ガリヴァー渡来記
1
私はここに、私の生涯中出会った人の中で最も忘れ得ぬ人物について記しておきたいと思う。
その人物とは、ある紅毛人である。
もっとも南蛮との交易が御法度になって以来、わが国では異人といえば誰でも特異な存在であろう。しかし私は長崎奉行所の在勤である関係上、異人と接する機会は多かった。したがって、ただの異人なら私にとってさほど印象深い存在となりはしない。だが、まずもってその紅毛人は、実に奇妙な体験を持っていた。そしてその人物との出会いの前提には、別の南蛮人密航事件が絡んでいた。
あれは元禄の時代も終わってから数年たった宝永六年の年明け早々のことであったが、私は長崎奉行の別所播磨守様と同行して江戸に上ることになった。当時私は蘭方蘭通詞で、大通詞は私の他に三人いた。私だけが平戸組で、あとはいずれも長崎組だった。その当時、前の年の八月に薩摩藩領に密航したイタリア人の伴天連宣教師が長崎に護送されてきていたが、お奉行と私の江戸行きはそのことの御注進のためであった。ヨワン・バッテイスタ・シロウテというその伴天連は言葉が通じずに難儀したが、来航目的が切支丹布教とあっては御禁制に触れる一大事と、奉行所全体が大騒ぎとなった。
折しも我われの江戸への道中の間に、常憲院様がお隠れになった。お奉行と大通詞の私が駕籠である以外は常憲院様の御禁制で誰も馬に乗れずにいたが、浜松の宿でその御禁制が解けたことを知り、それからは徒士以外は皆、馬に乗ることができた。
江戸に着いたのは二月も半ばでようやく春めいてきた感があったが、久しぶりに見る江戸の様子も一変していた。お側用人であり御大老の柳沢美濃守様は、何の力もなくしていた。通常ならこのような異人の密航に関しては速やかに沙汰が降りるであろうが、何しろ幕閣も公方様の代替わりでごたごたしていたようで、シロウテの件に関して二ヶ月以上も待たされた上、四月も末になってようやく指示は新井勘解由に仰げとのことで沙汰が降りた。
新井勘解由様とは公方様お世継ぎの西ノ丸様のお側用人なのかと最初はそう思っていたが、よく聞いてみると西ノ丸様の甲府時代から侍講を務められていたお方だという。西ノ丸様お側用人は、間部越前守様といわれるそうだ。
新井様がシロウテに関してお奉行の別所様へ下された命は、まず江戸へ護送せよとのことだった。それに加えて別件になるが、慶安以来の金、銀、銅の国外への流出額を調べて十月の在府在勤交代時に持参せよとのお達しもあり、別所様は顔をしかめておられた。
さて、私がこれから述べる奇妙な紅毛人の名は、レミエル・フリヘル。当初は阿蘭陀人と自称していた。
長崎への帰還を間近にしたある朝、別所様の江戸屋敷へ江戸在府長崎奉行の永井讃岐守様がやって来られた。その当時長崎奉行は四人おられて、別所様ともうひとりの駒木根肥後守様という方が長崎在勤。永井様と佐久間安芸守様が江戸在府だった。
「また、面倒なことが増え申した」
永井様は私も同席する場で、最初に別所様にそう切り出された。
面倒なこととは昨日四月十七日、三浦半島の観音崎の付近に一隻の琉球船が到着し、その船から紅毛人が一人上陸してきたということだった。今その紅毛人は神奈川宿の本陣に居留しており、近日中に江戸に送られるので、長崎奉行所の面々で接見してほしいという旨のお達しが永井様のところにあったのだという。
これで我われもしばらくは、長崎に戻れぬことになった。正確には、戻れなくなったのは私なのである。お奉行は御在府の永井様と佐久間様がいらっしゃれば十分だ。しかし府内に通詞はいない。接見するに当たって、通詞なしでは不可能であろう。しかし別府様は、私をおいてお一人でさっさと帰ってしまわれるようなお方ではない。
その場で、とりあえず私が神奈川宿まで行って、その紅毛人に会って来るように仰せつかった。現地の役人も言葉が通じないではお手上げであろうと、私はすぐに馬をとばして神奈川宿へと向かった。
昼過ぎには着くことができた。本陣の前は黒山の人だかりで、同心たちがうまくそれを制していたが、私の姿を見ると一斉に頭を下げた。私も二、三ねぎらいのことばをかけてから、本陣の中へと入った。
異人がいるのは、二階だということだった。襖を開けると畳の上に寝そべっていた赤いチョッキの男は、慌てて跳ね起きて座った。なんと驚いたことに、正座をしたのである。このような異人は初めてだった。
私が対座するまで、彼は無言でじっと私を見ていた。出島の阿蘭陀人とも、風体の点では何ら変わりはない。年は四十は越えているだろう。私は何から切り出していいのか分からなかったので、まずは蘭語で、
〟Spreekt U Nederlands?〝 (オランダ語は話せるか?)
と、聞いてみた。その時の彼の驚いた様子は、いつまでも忘れられそうもないほどだった。そして彼が顔を、パッと輝かせたのも同時だった。
〟Ja!〝(話せるとも!)
それだけでなく、彼は急に私ににじり寄って、私の手をとった。
〟Beste vriend!〝(友よ!)
そんな失敬さにいささかとまどいながらも、私は役職上笑顔も見せずにいた。もっとも我われにとっては失敬なその挙動も、彼らにしては親愛のしるしであることも、役柄上私は知っていた。静かに手をはなして、私は次の質問にした。
〟Waar hebt U gekomen van?〝(あなたはどこから来たのか?)
〟Ik kwam van Nederland.〝(オランダからだ)
道理で風体が、阿蘭陀商館の人たちと変わらないはずだ。
彼はこの国ではじめて蘭語の分かる私と出会えたことがよほど嬉しかったらしく、笑顔でとうとうと喋り続けた。まず自分の名を告げ、商人であったが遠い国で船が難破し、やっとのことでルフナフという国にたどり着いたということだった。
〟Luggnagg?〝
私はその国の名について、念をおしてみた。全く聞いたこともない国だったからだ。そこに彼はいたという。しかも日本の南東百リーグの所に、その国はあるという。冗談じゃない。百リーグといえば約百二十里。日本の南東百二十里の所に陸地などあるはずがなく、せいぜい近くに小笠原諸島があるくらいだ。それすら土民の地で、国などがあるわけがない。
ちょっと待てというような仕草をしてから彼は立ち上がり、部屋の隅に置いてあった自分の荷物をまさぐりはじめた。やがて一通の書状らしきものを取り出してきて、彼は再び座った。それを私に差し出すので、見てみると紙は和紙だった。表面には漢字で「日本国大君殿下」と書かれてあったので、私は驚いた。
ルフナフの王が日本の国王に渡してくれと、自分にことづけたのだとフリヘル氏は言う。彼がいう日本の国王とは、この書状の宛名が「大君」となっているところから、朝廷ではなく幕府の公方様をさすことは間違いない。
封書の裏も見てみた。封印の朱印があった。それが琉球国のものであることは、私にはすぐに分かった。しかも彼は琉球船から降りてきて上陸したのだったことも、私はこの時になって思い出した。私は目をあげて、フリヘル氏を見た。
〟Hebt U gekomen van Ryukyu?〝(あなたは琉球に行っていたのか?)
