいい。そうだね、君は……」


 彼は私を品定めするように見て、笑った。緊張は途切れることはない。包帯の隙間から奥行きのある瞳が私を映す。


「今夜の宴会を手伝いしてもらいたい」


「宴会……ですか?」


「そうだよな、巴」


 はい、所長。と短く応じてから巴さんは続けた。


「今日、ここにあと二人の……被験者が訪れます。彼らを含めた四人で、食事会を催します。その準備を私とあなたでします。今夜はここに泊まってもらって、その他の雑用を終えた後、明日の正午にあなたの勤務が終了します」


「わ、わかりました」


――被験者、という言葉が引っかかる。


「あの、私、先生から何も聞いていなくて、まだ状況を掴めていないんです。基本的なことを聞いてもいいですか?」


「いいですよ」


 菅野さんはまんじりともせず、答えた。瞳だけがよく動く。


「ここは、何をするところなんですか?」


        ◆


「人間生活の支援に関する研究。という返答はきっと望んでいないんだろうね」


 菅野さんは、そうだなあと思案した後、切り出した。


「ある一定のレベルに達した特殊な体質の人間を集めて、ここで暮らしてもらう。その様子を観察するのがこの施設の目的なんだ。だからノーマルな君にとってはただの宿泊施設という認識でなにも間違っていない」


「特殊な体質……ですか?」


「そう、特殊。たとえば君とここまでの道中を共にした香月花被験者もその一人だ。彼女の体質は」


 菅野さんの瞼が大きく開いた。


「とてつもなく目がいいんだ」


「目がいい?」


「ただいい、じゃない。彼女の目に関する能力は、環境や努力の寄与ではまったく到達できない領域にある。静止視力、動体視力、眼球運動、輻輳機能、瞬間視力、立体視力、視覚反応時間、中心周辺視野、さらには可視波長域まで、一般人からぬきんでている」


「……想像もつきませんけど……そうなんですか」


 どうしたって受け入れきれず、表情のない声が漏れた。


「いやいや、引かないでほしいな。それ以外は普通の人間さ。これからここで生活をする私の仲間だ。彼女以外にも今日、もう二人到着する予定だ。そうだね、被験者では味気ないし、上下関係があるみたいで嫌だから……」


 彼は一息おいてから。


「超感覚保持者、そう呼ぼうね」


 思い出したように言った。


        ◆


「では、勤務中、貴女にはこれを着て仕事をしてもらいます」


「へ?」見せられた衣服は、ふりふりのついたメイド服だった。足が見えないくらいスカート丈が長い。

 巴さんはやはり言葉以上のことは態度から示してはくれず、当然質問という形で情報を得るしかない。


「私服ではだめですか? あ、私自分のエプロン持ってきているんです。それで仕事をしちゃ……」


「……」瞬きをしないで見つめてくる巴さん。


「ダメですよね。了解です。着ますからね、はい」


――私はどうしても彼女が苦手だ。


 それにしたって、誰の趣味でこんな恰好を……。


 私は受け取ったメイド服を腕にかけながら、自分が寝泊まりするという部屋に招かれた。


 二階の二〇三号室だ。二階にはあと五つ部屋があり、二〇一号室が香月さんの部屋らしい。あとであいさつをし直さなければと思った。


 私の部屋には二段ベッドと小さな机、それとロッカーがあるだけだった。映画でみた軍隊の宿舎を思い出した。


 荷物を床におろし、メイド服に着替えることにした。


 横腹にあるチャックを上げたとき、インターホンが鳴る音が聞こえた。


 新たな来訪者だ。


        ◆


 来訪者は二人いた。一人は髭を蓄えた大男。もう一人は華奢で中性的な男性だった。

 

 私はメイド服のまま、玄関で出迎えた。巴さんとお辞儀をする。


「やあやあ、巴さん、久しぶりだ。菅野の爺さんは元気か? 会えるのが楽しみだった。隣の彼とはバス停で会ったんだ。こちらが話しかけているのに、なかなか返事を返してくれなくてな、友達にはなれそうにないかもしれないな。うん? その小さい少女は誰だ? 巴さんの子供か? 仲良くしような、よろしく」


 まくし立てるような鼻声で華奢な男性が玄関を堂々とくぐり、荷物をフローリングの上に放り投げた。


 小さい少女という言葉にむっとしたが、名前も知らない、よくしゃべる男性にそこまで詰め寄る勇気はまだなかった。


 一方、大男は黙って巴さんに磁気カードを見せた。彼も被験者らしい。


「あ、そうだ。カードカード、そういうのはちゃんとしなくちゃいけないからな。はい、香月幸次郎は到着したよっと」


 華奢な男――香月幸次郎は巴さんに磁気カードを渡した。


 ――ん? 香月?


