芝居の前と跳ねた後(三十と一夜の短篇第20回)
独白その1
天気がいいだって? 雨も降っていない、風も強くない。
どうして悪天候で公共交通機関が止まってくれないんだ。
火事だっていいんだ。誰か煙草の火を落とせば大騒ぎ。火災報知器が鳴り、スプリンクラーが作動して劇場は水浸しになって使用不能になる。
え? 劇場は全面禁煙になっているから、誰も喫煙しない、そんなことは有り得ないだって?
ああ、もう判っているんだよ。逃げられないって判っているんだよ。
今までの練習だって、リハだって間違いはなかった。むしろ完璧に近い出来だった。それほどの出来がこれから幕が上がる芝居で再現、いやそれ以上の演技ができるか、緊張で押し潰されそうなんだよ。
俺の台詞はどんなのだっけ。
頭の中が真っ白だよ。どうしたらいいんだ。こんな立派な恰好をさせられて、舞台映えのする濃い化粧で、舞台で棒立ちになったらどうする? 道化そのものだよ。
いい、いい、下手な気休めなんか言うなよ。
俺はホントに苦しんでいるんだからな。
本番
開幕を知らせるブザーが鳴った。
散々不安を口にしていた主演男優は楽屋を出た。足取りはしっかりしている。舞台袖に立った途端に人が変わった。威風堂々、どこから見ても大いなる野望を抱く、王位を狙う男と化した。
男が舞台の真ん中まで進み出ての第一声が芝居の始まりだ。男は両手を広げた。
“さあ!”
朗々とした男の声が劇場中に響き渡った。
男の仕草、目付き、声色、どれを取っても完璧だった。
王位を勝ち取る為に、自分を敵と憎む女性を篭絡し、兄弟を貶め、身内を踏み台にして血塗られた我が道を進んでいく。辿り着いた王位、王冠を手にすると転落が始まる。敵対する者たちが集い、男を征伐しようとの狼煙が上がる。
男は戦い、その闘志を燃やしたまま、遂に斃れた。
独白その2
終わった、終わったよ。
大成功だったって? ああ、アンコールに3回も舞台に戻ったからな。お客は満足して帰ってくれるだろう。
これから俺は俺を取り戻す作業があるんだ。俺は王位を奪い、戦いの中で死んでいった男じゃない。平々凡々、日本で生きている中年男さ。
俺の声が会場の隅々まで轟きわたり、俺の台詞回しが観客を魅了したって?
は! 俺がここまでくるのにどんなに苦労を重ね、稽古を重ねてきたか知ってて言っているのかい? 俺の魂が声に乗って飛び散っていくんだ。それが俺のやり方だ。
表現の喜びなんて言っているうちが華なのさ、俺はそんな決まり事で澄ましていられるほど、若くも青くもないし、恰好付けもしない。
今の俺は空っぽ。まったくのうつろ。仮面を外してしまえば元のオッサン。飛び散った魂を拾い集めなきゃならないんだ。
舞台で別の人生を観客に感じさせて、日常に帰る。熱狂の後のやって来るそら恐ろしいまでの静寂を知っているか?
すべてを破壊したくなる衝動!
ディオニュソスの狂乱と虚脱感。
このむなしさをどうやって充たす?
ふん、こうやって苦悶している俺の声も素敵だって?
じゃああんたが今晩俺の虚無を埋めてくれるのかい、女性記者さん?
怒るなよ。あんたがこのまま一人でこの楽屋を出るか、俺と一緒に出るか、あんたが選ぶんだ。俺は強制していない。誘ってみただけだ。あんたは取材している俳優が非日常から日常に戻る姿を、女として付き合ってみる気があるかどうかとね。
自惚れちゃいないよ。あんたは仕事で来ているんだからね。
どう? あんたはこの声が好きなんだろう?