〟Ja. Luggnagg.〝(そうだ。ルフナフだ)
彼にはリューキューもルフナフも、同じ発音に聞こえるらしい。しかし琉球は日本からだと南東ではなく、南西の方角になる。そのことを告げると彼は、ルフナフでは「日本はここから北西にある」と聞いたという。その情報を彼に与えたのは、琉球人の中でもあまり頭のよくないやつだったのだろう。完全に日本と清国とを混同している。
この琉球王の親書を手渡すのが目的で日本に来たのかと尋ねると、彼は首を横に振った。日本が自分の母国と交易が盛んだと聞いたので、日本に来れば、自分の国の商船に乗って母国に帰れると思い、それで渡って来たのだという。
とりあえず私は、琉球王の親書を彼に返した。まずは彼が、伴天連宣教師ではないことは分かった。これがもしそうだったりしたら、二重の面倒になるところだった。
私は彼に、しばらくこの地に逗留してもらうことになるであろうことを告げて、立ち上がった。彼も立ち上がり、また私の手を握ってきた。
夕刻には別所様のお屋敷に戻った。すぐにフリヘル氏のことを、すべてお奉行のお耳に入れた。伴天連ではなかったことについてはお奉行も安堵されておられるようであったが、その扱いについては困ると言いだされた。なにしろ琉球王の親書を携えているのだ。
別所様の注進により、柳沢様からではなく、またも新井勘解由様からお達しが下った。まず伴天連ではなく交易国の蘭国人なら、粗末に扱ってはならない。ましてや琉球国王の親書を携えているとなると、琉球国の公式使者として上様への拝謁をも許し、その後は本人の希望どおり長崎から阿蘭陀船に乗せて帰してやるようにとのことであった。
彼を長崎に護送するのは、我われの帰還と同道させてということでもあった。江戸滞在が延びたことについては、別所様はまんざらでもない御様子だった。江戸は奥方様もお子様もおられる。本来なら在勤でずっと長崎のはずが、思いもかけずに出府できて、またその滞在も予定より延期されたのである。嬉しそうな別所様のお姿を拝見して、私の方は苦笑するだけだった。私にとっては長崎の、妻や子の顔を見るのを延期させられたのである。
2
私は再び神奈川宿に行き、今度はフリヘル氏とともに江戸へ向かった。フリヘル氏は駕籠、その脇に私は馬で付き添っていた。とにかく一般庶民とフリヘル氏を接触させないために、私は監視の目を光らせていなければならなかった。他に与力、同心が多数警護について、ちょっとした行列となった。
江戸に到着すると同時に私とフリヘル氏は、阿蘭陀商館長参府の折の常宿である日本橋長崎屋に入った。すぐに私は在府のお両方のお奉行と別所様、さらに宗門改め役の横田備中守様のところへ報告に走り回った。別所様からは決してフリヘル氏を外に出さぬよう、また一切の訪問客を入れぬよう、きつく言い渡された。
ただ、宗門改め役の、横田様だけは訪ねて来られた。公儀としても気になるのは、フリヘル氏が切支丹ではないかということのはずだ。彼が蘭国人で商人であることは申し上げではいるので、おそらくは念を入れてのことだろう。
横田様の問いを、私は間に入って通訳した。問いはもちろん、切支丹かどうかということだった。自分はカトリコではないとフリヘル氏は言ったので、私は彼が切支丹ではないことを通訳して横田様に伝えておいた。横田様はそれを聞くと、ニコニコして帰って行かれた。
私はしばらくここで監視役という意味で、フリヘル氏と同宿することになっていた。そのうち上様への拝謁の日時が、新井勘解由様より在府お奉行の永井様へ申し伝えられたとの知らせが、別所様より私のもとへもたらされた。四月十日だという。あと三日後だ。その間に私が拝謁の作法を、フリヘル氏に教えなければならない。
時には彼と、夕食をとともにした。彼にとって一人用の膳がひどく珍しかったらしく、両手で持ち挙げては側面や下までをも見ていた。箸の使い方はまあまあで、琉球で覚えたのだという。
拝謁の前日に、別所様が長崎屋に来られた。新井勘解由様よりのお達しで、フリヘル氏を新井様のお屋敷に内密に連れて来いとのことだそうだ。しかも今日中にという。上様への拝謁に先立って、新井様はフリヘル氏に会っておきたいと思われたようだ。
新井様というお方にお会いするのは、私にとってもはじめてのことだった。侍講をされていたというのだから、儒者のはずだ。それだけに好奇心もおありなのだろう。ただその頃はまだ、新井様のお名前すら存じ上げる者は案外少なかった。だから私も、それほど緊張はしていなかった。
新井様はわりと小柄な方で、口元はお優しそうだったがお目は鋭く、眉が濃いのが印象的だった。漢文訓読調に言葉を切って話されるので、やはり儒者だなと私は感じた。
そんな口調で新井様は、まずはフリヘル氏の生まれ在所をお尋ねになった。私の通訳を聞き、フリヘル氏は自分が蘭国のライデンという所で生まれたことを答えた。
「来航の目的は」
新井様のその問いに対するフリヘル氏の答えも、私は手短に通訳した。
「第一は琉球王の親書を上様にお渡し申し上げること、第二は故国への船の便を求めてとのことでございます」
新井様は大きくうなずかれた。
「難船してからの、いきさつを申せ」
私がそれをフリヘル氏に伝えると、彼は堰を切ったように語りだした。しかしそれをそのまま新井様に伝えるには、私はとまどいを感じてしまった。何度も問い直し、語句の意味を確認した。それほどまでに突拍子もない内容だったのである。
私は新井様の方へ、向きを変えた。
「この者が申しますにはまず難船したあと、小さな島へただひとり泳ぎ着きましたとのこと。そのあと、空を飛ぶ島にすくい上げられたということでございます」
「なにィ! 空を飛ぶ島じゃと!?」
表情は変わらぬまでも語気を荒くして、新井様はそう問い返された。しかしフリヘル氏は、確実にそう言った。さすがに私は、額に汗がにじみ出すのを感じた。フリヘル氏だけが、ひとり涼しい顔をしている。
私はもう一度、〟Vliegende land?〝(空を飛ぶ島?)と、尋ねてみた。彼は、〟Ja.〝(そうだ)と言う。手まねで島が宙を飛んでいる様子を作っても、大きくうなずいて嬉しそうに〟Ja,Ja.〝と言う。
「間違いはないようで」
「そなたの蘭語も確かか。訳し間違いないではないのか」
「はあ、まず、間違いなかと思いますばってん」
ついつい私は、故郷の言葉で答えてしまった。それほど狼狽していた。語学には自信はあっても、その自信を失わせてしまうような話の内容なのだ。
〟De vliegende heeft Laputa geheten.〝(その島の名はラピュタだった。)
と、フリヘル氏は言った。
「その空を飛ぶ、まあ天空の城とでも申しましょうか、その名はラピタだと」
「で、この者はそれまでも、そのような不可思議な国にばかり、行っておったと申すか」
私の通訳を聞き、フリヘル氏は大きくうなずいた。そしてまたたて続けに喋る。私はそれを、たどたどしく通訳していく。まるで稽古通詞のような遅さと緊張だ。
「申しますには、この者が行ったことのある国のうち、リリパトと申します国は小人の国で、国人は身の丈一尺ほど。家も小さく、自分は巨人であったと。そして次の航海で訪れましたプロプデンラグという国は逆に巨人国で、今度は自分が小人になってしまい、ずいぶん危険な目にも遭ったと……」
「もうよい!」
新井様の一喝が、私の通訳をさえぎった。明らかにそのお顔は曇り、眉がひそめられていた。
「わしを馬鹿にしておるのか」
「い、いえ、滅相もない」
「いいか、明日の上様への拝謁の時は、必要以外のことは喋らせるな。ただ来航の目的のみを申し上げるよう、そなたからもよく言い聞かせい!」
「は、はい」
新井様の剣幕におじおじしながら、私は畳に額をこすりつけていた。脂汗が、目の前にひとつぶ落ちた。
「それから、言っておく」
まだ何か、新井様からはあるようだ。
「『上様』を翻訳する時、『将軍』では駄目だぞ。『国王』と言えよ」