「あの……ちょっといいですか……? 香月っていうのは」


 私は小声で巴さんに話したつもりだったが、この男にも聞こえてしまった。


「ん? 香月、という名字に反応したのか? ということは他の香月に会っている? そういうことか? 小さい少女」


「あ、あの! 小さい少女っていうのやめてもらえますか?」


「そうか、小さい少女だと、意味がダブって見えるね。いやいや、だったら少ない少女のほうが面白いよな、あははは」


――誰のどこが少ないのよ! 本気で殴ってやろうかと思った矢先、知りたい情報が出てきた。


「香月花――たぶんもう会っているんだよな、俺はそいつの兄貴だ。よろしく、少ない……じゃなくて」


「東条雅です」


「雅ちゃん」


「下の名前で呼ばないでください」


 くだらないやり取りをしている間に、大男と巴さんは中に入ってしまった。私も仕事だから香月幸次郎の荷物を持って二階まで行った。


        ◆


 二階に上がる大男と巴さんの後についていった。彼らは二階の一番奥の部屋、二〇六号室に入っていった。

 

 香月幸次郎の部屋は二〇五号室だった。私は荷物を運んでいる際、横目で二〇一号室を見た。道中を共にしたマスクの女性、香月花さんの部屋だ。

 

 この男の妹ということになる。

 

 ――目が、いい。

 

 菅野さんはそう言ったが、本人の前でこれを話題にしていいものか、正直わからない。

 

 それにしても、兄の幸次郎も被験者――超感覚保持者なのだろうか。

 

 であるならば、どんな?


「じゃあ、俺は疲れたから部屋で寝る。荷物は適当に置いてくれ。そう、そこでいい。俺の寝顔が見たかったら残ってもいいが、緊張してし」


「では失礼します」


 マニュアルめいたお辞儀をして、二〇五号室を後にする。


 廊下を歩いた先は階段、その手前の二〇一号室。


 私は少し躊躇ったあと、ドアをノックした。


「花さん、私です。東条雅です」


 返事がない。耳を澄ましたところ、人が動いているような音も聞こえなかった。


 部屋にいないのだろう。階段を下りた。


 そこで巴さんに会った。


「あ、幸次郎さんは寝るらしいです」


「わかりました。私は夕食を作るので、貴女はダイニングの掃除を頼みます。応接間に掃除用具があります。掃除の手順は渡した書類通りです。お願いします」


「はい、わかりました」


 彼女はそのまま、キッチンへと向かった。私は言われた通り、応接間へ掃除用具を捕りに行く。


 相変わらず、居心地のよさそうな部屋だ。


 掃除用具のロッカーを見つけた。それと……。


「なんだろう、これ」


 ロッカーの隣の本棚の一角に分厚いファイルの列と、小さな写真立てがあった。


 写真には、宇宙服――だと思う――を身にまとってピースサインをしている男性がいた。しかし、明らかに地球で撮っている写真だとわかる。誰だろうか。


 些細なことだと流して、私はダイニングルームへ移った。


         ◆


「すごい、落ち着く場所だわ……」


 この建物に入って初めてダイニングルームへ来たが、読書をしたらあっという間に時間が経ってしまいそうな、大人びた静けさがあった。


 真ん中に木製の円卓。クッション付きの椅子。木には細やかな彫刻が成され、細部へのこだわりがあった。南へ開く大きな窓では、そこから見える針葉樹林と点在している風車が空を背景にたたずんでいた。


 私はテーブルをスプレー片手に拭き、白色のクロスをかけた。床は目立った汚れはなかったが、水拭きができるワイパーで一通り磨き、反射を強めている。残るは窓の掃除だけだった。


 ここまでで四十分は経った。バイト代を思うと頑張れた。


 窓へ近づくと、針葉樹林の手前に庭があることが分かった。玄関の反対側にあたる。


 そこに人影を見た。


「ん……? あれは」


 目を凝らすと、花さんがいた。ここからでは遠くてぼんやりとしか見えない。一瞬振り向いたが、気が付かなかったようだ。この仕事が終わったら、挨拶をしに行こうと思った。それと、彼女の兄への対処法も聞き出したいところだった。