長崎で商館長相手の会話の時は、御公儀も上様も〟Yedo〝ですんだ。必要ある場合は、そのまま〟Shogun〝か〟Taikuun〝という。京の朝廷をはばかってのことだろうが、新井様はそれでは駄目だと言われる。もっともフリヘル氏は、もともと上様のことを〟koning〝(国王)と言っていた。いっそのことと思って私は「上様」というところを、〟Keizer〝(皇帝陛下)として訳して、新井様の御意向をフリヘル氏に伝えておいた。
新井様は立ち上がられた。
「今日はこれでよい。下がれ。この異人は頭がおかしいらしい。わしは狂人とつきあっているほど、暇ではないのだ」
そのまま新井様は不機嫌そうなお顔つきで、部屋を出て行かれた。この異人に対しこれまでは、私は新井様が言われたようなことを思ったことはなかった。あらためて私は、フリヘル氏を見てみた。彼に対して当初に持っていた変な先人観は、この時に植えつけられたようだった。
拝謁の日が来た。よく晴れていた。そろそろかなり汗ばむ季節だ。
行列は日本橋長崎屋を出て呉服橋を渡り、大名屋敷街を通る。そこから日比谷御門を入って、まずは長崎奉行役宅へと向かった。そこでお奉行様方と合流。そこから桜田御門を通って、西ノ丸大手橋より御城内に入ることになる。
拝謁は、西ノ丸で行われることになっていた。西ノ丸様は五年前から将軍継嗣と決まっておられ、今や実質上は上様ではあるが、まだ代が代わったばかりで正式の朝廷からの征夷大将軍宣下はまだであった。したがって拝謁は、西ノ丸でなのだそうだ。
私にとっても、数年前に阿蘭陀商館長参府の同行がまわってきた時以来、久しぶりの千代田のお城だった。気慣れない裃に身を包み、駕籠の中から見る光景に目をみはった。西ノ丸大手橋を渡ると高麗門、すぐにその背後に櫓門がどっしりと腰を据えている。私にとってさえもの珍しい光景が、異人であるフリヘル氏の目にはどう映るだろうかと、ふと私は考えたりした。
櫓門を入るとすぐに行列は右に折れ、いくつかの木戸をくぐった。道全体が、ゆるやかな登り坂だ。やがて西ノ丸下乗橋――すなわち先程大手橋の上から見えていた二重橋だ。左手には伏見櫓が多聞櫓を従え、緑あざやかな土手の上の石垣の上にあるのが近くに見えた。
下乗橋を渡りきったところにある櫓門の西ノ丸書院門をくぐれば、すぐに西の丸御殿の玄関だ。
フリヘル氏の謁見名目は、あくまで琉球国の使節としてであった。玄関を入るとすぐ脇の控えの間に通され、私だけが奥へと呼ばれた。拝謁の準備のことを知らせるのが、私の役目だったからである。
しばらくして上様もお出ましになり、準備万端整ったという旨を取り次ぎの若い侍から耳打ちされて、私はお奉行方やフリヘル氏の待つ控えの間に知らせに行った。
商館長参府の時もそうだが、何度やっても緊張してしまう大役だ。裃がとにかく重苦しい。それだけで肩が凝りそうだった。
商館長参府と違って献上品はないので、準備は早かった。私の先導で謁見の間へフリヘル氏を連れて入ると、途端に「オランダー、カピターン!」という大声がした。彼は琉球国の使節という名目のはずだったのにおかしいなと、私は思った。やはり習性というものは恐ろしいものだ。
鴨居をくぐるようにして畳に足を踏み入れたフリヘル氏は、すぐにそこに正座してひれ伏し、教えこんだとおりそのままの姿勢で前へと進んだ。いろいろな国を訪問し、各国の王に拝謁した経験があるであろう彼だけに、のみこみは早かった。さまざまな風習に接してきたに違いない。
謁見の間は大広間で、左右にずっと廷臣が並んでいる。書院番、旗本、そして上座の方は若年寄、御老中といったところだろう。
作法どおりにフリヘル氏は平伏しているのでなんとか安心し、私も平伏したまま横目でちらりとフリヘル氏を見た。なんと驚いた。彼は伏せている顔の前の畳を、舌を出してペロペロなめているではないか。私は慌てて小声で彼を呼び、首を横にふってやめるように示した。
「面を上げい!」
頭上で声がした。上様ははるか遠くにおられたが、なんと御簾は上げられていた。商館長参府の場合の謁見は、御簾越しなのである。それが直の対面ということは、やはり琉球王の使者という待遇からだろうと何となく私は考えていた。御簾がなくてもやはり上様までは遠く、その御容貌はよくわからなかった。いくら「面を上げい」と言われたからとて、まさかまじまじと見るわけにはいくまい。ただふっくらとしたお顔だちで、目も口もお小さいというのが、私の西ノ丸様――家宣様の印象だった。前の商館長参府の折はまだ先代の常憲院様だった。今の上様は御先代様よりもは少しはお若いようではあったが、そうお年は変わらないのではないかとも思われた。いずれにせよわが神州の最高権力者の御尊顔を拝しているのである。私の膝は前の時と同様に震えていた。
上様のお近くにおられる方が、お側用人の間部越前守様のようだ。新井様のお姿もある。ただ御大老であるはずの、柳沢美守様らしきお姿はなかった。
私はさっそく、すでにフリヘル氏から受けとっていた琉球王の親書を、まずは別所様に差し出した。次々と多くの人の手に触れて、親書は間部様から上様へと手渡された。上様はそれをお読みになると、満足げにうなずかれていた。
「大儀であった」
上様はそう言われたようだ。そのおことばも次々に多くの人の口を経て、私は別所様から承った。それを蘭訳してフリヘル氏に伝わった。
さらに伝わってきた上様のお言葉は、
「願いがあれば、何なりと申し出るがよい。交誼厚き琉球王への信義を重んじ、許してつかわす」
ということであった。この言葉をフリヘル氏に伝えると、彼は背筋をのばして正面を見据えた。彼がその時に言ったのは、自分はオランダの商人で遠い国で船が難破してやっと琉球国へたどり着いたが、自分の国の船が日本へ交易のために来ると聞いて渡って来た。できればその交易船で母国へ帰りたいので、無事長崎へ送り届けて頂けるように皇帝陛下の格好御配慮を賜りたいと、ざっとこんな内容だった。彼は上様のことを、はっきりと〟keizer〝とお呼びしていた。それを私は、また別所様へと伝えた。そこまではよかった。そのあとが奇妙だった。
〟Ik heb nog een zerzoek〝(もうひとつ、おねがいがあります)
彼は遠くの上様にまで届くような、大声で言った。私は慌ててそれを制したが、彼はおかまいなく話し続けた。その内容は、「琉球王との誼に兔じて、オランダ人に課せられる儀式である。〟op het kruisbeeld trappen〝を免除してもらいたい。自分は交易が目的ではなく、不運な事故によって漂着した者だからだ」ということであった。
私はそれを通訳する前に、とまどってしまった。〟op het kruisbeeld trappen〝とは、どう考えても切支丹宗門改めの「踏絵」であろう。彼がなぜそのようなことを知っているのかも疑問だったし、それ以上に彼が言っていることは奇妙だった。踏絵はあくまで国内の宗門改めのためのものであり、蘭国人に課すものではないからだ。不審に思いながらも、とにかく私はそのまま訳して伝えた。別所様も怪訝な顔をされていたが、その言葉が上様に達した時、上様も驚かれている御様子が遠目にもわかった。その時の上様の、御沙汰はこうであった。
「そのようなことを申す蘭国人は、はじめてだ。本当に蘭国人であるのか。もしや伴天蓮ではあるまいな」
そのお言葉をフリヘル氏に伝えたあと、私は大丈夫である旨を上様の方にはお返ししておいた。
なんとか拝謁も終わった。私は全身汗だくだった。とにかく一刻も早く、裃を脱ぎたかった。
長崎屋に戻って、楽な服装に着替えたあと、フリヘル氏の部屋へ行った。彼は笑って言った。
〟Ik ben moe〝(疲れた)
こちらはそれどころの騒ぎではない。寿命が十年は縮まった思いだ。
〟Mag Ik eene vraag stellen?〝(ひとつ質問してもいいですか?)