 窓を拭き終え、あの写真を横目に掃除用具を片づけた。庭に行くことにした。

 

 庭へのくもりガラスの窓を開けたら、花さんの姿がやはりあった。


「花さん?」戸を開けた音にびくつくように、顏をそらされたような気がした。


 耳をみるとマスクをしていないことが分かった。


「何? 雅ちゃん。もうご飯?」以前と変わらない口調だった。


「あ、いえ……その」


 言葉に詰まった。彼女の一人の時間を邪魔してしまったかもしれない。


「……気を使わせちゃってごめんね」と一息置いて。


 彼女は振り返った。マスクはない。吸い込まれるような瞳の奥行きは、当然魅力を失っていない。


 ただ異変があるとすれば、左頬。そこには。


「別に隠すつもりはなかったのだけど」




――そこには、大きな切傷があった。




 限りなく完成に近い美しさの中に、修復不可能な欠陥があった。それだけに魅力的だと、私は素直に感じた。きっとこの感覚は写真に撮ったら残らないものだ。


「醜い自分を見せたくない、とかそういうのでもないわ。でも……結果的に披露する形になっちゃったわね」


 花さんは力なくそう言った。


「私……なんて言ったらいいかわからないですけど、綺麗です」


「……あはは」


「すいません! お似合いだ、とかそういう意味ではなくてですね! 単純に魅力的だなあと思いまして、ええ」


「可笑しいわ。そんな反応する人がいるなんて」


 笑顔がはっきりとわかった。今までマスクの下にあったものだ。


「そういえば、私、明日までここで働くのでよろしくお願いします」


 安心した私は思い出したように言った。


「よろしくね、傷のことは別に気にしなくていいのよ」


「はい」と話題を変えてみる。「そういえば、さっき花さんのお兄さんに会ったんですよ。とんでもない人ですね、ほんと! 私の事小さいだの、少ないだの。初対面ですよ?」


「……本当にとんでもない人よ」


「え」


「彼には近づかないほうがいいわ。そのほうが貴女のためよ」


「……なにかあったんですか?」


 花さんは答えない。つくづく私は失礼だな、と自虐した。しかし好奇心とは別に知るべきことに思えた。助けたい、とかそういうことなのだと思う。


「どうしてその傷? まさか……お兄さんと関係ありますか?」


 根も葉もない疑惑だったが。


 花さんは驚いたような顔をして、うつむき、そして私の目を見た。


「ええ、兄に付けられたわ」


        ◆


 それから食事の時間まで、暇があった。メイド服を着替えるのも面倒に思うほど馴染んでしまった。事務所のソファでボーっとしていた。口が開いていたかもしれない。


 鼻水が酷かったため、いっそ鼻にティッシュを詰めてしまった。誰かが見たら、相当におかしい顏だと思う。

 

 生活支援研究所。

 

 超感覚保持者。

 

 視覚の超感覚。

 

 傷。


 非日常は、人に話すには荒唐無稽な気がしてならない。


 廊下から、聞いたことのある車輪の回る音が鳴った。車いすの音。


 巴さんに連れられて登場したのは菅野さんだ。


「やあ、バイトの東条さん。ご苦労さま」


 彼の首は動かず、車いすが私の方に向けられてから、目があった。


 巴さんは彼にヘッドセット端末を頭にかぶせた。


「それはなんですか?」


「ああ、単なる事務仕事だよ。ワープロを打っているんだ。私は手が使えないから眼球の動きで操作するんだよ」


 仕事道具というわけだ。巴さんもテキパキと棚にある書類を整理し始めた。


 仕事をしている二人の中に、なにもしない私という構図がいたたまれなくなり、立ち上がった時、菅野さんが言った。


「いや、そこにいてくれていい……君には話があるんだ」


「? はい……わかりました」


「少し待っていてくれ」


 数分後、彼は「巴」と短く呼び、ヘッドセットを外してもらった。大きな目が包帯の合間から除いた。


「巴、席を外してくれ」


「かしこまりました」と巴さんはお辞儀をして出て行った。


 数秒の沈黙。私の緊張はピークに達していた。


「あの……話ってなんでしょう」


「君の先生。篠崎ウミ博士のことだ」


 私の先生は、私立大学で分子生物学の教授をしている。私は彼女の秘書だ。専門はさっぱりわからないが、研究室に中国人が多いため中国語と英語が話せるという採用理由で雇われているだけだ。