などと、彼はさらに言う。
〟Wat?〝(何かね?)
〟Waarom zijn vele honden in dit land aan de hele stad?〝(この国では、なぜたくさんの犬が町じゅういるのか?)
それは今回の出府で、私も気がついたことだった。その時得た情報は、常憲院様の御法度によって野犬のための御殿が作られて多くの犬が集められていたが、公方様の代変わりで御法度が廃されたために犬御殿は壊されて、そこにいた犬が一斉に町に出たのだということだった。私はそのことをフリヘル氏に伝えてあげた。彼は関心深げに聞いていた。
今度はこちらから、質問することにした。
〟Waarom U de tatami-mat likt?〝(あなたはなぜ、畳をなめたのか)
彼はすぐ答えた。つまりLuggnaggでは王に謁する時、王座の下の床をなめるのを許されることが最高の名誉で、ついその癖が出てしまったのだという。私は琉球にそのような風習があるとは、これまでに聞いたことがない。
さらに彼は、質問を重ねてきた。
〟Er waren mensen Struldbruggs heten, en nooit gestorven zijn, in Luggnagg. Ik heb wie ziji over twee honderd jaar oud gezien aan daar.Wet U iets daarozer?〝(ルフナフではストルルドブルフスという、決して死なない人間がいた。私はそこで二百歳以上の人とも会った。あなたはそれについて、何か知らないか?)
私はまともに相手にするのが、ばかばかしくなってきた。不老不死といえば秦の始皇帝の蓬莱山のことも頭に浮かんだが、いちいちその話をするのも面倒だったのでやめた。
私は適当にきりあげ、自室に戻った。
やはりフリヘル氏は新井様がおしゃっていたとおり、頭がおかしいらしい。あのような狂人は早く長崎まで連れて行って、さっさと蘭国へ帰してしまおう。その時の私は、そんなふうにしか考えていなかった。
長崎への出発は、三日後と決まっていた。私はとにかく身心ともに疲れており、まだ西の空はほんのりと明るかったが、女中を待つまでもなくさっさと自分で蒲団を敷いて寝てしまった。
3
我われは五月三日の早朝に、江戸を出発した。ちょうど西の丸家宣様の征夷大将軍宣下の御勅使が江戸に到着されてすぐのことだった。途中で御勅使と異人の行列がすれ違うのはまずいというので、それまで待ったのだ。だが、これ以上待つと五月雨の季節となって、道中も難儀が生じるとのことで慌しい出発だった。
行列のうち駕籠は三騎。お奉行別所様と私、そしてフリヘル氏だ。
高輪の大木戸を出るとすぐに、砂ぼこりと馬糞の臭いが鼻をつく。間もなく品川宿だがそこは通過で、川崎宿で昼食。最初の泊まりは程谷宿だった。さらに平塚宿と泊まりを重ね、明日は箱根越えという小田原宿で、翌朝の早朝出発を考慮して私は早めに休むことにした。
そこへフリヘル氏が訪ねて来た。彼はこの道中において、決して自由な身ではない。昼間は駕籠、夜は本陣の彼に与えられた部屋が、彼にとっては出島だった。本陣の中では彼の部屋の前に小姓を交代で一晩中常に控えさせ、廁へ行くのでさえ目を離させなかった。もしひとりで外出でもされたら、私が腹を切らねばならなくなる。しかしこの日はどうやって小姓の目を盗んで来たやら、私には分からなかった。
もう寝ようと思っていた矢先の来訪だったので、私は少々不機嫌な顔でフリヘル氏と対座した。彼はおかまいなしに、ニコニコ笑っている。とにかくその頃の私には、彼の頭は狂っているという固定観念ができてしまっていたので、適当にあしらって早く帰してしまおうと思っていた。
ところが座るやいなや、開口いちばんに彼はこう言った。
〟U denkt dat lk gek ben, niet waar?〝(あなたは私を、狂人だと思っているのではないのか?)
あまりに図星だったので、私はどう答えてよいかわからなかった。彼は笑ったまま、両手で私を制する仕草をした。
〟Dat is O.K. Allemaal denken zo. Als U zo ozer mij denkt……. Mijn vrouwen kinderen hebben ook zo gedacht.〝(いいのです。みんなそうですから、あなたも……。妻や子もそうでしたからね)
私はまた、返すことばがなかった。彼は最初に行った小人の国で、掌にのるほどの牛や羊を懐に入れて本国に持ち帰り、それで初めて信じてもらえたのだという。しかもその牛や羊は、今でも彼の本国で繁殖しているということだ。
私はもうただ口をぽかんとあけて、彼の話を聞いていた。そしてその青い瞳を見ているうちに、どうもこの男は冗談やたぶらかしでこのような奇妙なことを言っているのではないのではと、そんな気にさえなってきた。まだ半信半疑という感はぬぐいきれずにはいたが、その笑顔と温厚な人柄に、私の固定観念も溶解しつつあったのである。新井様は儒者だけに、理にあわぬことは妄想か気狂いで片付けてしまわれたのだろうが、私は儒者ではない。ただの通詞だ。理に合わぬことがこの世にあることを認めてもよいと、この時に思ったりもした。
南蛮人がはじめて、わが神州に至ってより百五十余年。それまではそんな遠くに国があって、瞳や肌の色が違う人間が住んでいるなどと、誰しも思ってもみなかったことだろう。この国は所詮、小さな島国なのだ。広い大洋の向こうの世界には、まだまだ何があるかはわからない。唐や朝鮮、そして阿蘭陀などばかりではなく、小人の国あるいは巨人の国が、はたまた空飛ぶ島があったとしても不思議ではないかもしれない。
そう思った時、私は無性にフリヘル氏の話が聞きたくなった。
私は膝を一歩進め、
〟Mijnheer Gulliver.〝(フリヘルさん)
と、呼びかけた。そして、小人の国や巨人の国の話などを、もっと聞かせてくれと頼んだ。私の態度が一変したので、フリヘル氏は少し途惑ったような表情をしたが、すぐに笑顔になった。
〟Wij maar moet staan vlug om morgen op, niet waar?〝(しかし、明日は早くに起きねばならないのでしょう?)
さっきまでは自分が気にしていながら今はすっかり忘れていたことを、逆に笑顔のフリヘル氏の方から言われてしまった。
〟Laten wij nu slapen. Het is nog een lange weg, niet waar?〝(今は、休みましょう。道中はまだ長いのでしょう?)