「先生……ですか?」


「彼女は元気かね?」


「ええ、特に体調を崩したりということもありません」


「それは良かった。最近アフリカに行ったりしたかい?」


「はい、先生だけで行っていましたよ。コンゴとザイールだったと思います」


「……君個人に質問をするが、君からみた篠崎博士は、国の好き嫌い、人種の好き嫌い、宗教の好き嫌いをはっきりさせるような人かな?」


 私には質問の意味が分からなかった。


「はっきりはさせません。きっと国や人種、宗教に興味がないと思います」


「それはどうして?」


「なんというか、ごちゃごちゃしているのが好きみたいです。自分勝手な性格なんです。それでいて、相手にも自分勝手でいてほしい、そう思っているような人です」


 これははっきりそう言えた。もう四年の付き合いになる博士。彼女は気持ちを偽らない。


「そうか」


 と菅野さんはにっこりと笑った。


 打ち解けた……のだろうか。


 私は自分から質問をしてみた。


「すっごく関係ないこと、聞いてもいいですか?」場を和ませる作戦だ。


「いいよ」


「あの棚にある写真、あれに写っている人って、菅野さんですか?」


「おお、あれか。そうだよ。私だ」


「へー! じゃあ、若いころは宇宙飛行士だったんですね!」


「あっははは。違うよ、あれは宇宙服じゃないよ。私は宇宙飛行士でもなんでもない」


「そうなんですか?」


「あれはね、私のバブルさ」


 私は首をかしげていると、彼は続けた。


「かつて、私はあの服の中でしか生きられなかったんだ」


「……病気だったんですか?」


 免疫不全疾患の患者が、一生を抗菌された部屋、通称バブルで暮らすという話を思い出した。


「病気、確かにそうかもしれん。私はね、かつて超感覚保持者だったんだよ」


「……!」


「触覚の超感覚でね。触れるものすべてが痛い。服がこすれるだけ、花に触れるだけで痛みが走る。風にも痛みを感じてしまう。だから私は常に空気圧が一定に保たれたクッションに囲まれるしか生きる道がなかった。しかし、日に日に感覚は研ぎ澄まされていってね。筋肉を動かすだけで痛く感じるようになった」


「で、でも……、今はこうして生きているじゃないですか」


「ああ、そうだ。私は今となっては幸せだ。もう生きることが限界だと感じたとき、施設への輸送中に車が爆発してね。全身火傷した私は、脊髄を痛め、首から下の感覚がなくなった。それから私の第二の人生が始まった。痛みから解放された世界だった」


 彼は私ではなく、天井を見た。


「もう一度言える。私は今となっては幸せだ」


        ◆


「この施設には三人の超感覚保持者がいるんだ。視覚、味覚、嗅覚。ああ、私を入れれば四人か」


 菅野さんは、笑顔で付け足した。


「今となっては、私は被験者ではないけどね」


「……未だに超感覚がどういうものか呑み込めなていないというのが本音です」


 そうなのだ。呑み込めていない、というより嘘臭いというのが正しい。


 実際に凄さを見ていないからだろう。そもそも、そんなものを聞いたことがない。


 疑うのが自然なことだ。


 例えば――と菅野さんは切り出した。


「味覚の超感覚は、舌に触れた液の成分の定性と定量ができる。一度口に含めば、それに何がどれくらいあるか、判断することができる。定量下限値は0.1ppb、これは現代の機器分析装置と同程度だ」


「口に含んだものがなにで出来ているか、一発で当てちゃうわけですね」


「その量までね。これは我々には不可能なんだ。一般的に人間の感覚というのは入力に対して曲線の関係にある。塩の濃度が百倍になったとき、やっと二倍程度しょっぱいと感じることもある。しかし、味覚の超感覚をもってすれば、直線的に量を判断できる。これはとんでもないことなんだ。彼に毒を盛ることは不可能だし、料理の味を化学調味料で誤魔化すことも不可能だ」


「はあ……」


 ますます現実感を奪い去る説明に感じた。


「嗅覚の超感覚も同じことが言えるよ。きっと彼なら、君のシャンプーのメーカーまで当ててしまうだろうね」


 私はぞっとして、髪をつまんで臭いを確かめてみたが、自分の臭いと区別がつかない。


「うーん、たぶんシャボンファインかな。頭皮によくないから選びなおした方がいいぜ」


 耳元で香月幸次郎が――「ぎゃ!」と私は背後に迫った男に反射的に腕を振り抜いた。彼は素早く避ける。

 