私はゆっくりとうなずくと、彼の提案を受け入れることにした。しかし彼が戻って行ったあとも、私は好奇心から胸がときめいて、なかなか寝つくことができそうにもなかった。
翌日は天気もよく、箱根峠も難なく越えて関所も無事通過し、その日は箱根宿泊まりとなった。
芦ノ湖ではその景色の美しさにフリヘル氏は駕籠の中から何度も私を呼び、この景色をじっくり見たいと申し出た。しかしそれは許されるはずもないことだった。これまでの宿場でも何度か彼は自由を要求したが、ことごとく却下せざるを得なかったのはいうまでもない。
箱根を降って三島宿に泊まった日から、私の方から夜な夜なフリヘル氏の部屋を訪ね彼の体験談を聞くようになった。蒲原、島田、見付、白須賀と泊まりを重ねるうちに、最初に彼が行ったという小人の国――リリパトに関してはあらましを聞くことができた。
そのおおまかなところは、次の通りである。
今からちょうど十年前、彼はある加比丹に雇われて海に出たが、嵐に遭って船は沈んだ。小舟で逃げた仲間も彼の他は皆、小舟が岩にぶつかりひっくりかえって死んだという。
彼だけが一人で海を泳いで小島にたどり着き、そのまま横になって寝入ってしまった。その後、目が覚めたら手足も胴も縄で地面に縛りつけられ、髪の毛さえも地面に固定されていたということだ。やがて身の丈四寸ほどの人々が群がり、なんとか自由にしてもらったあとは、その小人の国で暮らしていたという。そしてそのリリパト国が当時争っていた敵国のブレスキュの船を捕らえたり、王宮の火事を放尿によって消すなどしたが、その放尿が彼を疎んじる君側の奸にとがめられて死刑にされそうになったので、一時敵国のブレギュの方に身を寄せた。その時にたまたま海岸で自分の小舟を見つけ、それに乗って小人の国を脱出した。彼はそのように語ってくれた。そもそもリリパトとブレスキュが争っていたのは、鶏の玉子を太い部分と細い部分のどちらで割るべきかで意見が対立したことによると聞いた時は、私は思わず大笑いをしてしまった。
実は数夜にわたってもっと詳しい話を聞いたのだが、それをすべてここに記す力は今の私にはない。彼は本国に無事帰国できたら自らの体験を綴って世に出すつもりだとも言っていたので、もっと詳しい彼の旅行記が阿蘭陀商館からやがてわが国へももたらされるに違いない。
このような膨大な体験談は彼が草子書きならいざしらず、一介の商人で船乗りである者の能くするところではあるまい。決して彼の話は空想や創り話ではないと、この頃はすっかり実感していた。
そのあとは京に着くまで、今度は巨人の国――ブロブデンラグの話を毎晩聞くことになった。そこでは彼が小人でしかなく、大ねずみとの格闘の話、吸い物の椀の中で溺れそうになった話などが宿場ごとで続けられた。その国を脱出できたのは、巨人の子供が彼を入れていた箱を大鷲がさらい、それが海中に落下して通りかかった船に救助されたのだということだった。
その他にもいろいろと不思議な話を聞いたが、京に着く頃には彼の話にではなく、彼自身に対する私の感情が変化しているのを自分で感じ、私はとまどいを覚えていた。彼がひどく身近な、大切な人のように思われてきたのである。
京では私がうっかり「ここは都だ」ということを口を滑らせたばかりに、フリヘル氏の質問攻めに遭う事になった。江戸に〟Keizer〝、すなわち「皇帝陛下」がいる以上、江戸が都ではないのかという。しかし、天子様がおいでの所が都だと説明しようとして、私は言葉に窮した。天子様をどう説明するかだ。〟Keizer〝という語は公方様のこととして使ってしまっている以上、天子様のことをそのようにお呼び申し上げることはできない。そこで私はそのまま〟Mikado〝とお呼びして、宗教上の権威であると説明しておいた。その方に任じられて〟keizer〝は、はじめて〟keizer〝たり得ると言ったが、はたして彼が理解してくれるかどうかは自信がなかった。
ところがフリヘル氏は、大きくうなずいた。それは欧羅巴でも同じだという。特に切支丹諸国では、羅馬というところに天主教の主教パウスというのがいて、それに任じられてどの国の王も王たり得るのだということだった。
そこでフリヘル氏の国の王もそうなのかと聞いて見ると、彼は違うと言った。蘭国が切支丹国ではないということで、唯一わが国と交易が許されている所以を、私はあらためて納得したような気がした。
ところが、そのあとの話が奇妙だった。
彼は、自分の国には羅馬とは別の大僧正がいて、それに任じられた王がいる。ヘンリ・ド・アハステ王の時代に王の離婚がもとで切支丹から離れ、羅馬パウスとは別に大僧正をたてたのだと語った。
私はこれまでに、商館が提出する『阿蘭陀風説書』の翻訳に、何度か年番通詞がまわってきて手がけたこともある。ところがフリヘル氏の話は、私の阿蘭陀国に関する知識の中には、全く入っていなかった。蘭国に大僧正がいるという話も聞いたことがないし、ましてやヘンリ・ド・アハステ王などという名は初耳だった。
フリヘル氏に関しては、もうひとつ奇妙なことがあった。私は一度だけ何気なく、彼の懐の中の小冊子をのぞいてみたことがあった。そこに書かれていたのは確かに蟹文字だったが、私には全く読解できなかった。それは蘭語ではなかったのである。
大坂から小倉までの海路では、お奉行のお耳もすぐそばにあるので、あまり彼と話しはできなかった。だが、私とフリヘル氏との間の一種奇妙な感情は、ますますつのっていった。その感情とは、いかなる日本語でも表すことは不可能だろう。義兄弟というのが少し似ているが、微妙なところで少し違う。親子の情、師弟の情、そういうものとも少しだけ違う。やはり蘭語の〟Vriendschap〝という言葉でしか、表し得ないのではないかと思った。
小倉から長崎までの陸路では、私がわが国のこと――政治と文化、歴史や風俗習慣、宗教などについて彼に語る毎日となった。〟Vriendschap〝とは国や肌の色の違いを越え、より深く互いを理解しようという感情なのだと感じたからだ。今の日本の社会においてそのような感情が存在するのか、あるいは必要なのか、そして許されるのかなどということも、その時の私にとっては全く論外のことであった。
江戸を立って一月以上たち、六月に入ってようやく街道は有明海沿いに続くようになった。その海を見た時、私は帰ってきたと実感した。こんなに長く故郷を離れたのは、前に私が同行した商館長参府以来である。しかし今は、私はひとりの〟Vriend〝を伴っての帰郷だ。
昼間の道中ではそれぞれ駕籠の中なので、互いに話もできない。江戸を出発した当初は後ろの駕籠からフリヘル氏は、よく蘭語でもって大声で語りかけてきたが、そのことはお奉行から固く戒められ、フリヘル氏にも納得してもらっていた。今は逆に私の方が、駕籠同士で話をできないのを辛く思っていたりする。夜になるのが待ち遠しいのだ。夜になれば旅宿で、フリヘル氏と歓談できる。この頃には互いの会話には、高笑いがつきものとなっていた。そのことは小倉を出てからお奉行に、一度だけ注意されたことがあった。しかしもう構ってはいらない。すでに諫早、明日は長崎である。
フリヘル氏とは互いの国のことばかりではなく、人間としての個人的内面についてまで話をするようになっていた。そこで道中最後の宿場において、思い切ってある疑問を彼にぶつけることにした。互いの間に疑いがあってはならないと、私はあえて断行したのである。
それは、彼が阿蘭陀人ではないのではないかということである。とうとうそのことを、私は切り出した。彼の表情は、一瞬こわばった。笑みをかき消したフリヘル氏との間に、しばらく沈黙があった。私はそういうふうに思うようになったいきさつを、いくつか彼に話した。そして決してとがめだてしようというのではなく、心の中のわだかまりを解消したいがために聞くのだともつけ加えておいた。
フリヘル氏は、ゆっくりと顔をあげた。
〟Ja. Ik ben geen Nederlander. Mijn Vaderland is Engeland. Ik ben een Engelsman.〝(そう、私はオランダ人ではない。私の母国はイギリスだ。私はイギリス人なのだ)
私はやはりと思うとともに、そのことばをかみしめた。
〟Zult U me nog neels naar Yedo stellen, of zult U me terdood brengen?〝(私をもう一度江戸へ送るか? それとも処刑するか?)