 咄嗟に攻撃したのは本人の不快さというよりはむしろ――。


「なんで私のシャンプー知っているんですか……」


「ボディソープ、整髪剤、衣服の洗剤、柔軟剤、今朝の食べ物、当てようか?」


「うわあ、気持ち悪い気持ち悪い。来ないでください」


「こっちだって好きでやってるんじゃない」そう言って彼は鼻に、小さな電子機器を詰めた。コードのないイヤホンのようだった。


「菅野の爺さんに、驚かしてやってくれと言われたからこんなパフォーマンスをしたんだ。本当は、なにもかもが臭く感じて嫌になるんだよ」


「という風に、超感覚というのは本当だ」


 私は香月幸次郎の顔を眺めた。睨んだかもしれない。


 思い出されるのは花さんの言葉。傷。


「彼のほかに、香月花、大山力也、この三名の超感覚者が移住することになった。どうか東条さん、君は彼らと仲良くしてやってほしい。たとえ一日だけだとしても」


 香月幸次郎が付けた傷。


 兄から受けた攻撃? 花さんはこの男に逆らえない? 兄妹でなにがあった?


 疑惑はどんどん湧き出た。


「東条さん!」


 菅野さんの声に意識が呼び戻された。きっと私は香月幸次郎への敵愾心を顔に出していたのだろう。


「頼むよ」と菅野さんはかすれた声で言った。


        ◆


 夕食の支度まで大忙しだった。テーブルに食器を並べること、地下室に食材を取りに行くこと、そのほとんどを巴さんと二人でこなした。ただ予想と違ったのは、料理を実際に作る係は香月幸次郎であるということだった。一応彼はもてなされる側の立場だと理解していた。


「俺はここに来るまではアメリカで日本料理レストランのシェフだったんだ。雅ちゃんはお手伝いさんとして、俺の指示に従ってもらおうかな」


 まだ食事まで一時間ほどあり、その間に大方の準備を終えなければいけなかった。


 これから作り始めるぞ、というところで香月幸次郎がキッチンに現れた。


「頼めますか?」と巴さん。上司の命令には逆らえない。


 私は進まない気持ちを隠すように、「わかりました」と小気味いい返事をした。


 巴さんは菅野さんの世話があるため、キッチンを離れた。


 香月幸次郎はテキパキと調理の準備をしていた。私はホタテの殻を取り除く作業を命じられた。黙々と作業すること五分、彼は口を開いた。


「雅ちゃん……俺、君になにかしたっけ? 嫌がり方がちょっと冗談を超えているというか……」


 なにか――なにかをしたかと聞かれたところで、逆に聞き返したい。花さんになにをしたのか。花さんの傷はどうしてついたものなのか。


「やっぱり、超感覚っていうのは気持ち悪いか……。さっきは悪かったよ」


 香月幸次郎は自虐的に言った。


 少し意外に感じた。ひょうきんな性格の裏を見たような気がしたからだ。


 演技かもしれない。ただ、私の疑惑とは論点のずれた指摘であること。それが気になった。


 超感覚。


「超感覚保持者と無理に仲良くしろというほうが無理だって話だ。俺たちは生まれた瞬間からこんなだ。母親の外に出たその瞬間に、自分が何者か理解した。世界がとんでもなく臭かったからな。気味悪がられるのは、今に始まったことじゃない。ずっとだ」


「超感覚者だから気味悪いなんて、そんなことは言っていないです」


 その理論だと、私は花さんまで嫌っているようではないか。


「内心、気味悪がっているんだろう? いいよ。怒らないから。正直なところを聞かせてくれよ」


「だから、超感覚とかそんなものどうでもいいです」


 どうしてこの人は、嫌がられている理由を体質の所為にしているのだろうか。


 私はそういう態度も含めて悪印象を強くした。


 ここに来る前にどういうことがあったかは知らない。その能力がマイノリティであったことは想像がつく。私が言いたいのはそういうことではない。


「質問していいですか?」


 目を丸くした彼は、間をおいてから「いいぜ」と応えた。


「花さんの顔の傷、見ました」


「……」


「あれはどうして付いたんですか?」


 私は彼の顔を見ないで聞いた。手は作業を続けている。


「あの傷はな……あいつもアメリカにいたときに、同級生にゴミ袋を投げつけられたとき、中にあったガラスの破片で頬を切ったんだ。家に帰ると、顎から頭にかけて包帯をしていた」