私はそれどころか、嬉しい気持ちでいっぱいだった。だからあわてて、首を横にふった。そして笑顔を作り、私の方からフリヘル氏の手を握った。
〟Dank U. Dank U!〝(ありがとう、ありがとう)
私は何度もそう言った。自分の疑いに対して、彼が正直に答えてくれたことが嬉しかった。始めは呆然としていたフリヘル氏も、すぐに笑顔を取り戻してくれた。そしてひたすら彼は、許しを乞うていた。だが私にとっては、許す許さないなどの問題ではなかった。かえって真実を知って、よりフリヘル氏が身近に感じられたのだった。
口外無用と、私は言った。彼がこの国を出るまでは、彼は阿蘭陀人でいいのだ。彼が阿蘭陀人であろうと英吉利人であろうと、彼が人間であるということに変わりはない。我われの〟Vriendschap〝に何ら影響はない。私はそう思ったからだ。
私はフリヘル氏の目に、涙が浮かんでいるのを見た。わが意が、彼にも通じたのであろう。
〟Gulliver〝
と、彼は言った。それがフリヘル氏という彼の名の、彼の母国語での発音なのだそうだ。
〟Mijnheer Gulliver.〝
私は彼の手を握った自分の手に、力を入れた。明日は我が故郷。フリヘル氏――いや、もはや彼の母国での発音どおりに、ガリヴァー氏と呼ぼう――に、ぜひ私の生まれ育った街を見て欲しかった。
翌日、すなわち六月九日、予定より少し早く我われ一行は長崎へと入った。商館長参府は大名行列並みの旅程なので江戸から長崎まで優に三ヶ月はかかるが、我われはそれよりもずっと早く四十日ほどで到着したのである。もう少し遅かったら五月雨になって川止めなどもあった可能性もあり、もう少し時間はかかったであろう。この六月九日という日付をガリヴァー氏が知りたがったので教えると、彼は首をかしげていた。彼の国と我が国では日付が違うことを、彼はまだ知らないようだった。
故郷の町は狭いながらも、そして気候は刺すような陽射しの中で完全に夏の暑さのただ中であったとしても、包みこむような温かさが坂道という坂道にあふれていた。
まずは長崎奉行所西役所に直行し、そこで草鞋を脱いだ。別所様はこちらの御在勤だったからだ。塀ひとつ隔ててすぐに港で、玄関は出島の入り口と向かう形になっている。
しばしの休息の後、別所様はすぐに立山奉行所の方へ、帰着の挨拶に行かれた。もうおひと方の在勤お奉行の、駒木根肥後守様はそちらにおられる。シロウテが幽閉されているのもそこだ。
その間、私は海が見える一室の縁先に立ち、湾の向こうの稲佐山を見ていた。潮風が頬にあたる。隣にはガリヴァー氏が、私は並んで立っていた。
彼は目の前の湾が海だということを、なかなか信じてはくれなかった。たしかに外海への出口は山が重なって隠していて水平線は見えないので、彼が湖だと思ったのも無理はないかもしれない。ただ彼も、ここは美しい町だと言ってくれた。
やがて私の配下の小使いが、別所様のお帰りを知らせに来た。戻るやいなや別所様は汗をふき、扇で顔をあおぎながら「疲れた、疲れた」を連発されていた。ところがお口とは裏腹にお元気な御様子で、今夜駒木根様が我われの江戸までの往復をねぎらって迎陽亭で宴を開いてくれると、嬉しそうに言われていた。そのあとに丸山にでもと私は誘われたが、丁重にお断り申し上げておいた。迎陽亭の宴は致し方ないとしても、とにかく私は一刻も早くわが家に帰りたかった。妻の顔を見ても嬉しいのは、最初の二、三日だけだということも分かってはいる。それでも早くに、妻や子の顔を見たかったのだ。
宴の席で、明日駒木根様との会談が立山奉行所で行われるが、私もそこに同席するように言いつけられた。ひとつはシロウテ江戸護送の手筈、もうひとつはガリヴァー氏の処置について話し合われるということだ。ガリヴァー氏の処置とは、阿蘭陀船が出航する九月まで、彼を出島に入れるか西役所においておくかについてのことのようだった。
宴の最中も、西役所に一人残してきたガリヴァー氏のこと、そして我が家のことのふたつが気になって、座に興じる気にはなれなかった.そして終わるとすぐに、別所様たちを丸山へと見送った後、まずはガリヴァー氏の様子を見に西役所に戻った。彼は書見にふけっていた。その後で、一目散に自宅へと飛んで帰った。ガリヴァー氏も連れて行きたかったが、もちろんそれは許されることではなかった。
4
立山奉行所はお諏訪さんの近くの、坂道を登りつめた所にある。もう六月だから、坂を昇ったりしたら汗だくだ。それでも坂の上からふりかえって見る景色は、疲れなどかき消してしまうほどのものであった。町並がすべて一望でき、出島の扇型もはっきりとわかる。港内の阿蘭陀船、対岸の飽ノ浦、稲佐山などがまるで箱庭のようにして目の前にあった。
駕籠からおりられた別所様は、お顔色があまりおよろしくなかった。御老体に長旅は堪えたようだ。しかしそれだけではなく、昨夜はだいぶすごされたようでもある。
立山奉行所は西役所の二倍の規模がある堂々としたお屋敷だった。玄関を入ると小通詞が二人、出迎えに出ていた。やがて通された座敷には別所様と駒木根様、そして私の三人しかいなかった。
話はまず、シロウテのことから始まった。シロウテは阿蘭陀の加比丹ではなく御禁制の伴天連であるので、囚人用の丸駕籠で護送ということに決まった。それはひどいと私は感じたし、ガリヴァー氏がそのような処置を受けずに済んだことについて、よかったとつくづく思ったものである。シロウテの護送は九月か十月、別所様が在府との御交代の折にともなうことになった。またもや通詞の同行が必要となろう。私はしきりに、別所様に目配せをした。もう御免だと思っていたからである。別所様は、すぐにお分かり下さった。
「横山は今回大儀であったからのう、次回は別の者にしよう。で、誰がよいか」
私は同じ大通詞仲間の今村源右衛門あたりの名前を、適当に挙げておいた。それから話題は、昨年の江戸の情勢へと移っていった。別所様は今の時の人が新井勘解由様だということ、そしてその新井様から金、銀、銅の国外流出量の調査を仰せつかったことなどを話されていた。私はそのへんの事情には疎いので、正直いってお二方のやりとりとは別に、他のことを考えていた。
私があわててお二方の話に意識を戻したのは、「フリヘル」という名が出たからだった。
「横山。おぬしから話せ」
別所様からそう言われ、私は手短にガリヴァー氏のことを駒木根様に申し上げた。もちろん彼は蘭国人だということにしておいたし、その奇妙な経験については何も話さなかった。そして今後の処置については、出島に入れずに西役所に留めおくことも進言した。実はそれが本人の希望でもあった。この日の朝すでに私は西役所に赴き、ガリヴァー氏の希望も聞いていたので、そのことを添えて申し上げたのである。
「解せぬのう」
別所様は、お首をかしげられた。
「蘭国人なら、同胞のところがよかろうに」
私には分かる。彼が阿蘭陀人ではないことも知っている。しかもこの日の朝にはじめて聞いたことだったが、実は彼が言っていた船の難破は事実ではなく、本当は阿蘭陀の海賊に襲われて小舟で逃げたのだということだった。それならば、阿蘭陀人に対していい感情は持っているはずはない。阿蘭陀船に乗るのも、故国に帰るためにやむなくというところであろう。出島には入りたがらないのも無理はない。
しかしこのことを、お二人のお奉行に申し上げるわけにもいかず、私は返答に窮していた。すると駒木根様が、笑って言われた。
「案ずるには及ばぬ。実はいつもなら阿蘭陀船の出航は九月だが、明後日に臨時に出航する船がござってのう、そのフリヘルとやらはそれに乗せたらよかろう。いや、間一髪で間にあったわけじゃ」
私はそれを聞いて、複雑な思いだった。ガリヴァー氏がこんなにも早く帰国の途につけるというのは、彼にとっては喜ばしいことだ。しかし同時にそれは、私と彼との訣別をも意味する。致し方のないことであるのはわかっているが,淋しくないといえば嘘になった。
西役所から出島に移るといっても、玄関を出た向い側が出島の入り口の橋だ。距離的にはたいした移動できない。しかしその短い橋のこちらと向こうは、まるで世界が違うのである。
立山奉行所へ赴いた翌日は、私はガリヴァー氏とともに出島に入った。私は役柄上、出島への出入りは自由だった。すでに商館長とはこの日、昼食をともにする約束をしてある。お奉行もご存じのことだ。
私とガリヴァー氏と二人だけで、昼前に西役所の玄関を出た。思えば私が彼と出会って以来、二人だけで外出するのは初めてだ。ガリヴァー氏にとっても、この国での徒歩での外出は初めてとなる。もっとも外出といっても、行く先は目の前である。
橋を渡るとすぐの長屋門は瓦屋根で、柱は木の素材が茶色くなっているような、どこの武家屋敷にでもありそうな門だ。ところが一歩中に入ったあとに展開された別世界に、ガリヴァー氏は興奮して声をあげていた。彼にとってはまさしく、そこは故国の風景だったのであろう。
〟Laat ons gaan〝(行きましょう)
立ち止まった彼を、私は促して歩きだした。道はすぐに建物で行き止まりとなり、左右へと扇型に沿って湾曲してのびている。その両側には、二階建ての洋館が並ぶ。倉庫もいくつかあるし、たまには石造りの蔵もあった。
角を右に曲がってすぐ左が商館長――すなわち加比丹の屋敷だ。
彼らの習慣どおり、私は木の扉をこぶしの甲で軽く二回ほど叩いた。
〟Kom!〝(どうぞ)
と、すぐに返答があった。私は扉を引いてあけた。
〟Dag!〝(こんにちは)
〟Kom binnen, alstublieft!〝(どうぞ、お入り下さい)
その声は、二階の方から聞こえてきた。玄関を入ってすぐは二階まで吹抜になっており、階段が左に湾曲してついている。その階段にも床にも、一面に赤い絨毯が敷きつめられていた。
ガリヴァー氏は入り口のところで、何かをためらっている様子だった。だが私が草履のままスタスタ入るのを見て、ようやくついてきた。どうやら履物を脱ぐべきかどうかで悩んでいたらしい。ここはお国と同じだよと、私は笑って言ってあげた。おかしなものだ。私と出会った当初は家屋敷に入るのに履物を脱がなければならないことを訝っていた彼が、今では洋館で履物を脱ぐことを考えている。よほどこの国の習慣に浸ってしまったらしい。
私は階段を昇り、先ほど声がしていた海の見える部屋に入った。中央に円卓があり、白布がかけられている。すでに二人の異人がその円卓についていたが、我れわれが入るとさっと椅子から立ち上がった。ニコニコして近づいてきたのが、加比丹のヤスフル・ファン・マインステアルで、彼はさっそく彼らの習慣どおり、私の手を握ってきた。
〟Hoe gaat het met U, Mijnheer Yokoyama?〝(ご機嫌いかがですか、横山さん)
〟Dank U. Goet. Kapitan Mainsteal.〝(ええ、お蔭様で。マインステアル館長)
型どおりの挨拶のすませたあと、私は背後にいたガリヴァー氏を示した。
〟Dit is mijnheer Gulliver, die Ik gisteren U verteld heb.〝(こちらが、昨日お伝えしておいたフリヘルさんです)
〟Aangenaam!〝(はじめまして)
〟Ik ben blij U te ontmoeten. Mijnheer Gulliver.〝(お会いできて光栄です。フリヘルさん)
二人はまた、手を握り合っていた。加比丹がそのあとで、もうひとりの異人を我われに紹介してくれた。明日の朝ガリヴァー氏を乗せて、阿蘭陀国に向けて出航するアンボイナ丸の船長、テオドルス・ファン・フルルトと彼は名のった。その船の名前を聞いた時にガリヴァー氏の眉が、少しだけ動いたのを私は覚えている。
〟Gaat U zitten, alstublieft.〝(どうぞ、おかけ下さい)
勧められて私は腰のものもはずし、ガリヴァー氏とともに円卓についた。大刀は床から円卓へとたてかけておいた。
すぐに唐人らしき召し使いの少年によって、食事が運ばれてきた。まずは阿蘭陀の汁物、そして肉とブロート、さらにはビールという西洋の酒も出た。私は役柄上、このような食事を厭うことはできない。もちろん一朝一夕にというわけにはいかなかったが、今ではなんとか一応、牛の肉も食べられるようになっていたし、メスとフォルクの使い方にも慣れていた。それでもまだ、少しは抵抗があった。だが、ガリヴァー氏にとっては、それらの食事を見て興奮の至りだったようだ。盛んに声をあげて騒いでいた。
〟Nou, Hoe doet het dat Vader Sidotti?〝(あのシロウテはどうしてます?)
メスとフォルクを手に、加比丹が私に尋ねてきた。食事中といえども、陽気に会話をしながら食べるのが、かの国の風習だ。
〟Wij zullen hem naar Yedo sturen in september of oktober.〝(江戸に送ることになりましたよ。九月か十月には)
加比丹が私に話しかけてきたのはそれだけで、あとの話相手はガリヴァー氏だった。ここでも彼は、自分を阿蘭陀人で通していた。故郷は阿蘭陀国のヘルデルランドという所だなどと、適当なことを大まじめな顔で言っている。この場で彼が英吉利人であることを知っているのは、私だけなのだ。
加比丹は他にもガリヴァー氏の航海の経歴などを聞きたがっていたが、彼は自分の奇妙な体験については話そうとはしない様子だった。ただ自分には医者の資格があることを告げ、今回も船医として働く意志があることを言っていた。フルルト船長は、それなら船賃を半額にしようと言ったので、ガリヴァー氏はひどく恐縮しつつも喜んでいた。彼が医者の資格を持っているということは聞いていたような気もしたが、私はこの時にあらためて認識した。
私は彼らの会話をよそに、外の白い木の欄干越しに見える海に目をやった。昼過ぎの陽ざしに波間は光り、いくつもの帆船がそこに浮かんでいた。明日になればそのうちのひとつに乗って、ガリヴァー氏は海の向こうに行ってしまうのだと思うと、胸がしめつけられるような気がしてきた。
ガリヴァー氏のことをくれぐれも加比丹に頼み、私は出島を辞した。その日はそのまま、西役所に泊まることにした。明日の出航は早朝だからだ。
夜もふけて、そろそろ寝ようと思っていた頃、稽古通詞の加福という男が私の部屋の前で私を呼んだ。何ごとかと思って襖を開けると、訴訟事を持ってある少年がやってきたと加福は言った。しかも明日では間に合わないという。
私はしぶしぶ衣服を直し、玄関を出た。なにしろ七ツ時の閉門以降はたとえ私が呼び入れようとしても、奉行所内部の人間以外は、誰も外部から奉行所の中に入ることは許されていないのだ。私が門前まで出ていくしかない。
私が出ると、確かに町方の少年がいた。彼は慌てて路上にひれ伏した。
「恐れながら、申し上げます」
「なんごとね。こぎゃん夜更けに」
少年は、わずかに首をあげた。
「実は今日出島に入りました異人のフリヘルとか申すモンが、阿蘭陀人であるとは真っ赤な偽りでして」
私は背中に、さっと冷たいものが走った。顔がひきつっていくのが、自分でもわかる。
「やつは英吉利人ですたい。阿蘭陀人でなかモンがこん国に入ったとなれば、御法度に触れる一大事ですばってん、恐れながら御注進にと」
「なしてそぎゃんこつ、わかったとか」
加比丹や船長でさえ、彼を阿蘭陀人と信じていたはずだ。
「へえ」
少し得意げな表情を見せて、少年はまた顔をあげた。
「おいら、御用絵師の小間使いでして。うちのお師匠さんは、そぎゃんこつはすぐに見ぬきますばってん」
私は黙って、少年を見下ろしていた。
「さっき出島から帰ってきんしゃって、そぎゃん言うとりましたとですたい」
なるほど加比丹や船長は、話の内容でいくらでもごまかせる。しかし絵師の場合は、無言の直感だ。その方が正確にものごとをつかんでしまうのかもしれない。
「ばってん、なしてそぎゃんことをおまんごたる小僧が」
少年は、急にニヤニヤしはじめた。