「同級生……?」


 私は思考したが、判断材料が欠けていた。どちらを信じろと言われても、わからない。


 だが、もし――この男が嘘を口にしていたとしたら。


「幸次郎さん」


「なんだ?」


「花さんのことどう思っています?」


「変な質問だな。――もちろん、大切な妹だと思っている」


        ◆


「それでは、ここに集った仲間たちと、これからの快適な暮らしに、乾杯」

 

 そう菅野さんは音頭をとった。もっとも彼はストローでワインを飲んでいるが。


 調理の支度をしている最中に、私は巴さんに呼び出され、他の客人を迎えに行くこととなった。


 その間、香月幸次郎は独りでキッチンに残ったが、見事に盛り付けまで完了していた。


 ミートソーススパゲッティ。


 ホタテとエビのマリネ。


 ひき肉と冬キャベツのミネストローネ。


 鶏肉のピカタ。


 スライスサーモンのサラダ。


 様々な料理が所せましと、テーブルに並べられた。その半分くらいは巴さんが事前に用意したものらしいが、メインは香月幸次郎が作ったものだ。


 私まで席についてよいのだろうか。


 豪勢な食卓に浮足立っているメイド服の私がいた。


 テーブルには六つの椅子があり、長方形の両長辺に二人ずつ、一つの短辺に菅野さんと彼の食事を手伝う巴さんがいた。私の隣は香月幸次郎。向かいは花さんと、玄関でみた大男、大山力也がいた。


「かんぱーい」と香月幸次郎の陽気な声が、皆のグラスを卓の中心に運ばせた。


 私のグラスが正面の花さんに当たった。


 彼女は今、マスクを外している。


 上目づかい見ると、微笑み返してくれた。


 料理は本当に美味しかった。節約を心掛けてあまり奮発した食べ物を口にした記憶がここ一ヵ月なかった。特に香月幸次郎のペンネがたまらなかった。


 花さんも、菅野さんの冗談で笑顔を見せたりと、雰囲気は上々だ。ただ一人、大山力也だけが一言も話さなかった。タバスコをやたら料理にかけている。


 私が彼の方を見ていると、酔った菅野さんが話しかけてきた。


「そういえば、風邪は大丈夫なのかい? 東条さん」


「あー、大丈夫ですね……。まだちょっとムズムズしますけど」


「私思ったんだけど」と花さん。「あなた風邪なわけじゃなく、花粉症なんじゃないの? ほら、この建物に入る前と、庭で私と話したあと、鼻水が酷くなったじゃない? 外にでると悪化するってことは花粉症ってことじゃないかしら?」


「……あー」言われてみればそんな気がしてきた。

 

 香月幸次郎が「庭にある樹の種類はなに?」とスパゲッティを巻き取りながら聞いた。


「スギとヒノキ、サワラとマツです」と巴さんが言った。


 なるほど。思えば三月に入った頃から症状は顕著になっていた。帰ったら病院に行こう。今年から花粉症デビューしてしまった。


「私も花粉症なのよ。毎年大変よ」


 花さんは自分のポーチから錠剤ケースを取り出し、白いタブレット錠を三つ机に置いた。


「食後に飲まなくちゃいけない薬を常に携帯して、しかもそのあと眠くなるの。私はそれくらい強力なタイプじゃないと効果がなくてね。薬を飲んでいても外出するときは、マスクは欠かせないわ。マスクは蒸れるし大変よ」