「褒美ば、戴けるんじゃあなかかと思いまして……はい」
私の怒りは腹から昇って、ついに顔を充血させていたに違いない。目の前の少年が、小面憎だった。 〟Mijn vriend〝を、褒美のネタにしようとしている。しかも私しか知らなかったはずのことを、ぬけぬけと訴えてきたのだ。
私はできるかぎり怒りを隠し、平静を装って言った。
「わかった。褒美ばくれてやる」
「え? ほんなこう?」
少年は満面に笑みを浮かべている。とにかくそれに嫌悪感を覚えたので、私は門番にその手に持つ棒を指さして言った。
「そんでこん小僧の肩ば、二十ばかり打ちのめしてやれ」
少年の笑みが、瞬間に消えた。はじめは呆然としていたが、門番が命じられたとおりその衿首をつかむと、少年は必死でもがきはじめた。
「なして! なしてこぎゃんこつに!?」
「おまんごたるこすかやつは、鞭打ちの刑が最高の褒美たい!」
そう言い捨てて私は少年に背を向け、脇門から中に入った。閉じられた門の外で、少年の悲鳴と棒で打つ音が交互に聞こえてきた。
私は胸をなでおろす気持ちだった。応対に出たのが私でよかった。もし今夜私がここに泊まっていなかったら……そう思うとゾッとして背中が寒くなった。
5
別れの朝が来た。早朝でないと、この日は潮が満ちない。潮が満ちないと出島の周辺は海が干上がってしまって、小舟が接岸できないのだ。
別所様は私がガリヴァー氏を見送りに行くのに、あまりいいお顔はなさらなかった。ガリヴァー氏はもはや奉行所の手を離れた。すなわち我われの管轄外に出て、阿蘭陀商館に委託されたのだ。もしくは出島に入った時点で、彼はわが国を出国したともいえる。だからこれ以上はかかわるなというのが、別所様のおっしゃり様だった。しかし私にはそのようなことで納得できない事情が、感情の領域で芽ばえてしまっていた。
私は別所様がまだお休みになっているうちに、道を隔てた出島への橋を渡った。同じ季節では、長崎は江戸より日の出が遅い。まだ明けやらぬ空を洋館と洋館の間から眺めながら、私は出島の中の小径を歩いた。入口から向って扇型の右端の、道の行き当たりが舟着き場だ。そこにはこれから出航する商館員や船員、見送りの商館員などの人出が遠くからも認められた。
ガリヴァー氏の姿は、すぐに分かった。彼の脇では船長が煙管をくわえ、忙しそうに人々に下知を下している。その船長の方がガリヴァー氏より先に私を見つけ、たちまち相好を崩して近寄って来て、手を握るために腕を差し出してきた。一面に体毛で覆われた、図太い腕だった。
〟Goeie morgen. Het is mooi weer vandaag. De vaart zal ook goed zijn.〝(お早う。今日は天気もいい。航海もうまくいきそうだ)
髭面の船長のその言葉にガリヴァー氏もふり向き、私が来たことに気がついた。二人ともしばらく、言葉がなかった。私は彼に会ったらあれも言おうこれも言おうと思っていたが、いざとなるとすべてを忘れてしまっていた。
〟Ik wens U een goede reis.〝(お気をつけて)
ガリヴァー氏を見上げて、私はやっとそれだけを言った。
〟Dank U.〝(ありがとう)
彼は微笑んでいた。このような時、どのような表情をしたらいいのか、私にはわからなかった。いや、どの日本人でもわからないであろう。万里の波濤を乗り換えてやって来た彼ら異人ばかりが、やけに陽気なのである。
私は少しばかり港へ目を向け、小舟への荷積み作業を見ていた。
〟Dat is de Amboyna.〝(あれがアンボイナ丸だ)
ガリヴァー氏が指さした沖合に、飽ノ浦を背に三本マストの巨大な阿蘭陀船が碇泊していた。日が昇れば彼は、あの船でこの国から去っていってしまう。
私はなるべく感情を表に出さぬようにしてニコリともせず、何くわぬ顔を装っていた。
〟Ik ga dit cadeau U geven als mijn onthoug.〝(これを私の記念として、あなたにあげよう)
ガリヴァー氏がくれたのは、鎖がついた時計だった。私はかわりに何をあげたらいいか咄嗟には思いつかなかったが、懐から寛永銭を一枚取り出して彼にわたした。彼は四角い穴からあたりをのぞいたりして、おどけて笑っていた。
やがて荷積みが終わり、乗組員達の乗船となった。まず船長が先に行く。ガリヴァー氏は船医として乗り込むので、船長と同じ小舟に乗るようだった。
私とガリヴァー氏は、最後の手を握り合った。
〟Danku U voor uw vriendelijkheid.〝(親切に、いろいろとありがとう)
ガリヴァー氏はそう言ったまま、握った手に力を入れてきた。
〟Niet te danken. Tot straks!〝(なんのなんの。では、いずれまた)
虚しい挨拶だった。我われの再会は、およそ今生では無理だろう。
〟Good bye, see you again.〝
突然ガリヴァー氏は、声を落としてそのように言った。私には全く解せないことばだった。
〟Dit is Tot ziens, in Engels.〝(これが英語での『さようなら』です)
そこで私も、日本語で言った。
「さらばでござる。お達者で」
するとどこで覚えたのか、彼も、
〟Katajikenou gozatta. Sarabaja, Yokoyama-dono.〝
と、言うので驚いた。
握った手を、離さなければならない時が来た。笑顔で手を振って、彼は小舟に乗り込む。私も彼のまねをして同じように、手を横に振った。
小舟はすぐに、沖へとすべっていく。アンボイナ丸へと進む。そしてその船の上は、私の全く知らない世界だ。見送りの商館員たちも、引き揚げ始めた。思ったよりもあっけない別れだった。私は加比丹に頼み、商館長邸の二階にあげてもらった。ここからなら、沖のアンボイナ丸がよく見える。欄干にもたれかかって、私はしばらくその阿蘭陀船を見ていた。甲板を動きまわる人々が、蟻のように小さく見える。やがてマストいっぱいに、帆が張られた。もう太陽はすっかり、風頭山の上あたりに顔を出していた。
錨が上げられたようだ。風を帆いっぱいに受けて、アンボイナ丸は動きだした。その中に確実に、ガリヴァー氏はいるはずだ。
私は彼と過ごしたわずか三ヶ月間のことを、鮮明に思い出していた。
船は山影に入って行く。この国から出て行こうとしている。思えば阿蘭陀人はこの国においては、出島から一歩も自由に外には出られない。ガリヴァー氏とて江戸では長崎屋が、道中では駕籠が、宿場では本陣が、彼にとっての出島だった。ところが出島から出られなかったはずの彼が、今この国を出て行こうとしている。私は自由に出島から出られる。しかしこの国からは出られない。すると私にとってこの日本国は、巨大な出島ということになる。そんなことを考えているうちに、船はとうとう見えなくなってしまった。ガリヴァー氏がもはや、私にとって手の届かない存在になってしまったことを実感した。
私は二階の外廊から、部屋の中へと入った。
〟Blijft U bij ons ontbijten?〝(朝食をとっていきませんか)
加比丹が声をかけてくれたが、私はそれどころではなかった。
〟Neen,Dank U. Ik heb geen tijd.〝(いえ、時間がないんです)
何の時間がなかったのか……私は一気に階段を駆け降りて、出島の中の道を船着き場とは反対の方へと走った。急がねば武士にあるまじき姿を、人目にさらしてしまうことになる。
出口の橋への曲り角も、曲がらずに直進した。すぐ左側に薬草園があり、その隅は石造りの倉庫が建っていた。その倉庫と隣の洋館との間に、私は駆けこんだ。ここなら誰にも見られはしないと、少しだけ私は安堵した。
とうとう私は目からあふれ出る熱いものを、こらえきれなくなってしまった。手でぬぐってもそれは、あとからあとからこみあげてきた。
とにかく私は泣いた。士道不覚悟といわれようと、とにかく私は泣いた。
(EINDE)