「けっこう大変なんですね。一回医者にちょっと見てもらえばいいと思っていました」


「そういう人もいるわ。治療法によるの。鼻の粘膜を焼いてしまって季節ごとやり過ごす人もいるわ。私は怖くてできないけど」


 私は焼いてもらうことにしよう。面倒なのは嫌いだった。


 花さんは錠剤を一つずつ口に入れ、持参した水筒で流し込んだ。


 むせたらしく、咳をしつつも三つ飲みきった。


「はー……はー……」息を大きく吸って、自分を落ち着けていた。


「大丈夫ですか?」


「ちょっと急いで飲んじゃって。見苦しかったわね。ごめんなさい」


 何人かが食事の手を止めて、お酒のみを少しずつ飲みだした。宴も終わりを迎えつつあった。


 そんな中、大山さんがおもむろに立ち上がった。立ってわかったが、本当に身長が高い。二百センチはある。


 香月幸次郎が慌てて言った。


「ああ、大山さん、すまん! 忘れていた。麻婆豆腐ね、持ってくるよ」


「なんですか、それ?」


「大山さんは辛いもの好きでね。彼用に作っておいた麻婆豆腐があるんだ。言っちゃなんだが、死ぬほど辛いよ」


「あ、私も食べたいです! 辛いの大丈夫ですよ。私」


「……まあ、一応持ってくるけど」


 と、彼はキッチンの方まで行った。大山さんはゆっくりと席に座った。


 そして私と大山さんのもとに運ばれてきた麻婆豆腐。とにかく赤い。香ばしい。大山さんはレンゲで上にのったネギを混ぜ込んだ。レンゲに少しのせた私と一杯にのせた大山さん。


「いただきます……」と口に運んだ。口いっぱいに広がるスパイスの味。


「あれ? 美味しいですよ。ほんと」私はもう一口食べた。


 ――やっぱり美味しいではないか。ご飯がほしくなる。


 すると、少しずつ異変が現れた。指数関数的に、等比級数的に、辛さがじわりじわりと確実に速度を増して襲ってきた。辛い辛い、辛い辛い。


 私は言葉にならない唸り声とともに、目の前にあった水を掴み取り、思い切り口に流し込んだ。それでも止まない口腔内の痛み。なにも感じない。死ぬほど辛い、本当だ。限度というものを知らないのか。辛さ、痛さ、熱さ、なんと表現していいかわからない刺激だ。


 水を飲み干すと、もっと欲しかったが、ようやく口を聞けるようになった。


「水をください」


 香月幸次郎が呆れたように立ち上がり、キッチンに取りに行った。はやくしろ。

 

 ちらりと大山さんの方を見た。


 彼は大汗を光らせて、ガツガツ大きな口に放り込んでいた。


 あれは尋常ではない。私にはあの凄さがわかる。


 しかし、時間差で来るのだ。巨大な辛さの波は後から押し寄せるのだ。


 大山さんの動きが明らかに止まった。レンゲがピクリとも動かない。


「幸次郎さん! 大山さんの分もお願いします!」


 大山さんは自分のグラスに手を伸ばすが中身がない。彼は一瞬悲しそうな顔になった。


 香月幸次郎はなにをもたついているのだ。


「これをどうぞ!」状況を察した花さんが大山さんに自分の水筒を差し出した。


 大山さんはそれを受け取って、のどを鳴らしながら飲んだ。大きく息を吐き出して、彼は言った。


「ありがとう。助かった」


 低音。ものすごくいい声だった。


「僕は、味覚の超感覚保持者でね。普段は口を開けないんだ。空気が不味く感じてしまって喋ることすらままならないくらいだ。辛いものを食べて感覚をなくさないと喋れない。辛さは味覚で感知しているものじゃないからね」


「ああ、なるほど」


 不自由さは否めないが、それでも生きていく前向きさがあった。遅れて水をピッチャーで持ってきた香幸次郎は、喋る大山さんに驚き、笑い、そのまま和気藹々と時間が流れた。


 私はテーブルを片づけ、皿を洗った。


 ここにいる超感覚保持者は皆、生きることに懸命だった。理解されにくいハンディを抱え、各々の努力で生き延びていた。私はここに来てよかったとぼんやりと思った。


 シャワーを浴び、メイド服から寝間着に着替えた。


 疲れとともに心地よい睡眠に落ちた。






 次の日、鍵のかかった寝室で大山力也がベッドの上で死んでいた。

 身体に外傷はなく、毒殺であることだけがわかっていた。




        ◆


「と、いう訳です」


 私はあの日のアルバイトで起きたこと、感じたことを余すことなく先生に話した。


 私の瞳を捕えて、先生は言う。


「そうか……辛かったね」


「誰が……何のために大山さんを……」


「雅ちゃん、それならわかっているよ」と、先生は笑みを浮かべて私を見た。


「……? 本当ですか?」


 先生は時計を見てから――、


「私は事務室に用があるから、その間考えてごらん。

 




 誰が、どのようにして、大山力也を毒殺したか」





 と、だけ言って研究室を出て行った。机の上に残されたコーヒーだけがまだ温かい、冬の終わりだった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